以下、ネタバレあります。
このブログを書く前に「パラサイト」の受賞履歴を見た。
その名だたる履歴から、この作品は単純に映画が好きな人達だけではなく、
知識層や富裕層、ソフィスティケイテッドされた
人たちにも支持されている作品だということがわかるのだが、
それは一体どういうことなのだろうか。
この作品を鑑賞後、劇場を出るときに感じた、気持ちの重さはなんだったんだろうか、
そんなことを書いてみる。
この映画はざっくり一言でいうと「現代社会においての貧富の差」を描いている。
「パラサイト」意味は「寄生虫」であるが、まさにその言葉のとおり、
リッチなピーポーに寄生し「ちょっとしたお小遣い稼ぎ」をして
少しでもセレブな気分を味わいたい、そんな家族が主人公だ。
彼らは半地下の住居に住み、他人の家のWi-Fiを盗み、
宅配ピザのケースを折りたたむ内職で暮らしている。
浪人生である息子の友だちから、セレブな家庭の娘の家庭教師のバイトを紹介されてから
彼らに転機が訪れ始める。
同じように貧富の差を描いた作品にジョーダンピール監督の「US」がある。
この作品は完全に「入れ替わり」であり「寄生」ではないのだが、
共通していることは、貧富の差は「生まれ持ったものである」ということだ。
もちろん、相当な努力と苦労をして一代で財を成した人もいるだろう。
だが、「パラサイト」の中では、その差は歴然であり、埋まることは決してない。
寄生する側の息子が、家庭教師の教え子である、リッチな家庭の娘の部屋で彼女とキスのあと、
その弟のの誕生日パーティーをぼんやり見ながら
「彼らは生まれ持ったセンスがあり、洗練されている。僕はあの中にいても似合うだろうか」
(セリフうる覚えですいません)
と、教え子に尋ねるシーンがある。
そこには、ファストファッションではない洋服を身にまとい、優雅にほほえみ合いながら
チェロをバックに披露されるオペラを聞きながら談笑する、本物のリッチなピーポーがいる。
願望の眼差しで彼らを見る息子の隣で、リッチな家庭の娘は
不思議そうな顔をしながら
「似合うんじゃない?」と答える。
当たり前だ。
彼女にとって、そういうリッチなピーポーは日常であり、その一部であるから
不思議そうな顔をするのだ。
詳細は避けるが、ある雨の日、寄生する側の父親、息子、娘(だったかな)が、テーブルの下に隠れている時
その横のソファーでリッチな家庭の旦那さんが、奥さんとセックスをしながら
その父親のスメルについて話し始める。(おそらく)密かに奥さんに憧れていた父親にとって、
半地下生活で身に染み込んだ、体の奥底から匂う貧乏スメルは、決して取れないと
嘲笑とともに気付かされるシーンは、格差というものが絶対である、と突きつけてくるのだ。
と、同時にそのシーンあたりから
臭わないはずの彼らの匂いがスクリーンの中から溢れてくる。
自分は違う、ここまではひどい生活をしていない、スクリーンを見ながら何度も思う。
リッチな奥さんが買い物をしながら、値段も見ずに、買い物かごに品物を入れるシーンがある。
ピーポーのセレブな生活とは、そういうものなのか。
羨望と嫉妬の混ざった視線で彼らを見てしまう私達は、その思いが
主人公の視線と同じであることに気づく。
スクリーンから臭っていた、と思っていたその臭いは自分の体臭であると気づくのも
彼らに対するうっすらとした殺意に気づくのも、この頃だ。
故にリッチなパパさんが死んでも何も悲しくない。
彼らが住んでいた家が空き家になってもなにも寂しくない。
(空き家になるくらいだし、一家の大黒柱が死んだのだから、きっと家庭崩壊したんだろう。
でも、それも悲しくない)
リッチなパパさんを刺殺し、逃亡した半地下のお父さんの行方も気にならない。
その息子ができるはずのない約束を誓っても鼻で笑うだけだ。
最終的に救いのない映画だったのにも気にならない。
ただただ、自分の貧乏さ加減を目の当たりにし、絶望だけが心に重さを与える。
社会がいけないのか、政治が悪いのか、会社が悪いのか、オレが悪いのか。