中々まとまって書く時間が確保出来ません。困ったもんです。今回はluxury-luxury様、発、designpartner様、経由で、指令が下っておりまして、教科書問題についてというリクエストです。
以前から一度書こうと思っていたのですが、これは結構腰を据えて書かねばならない深い深い深い深い、多分日本人である以上、今の教育制度で殆どが教育を受けているわけですから、恐らくこの国の数多くの問題点のそもそもの根源はここにあり、というくらい深い問題です。
であるわけですから、多分当ブログの事なので恐らく長くなるに決まっています。簡潔に書きようがないくらい、根深い問題です。まあ自分の文章力という事が一番なんでしょうけれど。
というわけで始めます。お題は教科書!!
さておそらくこの問題で今一番ホットな話題というのは、沖縄戦の記述に関する一連のやり取りです。その事については以前ちょっとだけ触れた事がありますが、この問題はまあいろんな人がいろんな事を書いていますので、とりあえず後回しにします。これについて個人的にどう思うかという問題はハッキリ言ってたいした問題ではありませんので、教科書の問題点が見えてから最後に書く事にします。
なぜそうするのかと言いますと、仮に沖縄の人達の言っている事が正しいという言い方をしても、あるいは逆の言い方をしたとしても、最初にそれを表明してしまうと、意見の違う人からすると色眼鏡で見られてしまう事になってしまうので、書いている内容を読まずして、コイツは右だとか左だとか思われたくないからです。ちなみに自分は右でも左でもありません。が同時に右でも左でもあるとも言えます。特定の思想信条が無いという事だけです。右でも素晴らしい事を言っている人はいますし、左でも同様です。ただ同時にムカつく右も左もいます。右だからとか左だからとか気にしない人間です。あらかじめそれだけは言っておきます。
それでは始めます。
沖縄戦の集団自決問題の記述に関するあれこれで大騒ぎしました。それが正しい事かどうかはひとまずわきにおいて下さい。その上でこの問題を見て行くとある見え方があります。それは検定制度の恣意的な運用です。これが明らかになった。こういう教科書の記述に関する問題は何度も大騒ぎを繰り返してきた問題です。その都度感情的に吹き上がってきましたが根本的な制度の問題は何も変わっていないし、今回も変わらなかったという事がわかります。
どういう事かと言うと、教育に政治が介入するという構図が全然変わらないという事です。安倍さんの目指していた方向性、ようするに沖縄的な感受性からすればとても許しがたい記述になったことによって、大問題になったわけですが、検定制度というものが、ある政治家が権力を握る事によって、その人の思想信条に影響を受け記述が変わるような制度で教科書を選んでいるという事がわかります。
参院選に与党が大敗を喫し、安倍さんがポシャったわけですが、今回がいつもと違うのは沖縄の反発に政府がビビリ、その事によって、安倍さんじゃなくなったという事もあるのですが、これまた政治的な人気の回復の為に、極めて恣意的な教科書に対する介入が行われ、沖縄の方々が納得するような記述に、文科省曰く、出版社が自主的に変えたと言うか戻したわけです。当たり前ですが自主的なわけありません。
ある程度、沖縄の方々の願いがかなったという事になり、話が忘れ去られそうですが、いつものパターン感情的に吹き上がって囮に引っかかり、根本的な問題点、利権の構造は温存されたままという形です。
沖縄戦の記述の変更に怒っても、それが極めて政治的な理由で戻されるという図式に対しては、沖縄の方々の思いが通じたという感情的なフックに釣られて根本的な問題を大多数の日本人がみていません。
役人や政治家の握っている恣意性、ここに手が届かない。教科書がその時の政治感覚によって歴史観が変わるというのは非常に問題です。何より教育を受ける子供達はたまったもんじゃありません。感情的な問題も重要かもしれませんが実際にそれで教育を受けなければならない、子供達の視点からこの問題を見ないと、恣意的な政治力学の介入が教育に反映されてしまうというとんでもない状態からの脱却は出来ません。
