どうしても嫌いになれない上坂氏の本2冊目。彼女の行動力は、本当に尊敬に値する。憎めない方だ。

まず、彼女の立ち位置であるが、しっかりと「まえがき」で明言されている。

「私が本業と無縁な原子力発電に関心を持ったのは、簡単にいえば野次馬根性からである。賛否の対立する問題の真ん中に、中立の立場で飛び込んで両者の言い分を聞くのが好きだからと言い換えてもよい。」(13ページ)

ちなみに本書は、中村政雄氏の「原子力と報道」とほぼ同時期に刊行されており、両方ともまえがきに「怪文書」のことが書かれている。

この「怪文書」とは、2004年に出たもので、六ヶ所村の核燃料再処理工場は19兆円もかかるコスト高のしろものなので凍結すべきだ、という内容のものである。どうも、この本も、中村氏の本も、この妙な怪文書への批判書のようなのである。

しかしそれはあくまでも私の勘ぐりなのかもしれない。上坂氏が、どのくらい「中立」なのかを確認したい。これは、とても重要なことである。とりわけ書名に「原子力問題のウソ・マコト」と書いてある以上、その真偽をジャッジする「作者」としての責任があるはずだ。

まず、対談の相手(と当時の肩書)。

中曽根康弘 自民党、元総理。原発を最初に国策化した人
殿塚猷一 核燃料サイクル開発機構理事長
有馬朗人 自民党、物理学者、元東大総長、元科学技術庁長官
竹村健一 評論家
加納時男 自民党、参議院議員、
元東電副社長
与謝野馨 自民党、参議院議員

あれ? 「自民党」がきれいに並んでいる。「中立」ではなかったのか?いやいや、きちんと内容を確かめてみようではないか。たとえば、こう言っている。

「高速増殖炉「もんじゅ」は、準備万端ととのえて、トラブル以前の状態、というより、もっとよい状態に改善すべく、いまかいまかと工事再開の許可を待っているところです。」(34-35ページ)

待ち遠しい気持ちが、よく伝わってくる。さらに、こんなことを言ってもいる。

「「怪文書」は合理主義を装った反体制運動、昔風にいうと”アカ”の人たちの思想運動に通じるものと考えると、話はわかりやすいですね。」(43ページ)

そうか、「アカ」というのは、上坂氏からみると、同じ国民と思われていないのだ。だから、彼女のなかで「中立」というときには、「アカ」と彼女が呼ぶ人間は、きっと論外にあるのだ。

「原子力といえば原爆だ、なんて昔も今も物事の区別のつかない薄っぺらな人がいるのねえ。」

「物事の区別のつかない」「薄っぺらい」というのは、揶揄であるが、現実的に、原爆と原発の違いをはっきりと説明できる人は、割合からいって、かなり少ないはずだ。せいぜい、概念的に、「武器」もしくは「軍事的利用」されるものと、平和的利用されるもの、といった言い方ができるくらいではないのか。そして、今回の「事故」でよく分かったように「被爆」ではなく「被曝」しかも低線量の被曝に対する底知れぬ「不安」を、「薄っぺらい」という言葉で済ましてよいはずがない。ものを書く人間がこうまでして、そういった「アカ」とか「薄っぺらい人間」と言うのを聞くのは、正直言って愉快なはずがない。「中立」と書くのは、そういった姿勢をあらためてからにしてもらいたいものだ。上坂氏のような方には、そういった、内向きの、仲間内でそうじゃない人の悪口を言い合うようなやり方ではなく、本当に公正にウソ・マコトを問うてほしかった。

あと気になったのは、次の発言。

上坂「日本の原子力発電所ではIAEAの監視カメラが24時間働いていて、カメラは封印されていますから、ごまかしなんてききません。」(63ページ)

フクシマは、監視していたのであろうか。

また、次の一節も気になる。

上坂「初の原子力委員会は正力松太郎、委員としては湯川秀樹を筆頭に、物理学の藤岡由夫、経済学の有沢広巳、経団連の石川一郎という面々が目を光らせていました。」(69ページ)

というが、実際には湯川は、厳しく目を光らせようとしていたにもかかわらず、それがかなわなくなり、辞任している。当時の記録に、こうある。

「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘(わた)って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない。」(湯川秀樹の発言、『原子力委員会月報』1957年1月より)

さらにこのあとの、ラッセル=アインシュタインのパグウォッシュ宣言に湯川氏が賛同するという流れをご存知ないのであろうか。

また、有馬氏が、自分は物理学の専門家ではあるが原子力は専門外であると言っているのにもかかわらず、次のように言うのは、公平であろうか。

「有馬先生は子供たちの前で「原子力は安全です」とおっしゃったでしょう。専門家であれだけはっきりおっしゃったのを聞いたのは初めてですよ。」(77ページ)

そういうのは、信仰の世界なのではないか?

「まあ、マスコミは恐ろしい力を秘めているけれども、注目を集めた核燃料サイクルに対する見直し論も、原子力委員会にそうとう頑張ってもらわないと、六ヶ所村でのリサイクルは天下の無駄として扱われかねません。まさかそうはならないと信じたいですけれど、この先どうなりますかねえ。」(95ページ)

と、結局は、中村氏と同じ、結論ありきで、語っているではないか。

「竹村(健一)さんは、本の中でも原子力アレルギーにあたたかい眼差しを送っていらっしゃいますね。反対派の存在が、推進派を緊張させるからって。」(116ページ)

と、反対派にアレルギーをもっていらっしゃることを公言する上坂さんだった。

もう一つ、気になるのは、中曽根の次の発言、

「原子力発電でちょっとしたトラブルが起こると、非常に大げさに取り上げられて、致命的な事故のように報道されたり扱われたりしてきました。しかし、いままで日本は、科学的、技術的に厳重な点検をしながら発電所を動かしてきたわけで、実際に、原子力発電のメカニズムとして人命にかかわるような大事故を起こしたことはありません。」(31ページ)

これまで日本の原発で起こったのは「事故」ではない、トラブル、事象である、というのは、本書で、何度となく繰り返される内容である。これは一体、何を訴えているのであろうか。

もちろん本書のなかで、加納氏においては、かなり厳密に、「設備事故」と「原発事故」を分けて考えるべきという指摘もなされているので、すべて、「事故」という言葉を消したがっているというわけではないにしても、他の発言をみているとどうみても、厳密にその両者の線引きをしたいようには見えない。

しかし、では今まで安全だったその原発が、2011年3月には、大きな事故を起こしたことも、事実であると認めたうえで、今後の「事故」対策をどのように考えているのか、お話を是非、前向きにお聞きしたいものである。

放談は、続く。

加納「エネルギー政策は、地域の感覚だけで判断すべきではないし、ましてや地域の住民投票のようなことで決めてはいけないというのが私の信条です。」

上坂「同感!」

何度も繰り返される、原発や核燃料リサイクルは「国策」だという表現。ここは重要なところである。彼らが訴えたいことはやはり、個人や地域が文句をつけるのは「エゴ」であって、「国策」や当時の自民党政治は、そういった次元とは異なる「上位」の「高い抽象能力を必要とする問題」(上坂、147ページ)は「専門家」がしっかりと議論した結果なのであり、特別なもの、全体の一つの総意、言ってみれば、ルソーの言う、一般意思として自立しているということである。自分勝手なことを言ったり行ったりすることに対する、この、禁欲的な態度、どうもこのあたりが、原発反対派や放射能をこわがる人たちにたいする不快感のみなもとのようである。これは、いかにも正論のようであるが、ちょっと待ってほしい。

