MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。


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ミゲル・コユーラ監督の最新作『シリーズ:ラファエル・アルシデス』

第2章:芸術家と政治家 (日本語字幕付き)



Marysol より

本章に登場する人物や背後に暗示される事件・出来事については、大雑把ながら、こちら(鑑賞のヒント) で解説したので、参考にしていただければ幸いです。


補足情報
① 1:52~《イバンやマヌエルの本に協力したことが問題にされた》という発言の背景:
1974年にマドリッドで出版された書籍「マルティ、ダリオとモデルニズモ」  (Ivan Shulman, Manuel Pedro共著)の序文をシンティオ・ビティエルが書いたことを指していると思われる。


② 4:41~《革命のごく初期から検閲があったと誰もが知っている》のあとのシーンで
  4:46~ 背景の文字 P.MUMAP に入れ替わる
P.M.事件UMAPについては、先の鑑賞のヒントの下段をお読みください。


③ 最後のシーンは暗号というには余りにもあからさまですが、実はこの手法は『低開発の記憶』 (1968年)に用いられています。そこでは「低開発とは何か」という問いに対し、「自分の頭で考えず“誰か”に考えてもらうこと」と喝破しています。

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ミゲル・コユーラ監督の最新作 『シリーズ:ラファエル・アルシデス』の第2章を日本語字幕付きで近々ご紹介する予定ですが、〈内容を理解するために解説が必要〉との意見があり、大急ぎで大ざっぱながら解説を書いてみました。ご参考までにお読みいただければ。


尚、同シリーズ第一章と詩人アルシデスの紹介については下のサイトを参照して下さい。
 http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12168992858.html


★は第2章に登場する人物および文化的事件(いずれもキューバ)の紹介
は参考情報として「夜になるまえに」 ある亡命者の回想」  レイナルド・アレナス 安藤哲行訳(国書刊行会)から引用(多少アレンジ)しました。
Lezama Lima
ホセ・レサマ=リマ 1912~1976 詩人、作家
若いころからゴンゴラの詩を愛読し、スペイン・バロック文学の影響を強く受ける。一方、マラルメ、ランボー、ロートレアモンなど、フランスの詩人の作品にも親しむ。さらにシュールレアリスムにも傾倒し、前衛的な文芸誌「オリヘネス(原点)」(1946~56)を主宰した。
自伝的小説「Paradiso(楽園)」は、スペイン語圏文学の傑作として名高い。同性愛者。
代表的詩集に「ナルシスの死」、「秘めやかな冒険」、「定着」「授与者」など。(いずれもバロック的文体で綴られた難解な作品)
※参照元:「ラテンアメリカ怪談集」鼓直編(河出文庫)



Cintio Vitierシンティオ・ビティエル=ボラーニョス 1921~2009 

  詩人・作家・評論家
「オリヘネス」を拠点に活躍したカトリック系の詩人。文学のみならず文化面においても評論家として活躍。「キューバ革命の父」といわれるホセ・マルティの研究にも取り組んだ。
ホセ・マルティ賞、キューバ文学賞、キューバ文化栄誉
主な作品:「詩におけるキューバ的なもの」(1958)、「キューバの詩五十年」(1952)

「カリブの太陽 正義の詩 キューバの使徒ホセ・マルティを語る」 
ほか多数


下の写真は「オリヘネス」の詩人たち
左からエリセオ・ディエゴ、(1人置いて)フィナ・ガルシア=マルース(シンティオの妻で詩人)、シンティオ・ビティエル

Origenesの詩人たち


◎ シンティオ・ビティエルは革命政府を何年間か批判し続け、カストロ体制下で出版することを断固として拒否していた。その彼が1969年にUNEACで行った講演は(R.アレナスのような非合法的な作家から)転向と評された。ビティエルは、突然、カストロ主義者を公言しコーヒーの収穫とサトウキビの刈り入れに着想を得た詩を読んだ。
レタマル、ギジェン、ラウル・ロアといった人物がビティエルを擁護していた。(p.184)



Virgilioビルヒリオ・ピニェーラ 1912~79 詩人・劇作家
V.ピニェーラは「オリヘネス」に詩や戯曲を寄稿していたが、1946年アルゼンチンに渡る。
帰国後の1955年1月、文芸誌「シクロン」を創刊。
ブルジョア・エリートのカトリック的偽善に反抗し、同性愛を過剰なまでに擁護した。
「ルネス」 にも寄稿。 同性愛者。

※参考文献http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_22-4/RitsIILCS_22.4pp.89-108Kuno.pdf


ミゲル・バルネ(またはバルニス) 1940年~ 詩人・作家
科学アカデミー人種・民俗学研究所での研究生活を経て、国立出版所勤務。全国文化会議顧問。
詩集「宝石と孔雀」(1963)、「グイへの島」(1964)、「聖家族」(1967)、
記録小説「逃亡奴隷の一生」(1966)、小説「ラチュールの歌」
※以上、「現代キューバ短編小説集 大使閣下」(時事通信社)あとがき(執筆:神代修)参照