そしてその子供達が未来を作るわけですから、この国の将来の問題でもあります。基本的に今の大人も殆どこの教育システムで教育を受けてきたわけですから、この国が今のどうにもならない状態に陥っているのはある意味当然の帰結でもあるわけです。
なんで自民党がずっと政権与党でいられるのか?何で野党が頼りなく感じるのか?その問題の鍵は、実は教育制度そのものにあるわけです。その中の一つ、人々の教育の手綱を握るツールとして、教科書検定というのがあるわけです。これによって子供の頃から思想統制を受けているのが現在の日本の姿です。当然、先進国でこんな国はありません。
当たり前ですが歴史というのはこっちと向こうというのがある。見え方が立ち位置によって様々です。安倍的な右翼と、沖縄的な感受性の左翼では見方が一致するわけありません。だけどそんな事はたいした問題じゃないのです。一番肝腎なのは人々の教育を通した思想統制を国家権力が握っているという事が問題なのです。事実上戦前の国定教科書と制度的には何ら変わりがない。
日本人と韓国人、日本人と中国人、日本人とアメリカ人、歴史に対する評価や認識が一致しないのは、いろいろ問題はあるでしょう。しかしそんな事は些細な事です。歴史なんてものはある立ち位置からのストーリーに他ならないからです。それがヒストリー即ち歴史でもあるわけです。
もっと言うなら今の時代は要するに江戸徳川幕府から薩長連合に政権が移り、開国して近代化を遂げたわけですから、ようするに前大戦で負けたとか悔しいとか言ったって、薩摩と長州が作り上げた政府が負けただけで、旧幕府側の例えば会津の人間からすれば、ザマアミロであったって何ら不思議はないわけです。
戊辰戦争の時に会津はメッタクソに薩長同盟に叩きのめされた。なんで奸族薩長の言う国体の護持なんかに従わなきゃならないのか、という風に思ったって何ら不思議ではないわけです。
ようするに天皇主義を設計したのも、岩倉使節団系の連中が、制度として作ったわけで、誰も天皇を本気で尊敬なんかしていなかったわけです。薩長が利用したからに他なりません。
本来の右翼思想というのは天皇陛下万歳ではない。そういう事を言っている右翼は右翼の歴史に対して無知という他ありません。そんなものは右翼でも保守でもなんでもない。
君が代だって天皇に向けられているというのが、一般的な言い方ですが、あの歌の裏の意味、誰に向けられているかと言えば、西郷に向けられているわけです。
まあ話を戻しますが、歴史というものは立ち位置が違えば全く違う歴史に見えるわけです。それをそもそも単一の価値観で教育するという事に無理がある、地域地域によって述べ伝えなきゃならない歴史も違うわけです。
会津の子供に、薩長政府がアメリカのケツを舐めている歴史教科書で勉強させているのが現代の歴史教育なわけです。それで地域の伝統なんて言ったって、伝えるべき事を伝えなければ無理がある。
だいたい今の歴史は薩長が述べ伝えている歴史なのでねじ曲がってますが、そもそも開国を一番最初に唱えたのは会津です。薩長はなんて言っていたのかと言えば、そんな会津の言い方に対して、攘夷を叫んでいたわけです。現実を知って路線変更をしますが、今の歴史教育ではその辺の所は教えません。
当然ですが薩摩や長州から見ればこれまた違うストーリーに見えるわけです。歴史の真実なんて言い方がありますが、ハッキリ言ってそんなものはありません。というか有り得ないのです。誰にとっての真実かで差があります。そして一人の人間の目線から真実を探求し、それ以外を排除するという思想もあんまり賢くありません。
だから歴史の見え方という所を論点にしても、ある意味不毛な所がある。何が正しいという事を天皇主義者とバリバリの左翼で論じあっても実りが無いに決まっている。逆に言えばそういう人達を危険だからとか、間違っているとか排除するような方向性の方が問題です。
人が沢山いれば見え方はそれぞれです。それを許容しあうのが多様性であり、近代社会の一つのあり方です。確かに思想的には気に食わなくても、気に食わない思想をもつ自由というのを認めあうのが民主主義の大前提です。それが無いのに民主主義を導入しても単なる分断統治になってしまう。
ある考え方や主張を断罪しあったり指の指しあいに陥ってしまったり。今の日本はこの近代社会の立ち方が出来ていない人口が多過ぎます。多様性を恐れ、意見の違いに戸惑い、悪者は誰だという社会になっちゃっている。