一般意思とは、いつも「絶対」「普遍」のものとして成立しているわけではない。むしろ逆で、近代の「民主主義」の社会においては、「一般意思」とは、固定化されておらず、市民の個別の意志による意義申し立てを尊重こそすれど、無視したり揶揄したり抹殺するものではない。むしろ、そうした「自由」な意見の調整の結果、そのときそのときで創られた「仮設」の「考え方」であって、この仮設物に対して肯定する立場も、否定する立場も、対等であり、その議論こそが「政治」であるはずだ。なぜ「肯定」だけが「正しい」と言い切るのかが、問題である、常にこの一時的な「国策」も検証し続けるべきである。決まったから守れ、というような横暴な態度は、「民主的な」議論ではない。

中曽根「日本の自主独立という大局的な見地から、われわれはリサイクルを国家の政策として決定したんです。損得ばかり考えて、国家の舵を取るのは間違ったやり方です。」(41-42ページ)

有馬「国策で決まったことは国の責任できちんと行うのが当然です。国が横暴だというなら、政府を代えればいいんです。」(97ページ)

確かに、代わった。そして、浜岡原発は、実際に、停止した。「いいんです」というから、有馬氏の論理で言うと、いいはずなのだが、実際には、手続きが悪かったためなのか、非難の嵐となったのはどうしてだろうか。自民党政権が永遠に続くという前提でものを言っているとすれば、その発言の有効期限は、おそろしく短いものだったということかもしれない。


なお、与謝野馨氏、気になる存在である。与謝野鉄幹と晶子の孫にあたり、東大を出た後中曽根氏の口ききで日本原子力発電に入社。財務や通訳、翻訳が主な仕事だったようだが、実際に核燃料のチェックを行ったり、かなり原発には詳しい人間fであった。また、その後自民党議員として長らく所属するが、2010年に離党、その後福島第一原発事故の際にも経済財政政策大臣として民主党政権における大臣にもなっていた。このとき、経産大臣だったのは海江田万里で彼らは選挙区が一緒のため、熾烈な戦いをこれまでしてきた「仲」である。


読んだ本
ほんとうは、どうなの? 原子力問題のウソ・マコト
上坂 冬子
PHP研究所
2005年1月
¥1,260
Amazon.co.jp
栗原彬さんをはじめとした6人の人が「3.11に問われて」という本を出した。

これは「ひとびとの精神史」という意図を持っている、と「はじめに」に書いてある。

私は今、「核」をめぐる言説史をまとめようとしている。この、「ひとびとの精神史」と「言説史」との違いについて、ここで考えてみたい。

私の進めている「言説史」とは、つまりは、「書かれたもの」「描かれたもの」「作られたもの」(そして本当は「造られたもの」つまり建造物や「為されたこ と」つまりイベントや催事など、さらには「つぶやかれたもの」としてSNSなどの言葉も含む)といった、「表現されたもの」(=表象)を対象とし、その変 遷をたどることによって、これまでどのようにその対象(ここでは「核」)について「私たち」が思考してきたのか、その流れを明らかにし、それをこれから生 きてゆくうえでの手がかりとしよう、というものである。

一方本書は、、「マスメディアの報道からは伝わってこないひとびとの声や経験」など、「普通のひとびとが暮らしの中で何を感じ考えたか、それを記録にとど めたいという趣旨」(viページ)をもっており、おそらく20-30年前であれば「ひとびとの」という代わりに「民衆の」という言い方をしていたであろう ことが想像される。

「言説史」は、こうした「声」や「経験」といったものを直接は対象とはしない。それが、書籍になったり、詩として書かれたり、芝居になったり、映画作品になるとき、はじめて、対象となる。

現場や直接性には、「言説史」は、ふれることが、ない。

したがって、こうした「ひとびとの精神史」のような仕事からみると、「言説史」とは、直接的な、現場における、叫び、訴え、感情、思い、そういった「作品 にならざる声」を対象とすることができず、強いて言えば、「民衆文化」に対して、「エリート文化」しか扱えていないのではないか、という疑問がわいてくる かもしれない。

「言説史」は、そうした「直接性」「経験性」の領域に対して、確かに、一定の距離をとっている。

しかし、だからと言って、「言説史」は、この「民衆史」を軽視しているわけではない。

第一に、「言説史」は、決して狭い意味での「文化生産」物のみが対象とされているわけではない。、コミックや映画、小説、音楽、芝居、など、できるかぎり のものを収集し、その表現を細かくたどることを意図している。決して一部の特権的な人物が残したものだけをとりあげるわけではない。できれば、プロジェク ト的に、もう一歩範囲を広げて、パンフレットやちらし、落書き、SNS、建造物、その他、さまざまな痕跡にまで手を染めたいという思いがある。

とりわけ、「民衆史」が、一つの「書籍」として刊行されるのであれば、「言説史」は、そうした「民衆史」として残されたものも対象とする。「民衆史」を、もろもろの「言説」の一様態として、「言説史」は内包する。

「言説史」は、何ら「民衆史」を否定するものではないことは、おのずと明らかである。

むしろ、民衆史を強調する立場にたいして、私には、一つの疑問がある。

「民衆史」を紡ぐ方法論というものが、はたしてどこまで正当性を持てるか、である。

まず、民衆史でさえも、エリートの手によって生み出されるものなのではないのか、という問いをたてたい。少なくとも、本書の共著者6人のうち5人は「大学 教授」であり、エリートである。残る一人も元「全国紙記者」で現在は「地方自治ジャーナリスト」である。はたしてどこまで「民衆」の「経験」をひろいあげ ることができるのか、その方法論があまり明らかではないように思われる。

現地に赴き、現地の人の話を聞き、それをまとめる、それで、「民衆史」は成立するのか。

たとえば吉見俊哉は現地に赴くと「においや声が現地に生々しく残っていました」(32ページ)と述べ、栗原彬は「当事者のいる場所を私たちの意識のなかでどう想像できるのか」(36ページ)を問題にし、次のように指摘する。

「やはり情報だけでは限界があるのです。被災地に行くとか、あるいは東北から避難してきた人たちを迎え入れるとか、そういう身体の動きを伴う経験がどこかであって初めて、風景からのまなざしの反転という経験に結びついてくるのだと私は思います。」(37ページ)

書き手(観察者)が、高みに立たずに、民衆と同じ目線にいるよう努力し、民衆の側にたって、物事を考える可能性を、このように位置づけている。

こうした努力には、敬意を表したい。しかしたとえば、次のような吉見俊哉の発言に対して、私は少々違和感を抱く。

「私は当時高いビルの7階にいて、揺れている最中は確かにある程度の恐怖は抱きました。(中略) しかし東北の被害状況が伝わってくるまでは落ち着いてい ました。つまり地震は体験しても、その後数時間は、その3月11日の出来事の全体像についての認識はなく、今、日本の未来を決定してしまうほどの大きな出 来事が起こっているのだということは、その5、6時間後、あるいは翌朝になって初めて発見されていったのです。」(40ページ)

これは、きわめて「個人的」で「直接的」な経験であり、「感想」程度の思いでここに記されているのであろう。本人もそれ以上の意味づけはしていないと思 う。この「経験」を一般化、普遍化したいわけでもないだろう。しかしこの「言説」は書籍として産出されている以上、一つの固定化、一般化、普遍化にかかわ らざるをえないのではないだろうか。

たとえば、私であれば、こうした「個人的」「直接的」経験は、以下のように書かれる。

「私は当時小さなビルの6階にいました。激しく揺れ続けている最中に、もうこのまま自分は死ぬかもしれない、世界は終わるのかもしれない、という恐怖感を 抱きました。そのあと、ビルの外に出て、広い空き地に行きましたが、続いてやってくる揺れにも、尋常ではないことが起こっていると思いました。おそらく阪 神・淡路大震災くらいを想定したほうがいいのではないかという印象でした。そのあと、携帯電話のテレビやラジオ、ネットなどの情報で東北の方が震源地であ り、東京都以上に大きな被害が出ていることを次第に知るようになりました。とんでもないことが起こってしまったと、さらに冷静ではいられなくなりまし た。」