パブロ・アルマンド・フェルナンデス 1930年~ 詩人
長いことアメリカで暮らしたが、革命後キューバに戻った。彼はソ連、中国を始めとして、多くの国を旅行している。「ルネス」では副編集長を務めたが、廃刊後 ロンドン駐在の文化担当官に任命され、1965年までその地位に留まった。
小説「別れた子供たち」によって1968年のカサ・デ・ラス・アメリカス賞を受賞。
主な詩集:「詩のすべて」(1961)、「頌歌」(1962)、「英雄の書」(1964)
※引用元:「カストロの道 ゲリラから権力へ」K.S.カロル著(読売新聞社)


セサル・ロペス 1933年、サンティアゴ・デ・クーバ生まれ。詩人
キューバ、スペインで文学賞を受賞したほか、1994年にフランスの芸術文学勲章を受章。


国家公安局は郊外にあるホルヘ・イバニェスの家の集まりにスパイを送り込んでいた。つまり密告者に変わった作家たちを。やがて分かったのだが、ミゲル・バルニスパブロ・アルマンド、そしてセサル・ロペスの場合がそうだった。 p.194) 


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“灰色の5年間”(1971~76年)における文化弾圧の中心人物

ルイス・パボン=タマヨ 
“灰色の5年”時、文化評議会のトップを務めた文化弾圧の中心人物。
1968年に「ベルデ・オリーボ」誌で一連の作家を攻撃したレオポルド・アビラの正体は、彼ではないかという噂がある。


ホルヘ・“パピート”・セルゲラ
 1966年から73年にかけてのラジオ・テレビ局(ICRT)の中心人物。
パボンと共に文化弾圧を行い、ビートルズを始め英語圏の音楽を放送させなかった。


アルマンド・ケサダ
 テアトロ・ギニョールの閉鎖など、演劇界を厳しく弾圧した。


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P.M.事件 1961年5~6月
革命政権発足後、初の文化検閲事件。
新聞「レボルシオン」の文芸特集版「ルネス」がもつテレビ番組用に制作した短編ドキュメンタリー『PM』(15分)を、製作者が映画館で上映しようと掛け合ったところ、ICAIC(映画産業庁)に没収され、上映の是非をめぐり、国立図書館でフィデル・カストロ首相(当時)を始め、全革命組織の代表者が集会し、討議される。
最終討論会のフィデルの演説「知識人への言葉」のなかの「表現の自由は革命の範囲内にのみある」という文言が、この後の文化政策の指針となる。
結果的に、『P.M.』の上映禁止は解かれず、「ルネス」も廃刊になり、革命の文化を牽引した進歩的グループが解散させられた。
拙ブログ参考記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12170104008.html


★ UMAP(生産援助軍事部隊)1965年11月~1968年 カマグェイ県に創設
創設理由と目的:
革命前の資本主義の影響を残し、行動が社会に帰属しない者に対し、労働を通して社会に有益な人間となり、結果的に人間的に成長するよう導くため。
具体的には、同性愛者、宗教の信者(特に「エホバの証人」)、反体制派、“外国かぶれ”や社会的規範から逸脱していると見なされた者たちなどが対象となり、“労働キャンプ”に送られた。
1968年、UNEAC(キューバ作家芸術家同盟)や海外の著名人らによる反対を受け、廃止されたが、名前を変えて同様の施設が存在したとも言われる。
3年間の存続期間中の収容者数は25000人という数字がある。

拙ブログ参考記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12054051579.html


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☆第2章の背景にあると思われるそのほかの出来事


パディージャ事件 
第一次パディージャ事件(1968年)  
1968年10月、作家芸術家同盟(UNEAC)の国際審査委員会は、詩部門の賞をエベルト・パディージャの「ゲームの外で」に、演劇部門の賞をアントン・アルファーの「テーバイ攻撃の七将」に授与したが、この決定は、二人の反逆児を好んでいなかった文化当局の大きな不満を買うこととなる。その結果、当局は受賞作品を発表したものの、極めて問題の多い批判的な序文を添えた。それに対し、作者たちは反論を許されなかった。
さらに、軍の週刊誌「ベルデ・オリーボ」で、レオポルド・アビラなる人物によって激しい知識人攻撃が展開された。
尚、アビラについては、一説では古参共産党員だと言われる一方、実在しないとも言われている。(K.S.カロル著)


第二次パディージャ事件 (1971年3月~4月)
1971年3月20日に詩人のエベルト・パディージャが「国家の安全を脅かした」として逮捕され、(4月29日)釈放の交換条件に、UNEAC(作家芸術家同盟)の集会で自己批判文を読まされた事件。