これはある意味アングロサクソン的な戦略というか得意技、分断統治に引っかかっているという言い方も出来ます。イギリスにしろアメリカにしろ、彼らの植民地統治の方法というのは必ずこの分断統治を利用します。イギリスやアメリカよりもむしろ、同じ国内で二つに割れてもめさせるような方法。
これを巧みに使うわけです。インドとパキスタンがもめているのもそういう歴史背景がある。本当の敵には刃が向かない。本当の敵はどちらに対してもそれぞれアメを与え、矛先をそらす。日本と北東アジア諸国が仲良くなれないのは、こういう分断工作に翻弄され、乗せられているからでもあるわけです。
そうやって感情的に吹き上がり指の指しあいに陥っている隙に、その構造で煙に巻いているもしくは見えなくなっている本質的な問題点というのがあるわけです。それがアングロサクソン即ちアメリカであったり、この国の統治権力であったりと、隠れ蓑にして煙に巻いている。その裏側にいる存在というのを見極めないと、いいように乗せられてしまいます。
今回の沖縄戦の記述に関する一連のやり取りは、悪い意味の政治的決着であって真の解決の道ではありません。沖縄のくだりを変えるとかそういう問題じゃないのです。検定制度があるからこういう事になるわけです。検定そのものが非常におかしな、国家権力が教育内容に介入する制度で、教育基本法や教育行政のあり方に反しているともいえるのです。
感情的に沖縄問題で吹き上がり、それが解決されたので、何となくこれで終わり的な感じになってしまう。制度を問題にしなければならないわけですから、手打ちにしてしまったのでは意味がありません。
この制度は明らかに政治的シンボリズムの操縦に使うような、それを目的とした制度というしかなく、そもそも検定制度なるものが、55年体制の成立とともにねじ曲げられ、ある方向にステアリングが切られました。
GHQの行き過ぎたアメリカ化、これを日本の文化や風土にあったものに変えなければならない、という事で、地教行法と教科書法それぞれ案が出されて、地教行法が通って、教科書法案のほうが廃案になったのですが、その代わりに文部省が調査官制度、当時40人くらいのようするに現行の仕組みである、検定制度を手に入れた。
元々現行の制度の意図はどこにあったのかと言うと、廃案になった教科書法案、ようするに戦前の国定に限りなく近い、検定化というような方向性を元々目指した制度なのです。
戦前も国定教科書という形で検定制度があり、国家権力が教育の手綱を握り思想統制をしていました。それが戦争に負けた事によって戦後の検定制度というのは憲法の地方自治の精神、あるいは教育基本法とか教育委員会法、そういうものによって検定の権限は誰かというのが、基本的には都道府県の教育委員会が検定をするのだという事になっていました。市民からの公選によってメンバーが選ばれる教育委員会、そういう仕組みが法的には出来ていたにもかかわらず、戦後直後とりあえず紙がないという事で、文部省でやっておきましょうと、臨時的に検定をやっていました。
ところが1953年法律を変え文部大臣が検定をすると中央集権化、臨時を恒常的なものに変えてしまった。丁度その頃1952年くらいまでは戦後の教育行政のあり方として、文部大臣は学者から選ぶという形を取っていたのですが、1952年から与党の一員が文部大臣になるようになった。そいつが検定をするというシステムに変わってしまった。そこから教科書の内容をめぐっていろいろな問題が起こってくる、政治的仕組みが出来上がっている。
50年代後半に、自衛隊の話もひっくるめていろいろひっくり返ってくる。公職選挙法の問題もそう。50年代前半のどういう雰囲気で法律が出来ていったのかという歴史的事実を抜きにして、検定制度の建て前だけ議論していても意味がありません。
集権化が進むと同時に、教育委員会の公選も廃止になり、教育基本法の第十条、教育委員会が教科書の選定に関わるというのを、勝手に公選ではない行政が選んだ教育委員会が決める、という話に変えてしまった。ある方向を目指したわかりやすい変化がおこるわけです。
これは当時の政府というのが面従腹背、つまり今のように完璧に牙を抜かれていなかったからでもあります。基本的にはアメリカの言いなりにはならないぞ、という方向性があった。