吉見と私のあいだには、同じ「現実」は存在していない。あの「揺れ」をどう感じるかも、一般化できない。人間の数だけ、無数に物語は産出される。

「言説史」のメリットは、そうした「体験」や「現実」を、それが表現されたものであるかぎりにおいては、その幅ごとフォローできること、その全体像を見渡すことができること、である。

だが、不利な点もあることが、こうした「民衆史」の手法との対比によって、明らかになる。

「今、何が起こっているのか」その実態を直接つかむことが、一切できない、ということである。

もう一つは、前述したように、自分ではなく、他者をテーマの中心に置いた場合、たとえば「被災者」や「被曝者」の内実を問題化しようとした場合、言説史は、その他者に、なかなか近づくことができず、下手をすると、まったくかかわることができない、ということである。

「それはやはり被災者から視るという視点ですよね。被災した人たちの声を聞く、まずそこに耳を澄ますことから始める。」(栗原、42ページ)

「現場」「現地」「当事者」「経験」「身体」といった、直接性にかかわる原理が「民衆史」の鍵となっているのである。

しかし、一つ、大きな難問がある。この「直接性」とは、言うなれば、「身体」において触知しうるもの、言うなれば「可視性」を前提としており、放射能汚染といった、「核」を対象とした場合、その対象がとらえられないのではないか?

逆に言えば、「不可視」の対象である「核」を主題として探究する場合、本当にこうした「民衆史」の手法が有効に働きうるのか?

しかも私は、「核」をめぐる言説史は、福島原発の近隣に住んでいた人たち、そこで働いている人たち、に限定される、とは考えていない。

「核」の性質は、むしろ、そうした特定がしにくいこと、極端にいえば、地球(とそこにいる生命)全体が影響を受けているという拡散性にある。

もちろん高線量の被曝の被害を受けた人がいた場合、その人を軽んじたいのではない。しかし、核兵器がそうであったように、原発もまた、そうしたはっきりと した影響がでなくとも、それがこの世にある、というだけで、ただならぬ不安や恐怖感を与えているのであり、そのただなかで「生きる」私たちはすべて、すで に「核」に対する直接的な経験をしていると考えるべきではないのだろうか。

実際に、吉見もこう述べている。

「よく見れば、完全に切り分けされてはいなくて、どこかでつながっているわけです。実際には、ある意味ではみんな被災しているけれども、被災を強く感じざ るを得ない人、それほど感じなくても済む人、それが震災や原発事故をめぐる意識の分断線をつくりだし、遠近法を構成しているのではないでしょうか。」 (37-38ページ)

こうした、さまざまな人びとによる「核」に対する態度、その表現を対象に、私が核の言説史で明らかにしたいのは、まさしくそれぞれの「私」という当事者が、この世界において、どうやって生きてゆこうとしたのか、ということである。

そうであるから、たとえば、「原発は絶対安全です」と言い続けてきた人も、また、単なる加害者ではなく、そうした「核」に対する一つの人間の態度として、その人たちの目線に一度立たねばならない。この見地は言説史だからできることであり、民衆史においては困難であろう。

もちろん最終的には、「私」は、何らかの立場に立ち、何らかの方向を目指すことになるわけだが、できうるかぎりさまざまな「言説」の戦略の構図を描き出し、言説にはそのまま語らせたいと思うのだ。

たとえば、吉見俊哉は、こう言う。

「広島・長崎の原爆投下と被爆、その後の焼け跡のなかでの米軍の進駐とそれを歓迎した日本人、さらには占領期における天皇制の再構築が、ひょっとすると今、起きていることと関係しているかもしれないという思いが、もたげてきました。」(117ページ)

結局この戦後の長い期間、私たちは何をしてきたのだろうか、と彼は問う。こうした視点はとても重要であるが、「民衆」の視点ではなく、エリートのもののように思える。さらにまた、精神史というよりも、政治史、事件史の手法を引きずっているように思える。

栗原彬は、水俣病のときの状況と今回の事故が似たような経緯を示していると言う。そして、やはり、天皇、自衛隊、米軍、というのが一つのパッケージとしてみえたと言う。

こうした場合、論点が、民衆に対する「敵」を探し出すことにあるように、思えて仕方がない。もちろん「民衆」は弱く脆く「権力」に対してはなすすべがないのかもしれない。それをムスしたり放置することなく、厳しく批判し抗議することは、重要なことである。

しかし「敵」を天皇制でも自衛隊でも米軍でもなく、「核」に対する私たちの「態度」であると考えた場合、それはある意味では「味方」でもありうるのであり、むしろ敵か味方かではなく、こうした思考が成立している現場としての「言説空間」を探索したい、と私は思う。

もちろんそれは、必ずしも中立であるというわけではない。

しかし、逆に私には、彼らの「解釈」が、従来の権力構造に基づいて、自らがエリートであるにもかかわらず民衆の立場に身を置く、良心的な学者、という役割を演じているように見えてしまう。

そしてそれは、戦後ずっと形成されてきた言説の一つの柱としてすでに制度化され、安定化しており、さらに言えば一つの権力や権威さえ持ち得ている、という厄介な「立場」を構成しているとも考えてしまう。

なお、苅谷剛彦は、上記の「天皇制」「自衛隊」「米軍」への称賛が、「「私」よりも「公」を優先させる」(131ページ)立場であり、この震災と原発事故 は、この立場が露骨に登場したことに驚いている。この驚きは、かなり重要であると私は思うのだが、そのあとの議論では話題にされないのが、残念であった。

私の「核」の言説史から見えてきた構図で言えば、「公」と「私」の優先順位というのは、かなり根深いものである。もっとも重要な概念であり、現実的には、 この両者が歩み寄ることがない。いずれかを優先させるような意識になぜ、私たちはとらわれているのだろうか。なぜ「公」主義の人は、「私」主義の人を非難 し、なぜ「私」主義の人は「公」主義の人を非難するばかりで、「公私」の両立しうる議論がなかなかなされないのだろうか。今後の「民衆史」にとっても、 「言説史」にとっても、この問題は避けては通れないように思われる。

読んだ本
3・11に問われて――ひとびとの経験をめぐる考察
栗原 彬、テッサ・モーリス-スズキ、苅谷剛彦、吉見俊哉、杉田敦、葉上太郎
岩波書店
2012.2.24

¥1,680
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ギュンター・アンダースについて、Wikipedia英語版などをもとに、以下、まとめてみた。彼の思想については後日あらためて。

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ギュンター・アンダース
Günther Anders
本名は、ギュンター・シーグムント・シュテルン Günther Siegmund Stern
1902年7月12日ヴロツワフ生 - 1992年12月17日ウィーン没

ユダヤ系哲学者・ジャーナリスト。技術時代の哲学的人間学を探求。マスメディアが人間の情緒や倫理にどのような影響をもたらすのか、核の脅威、大量殺戮、哲学者であることへの問いなどに焦点をあてた。

生涯
出生地であるポーランドのヴロツワフは、当時はドイツ領でブレスラウと呼ばれ、国内で6番目に大きな都市であった。そのうちの4パーセントにあたる2万人がユダヤ人だった。

ウィリアム・シュテルンとクララ・シュテルンの息子として生まれる。ヴァルター・ベンヤミンのいとこでもある。

結婚を3度しており、1人目は、1929年から1937年までユダヤ系ドイツ人の政治哲学者ハンナ・アレントと、2人目は、1945年から1955年までユダヤ系オーストリア人の作家エリザベス・フロイントリッヒと、3人目は、1950年からユダヤ系の米国人ピアニストのシャルロッテ・ロイス・ゼルカ(1950-)。シャルロッテ・ロイス・ゼルカは、カリフォルニアのモンロビア生まれ。20年間ヨーロッパに住み、2001年肺ガンにより71歳で死去した。

