第122回_電通「鬼十則」 | 【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】          

第122回_電通「鬼十則」

「仕事は自ら創る可(べ)きで与えられる可()きではない」

これは電通「鬼十則」の第1章を飾るあまりにも有名な言葉である。この電通「鬼十則」は、電通中興の祖と言われる吉田秀雄が、昭和261951年)年に社員のために書き留めたビジネスの鉄則、つまり原理原則であるが、世界のGE(ゼネラルエレクトロニック社)でも英語で翻訳され飾られているほどのものである。


世の中、指示待ち人間は幾らでもいるがいわれたことをきっちりやる、これも一つの能力かもしれない。しかしその他大勢から抜きんでる人は決して指示待ち人間ではない。将来大物になる人物はやはり新人の頃から電通鬼十則にあるように主体的に創造的に仕事をしている。

 

1889年(明治22年)慶応義塾大学を卒後した男が慶応の同窓の森村市左衛門(もりむらいちざえもん)が経営する森村組に入社した。配属先は神戸支店の倉庫番であった。新入社員が倉庫係に命じられること自体は珍しいことではないが、この男の場合その仕事ぶりが一味違っていた。


倉庫係の一員になってみると、倉庫には売れないもののストックや半端もののストックが沢山あり、整理されないまま山積みになっていた。その姿を見てこの男は「これはひどい」と思った。そこで「どうしてこんなものがあるのですか。おかしいじゃないですか」と、倉庫の主任に尋ねると「これは売れないから放ってあるのだ」という返事であった。新入社員であれば「ああ、そうですか」で済ますことも出来るが、この男はこのままでは倉庫が狭くなるばかりで、会社としても大きな損失になると思いそういう態度をとらなかった。ではどうしたか。放置されてあるストックの山をいちいち自分で調べていった。そして、これはこうしたらいい、あれはああしたらどうかとその処分方法を自分で考え、それを支店長に提言していった。すると支店長も「なるほど、これまで私も忙しいのでついつい倉庫に入ることなく気づかなかったけれども、確かに君の言うとおりだ」ということになって、倉庫の整理がされるようになった。売れるものはある程度値引きしてでも売る、仕入れ先に返品できるものは返す、また処分するしかないものはこの際思い切って処分していった。しばらくすると、倉庫の中はすっかり整理され、ストックは全て良品となった。しかもそれと同時に、その支店全体の経営精神がすっかり変わって、ピシットした仕事が行われるようになる。新入社員のこの男の提言によって何をどう売らなければならないかを十分に吟味して仕事が進められるようになり、その結果一年ほどの間にその支店の成績はすっかり変わった。


この男は久原房之助(くはらふさのすけ)といい、後に日立鉱業を買収し久原鉱業を創業し鉱山王と言われる人物である。新興財閥久原鉱業は日立製作所、日産自動車など、直系、停系合わせて150社を擁する「日産コンツェルン」の母体にもなった。

1912年(大正元年)、原安三郎(はらやすさぶろう)という男が早稲田大学商学部を首席で卒業した後、日本化薬の前身である日本火薬製造会社に入社した。化学会社に就職したのに、配属された先が飯場の炊事係であった。思ってもなかった職場であるが原という男は腐らなかった。米の仕入れ一つにしても「どこの米がうまいか」「米の値段にどういう違いがあるのか」「品質のちがいとどう関係があるのか」「どういう流通経路で来るのか」「肥料には何をつかっているのか」等々、調べる気になれば勉強する材料はいっぱいあった。そして、勉強していくと、次から次へと、また勉強の材料が出てくる。そして最初はつまらないと思っていた日々の仕事にもはりが出てきたといいます。


この原は後に日本化薬の社長にまで登りつめその後、幾多の経営不振の会社を再建し、「会社更生の名医」と賞賛されるようになる。1970年には勲一等瑞宝章を受賞する。



文責 田宮 卓



参考文献

松下幸之助 「折々の記」PHP

植田正也 「電通鬼十則」 PHP文庫

城山三郎 「打たれ強く生きる」 新潮文庫

日本経済新聞社「20世紀日本の経済人」日経ビジネス文庫