 パディージャの話を聞くよう、知識人たちのほとんどがUNEACを通じて公安局から集会に招かれた。
そこで彼は自分自身を臆病者、裏切り者だと自己批判するだけでなく、自分の妻(ベルキス・クサ=マレ)を含め、反革命的な態度をとっている友人全員の名前を公表したという。
レサマ・リマの名も挙げられた。名前を挙げられた作家たちは次々にマイクの前で告白をした。
パブロ・アルマンドの告白は長く哀れなもので、パディージャより激しく自分を責めた。
セサル・ロペスもそこに駆けつけ、自分のイデオロギー的な誤りを告白した。 (p.196)


パディージャの告白後、レサマとマリア・ルイサは友人関係をしぼりこんだ。エリセオ・ディエゴ、シンティオ・ビティエル、そしてフィナについて、レサマは、あわれな連中だよと言い、シンティオとフィナがプエルトリコに講演に出かけてカストロを称賛し、そのあと国を見てまわって靴を買い、あとでハバナの闇市で売ったという話をしてくれた。(p.306)


第一回教育文化会議 (1971年4月)➡ “灰色の5年”の始まり
Lezama y Virgilio パディージャ事件とほぼ時を同じくして、第一回教育文化会議が開催された。
そこではファッションに関する基準が定められ、ファッションはイデオロギー的偏向であり、米帝国主義の巧妙な侵入であると見なされた。
また、同性愛も攻撃され、条文のなかで、同性愛は病理学上の一症例と見なされ、文化機関で職務に就いている同性愛者は全員、ただちにその仕事場から免職にすべきであると決められていた。
こうして、同性愛の作家、画家、劇作家は、無職になるか、強制労働キャンプで働くか選択を迫られることになる。
査定された知識人には農作業や墓堀人夫といった仕事が与えられた。 (p.198)


※写真はピニェーラ(左)とレサマ(右)

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キューバ音楽愛好者の高橋研二氏が、半世紀以上をかけて集めた膨大なコレクションから貴重な音源や映像、知られざる名曲、名演を取り上げて、とことん解説するトークショーの第4弾。


とことんNo.4 今回のテーマは、前回に引き続き1992年1月に世界で唯一、

日本だけで上演された「ノーチェ・トロピカール」。


豪華なダンサーと共に、キューバから超一流のミュージシャンたちが多数参加しました。


その中から、前回取上げられなかった記憶に留めるべき優れたミュージシャンを、実際の映像と共にご紹介。


ゲストには、「ノーチェ・トロピカール」 を直に取材し、出演者と交流を深めた音楽評論家の田中勝則氏を迎えます。


アーティストたちの経歴をはじめ、彼らの逸話や他では聞けないエピソードなどなど、両氏が熱く語ります。

終盤にはご参加のみなさんの質問もいただきながら、座談会へと展開!


●日時 2016. 7/2(土曜) Open 16:30 Start 17:00

●料金 ¥1000 ※飲み物、食事は別途ご注文ください


●会場 キューバ料理とお酒の店 Bodeguita ボデギータ
世田谷区代沢5-6-14 前田ビルB1(営業17時~, 月曜定休)
☎ 03-5432-9785


❖問合せ:ペーニャ・クバーナ 吉田雄三 080-5041-1698

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★文化評議会(Consejo Nacional de Cultura)
創設:1961年1月4日 (1976年、文化省の創設に伴い解散)
キューバ革命の文化政策を司る機関


革命成就後、文化活動を指揮したのは教育省文化局だったが、1961年4月、革命政府の文化政策を司る機関として独立。
議長にはビセンテ・アントゥニャ、副議長にはエディス(イディス)・ガルシア・ブチャカ(共にPSP党員)が就任した。 ※資料によっては、議長と副議長の名が逆。
メンバーの大多数は、PSP(人民社会党)に所属していた。


これまで数回に渡り、革命直前から1960年までの文化活動を紹介してきたが、1959年~60年の特長は、革命政府には明確な文化政策がなく、文化活動は放任状態だったことだ。つまり作家・芸術家は自由を享受していた。


ところが1961年4月16日、前日のCIA傭兵部隊による空軍基地爆撃の犠牲者追悼集会における演説で、初めてフィデルは《革命の社会主義的性格》を明らかにする。

 ※翌17日プラヤ・ヒロン(ピッグス湾)侵攻事件が起きるが、19日には侵入軍は撃滅された。
 ※尚、ICAICは同事件を報道し、後にドキュメンタリー『侵略者に死を(原題:Muerte al invasor)』

   (監督:トマス・グティエレス=アレア)を製作した。


5月1日メーデーの演説で、フィデルは「われわれの革命は社会主義革命である」と宣言。
単一政党結成の予備段階として革命統一機構(ORI)結成する。


6月16日、ORIの文化部長にアニバル・エスカランテ(旧PSP)の弟セサルが、次長にはエディス・ガルシア・ブチャカが就任。

彼ら旧PSP派は、K.S.カロルいわく《生涯ソ連を称賛することだけを考えてきた人々》。ソ連式社会主義を支持し“正統派の共産主義者”を自認していた。

そんな旧PSP派にとり《トロツキーを始めとして、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』やカフカ、ジョイスの作品など、ソ連で禁止されているあらゆる書籍が書店に並んでいることは、許されまじき光景》だった。
そして、《「ルネス」の発表している記事の大部分は、《正常な》社会主義国においては、公認されていない》ものだった。ブチャカはただちに「レボルシオン」紙と「ルネス」に対する批判を開始した。