生涯でもっとも知的影響を受けたのは、児童心理学の創始者である父、ハンブルク大学教授、ウィリアム・シュテルンである。

「父はその立場[=生命の起源が生命のないものにあるということを批判的にとらえる]を30歳代で彼の三巻の「人格と物」の第一巻の「目的の力学」に関する章でもう75年前に述べて。第一次世界大戦の勃発の前のある日、20歳の私にリーゼンゲビルブの山頂で説明しようとしたことがある。」(G・アンダース「異端の思想」76ページ)

ハンブルク、フライブルク、およびミュンヘンの大学で哲学のほか心理学や芸術史を学ぶ。

1923年にフライブルクで哲学博士号を取得。エトムント・フッサールが指導教官。タイトルは「「論理命題」における状況のカテゴリーの役割について」。

1924年以降、文筆活動。小説や評論を書く。絵も描く。

1925年、マールブルクで兄弟子にあたるハイデガーとは、すでに反ユダヤ主義的言動が現れている頃に、ヘルベルト・マルクーゼとともに学び合う(マルクーゼの孫であるハロルド・マルクーゼの証言)。

1926年、シェーラーの助手になる。

1927年、最初の著書「所有論」を刊行。本書を通じてガブリエル・マルセルが接近、パリのドイツ文化研究所での仕事の斡旋を受ける。

(ハンナ・アレントは、マールブルク大学の学生のときに既婚者であったハイデガーの学生であるとともに愛人だったが、1928年にハイデガーがフライブルク大学に赴任するに伴い翌年1929年にギュンターと結婚する。)

1929年にフランクフルトのカント協会で講演「人間の世界疎外」を行う(1933年に『自由の病理学』として刊行)。

ティーリヒのもとで「音楽的状況に関する哲学的研究」という論文をまとめ、教授資格の取得を試みるが、失敗に終わる。

また、アルフレート・デーブリーンの「ベルリン・アレクサンダー広場」を読んで大きく影響を受けたのもこの年である。

すなわち、1929年は、アレントとの結婚、教授資格取得失敗、デーブリーンとの出会い、という三つの大きな出来事があったということになる。

ハンナとともにリルケ論をベルリンの雑誌に寄稿(1932年)、後に文芸欄担当のジャーナリストとなる。その際に文芸部長より名前を変えたらどうかという提案を受け、「別の仕方で」を意味する「アンデルス Anders」と名乗ることとなった。

1933年にナチスが政権をとるなか、ゲシュタポに小説「モールシアの墓場」を押収され、危険を察知し、二人はパリへ移住する。ユダヤ人であり知識人で、しかもブレヒトと関係があったことで、当局の目はかなり厳しかった。

パリでは、ラカンやバタイユが参加していたアレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義を聴講。

1936年には米国へ移住する。この前後で短編小説「飢えの行進曲」でハインリッヒ・マンン賞をうける。

1937年にはハンナと正式に離婚する。

ジャーナリストの仕事の他に、食堂のボーイや工場労働者など、さまざまな仕事に就く。

ニューヨークでは、亡命してきたユダヤ系哲学者たちが集まるニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチで講義を行っている。

1948年ハイデガー批判論文を発表。

第二の妻エリザベスとギュンターは、1950年にヨーロッパに移住。エリザベスの出生地はウィーンだった。

1950年代には反核運動にロベルト・ユンクとともに理論的な面での指導的役割をはたした。

1958年には原水協の招待を受けて来日、熱海、広島、長崎を訪れ、第4回原水禁世界大会に出席、また、関係者とのインタビューを行った。

1959年には広島への原爆投下時の飛行部隊の一員であったクロード・イーザリーと書簡による交流を行い『ヒロシマわが罪と罰』として発表。

1960年代にはベトナム戦争反対運動に積極的にかかわった。

1967年、米国が引き起こしたベトナム戦争に対する罪を弾劾するためにラッセルが主宰した法廷に、18人の裁判官の1人として参加。

遺作の管理人は、オーストリアの文化評論誌FORVMの元編集者ゲルハルト・オーベルシュリック。


著作(邦訳のあるもの)

カフカ(弥生選書)
ギュンター・アンダース 前田敬作:訳
弥生書房 1971.3
Kafka: Pro und contra. Die Prozess-Unterlagen 1951

時代おくれの人間(上)第二次産業革命時代における人間の魂
ギュンター・アンダース 青木隆嘉:訳
法政大学出版局 1994.4
第五版からの翻訳
Die Antiquiertheit des Menschen. Bd.1 Über die Seele im Zeitalter der zweiten industriellen Revolution 1956.

橋の上の男 広島と長崎の日記
ギュンター・アンダース 篠原正瑛:訳 
朝日新聞社 1960.8 
Der Mann auf der Brücke, 1959.

ヒロシマわが罪と罰 原爆パイロットの苦悩の手紙
クロード・イーザリー、ギュンター・アンデルス 篠原正瑛:訳
筑摩書房 1962、後にちくま文庫 1987.7
Der Mann auf der Brücke. Tagebuch aus Hiroshima und Nagasaki 1959

われらはみな、アイヒマンの息子 クラウス・アイヒマンへの公開書簡
ギュンター・アンダース 岩淵達治:訳
晶文社 2007.2
高橋哲哉:解説、第三版の翻訳。
Wir Eichmannsohne, Offener Brief an Klaus Eichmann 1964

寓話・塔からの眺め
ギュンター・アンダース 青木隆嘉:訳
法政大学出版局 1999.10
第三版の翻訳。
Der Blick vom Turm 1968

時代おくれの人間(下)第三次産業革命時代における生の破壊
ギュンター・アンダース 青木隆嘉:訳
第五版からの翻訳
法政大学出版局 1994.5
Die Antiquiertheit des Menschen. Bd.2 Über die Zerstörung des Lebens im Zeitalter der dritten industriellen Revolution 1980

異端の思想
ギュンター・アンダース 青木隆嘉:訳
法政大学出版局 1997.7
Ketzereien 1982

警告ポスター
ギュンター・アンダース 古沢謙次:訳
所収: 酷薄な伴侶との対話 日記と現代作家 エリアス・カネッティ他 岩田行一、古沢謙次:訳 法政大学出版局 1983.2
Das Tagebuch und der moderne Autor 1986

世界なき人間 文学・美術論集
ギュンター・アンダース 青木隆嘉:訳
法政大学出版局 1998.10
Mensch ohne Welt, Schriften zur Kunst und Literatur 1984, 2d ed. 1993




カフカ (1971年) (弥生選書)/弥生書房
¥670
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時代おくれの人間〈上〉第二次産業革命時代における人間の魂 (叢書・ウニベルシタス)/法政大学出版局
¥4,158
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時代おくれの人間 (下) (叢書・ウニベルシタス (432))/法政大学出版局
¥5,184
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橋の上の男 (1960年)/朝日新聞社
¥価格不明
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ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫)/筑摩書房
¥514
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われらはみな、アイヒマンの息子/晶文社
¥1,944
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1945年、広島、長崎への原爆投下が起こってから40年たって、本書が刊行された。