だから建て前はアメリカ化を受け入れても、本音の所ではネタで受け入れているんだというのがどこかにあった。もちろん政府だけでなく国民もです。
とりあえず今は従うしか無いので、仕方なしに言う事を聞くふりをしていた。独立出来れば、しらばっくれてもとに戻せばいいというのがどこかにあったわけです。靖国問題の出発点もそこにある。
しかしそれが段々ネタじゃなくなり、ようするに戦争の記憶が薄れ、ベタで、本気で受け入れる世代が増えてきた事によって、段々共通前提が崩れていき、今のように争点化してしまった側面があります。アメリカの言いなりになるのがネタではなくなってしまった。
戦後の検定制度の出発点、GHQの占領統治下の時代の仮教科書検定の時代には全く違う形を取っていました。国語の授業一つをとってもそうです。言語と文学という二本立てで、文学は現在の国語のような感情教育、言語の方は表現教育、今で言うメディアリテラシー教育に近いものをやっていた。アナウンサーがラジオで発言した事に対して、アナウンサーが自分で思っている事か?そうじゃなくて誰かが書いている事か?であるのなら誰が何の為にどういう利害に基づいて書いているのか?という所まで立ち入って小中学生に議論をさせるというタイプの、メディアリテラシー教育そのもの、中身について真に受けるな、いろんな背景について眼光紙背に徹して物事を理解するという教育をしていました。
それがサンフランシスコ講和条約が発効しGHQが解散した途端に変わったわけです。公職追放されていた旧内務省の官僚が文部省にかえってきたのがそのときで、検定問題の舵の切り替えもそこに大きな出発点、巻き返しがあった。
審議会制度というのはGHQが作った。しかしそれが機能していない。厚生省の薬害の問題も含めて審議会が機能していないと言う事がある。この国のすべてに言える官僚制度の弊害の一つがこの仕組みが全然機能していないという事です。チェック機能がはたらかない。教科書検定もまさにそうで、文科省のヒモ付きの調査官が調査した事を、これまた文科省のヒモ付きの審議会でチェックするという。詐欺を詐欺仲間でチェックなんて出来るわけないアホくさいシステムによって、非常に恣意的に動いているわけです。
つづく!!
以前から一度書こうと思っていたのですが、これは結構腰を据えて書かねばならない深い深い深い深い、多分日本人である以上、今の教育制度で殆どが教育を受けているわけですから、恐らくこの国の数多くの問題点のそもそもの根源はここにあり、というくらい深い問題です。
であるわけですから、多分当ブログの事なので恐らく長くなるに決まっています。簡潔に書きようがないくらい、根深い問題です。まあ自分の文章力という事が一番なんでしょうけれど。
というわけで始めます。お題は教科書!!
さておそらくこの問題で今一番ホットな話題というのは、沖縄戦の記述に関する一連のやり取りです。その事については以前ちょっとだけ触れた事がありますが、この問題はまあいろんな人がいろんな事を書いていますので、とりあえず後回しにします。これについて個人的にどう思うかという問題はハッキリ言ってたいした問題ではありませんので、教科書の問題点が見えてから最後に書く事にします。
なぜそうするのかと言いますと、仮に沖縄の人達の言っている事が正しいという言い方をしても、あるいは逆の言い方をしたとしても、最初にそれを表明してしまうと、意見の違う人からすると色眼鏡で見られてしまう事になってしまうので、書いている内容を読まずして、コイツは右だとか左だとか思われたくないからです。ちなみに自分は右でも左でもありません。が同時に右でも左でもあるとも言えます。特定の思想信条が無いという事だけです。右でも素晴らしい事を言っている人はいますし、左でも同様です。ただ同時にムカつく右も左もいます。右だからとか左だからとか気にしない人間です。あらかじめそれだけは言っておきます。
それでは始めます。
沖縄戦の集団自決問題の記述に関するあれこれで大騒ぎしました。それが正しい事かどうかはひとまずわきにおいて下さい。その上でこの問題を見て行くとある見え方があります。それは検定制度の恣意的な運用です。これが明らかになった。こういう教科書の記述に関する問題は何度も大騒ぎを繰り返してきた問題です。その都度感情的に吹き上がってきましたが根本的な制度の問題は何も変わっていないし、今回も変わらなかったという事がわかります。