★「P.M.事件」 (革命政権初の文化検閲事件)

  短編ドキュメンタリー『PM』/16ミリ
  監督:サバ・カブレラ(G.C.インファンテの弟)、オルランド・ヒメネス=レアル


ハバナの典型的な夜の光景をフリーシネマの手法で撮った15分足らずの作品。
米国の軍事侵攻の可能性が高まるなか、人々は昼間の労働から解放され、酒と音楽に酔いしれる―。



『P.M.』は「ルネス」が運営するテレビ番組で放映され好評を得た。そこで監督たちが映画館に上映を掛け合いに行くと、ICAICの許可が必要だと告げられる。ところがICAICは、内容に問題があるとしてフィルムを没収する。
これに対し「ルネス」が抗議。
カサ・デ・ラス・アメリカス(文化機関)で、知識人や芸術家を集め上映会と検討会がもたれたが決着せず、翌6月に国立図書館でフィデルを始めすべての革命組織の代表者が集会、討議することとなる。

拙ブログ詳細記事:
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10110174931.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/archive1-200807.html


★国立図書館での集団討論会
こうして6月16日、国立図書館で集団討論会が行われたが、一回では収拾がつかず、23日と30日と計3回に渡り開催された。
知識人をおとなしく党の路線に服従させようとする試みは、一回の会議で結論を得るには余りにも強い抵抗に遭遇した為、さらに二度に渡って会合がもたれたのだ。(K.S.カロル)


議長を務めたのはエディス・ガルシア=ブチャカ、カルロス・フラファエル・ロドリゲス、アルフレド・ゲバラ(3人とも旧PSP党員。ただしA.ゲバラは革命に参加するため離脱)

出席者はカストロ首相を始め、ドルティコス大統領、アルマンド・ハート教育相、アントウニャ文化評議会議長、アイデー・サンタマリア(カサ・デ・ラス・アメリカス会長)ら要人に加え、多くの作家・芸術家が参加した。  

拙ブログ詳細記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10116797368.html


3回に渡って催された「知識人との討論会」の最終回で、フィデル・カストロが「知識人への言葉」を発表し、同演説中の「革命の内にはすべてがあり、革命の外には何もない」という(曖昧な)文言が、これ以降の文化活動の指針となる。


*「P.M.」の上映禁止は解かれなかった。

*同年11月「ルネス」が廃刊になる。


拙ブログ詳細記事:
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10121316872.html

年表1961年:
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10727500194.html

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ポスター「シリーズ:アルシデス」今月7日から9日にかけてロサンゼルスで開催中の「ニューメディア・フィルム・フェスティバル」の「ウェブシリーズ」部門に、キューバの自主製作映画の旗手、ミゲル・コユーラ監督が『シリーズ:ラファエル・アルシデス』の第7章を出品しました。


同シリーズは、詩人ラファエル・アルシデス(1933年生まれ)が、キューバの現在と過去、権力と知識人の関係、芸術や美などについて、カメラに向かって語るドキュメンタリー。

全部で7章から成っています。


拙ブログでは、4月にキューバに1ヶ月滞在し、コユーラ監督と親交を結んだ亀井岳監督の協力を得て、同シリーズに日本語字幕を付けて紹介していくことにしました。

今日はまず第1章(約5分)をご覧ください。

(コメント欄も覗いてください)


1章:美しい出来事




ラファエル・アルシデス(1933年6月9日生まれ、キューバ・バヤモ出身)
詩人・作家・ジャーナリスト


出身地およびオルギンで初・中・高等教育を収めたのち、ハバナの学校で工業化学を専攻する。
ビルヒリオ・ピニェイラが主催する文芸誌「シクロン」で文学活動を始める。
ラジオ局でプロデューサー、ディレクター、作家として活躍し、番組で数年に渡り、キューバの詩人たちを紹介した。
1969年以降、公的活動から離れる。(ただし80年代初期および90年代初期において断続的に活動)
そのため「50年世代」の重要な詩人の一人でありながら、忘れられた存在となっている。
彼の詩の特徴は、告白的ないし証言的テーマ、自己に対する徹底した誠実さ、口語表現のなかに滲む感受性の強さと哀切さである。
2014年、キューバ国内で著書が入手不可能な状態に抗議の意を表すべくUNEAC(キューバ作家芸術家連盟)を脱退。