森瀧市郎氏は、1901年広島生まれ、広島大学教授を経て、執筆当時は原水禁国民会議代表委員、1994年逝去。

前野良氏は、1913年石川県生まれ、長野大教授を経て、執筆当時は原水禁国民会議代表委員、2007年逝去。

岩松繁俊氏は、1928年長崎生まれ、原水禁国民会議事務局次長を経て、執筆当時は長崎大教授、その後、原水禁国民会議議長をつとめた。

池山重朗氏は、1931年茨城県生まれ、原水禁国民会議事務局次長を経て、執筆当時は核問題評論家、2007年逝去。

4人の連名ではあるが、全体での分担はアンバランスで、森瀧氏は、3ページしかない「序」のみ。岩松氏が、ラッセルに関する項のみ、前野氏が後半の3章の一部を担当しているが、大半は、池山氏によるものである。なお、池山氏は「原爆・原発」(現代の理論社、1978年)など、多数原爆関連書を上梓されている。

この「原水禁国民会議」は、一般的には「原水禁」と言われており、共産党系の「原水協」と異なり、社会党・総評系である。この二つの団体は、1954年、ビキニ水爆実験の影響で第五福竜丸が被曝したことへの異議申し立てからはじまり、当初は、政党色は前面に出ておらず、杉並区の主婦原水爆禁止の署名運動からはじまり、またたくまに全国に広がった、反戦、反核を訴える巨大な市民運動であった。

この市民運動、まず、集められた「署名」の数が、3000万を超えたという。この数の多さに驚かされる。また、1955年8月には第一回原水爆禁止世界大会が開催されるのだが、これが広島で行われた。この運動が戦後10年たってからはじまったことが、それまで情報統制されていた広島・長崎の被曝に関する見直しとなった。しかしその後10年ももたずに分裂してしまう。

この間の世界動静の大きな変容、つまり、米ソ中という大国の軋轢のなかにあって、日本がどのように接するべきなのかが揺れ惑っている様がみられ、それまでの一貫した「反戦・反核」という態度が、純粋にひとつにまとまることのできるスローガンではなくなったことを意味している。

こうした分裂の悲劇を「原水禁」の側から書いているので、「原水協」にも言い分があるのかもしれないが、いずれにせよ、分裂した時点で、「国民」的広がりをもつ運動ではなくなったことは確かである。それゆえ、どうしてもあとから生まれてきた私のような人間にとっては、「反戦・反核」一つとっても、党派性に絡みとられる、政治の道具のようにみえて、素朴な戦争反対、核兵器反対ということが「運動」としてありえるとは思えない。ここに反核運動の困難さの一つがある。

しかし今回本書を読んでもっとも興味深かったのは、英国の哲学者バーナード・ラッセルの言動であった。以下、ここではそれに絞ってみたい。そしてそのあと、この運動の流れをたどり、そこにどのようにして「原発」が絡んでいったのかを確認する。森瀧氏や前野氏、池山氏の主張などは、あらためてとりあげる機会をもつことにしよう。

ラッセルは、1872年ウェールズ生まれ。超名門の貴族。記号論理学に大きな寄与を行い、また、あの偏屈なウィトゲンシュタインの面倒をみたことでも知られる。ノーベル文学賞の受賞者でもある。更には、選挙にも出馬しているのだが、3度とも落選、英国が、今の日本のように知名度があれば誰でも当選するような国ではないことが伺い知れる。

さて、ラッセルは第一次世界大戦がはじまるやいなや、反戦の意志表示を、兵役拒否という形で行う。VIP扱いはされたものの、六ヶ月間投獄生活。結婚は4回しているし、財産は使い尽くしているし、変な児童教育を行ってみたりしている。けっこう硬い学問成果があるにもかかわらず、普段の活動は破天荒である。

すでに戦前、1933年6月にパリで行われたファシズムと戦争の危険に反対する集会が開かれたが、ここにはラッセルのほかに、ゴーリキー、アインシュタイン、ランジュバン(物理学者)、シンクレア(作家)、ドス・パソス(作家)らが支持者として名を連ねている。

こんなラッセル卿が、核兵器の禁止・廃止を訴えたのは、1954年、英ラジオBBCを通じてであった。また、翌年1955年にはアインシュタインとともに声明を発表する。

この声明は、湯川秀樹ほか11名の署名がある。

こういうことを言うと語弊があるかもしれないが、アインシュタインは、実際、この核兵器に対する間接的というよりも直接的な責任がある。米国が開発を急いだ時、その周囲に亡命してきたアインシュタインはいたのだから。その責任をとるべく積極的に反戦運動に関与した。これは、意味が分かる。

しかし、ラッセルは、一体何者なのだろうか。たとえば、ガンジーが、インドの戦後の方向性を決定づける「指導者」であったのと比べると、ラッセルは、自らの立場を、「世界平和」のための使者とでも考えたのだろうか。いや、もちろんその行動力を非難しているのではなく、どういった思想的根拠があって、そういった行動に駆り立てられたのか、今一度見直しをしたいのだが、ラッセルの生涯や思想をみるかぎり、反戦、反核というものが彼のなかの太い幹のようには見えないのだ。

本書にはこの後の、細かな記録が残されている。

1956年8月に長崎で開催された第二回原水爆禁止世界大会に、ラッセルはメッセージを寄せているようだ。丁寧な人である。

また、これはラッセルではなく別の哲学者、サルトルであるが、1956年12月、フランス平和運動評議会全国総会に、イブ・モンタン、ヴェルコール、ピエール・コット、エマニエル・ダスティエらと参加している。これはハンガリー事件に対するソ連への非難という形ではじまったのだが、ここにも同様に、共産党が主導しようとするあまりに、それを快く思わない人々が反発、組織が分裂した。

1958年1月には国連総長に核実験中止を訴える科学者たちが「ポーリング声明」を発表、シュヴァイツアーらとともに、ここでもラッセルは署名。

1961年9月、世界平和評議会が中心となって、軍縮と世界緊張緩和にかんする国際会議が、ロンドンで開催される。ここでは、米ソ関係なく、「あらゆる類のいっさいの核実験に反対する」と宣言された。ここには、エーリッヒ・フロムが参加している。

1962年7月、全面軍縮と平和のための世界大会が、モスクワで開催される。ここにもラッセルはメッセージを寄せている。ラッセルは90歳である。

1962年にはまた、キューバ危機があり、彼は、米ケネディ大統領やソ連フルシチョフ首相に電報を打って、さらに、手紙を書いて、この対立する2大国の指導者たちをいさめたという。また、新聞やリーフレットなどを通じて、世界の人々に抗議活動を行うよう、呼び掛けた。

たとえば、ケネディへの電文は、こうである。

「貴下の行動はやけっぱちだ。人類先祖への脅威だ。正当化の理由はない。文明人はこれを非難している。われわれは大量殺戮を望まない。最後通告は戦争を意味する。私は権力を代弁して語るのではなく、理性をもった人類の名において訴える。この愚行をやめよ」(117-8ページ)

フルシチェフへの電文は、こうである。

「私は貴下が、キューバにおけるアメリカの正当化できない行為に挑発されないように要請する。世界は慎重さを支持するのであろう。非難は国連を通じてなされるべきである。無謀な行為は人類の滅亡を意味するであろう。」(118ページ)

およそ1週間のあいだ、この「90歳」の老人は、世界平和のために、命を張って闘ったという。

しかし、なぜだか、異様にこの牧歌的なエピソードは、リアリティを感じさせない。

なぜならば、ラッセルという、一人の偉大な哲学者がその当時、そこに存在していたとしても、その哲学者が、国際的な緊張状態のさなかにしゃしゃり出て、二大国の政治家を前にして、好きなことを訴えたとしても、何か効果があったようには思えないのだ。

結果、彼の助言が生きた、と思うのは、過剰な理解の仕方ではないだろうか。

このあと、ベトナム戦争にもラッセルは介入する。たとえば1963年、ラッセルは、ニューヨークタイムズ紙に投書をしている。しかし同紙が批判的なコメントをつけたため、論争となり、数回のやりとりが行われたようだ。さらにそれでは埒があかないと考えたのか、平和財団まで設立している。