どういう事かと言うと、教育に政治が介入するという構図が全然変わらないという事です。安倍さんの目指していた方向性、ようするに沖縄的な感受性からすればとても許しがたい記述になったことによって、大問題になったわけですが、検定制度というものが、ある政治家が権力を握る事によって、その人の思想信条に影響を受け記述が変わるような制度で教科書を選んでいるという事がわかります。
参院選に与党が大敗を喫し、安倍さんがポシャったわけですが、今回がいつもと違うのは沖縄の反発に政府がビビリ、その事によって、安倍さんじゃなくなったという事もあるのですが、これまた政治的な人気の回復の為に、極めて恣意的な教科書に対する介入が行われ、沖縄の方々が納得するような記述に、文科省曰く、出版社が自主的に変えたと言うか戻したわけです。当たり前ですが自主的なわけありません。
ある程度、沖縄の方々の願いがかなったという事になり、話が忘れ去られそうですが、いつものパターン感情的に吹き上がって囮に引っかかり、根本的な問題点、利権の構造は温存されたままという形です。
沖縄戦の記述の変更に怒っても、それが極めて政治的な理由で戻されるという図式に対しては、沖縄の方々の思いが通じたという感情的なフックに釣られて根本的な問題を大多数の日本人がみていません。
役人や政治家の握っている恣意性、ここに手が届かない。教科書がその時の政治感覚によって歴史観が変わるというのは非常に問題です。何より教育を受ける子供達はたまったもんじゃありません。感情的な問題も重要かもしれませんが実際にそれで教育を受けなければならない、子供達の視点からこの問題を見ないと、恣意的な政治力学の介入が教育に反映されてしまうというとんでもない状態からの脱却は出来ません。
そしてその子供達が未来を作るわけですから、この国の将来の問題でもあります。基本的に今の大人も殆どこの教育システムで教育を受けてきたわけですから、この国が今のどうにもならない状態に陥っているのはある意味当然の帰結でもあるわけです。
なんで自民党がずっと政権与党でいられるのか?何で野党が頼りなく感じるのか?その問題の鍵は、実は教育制度そのものにあるわけです。その中の一つ、人々の教育の手綱を握るツールとして、教科書検定というのがあるわけです。これによって子供の頃から思想統制を受けているのが現在の日本の姿です。当然、先進国でこんな国はありません。
当たり前ですが歴史というのはこっちと向こうというのがある。見え方が立ち位置によって様々です。安倍的な右翼と、沖縄的な感受性の左翼では見方が一致するわけありません。だけどそんな事はたいした問題じゃないのです。一番肝腎なのは人々の教育を通した思想統制を国家権力が握っているという事が問題なのです。事実上戦前の国定教科書と制度的には何ら変わりがない。
日本人と韓国人、日本人と中国人、日本人とアメリカ人、歴史に対する評価や認識が一致しないのは、いろいろ問題はあるでしょう。しかしそんな事は些細な事です。歴史なんてものはある立ち位置からのストーリーに他ならないからです。それがヒストリー即ち歴史でもあるわけです。
もっと言うなら今の時代は要するに江戸徳川幕府から薩長連合に政権が移り、開国して近代化を遂げたわけですから、ようするに前大戦で負けたとか悔しいとか言ったって、薩摩と長州が作り上げた政府が負けただけで、旧幕府側の例えば会津の人間からすれば、ザマアミロであったって何ら不思議はないわけです。
戊辰戦争の時に会津はメッタクソに薩長同盟に叩きのめされた。なんで奸族薩長の言う国体の護持なんかに従わなきゃならないのか、という風に思ったって何ら不思議ではないわけです。
ようするに天皇主義を設計したのも、岩倉使節団系の連中が、制度として作ったわけで、誰も天皇を本気で尊敬なんかしていなかったわけです。薩長が利用したからに他なりません。
本来の右翼思想というのは天皇陛下万歳ではない。そういう事を言っている右翼は右翼の歴史に対して無知という他ありません。そんなものは右翼でも保守でもなんでもない。