著作

詩集:
Himnos de montaña (Talleres Capitolio Nacional, La Habana, 1961)
Gitana (Talleres de Tosco, La Habana, 1962)
La pata de palo (Unión, La Habana, 1967)
Agradecido como un perro (Letras Cubanas, La Habana, 1983)
Y se mueren y vuelven y se mueren (1986)
Noche en el recuerdo (1989)
Nadie (1993)
Antología GMT (Renacimiento, Sevilla, 2009)


小説:
Contracastro(1965)
El anillo de Ciro Capote (Renacimiento, 2011)
Las crónicas de Memorias del porvenir (Premio Café Bretón & Bodegas Olarra, AMG Editor, 2011)
La miscelánea Libreta de viaje (Mangolele, 2011)
Un cuento de hadas que termina mal (Pepitas de Calabaza, 2011)

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ドキュメンタリーGABO先月、青山で『GABO~ガルシア=マルケスの生涯』(ジャスティン・ウェブスター監督/スペイン/2015年)というドキュメンタリー映画の上映会とトーク がありました。

このドキュメンタリーは、ガブリエル・ガルシア=マルケス(愛称ガボ)の作品の背景を知る上で非常に有効なうえ、私にとっても印象的なことが幾つかありましたが、拙ブログでは「革命と文化」 というテーマを追う上で大事な事件をひとつだけ記しておきます。


題して「プレンサ・ラティーナとマルケス」

 鑑賞メモから(主語はマルケス)
 ・ソ連の社会主義に失望
 ・取材のためキューバ滞在中、キューバ革命が勝利。

  フィデルに夢中になる。
 ・革命の生き証人になるため、プレンサ・ラティーナに入る。

 ・共産主義者がプレンサ・ラティーナを乗っ取ろうとした → 乗っ取った


※ プレンサ・ラティーナ(以下プレラ)とは
エルネスト・“チェ”・ゲバラがイニシアティブを取り、1959年6月に創設した通信社。北米の通信社が支配的なメディアの世界でラテンアメリカの声を発信しようとした。

初代社長はアルゼンチン出身のホルヘ・リカルド・マセッティ。
(マセッティは、1958年にシエラ・マエストラでフィデルやチェに優れたインタビューをした記者で革命に関わっていた。)
彼のもとに、ガブリエル・ガルシア=マルケス、ロドルフォ・ウォルシュ、ロヘリオ・ガルシア=ルポ、カルロス・マリア・グティエレスなど、若く有能なジャーナリストが、革命の声となるべく集まった。

                                        *写真はプレラで仕事中のガボ
GABO`さて、ドキュメンタリーの証言をもとにさらにネットで調べてみると―


キューバ革命が勝利したとき、マルケスはコロンビアの「エル・ウニベルサル」紙の記者としてキューバに居り(要確認)、フィデルのハバナ入城や演説に立ち会い、彼に惚れこむ。

誘われて、通信社「プレンサ・ラティーナ」(以下プレラ)に入り、半年後にカナダに派遣されるものの、ビザが下りずN.Y.で待機。その頃ハバナでは、プレラが共産主義者たちに乗っ取られそうになる。マセッティは抗議の意を示すため、訣別をほのめす。彼としては、フィデルが引き止め、事態が改善すると期待していた。が、予想に反し、辞任が認められ、後任が据えられてしまう。

マルケスは遠く離れたN.Y.でプレラを退社した(1961年4月頃か?)


*左からマセッティ、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス(グアテマラの作家)、ウォルシュ@プレラ
M.A.Asturias, Walsh&Masetti

☆フィデルもチェもプレラを擁護してはくれなかったが、結果的にこの出来事はチェにとって大きな痛手となった。キューバの革命的左翼の中にも党派が存在し、シエラ・マエストラで立てた計画の統一性にひびが入る可能性が証明されたからだ。NYで数ヶ月過ごしたあと、マルケス一家はメキシコに移る。
(「絆と権力 ガルシア=マルケスとカストロ」(新潮社)


★ マルケスの同僚、ロヘリオ・ガルシア=ルポ(以下RGL)の証言

我々が「プレンサ・ラティーナ」を去ると、我々の仕事はイデオロギー的に疑わしいとされ、すべて破棄された。
新しく通信社の上層部に就いた者はガチガチに閉鎖的なスターリン主義者だった。
後年ガボはジャーナリスト時代に書いた記事を集めたが、「プレンサ・ラティーナ」のものだけがない。破棄されたからだ。


質問:十分に共産主義者でなかったから?
RGL:我々は全く共産主義者ではなかった。共産主義者たちに言わせると、我々はイデオロギー的に行き詰っていた。

(当時の写真を見ながら)あの頃は今ほど写真を撮らなかった。タイプライターはキューバ革命を発信するためにあった。眼前にあるのは、人生とより良い未来だけ。それを自分たちの手で作り出そうとしていた。

マセッティも「シエラのゲリラたちは共産主義者ではない。民主的なことをしたいナショナリスト(民族主義者)、反帝国主義者だ」と言っていた。イデオロギー的に我々はそれ以上ではなかった。