ラッセル、ふしぎ。

しかし、ふと思い返すと、ここで、気になるのは、サルトルのことである。彼は一体、この時代、何をしていたのだろう。イメージとしては、サルトルこそ、ラッセル以上に、こういった政治の場で発言していてもよさそうにみえる。

思いつきで仮説を述べると、サルトルの立場は、最初から「左翼」のものであり、米ソで言えば「ソ」を支持していたので、こういったラッセルのような「世界平和」を大上段から論ずることがなかったのではないだろうか。サルトルが登場するのは、簡単に言えば、反米であり、第三世界の民族解放の局面においてであったと想像される。

「平和運動」の重要なところは、この対比から明らかになるように、米ソいずれかの立場になってはならないのだ。それゆえ、あまり日本では人気がないが、「平和」の研究としては、このラッセルの行動に対する評価と批判、それと彼の哲学的業績とのつながりをもう少し探究している人がいてもいいのに、と思った。

さらにラッセルは、世紀の「茶番」を行う。1967年、ラッセル法廷である。この年、すでにフーコーが大著『言葉と物』を前年に発表しベストセラーと化し、時代はサルトルのものではなくなっている。

名誉会長 ラッセル
裁判長 サルトル
裁判官 18名

この18名のなかに、ボーヴォワールがいるのは自然だとして、ギュンター・アンダースの名を見つけた。フッサールの弟子であり、ユダヤ人でアメリカに亡命してジャーナリスト活動を行った人物であり、広島で被爆者をインタビューした哲学者であり、ハナ・アレントの元夫である。この名を発見できたのは、収穫である。

あとは、よく分からない名前が並ぶ。

レリオ・バッソ 彼は完全にイタリア社会党の人
アイザック・ドイッチャー 英国のソ連問題評論家
ペーター・ヴァイス 作家(スウェーデンに亡命、共産党員)
ローラン・シュワルツ フランスの数学者
森川金寿 弁護士

しかしこの「茶番」は、歴史的には、その後、1970年前後の、スチューデント・パワーに連なってゆく。

ラッセルがもう少し若ければ、彼もラブ・アンド・ピースを訴え、ビートルズもしくはジョン・レノンを巻き込んで、大きなうねりをつくりだしていたかもしれない。しかし残念ながらビートルズは1967年にはすでにライブ活動よりもスタジオでのレコーディングに勤しむ「ひきこもり」と化していた。しかしこの、ラッセルの無謀なまでの旺盛な活動と、1962年以降世界を巻き込むビートルズ旋風も、いずれも、当時の大英帝国のパワーの残滓という見方もできなくはない。

今でこそ、英国は、EUのなかでも地味な立ち位置をキープし、目立ったところがないが、戦後においてはまだ、「世界の盟主」の残像が十分にあったことだろう。

一方米国では、1967年頃から、大陸間弾道弾迎撃ミサイル(ABM)が各地に配備されようとするなかで、次第に、「核」の問題が、敵を攻撃する「兵器」のみならず、環境を汚染するものとして、米国市民にさせも危害をもたらしうるものとして、認識されはじめてゆく。本書における最大の注目すべき点は、ここであろう。

まず、すでに1957年には、ライナス・ポーリングは、核実験による環境への影響を訴えており、世界で100万人規模でガンや白血病患者が生み出されるのではないかという予測をたてていた。「放射能」が環境にもたらす影響について、決して探究がなされていなかったわけではないのである。

また、1966年に、バリー・コモナーは『科学と人類の生存』を発表。地球の汚染が、合成洗剤や農薬のみならず、核実験によっても引き起こされていることを警告する。

「現在地球を汚染する物質として、単独で最も大きな問題をもっているのは、大気圏内の核爆発実験による放射能である。核実験からの降下物は地表のあらゆる部分とそこに住む住民を汚染している。」(196ページ)

そして、1969年にアーネスト・J・スターングラスは、「1950年代に行われた核実験の放射性降下物によって40万人にのぼる胎児および幼児死亡が生じたことを示唆する論文を発表」(175ページ)する。

これまで「核」は戦闘兵器であり、戦争が行われるにあたってはその使用を特に疑問視されていなかった。戦勝国として米国は、この力をもって、世界の秩序を保っていることは市民にとって決して非難されることはなかった。ところがどうやら核兵器は、単純に「敵」だけに効果があるのではなく、無差別に、広く、長く、環境や人体に影響をもたらすということが徐々に知られるようになってきたのである。

もう一人、アーサー・タンプリンも当初は、ABMの支持者であったが、スターングラスの調査結果を再検討した結果、「40万人」ではないものの、少なくとも「4千人」の可能性があると発表する。これはむしろ数値が修正されたことにより、より一層のリアリティを生んだのではないだろうか。実際タンプリンは、あのジョン・ゴフマンとともに、以後、放射線の許容線量の引き下げに関する運動を進める。また、MITの卒業生を中心に結成されたのは、「憂慮する科学者同盟」(=UCS)で、ベトナム戦争における生物・化学兵器への反対、環境運動、反原発運動などをこの組織が米国では牽引するようになる。

彼らは1969年の米上下両院原子力合同委員会にて、「放射線の最大許容水準を、”現行より10倍きびしくすべきである”との発言」(196ページ)を行った。ちなみに当時の基準では、一般人に対しては年間平均0.5レム(=5ミリシーベルト)、職業人で5レム(=50ミリシーベルト)とされていたが、0.17レム(=1.7ミリシーベルト)を浴びると、年あたり10万人ものガン患者が増えるおそれがある、とした。

彼らは、「微量の放射線の人間に与える被害」(176ページ)をもっとも気にした。このことは、これまでの「核兵器」問題を、完全に転換させ、「環境」への核の影響問題へと目を向けさせることとなり、それは同時に、今まで別のもの「平和利用」の原発にも、焦点があてられることとなったのだ。

ところが国内では、広島・長崎、第五福竜丸、といった歴史的「経験」をベースにした「反核」運動であったから、米国のように、一般住民が直接的な被害者=被爆者となるということは十分に察知はできたけれども、それ以前に、すでに、被害者=被爆者が数多く存在していたという差異がある。

しかし1970年代初頭には、前述の「核」の、もたらす脅威が、すでに敵や一部の人間に関係のあることではなく、どうやら、攻撃する側にさえも悪影響を及ぼし、それどころか、世界中に被害を与えるということが、次第に明らかになってゆく。

1971年にはグリーンピースや地球の友といった環境保護団体が「反核」運動に全面的に取り組みを開始する。米国では緊急炉心冷却装置(=ECCS)に欠陥があると騒がれ、原発の安全性が大きく問われはじめた。

1972年には、ローマ・クラブが『成長の限界』を発表。同年、ゴードン・R・テイラーは『人間に未来はあるか』を発表。特に核実験を行っている太平洋地域の環境汚染を厳しく追及。同年には米国ではECCSの安全性をめぐって公聴会が開かれ、翌年まで続けられたが、はっきりとした結論は出なかった。しかし、明らかに、これまでのような「原発は絶対安全」のような能天気な議論はこの時点できなくなっていたのだ。

続いて1974年にはプルトニウムの危険性について、タンプリンとトーマス・コックランは「プルトニウム防護基準」について、新たに米原子力委員会に提出した。

さらに1975年には、こうした世間の不安を払拭しようと、原子力委員会は、有名なラスムッセン報告を発表する。ここでは、原発事故による死傷者の発生する確率を、「隕石が人間に当たるのと同じくらいのもの」(199ページ)とみなし、「最大事故が起こっても即死者2300人、急性障碍600人」(同)と見積もったが、現在でも使われているように、この「確率」の出し方は、多重防御を行っている場合、それぞれが何らからの原因で故障し、最終的に炉心溶融に至り、放射能が外部に漏出する確率を出しているため、原理的にはほとんど起こり得ないというような結果となるのである。

