ガルシア・マルケスとラテンアメリカ映画 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

1986年12月4日(アフリカの神・チャンゴーの日)。
新ラテンアメリカ映画財団の本部を、ハバナ市のはずれにあるサンタ・バルバラ邸に定めたお披露目の席で、会長のガルシア・マルケスから次のような発表がされました。
「近々キューバ政府から我々に対し素晴らしい贈り物がある。皆さん、大いに感謝しよう。この前例のない寛大さと絶好の機会に対し、また世界で最も知名度の低い映画人フィデル・カストロに対して。サン・アントニオ・デ・ロス・バニョスに“国際映画・テレビ学校”ができるのだ」
「学校の目的はラテンアメリカおよびアジア・アフリカにおける、映像表現者・技術者を養成すること。初代校長はフェルナンド・ビリ(アルゼンチンの監督)が就任する」


今やラテンアメリカ文学の代名詞のごときマルケスですが、半世紀前の彼は作家よりも別の職業に憧れていました。
「1952年から56年にかけてフリオ・ガルシア・エスピノサ、トマス・グティエレス・アレア(共にキューバ人)、フェルナンド・ビリ、そして私はローマの映画実験センターで映画制作を学んでいた。当時の私は、何よりも映画監督になりたかった」「あるとき助手として撮影に加わるチャンスに恵まれた。うれしかったなぁ。仕事が、じゃないよ。ソフィア・ローレンに会えると思ったからさ。ところが私の役目ときたら、群集が撮影の邪魔をしないようロープの端を引っ張っていることだったんだ!それが一ヶ月以上続いた、唯一の現場体験の中身だ。もちろんソフィア・ローレンを拝む機会などただの一度もなかったよ」


さてそんな厳しい現実にもメゲず、先に名前の挙がった4人はどんなことを語り合っていたのでしょう。
「当時も今も同じように映画について語り合っていたものだ。ラテンアメリカで作られるべき映画とは?それはどのように作られるべきか?などとね」「イタリアのネオリアリズムにインスピレーションを得たんだ。最小限の資金で、最大限に人間的な映画だったから」「でも何より“ラテンアメリカ映画はひとつである”―そう考えていた」

それから20年の時が流れ―
昨年(2006年)、国際映画・テレビ学校はめでたく創立20周年を迎えました。taller del guion
マルケスは、同学校で脚本コースを指導をし、楽しみながら半世紀前の夢を現在のラテンアメリカの若者達に繋いでいます。
(興味のある方は『物語の作り方・ガルシア=マルケスのシナリオ教室』(G.ガルシア=マルケス 木村栄一訳/岩波書店を参照してください)
また昨年は「国際映画・テレビ学校」20周年を記念して、スペインの出版社から「El arte nunca duerme(注:芸術は決して眠らない/フランシス・F.コッポラの言葉を引用)」と題する、素敵な写真集が出ました(右上はその1ページ)。
同著には、学校を訪れた世界の多くの映画監督らの写真とコメントが集められていますが、トップを飾るマルケスは献辞を次のような言葉で締めくくっています。

「好むと好まざるとに関わらず、“ラテンアメリカ映画はどうあるべきか”という概念を新たに作り上げていく必要がある」「ラテンアメリカ映画は、我々を表現し、アイデンティティを確立する助けとなるべきだ」


追記

*下記のサイトで国際映画・テレビ学校の写真が多数見られます。
 
http://www.cubamagica.com/paginas/cinegal.htm

*それにしてもG.マルケスの語りはとてもユーモラス。

今回の記事では、彼のユーモアが伝わるように、本来のスピーチをくだけた話言葉に代えて訳出してみました。