質問:ガルシア・マルケスの場合は?
RGL:彼は取材で東欧に行ったことがあり、現地の社会主義モデルが気に入っていなかった。歯磨きがまるでセメントみたいに固いと冗談を言っていた。


私がプレラを去った理由は、アルゼンチン人記者に対し猛烈な圧力がかかったからだ。
我々アルゼンチン人の力を削ごうとしていた。チェを追い落とそうとしたりトロツキスト呼ばわりした。当時、それは汚名だった。チェを倒すのは難しかったが、マセッティは簡単だった。そしてマセッティを倒せば、次は私、ウォルシュ、パディーリャ・・・


質問:1961年の社会主義宣言には驚いたか?
RGL:いいや。すでに地政学的説明をもっていたからね。
革命は強固な援護を必要とし、その代価を払っていた。キューバの共産党員がポジションを占めた。避けられないことに見せかけて。実際避けられなかったのだ。革命は非常に壊れやすかったから。世界は二極化しており、真ん中で踊ってなどいられなかったのだ。


質問: マルケスはキューバの共産主義に結びついていたのか? 
RGL: いや。フィデルにだ。

エベルト・パディーリャが1971年に投獄されたとき、マルケスは釈放キャンペーンに署名しなかった。マルケスにとり、それは革命のイデオロギー的団結のために払った犠牲だった。


プレンサ・ラティーナの創設40周年だか50周年に招待されたが、ガボは私に「なぜ私の時評欄を破棄したのか説明がない限り、祝賀会には行かない」と言った。それらの記事はどこにもない。破棄されたのだ。


RGL&GABO 2007  RGLとガボの再会(2007年)

Marysolより

最後に、今回の記事をきっかけに初めてホルヘ・リカルド・マセッティに興味をもったのですが、彼はプレラを辞めた後、アルゼンチンに戻り、サルタ地方の山岳地帯でゲリラ活動を準備中だった(1963年~64年)ことまでは分かっているが、その後の消息不明。

下のトレーラーは、マセッティのドキュメンタリー(2014年)
ARRIBA LOS QUE LUCHAN! Jorge Ricardo Masetti y la batalla en la comunicación
万歳、闘う者たち!ホルヘ・リカルド・マセッティとコミュニケーションの戦い(2014年)


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拙ブログで何度か紹介してきた、キューバ出身の女優アナ・デ・アルマス。

若くして活躍の場をスペインに求め、アイドルになった後、ハリウッドに進出。

その彼女の出演作がいよいよ11日に日本で公開されます。

作品タイトルは『ノック・ノック』

オフィシャル・サイト:http://knockknock-movie.jp/


ノック・ノック 本作で主人公(エヴァン)を演じるキアヌ・リーブスはプロデューサーとしても参加。

彼を誘惑する悪い女の子のひとり(ベル)を演じるのが、アナ・デ・アルマス(右端)。

2015年「世界で最も美しい顔」9位に選ばれたとか。


内容的には、サディスティック・ムービーだそうで、詳細やトレーラーは上のサイトで見てください。

そうそう、アナといえば、先月のシャネルのファッションショー の際には招待されてハバナに滞在していました。



アナ・デ・アルマス2016 その時の「OnCuba」誌のインタビューで、『ブレードランナー』に出演が決定していると話していました。

撮影は7月にブダペスト(ハンガリー)で始まるとのこと。

公開予定は2017年10月。


キューバの映画にもまた出たいと言っているので、いつかぜひ!



拙ブログのアナ・デ・アルマス紹介記事:
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12063978572.html



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最近、目黒にあるラテン文化サロン、カフェイリブロスの「歴史の中の女たち」の講座に通っているのですが、講師の伊藤滋子先生から写真の本を貸していただきました。

この本は、大阪外大でスペイン語を学ばれた著者、中原孝三氏が、卒業後、貿易会社に就職し、オーストラリア、キューバ(11ヶ月)、メキシコ(12年)に赴任後、帰国したものの、退社してご家族で再びメキシコに渡り、貿易・投資コンサルタント会社を設立。人生の半分以上をかの地で過ごされた体験をもとに書かれた自伝風エッセイ(個人出版)です。

キューバについて書かれた箇所で驚いたのは…
中原氏は、チェ・ゲバラが1959年に来日したとき、アテンドをなさっていたこと!
翌年キューバに出張し、今村昌平監督の『豚と軍艦』を見せたところ、政府側がおおいに興味を示し、買い付けてくれたこと。

なるほど。こういう経緯で『豚と軍艦』 はキューバで公開されたんですね。

豚と軍艦


中原氏が日本でチェと行動を共にしたのは約1週間。
工業大臣だったチェを色々な工場に案内したそうです。


チェの印象は《知性と教養に満ちあふれた物静かな人》。

また、《チェの人間としての器の大きさを感じた》エピソードとして、あるメーカーを訪問したときのこと。世界地図で、キューバ国旗がドミニカ共和国の所に立てられていたことに怒って抗議する同行者を《チェは手で制止しながら、少し笑みを浮かべて「私達のキューバは、もっと小さな島にあるのですよ」と言った》ことを紹介しています。