実際に原発事故の報告も軒並み増加する。米国の場合は、こうである。

1973年   126件
1974年  713件
1975年 1,300件
1976年 1,318件
1977年 2,103件
(市川定夫『遺伝学と核時代』より)

原水禁のなかでは、1971年になってようやく、「反原発」を大会の重要スローガンの一つに組み込んだ。以下のようなパンフレットを作成したという。

原子力発電と公衆衛生(1972年) ゴフマンとタンプリン
原子力発電と環境破壊(1972年) ゴフマンとタンプリン
ホット・パーティクル放射線基準(1974年) タンプリンとT・コックラン
プルトニウムの恐怖(1974年)
遊休設備容量は原発の生命とりになるか(1975年) D・コメイ

原水禁では、まず、プルトニウムに焦点をあてて問題提起を行っていったと述べている。

また、「被曝」に関する動きが、1973年に見られた。

「少なくとも1973年春段階まで、厚生官僚は被爆者の放射線被曝については殆ど無知であるか、無関心だった。原水禁はこの点を衝いて援護法制定のための理論的整備を行った。」(219ページ)

これは、逆説的というか、他人のことだけを非難してはならないだろう。原水禁自体もこの、低線量における被曝について、十分な理解がなかったわけであるから、擁するに、この時期にようやく、線量に対する意識が、世間的に高まっていったと言える。この時点で厚生官僚がるくりだした基準値は、「25レム(=250ミリシーベルト)以下なら安全」というものだった。

「これが「保健手当」を2キロ以内の被爆者にだけ支給するという措置の論拠とされたのである。」(220ページ)

なお、1977年には、原水協と原水禁は、統一行動が可能となり、「原水爆禁止世界大会」は統一した大会となった。

1970年代中盤には、欧米においては、市民運動として反原発運動が大きく展開されていった。

その運動は、いくつかの原発の建設を止めることにもなった。また米国では、それまでの原子力委員会が解体され、エネルギー研究開発庁と、それを規制する側の原子力規制委員会とに分かれた。再処理工場も周辺の環境汚染とコストとの釣り合いが取れず閉鎖や建設中止が相次いだ。これらの運動を主導した一人がラルフ・ネーダーであった。

1977年頃の米国における反核運動はすでに、原発も含まれており、「NO NUKES」というスローガンで訴えられていた。

さらに1978年、米国やオーストラリアでは、ウラン鉱が先住民族の居住地にある場合が多く、彼らは生活する場所を追われ、同時に、その採掘労働を担っていることが、問題視されるに至る。

また、1978年、トーマス・マンクーゾは「低線量放射線の影響」について、米保険環境下院小委員会の公聴会で証言する。マンクーゾは原子力施設の労働者2万人以上を10年追跡調査を行い、ガン死亡が6-7%増加しているという結果を公表する。

そして1979年、米国はTMI事故に至る。日本では、堀江邦夫の『原発ジプシー』や森江信『原子炉被曝日記』などが刊行される。また、今のように放射線量の測定器が手軽に入手できなかった時代を反映して、ムラサクツユクサを原発の「周辺に植えて、その雄蕊の毛の突然変異を観測するという運動が起こった。

なお、1982年は、私にとっては原発や核をめぐる、大きな転換の年なのだが、つまり、AKIRA、ナウシカ、反核異論が登場した、激動の年なのだが、原水禁の動きは特に大きなものはなかったようである。強いて言えば、共同戦線をはったことによって「反核運動」がより大きくなったと述べられている。吉本氏が危惧を抱いたのは、この連帯なのだろうか。

それにしても、2012年の時点からふりかえってみると、「反核運動40年」の前半では、まったく「原発」についてはふれられていないことに、あらためて驚かされる。あくまでも「反戦」「反核」がセットであり、原子力の持つ可能性と危険性にふみこんだ内容ではなかったということを思い知らされる。

つまり「核」は、原水爆という有事に利用する武器としてのみ、「反対」が唱えられ、平和利用される「核」に対しては、ほとんど関心をもたれなかった。もちろん戦後の緊急事態ということでは、目の前の恐怖の大きさは、計り知れなかっただろうし、それ自体を非難したいわけではないが、その「核」とは一体どういうものなのかを十分に探ってこなかったのではないかという気もしてならない。これは私たちが広島や長崎、そして第五福竜丸のような被曝の「体験」というものがあるばかりに、直接的、情緒的な判断を優先しすぎてしまった結果のようにも思えてならない。

読んだ本
非核未来にむけて―反核運動40年史/森滝 市郎、前野良、岩松繁俊、池山重朗
績文堂 1985年6月
¥1,785
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本書は、「電気工学」の啓蒙書、入門書であり、高校生から大学1,2年生を対象としているとのこと。別に原子力発電に特化しているわけではなく、むしろ他の発電の方に力が入っているので、いわゆる「原子力ムラ」とはあまり関係のない本であるようだ。

重要なことだが、国内でも1960年代までは、かなりの頻度で停電があった。それが、1990年代後半には世界一停電の少ない安定した電力システムを、膨大な需要量をまかないながら実現してきた。この、「膨大な需要」の可否はさておき。電力業界におけるこの偉業は評価されるべきであろう。したがって、2011年に東電によって実施された、無計画とも言われた「計画停電」は、電力業界においては、屈辱的なものであったことだろう。

確かに思い返してみれば、私が子どもの頃には、ときどき停電があった。それが日常であった。夕ご飯を食べていて、ブラックアウト、ということもあった。そしてその後停電が起こらない毎日が日常となった。しかし、こういうと電力業界の方はがっかりすると思うが、工場や病院などはさておき、家庭の暮らしから言えば、過去の停電は、それほど困らなかったように思う。やり過ごせないわけでは、なかった。

話はそれるが、計画停電の際も、信号機がつかないと事故が多発して危険だという指摘もあったが、全体的にはみな冷静に対処していたようであるし、とある郊外の駅前などは、あえて信号を減らして、歩行者優先にしているところもある。信号に依存することが問題なのであって、安全に運転するという原点を見直す機会だったと思えば、悪くはなかったのかもしれない。

ところで、「電気の品質」とは、単に停電が少ない、というだけではない。その他に「周波数の変動が少ない」「電圧の変動がない」という二点が加わる。

あたりまえに電気が融通されているので気付かないが、実は、電気は周波数が微妙に変化しているのである。

事実として国内の電力のクオリティは、以下の変動内で抑えられている。

周波数変動 ±0.1-02.Hz
電圧変動 101V±6Vまたは 202V±20V

この数値は最高水準とのこと。この安定環境からみると、再生可能エネルギーは「不安定」でクオリティが低いとされている。確かに、風力や太陽光はどう考えても安定的ではないだろう。他方、原子力はむしろ、安定というか、かなりぎりぎりのラインで一定の状態を保っているといえる。したがってもし、再生可能エネルギーの割合を今度増やしてゆくとすれば、単純に発電できればよいというものではなく、もう一工夫必要であることは間違いない。

続いて、こうした電力のクオリティを維持している実態についての説明がある。

まず、それぞれの主要な発電の現状についての説明がある。

水力発電は、一時は電力不足を補うために各地につくられた。「ダム」については、当時、特に自然環境破壊ということで乱開発が批判されたことがある。しかし今、原発事故を考えた際のリスクと単純に対比させれば、ダムの方がまだまし、若干プラスのように思われてくる。もちろん、いずれも地域住民の意向を尊重することが大前提である。また、あまり電力を使用しない夜になっても原発は止められないので、その電力を、揚水発電に回していることも知られている。つまり、原発と水力発電は相補的な関係にある。原発を止めればその分、揚水するのも別途電力が必要になってくるという寸法だ。このあたりが厄介である。