君が代だって天皇に向けられているというのが、一般的な言い方ですが、あの歌の裏の意味、誰に向けられているかと言えば、西郷に向けられているわけです。
まあ話を戻しますが、歴史というものは立ち位置が違えば全く違う歴史に見えるわけです。それをそもそも単一の価値観で教育するという事に無理がある、地域地域によって述べ伝えなきゃならない歴史も違うわけです。
会津の子供に、薩長政府がアメリカのケツを舐めている歴史教科書で勉強させているのが現代の歴史教育なわけです。それで地域の伝統なんて言ったって、伝えるべき事を伝えなければ無理がある。
だいたい今の歴史は薩長が述べ伝えている歴史なのでねじ曲がってますが、そもそも開国を一番最初に唱えたのは会津です。薩長はなんて言っていたのかと言えば、そんな会津の言い方に対して、攘夷を叫んでいたわけです。現実を知って路線変更をしますが、今の歴史教育ではその辺の所は教えません。
当然ですが薩摩や長州から見ればこれまた違うストーリーに見えるわけです。歴史の真実なんて言い方がありますが、ハッキリ言ってそんなものはありません。というか有り得ないのです。誰にとっての真実かで差があります。そして一人の人間の目線から真実を探求し、それ以外を排除するという思想もあんまり賢くありません。
だから歴史の見え方という所を論点にしても、ある意味不毛な所がある。何が正しいという事を天皇主義者とバリバリの左翼で論じあっても実りが無いに決まっている。逆に言えばそういう人達を危険だからとか、間違っているとか排除するような方向性の方が問題です。
人が沢山いれば見え方はそれぞれです。それを許容しあうのが多様性であり、近代社会の一つのあり方です。確かに思想的には気に食わなくても、気に食わない思想をもつ自由というのを認めあうのが民主主義の大前提です。それが無いのに民主主義を導入しても単なる分断統治になってしまう。
ある考え方や主張を断罪しあったり指の指しあいに陥ってしまったり。今の日本はこの近代社会の立ち方が出来ていない人口が多過ぎます。多様性を恐れ、意見の違いに戸惑い、悪者は誰だという社会になっちゃっている。
これはある意味アングロサクソン的な戦略というか得意技、分断統治に引っかかっているという言い方も出来ます。イギリスにしろアメリカにしろ、彼らの植民地統治の方法というのは必ずこの分断統治を利用します。イギリスやアメリカよりもむしろ、同じ国内で二つに割れてもめさせるような方法。
これを巧みに使うわけです。インドとパキスタンがもめているのもそういう歴史背景がある。本当の敵には刃が向かない。本当の敵はどちらに対してもそれぞれアメを与え、矛先をそらす。日本と北東アジア諸国が仲良くなれないのは、こういう分断工作に翻弄され、乗せられているからでもあるわけです。
そうやって感情的に吹き上がり指の指しあいに陥っている隙に、その構造で煙に巻いているもしくは見えなくなっている本質的な問題点というのがあるわけです。それがアングロサクソン即ちアメリカであったり、この国の統治権力であったりと、隠れ蓑にして煙に巻いている。その裏側にいる存在というのを見極めないと、いいように乗せられてしまいます。
今回の沖縄戦の記述に関する一連のやり取りは、悪い意味の政治的決着であって真の解決の道ではありません。沖縄のくだりを変えるとかそういう問題じゃないのです。検定制度があるからこういう事になるわけです。検定そのものが非常におかしな、国家権力が教育内容に介入する制度で、教育基本法や教育行政のあり方に反しているともいえるのです。
感情的に沖縄問題で吹き上がり、それが解決されたので、何となくこれで終わり的な感じになってしまう。制度を問題にしなければならないわけですから、手打ちにしてしまったのでは意味がありません。
この制度は明らかに政治的シンボリズムの操縦に使うような、それを目的とした制度というしかなく、そもそも検定制度なるものが、55年体制の成立とともにねじ曲げられ、ある方向にステアリングが切られました。
GHQの行き過ぎたアメリカ化、これを日本の文化や風土にあったものに変えなければならない、という事で、地教行法と教科書法それぞれ案が出されて、地教行法が通って、教科書法案のほうが廃案になったのですが、その代わりに文部省が調査官制度、当時40人くらいのようするに現行の仕組みである、検定制度を手に入れた。