その翌年、中原氏は初めてキューバを訪問するのですが、《街中には軍服を着た民兵が溢れ、テレビ、ラジオからは絶え間なく革命賛歌が流れ、ホテルはソ連や中国からやって来た人たちで一杯だった》。一方、ビジネスでは、《新政府の主要ポストを占める人たちが、その心意気とは裏腹に、経験や知識に乏しい若手が多かった》ため、非常に苦労した由。

約1年の滞在後、氏が再びキューバを訪れたのは1995年。


35年ぶりのキューバは、ソ連崩壊による「非常事態」にあったせいか、《活気が感じられず、ホテルでの食事も粗末で、特にパンが不味いのには驚かされた》。

けれども、2001年の訪問では、ハバナの街がだいぶ明るくなったと感じる一方で、街には革命の痕跡すら見当たらず、変化を感じたと―。

また、バラデロの町はずれで食べた、素晴らしく美味しい中華料理も、あくまで外国人旅行者を対象としたもので、一般市民には無縁のものだと知り、《少し驚くとともに、キューバの現実的な一面を垣間見る気がした》。



最後に、本書の中で言及されている歌「La Paloma(ラ・パローマ=鳩)」をお聞きください。歌っているのは、ギリシャ出身の歌手、ナナ・ムスクーリ。


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Newsweek オバマ大統領の広島訪問の記事通して、佐々木雅弘氏と、クリフトン・トルーマン・ダニエル氏のお名前を初めて目にした方も多いのではないでしょうか?
私も、大統領の広島訪問の1日前に、夫が置いていった「Newsweek 5月31日号」 を読んで初めて知りました。


同誌には、このお二人が出会ったきっかけから今に至るまでの交流(ダニエル氏のご長男が学校からサダコの本を持って帰ってきたこと。それがきっかけで、著者でサダコさんの兄の雅弘さんとN.Y.で会ったこと。その結果、2年後に息子さん二人を連れて広島と長崎の平和式典に出席したことですべてが始まったこと。続きはぜひ誌面で!)が、「謝罪」というテーマを中心に書かれています。
ちなみにダニエル氏は、原爆を投下する決断をしたトルーマン大統領のお孫さんです。

サダコの本とはこれ のことですね、きっと。


禎子の千羽鶴



折り鶴 今回オバマ大統領はご自分で折った(手伝ってもらったけれど)鶴を持参したということですが、おそらく同誌の記事に書かれている実話も大いに関係しているのではないでしょうか?
一冊の本がこうした形で実を結ぶことに希望を感じます。


尚、同誌のもうひとつの記事『「謝罪」の喧騒に警笛を鳴らす』の被爆者の方の葛藤の道のりもぜひ読んでいただきたいと思います。

どの事件にせよ、一国の首脳が謝罪をするというのは、立場がある故に複雑な問題ですよね。


ただ、謝罪を求められるのは、大統領や首相だけでなく、私たちだってあり得ることです。
現に私は今から10年以上前、韓国に行ったとき、当時ボランティアで日本語を教えていた生徒さん(既婚男性)のお宅に招かれ、そこでその方のお母さんから「日本(確か沖縄)に住んでいたときとても苦労したから謝って欲しい」と言われました。


あまりにも唐突で面喰ったうえ、お母さんの通訳をする生徒さんがあまり日本語が上手くなかったので、詳しい話も聞けなかったのですが、個人的なケースとは別に、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件や差別の問題など多少は認識していたので、「私の国が貴方に辛い思いをさせたなら謝ります」と言いました。


今でもたまに〈あんなに熱心に韓国に遊びに来てと誘ったのは、謝罪を求めるためだったのかしら?〉と勘繰ってみることがあります。が、幸いにもあのとき私の言葉を聞いたお母さんはすぐ笑顔になって、息子さんである生徒さんに「許してあげる」と言ってくれました。その(拍子抜けするほどあっけない)顛末を思い返すと、疑念もすぐ晴れるし、謝れて良かったと思っています。

ちなみに韓国旅行は、当時大学生の娘とフィリピン人の生徒さんと3人で行きました。私以外は初対面だったのに、女子会みたいに楽しい旅で、ハプニングも含めて良い思い出です。


さて、このように私はアウェイで日本人として謝罪を求められましたが、日本語教室では色々なケースがありました。(誰も謝罪を求めなかったし、しなかったけど)
例えば、自己紹介のときだったと思います。チュニジア人の男性は、前の二人がフランス人だと知ると、「貴方の国のせいで私の国はメチャクチャになった」と嫌味たっぷりに言いました。二人の女性は、返す言葉もなく黙っていました。
また、授業中の雑談で、日本人を非難し始めた韓国人女性に、フィリピン人女性が「私の国では韓国人が残酷なことをしたとオジイチャンから聞いた」と言ったり。
かと思えば、スペイン人が「まったくスペインは新大陸でヒドイことをしたもんだよ」なんて、他人ごとのように言うのを聞くと「申し訳ないとは思わないのかしら?」という疑問が胸を過りました。


今日フェイスブックで見かけた「オバマ大統領の広島訪問」をめぐる投稿記事(スペイン語)には、「日本人はアジアでもっと多くの人を殺した。謝罪せよ」「残念ながら人類の歴史は蛮行の歴史だ」「スペインは…」などと延々とコメントが続いていました。


謝罪。もし貴方が求められたらどうするか。この機会に考えておくのも良いと思います。

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オバマ大統領の広島訪問、素直に嬉しいです。

キューバ映画とは関係ないようですが、もし私に〈被爆国としての背景や思い〉がなければ、これほど『低開発の記憶』 というキューバ映画にこだわらなかったでしょうから。


核戦争の一歩手前にあった、1962年の「キューバ(ミサイル)危機」。

この映画を通して、米ソ対決という表舞台の裏で、キューバの人々は何を感じ、どう行動したかを知りました。

そして、「全滅も辞さない」という彼らの覚悟に、私は驚き、疑問をもちました。
なぜなら、戦争中の日本人も同じように「一億玉砕」を唱え、国のために死ぬ覚悟でしたが、敗戦を機にそれは「間違いだった」と否定されたからです。

私は、キューバ人を否定するのではなく、むしろ「同じことがあった」からこそ、この映画を通して見直したかったのです。「低開発(後進性)」とは何かと。


映画(ドキュドラマ)のなかで、「祖国か死か」というフィデル・カストロの呼びかけに、国民は祖国防衛に立ち上がります。
それはキューバ人にとって、ようやく手にした“自立を守る国民としての自覚”の証明でした。

一方、主人公セルヒオは、なすすべもなく眠れない夜を過ごしています。

彼には国民としての自覚が欠けているのでしょうか?
自分の国を自分の手で守らないのは、植民地根性なのでしょうか?



世界で唯一の被爆国に生まれた私は、核兵器を前にしたら人間は無力だと知っているので、セルヒオに共感してしまいます。

「原爆を落としてみろ」という覚悟にも、「待って!」と言わずにはいられません。

仮に「死」以外に出口がないなら、家族と離れ離れのまま外で焼け焦げて死ぬより、せめて我が家で家族と抱き合って死にたい…。

幼いときに見た映画『世界大戦争』のラストシーンのように。


戦争になれば、こんな本音は口に出せなくなるけれど、沈黙を強いられても、頭のなかでは考え続けるでしょう。

「より良く生きるとは、より良く死ね、ということなのか?」

(何がより良いことなのか?)
「これは本当に正しい選択なのか?ほかに道はないのか?」と。



映画の中で、セルヒオは独りごちます:「自分の頭で考えず、代わりに誰かに考えてもらう。それが後進性(低開発)のしるしだ」と。

「どうしたら良いか?」誰かが答えをもっていると思ったけれど、ブログを書くうちに、この問いには答えがないことが分かりました。
でも、それでも(だからこそ)問い続けることが大事なことを。

(デスノエスは「決して考えることを止めないように」と励ましてくれました)

また、ひとりで思い悩むのではなく、他者と問いを共有し、意見や思いを伝えあい、可能性(希望)を探り続けることが必要なことを。
アレア監督は、映画を通してそれを意図したのではないか、と。


幸い私は、キューバで問いを共有できる人たちと出会いました。
答えは見つからなくても、一緒に考えてくれる人がいる。疑問を打ち明けられる人がいる。おかげで、ようやく自分(=セルヒオ)を肯定できるようになりました。

映画を通して交わしたコミュニケーション。

それは、私にとって最大の収穫であり、人生の宝です。

ミゲル・コユーラ監督は、私の問いを『セルヒオの手記』 の1シーンに取り入れてくれました。
日本人としてその問いを発することができたこと、自分のなかで『低開発の記憶』と『セルヒオの手記』が繋がったことに満足しています。



また、昨年来日したマルティン・ゲバラ(チェ・ゲバラの甥)が、1回目はひとりで、2回目は家族と広島を訪れたことも本当に嬉しいことでした。
すでに彼は広島で感じたことや広島の意味を公に語ってくれています。
これからも、そしていつかは彼の息子さんが、広島のことを語り継いでくれるでしょう。


私にとって、キューバ映画、そしてキューバの友人たちとの出会いの根底には、原爆があります。
悲劇的な歴史ですが、その(破壊の)意味を私たちは(未来の建設のために)変えることができるはず。
ひとりでも多くの方が、自分なりの広島の意味を見つけてくれますように。

そして世界の平和に活かされますように。














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