元々現行の制度の意図はどこにあったのかと言うと、廃案になった教科書法案、ようするに戦前の国定に限りなく近い、検定化というような方向性を元々目指した制度なのです。
戦前も国定教科書という形で検定制度があり、国家権力が教育の手綱を握り思想統制をしていました。それが戦争に負けた事によって戦後の検定制度というのは憲法の地方自治の精神、あるいは教育基本法とか教育委員会法、そういうものによって検定の権限は誰かというのが、基本的には都道府県の教育委員会が検定をするのだという事になっていました。市民からの公選によってメンバーが選ばれる教育委員会、そういう仕組みが法的には出来ていたにもかかわらず、戦後直後とりあえず紙がないという事で、文部省でやっておきましょうと、臨時的に検定をやっていました。
ところが1953年法律を変え文部大臣が検定をすると中央集権化、臨時を恒常的なものに変えてしまった。丁度その頃1952年くらいまでは戦後の教育行政のあり方として、文部大臣は学者から選ぶという形を取っていたのですが、1952年から与党の一員が文部大臣になるようになった。そいつが検定をするというシステムに変わってしまった。そこから教科書の内容をめぐっていろいろな問題が起こってくる、政治的仕組みが出来上がっている。
50年代後半に、自衛隊の話もひっくるめていろいろひっくり返ってくる。公職選挙法の問題もそう。50年代前半のどういう雰囲気で法律が出来ていったのかという歴史的事実を抜きにして、検定制度の建て前だけ議論していても意味がありません。
集権化が進むと同時に、教育委員会の公選も廃止になり、教育基本法の第十条、教育委員会が教科書の選定に関わるというのを、勝手に公選ではない行政が選んだ教育委員会が決める、という話に変えてしまった。ある方向を目指したわかりやすい変化がおこるわけです。
これは当時の政府というのが面従腹背、つまり今のように完璧に牙を抜かれていなかったからでもあります。基本的にはアメリカの言いなりにはならないぞ、という方向性があった。
だから建て前はアメリカ化を受け入れても、本音の所ではネタで受け入れているんだというのがどこかにあった。もちろん政府だけでなく国民もです。
とりあえず今は従うしか無いので、仕方なしに言う事を聞くふりをしていた。独立出来れば、しらばっくれてもとに戻せばいいというのがどこかにあったわけです。靖国問題の出発点もそこにある。
しかしそれが段々ネタじゃなくなり、ようするに戦争の記憶が薄れ、ベタで、本気で受け入れる世代が増えてきた事によって、段々共通前提が崩れていき、今のように争点化してしまった側面があります。アメリカの言いなりになるのがネタではなくなってしまった。
戦後の検定制度の出発点、GHQの占領統治下の時代の仮教科書検定の時代には全く違う形を取っていました。国語の授業一つをとってもそうです。言語と文学という二本立てで、文学は現在の国語のような感情教育、言語の方は表現教育、今で言うメディアリテラシー教育に近いものをやっていた。アナウンサーがラジオで発言した事に対して、アナウンサーが自分で思っている事か?そうじゃなくて誰かが書いている事か?であるのなら誰が何の為にどういう利害に基づいて書いているのか?という所まで立ち入って小中学生に議論をさせるというタイプの、メディアリテラシー教育そのもの、中身について真に受けるな、いろんな背景について眼光紙背に徹して物事を理解するという教育をしていました。
それがサンフランシスコ講和条約が発効しGHQが解散した途端に変わったわけです。公職追放されていた旧内務省の官僚が文部省にかえってきたのがそのときで、検定問題の舵の切り替えもそこに大きな出発点、巻き返しがあった。
審議会制度というのはGHQが作った。しかしそれが機能していない。厚生省の薬害の問題も含めて審議会が機能していないと言う事がある。この国のすべてに言える官僚制度の弊害の一つがこの仕組みが全然機能していないという事です。チェック機能がはたらかない。教科書検定もまさにそうで、文科省のヒモ付きの調査官が調査した事を、これまた文科省のヒモ付きの審議会でチェックするという。詐欺を詐欺仲間でチェックなんて出来るわけないアホくさいシステムによって、非常に恣意的に動いているわけです。
つづく!!