現在主力なのは、火力発電であるが、火力にも、石油、石炭、天然ガスを使う場合がある。また、それとは別に、発電方式において、蒸気タービンによるものと、ガスタービン方式、コンバインドサイクル方式がある。蒸気タービンと異なりガスタービンはガスを燃やした熱でタービンを回す。コンバインドサイクルは、ガスを用いガスタービンと蒸気タービンを組み合わせたものである。

原子力発電は、水力発電と比べると、確かにその土地を根本から変えてしまうようなことは、事故がおこらない限りはない。また、効率も、同じく事故さえなければ、まさしく人類がたどりついた「未踏」の一歩だったであろう。この違いは、やはり、驚異的だと思う。

一般家庭1年分の電気を発電するのに必要な量の比較
 火力(石油) 750kg
 原子力(ウラン) 11g

100万キロワット級の発電所を1年間運転するのに必要な量
 火力(石油) 146万トン
 原子力(ウラン) 21トン

しかし、これも知っての通り、ウラン「21トン」というのは、不正確である。これは精製された状態のもので、もとの、ウラン鉱から採掘する段階のものを考えると、石油と同じくらいの量が必要で、採掘すると約160万トンのウラン残土が出る。しかも、低線量ではあるが放射性廃棄物が8万トン程度出てしまう。こういった数値を入れないのは、アンフェアであろう。

次に、実際に電気が家庭や工場に届く流れを説明している。

各発電所→送電線→一次発電所→送電線→二次発電所→送電線→配電用変電所→配電線→住宅やビル

このように段階をふんでいるのは、発電所から送られる最初の方は、電圧を高くして効率的に電力を送っているからである、

また、1日の電気の使われ方が説明されている。

私たちはこの知識をすでにこの1年間でよく学んだ。もちろん年間を通じていつが多く使い、いつが少ないのかも知っている。そして、もっとも肝心なのは、真夏のピーク時にもっとも使っているのはエアコン(冷房)であり、逆に言えば、エアコンを使わないかもしくはもう少し抑え目にするか、何らかの社会的工夫(休みにするとか)をすることによって、ピーク時に必要な電力量は、もう少しコントロールできるということがわかったのだ。

今までのように、やみくもに使ったり節電するのではなく、数値に基づいて、自分たちで考えて電気を使用する、という意識と実践がこの1年間にずいぶんできるようになった。

また、冬の暖房ももちろん使用量が多いのだが、夏の方がはるかに使用しているというのは、日常感覚とずれがあって注意したい。

もちろんエアコンだけではないが、月別の電力使用量は、たとえば1970年度までは、ほとんど1年を通じて変化がなかった。それが次第にエアコンの普及率が上がるに伴って月の格差ができるようになった。2004年度のグラフをみると、4月あたりがもっとも低く、7月が最も高いがその差たるや完全に2千万キロワット以上あるのである。何を隠そう「2千万キロワット」という数値は、1965年度の毎月の使用電力量と同じ、つまり極端に言えばエアコンの使用量だけで1965年当時の日本の電力すべてを使っているのである。これは年間ベースで割った場合も大きな割合になっており、ほぼ全体の1/4をエアコンで使用していることになる。極端に言えばエアコンを使わなければ25パーセント分の節電ができることになる。エアコン使用への工夫もしくは代替の製品やライフスタイルの転換は、今後の課題である。

この内容において一点、本書には、やや不適切な表現があった。原発が「24時間年中無休で一定の出力で運転させておきます」(53ページ)と書いているが、定期的に検査を行っている以上、その間は「休」みなのではないのだろうか。それとも、崩壊熱が出続けているという意味合いで、「無休」なのだろうか。

また、元々、原発を推進してきた動機が、これまで「エネルギー安全保障」という言葉で説明される場合があるが、あらためて考えたいのは、エネルギーもそうであるが、食料も、自給を高めたいと言っている割には、なぜかエネルギーをできるかぎり海外に頼らないことを優先していることである。本当の意味で、国民生活のベースをしっかりと国内でまかなう、と考えるならば、食料の自給が最優先で、続いて、エネルギー資源の自給とはならないのだろうか。「自給」が悪いとは言わないが、私には今一つ「最優先」の考え方が、腑に落ちない。

続いて本書の後半には、電力関連で実際に働いている人のインタビューが載っている。

そうか、それでこの本は、10代後半の人たちに読んでほしいと言っていたのか、ということを思い出す。

最後の章では、今後の技術開発における可能性についていくつかふれられている。

一つは「超電動」でケーブルや電力貯蔵システム、変圧器などでの利用が期待される。

また、「温暖化対策」に対しては、太陽光発電と風力発電をとりあげている。ここではかなりフェアにメリットとデメリットを挙げており、両者ともに規模の小ささ、発電量の不安定さ、電圧へ及ぼす影響などを課題としている。ただし、蓄電池との組み合わせによる出力の不安定さへの改善策もみられると述べている。

さらに、燃料電池発電というものがとりあげられている。水素と酸素を結合させて電気(と水)を得ようというものだそうだ。また、電気自動車の実用化によって燃料電池の小型化や低価格、高性能化が進んでいるという。私はこうしたトピックのなかでは「蓄電」をぜひ、もっと突き詰めて行ってほしいと思う。


読んだ本
世界一の電気はこうしてつくられる!
パワーアカデミー:編著
オーム社
2009年11月

¥1,260
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実際の編著者は、
岩田章裕 電気事業連合会技術開発部善副部長
古川裕之 中央電力協議会事務局副部長

取材、執筆協力
山﨑靖夫 サイエンスライター
戸村悦子 ライター

「原子力と報道」中村政雄 を読んだ。長年にわたって読売新聞の記者をしていた方が著者である。

知ってのとおり、原子力の報道は、原発推進=善というバイアスのかたまりであるし、歴史的にも、それは脈々と続いている…そういう本かと思ったら、まったく逆で、これまでのマスコミ報道が歪んでいるのは、原発への不安をかきたててばかりだった、ということを言いたいようである。

「原子力発電は「不安」という名の”妖怪”に絶えずおびやかされている。妖怪を実体以上に大きく見せかけているのはマスコミの報道である。世論形成に大きな影響力を持つメディアが原子力発電に対する賛否の鍵を握るようになった。そのメディアが正確で公正な報道をするかどうかに、この国の安全保障がかかっているといっても過言ではない。」(6ページ)

確かに、中村氏が正確に述べているように、各紙とも、1960年代までは、原発をとりあげる基本論調は、ポジティブであった。朝日新聞に至っては、かなり積極的に原子力の平和利用を肯定的な論調で記していた。それにしても、今からふりかえってみて、とても不思議でならないのは、どういった経緯で、あれほどの悲惨な2度の「原爆」被害を受けていながら、すぐさま、「原発」開発へと舵をとることになったのか、である。あまりにも、批判的な主張が少なかった。

もちろん、すでに定説はつくられている。仕掛け人は2人。中曽根康弘と正力松太郎。米国が「平和のための原子力の利用」を訴えたことを受けて、中曽根は原子力予算を国会で最初に通した人物、正力は読売新聞と日本テレビの社長であり、原子力の平和的利用を訴えて衆議院議員にもなった人物。他方で、実は学術界、特に湯川秀樹をはじめとした理論物理学系の学者はかなり慎重で、彼らの提案を受けてもなかなか動こうとしなかったのだが、中曽根氏が言うとことろの「札束で頬を叩く」ようなやり方でようやく体制を整えたという。それでも、危険な方向に進まないように、核への三原則、自主、民主、公開、を前提に研究開発を進めようと提言したのは、わずかではあれ、筋の通った批判的議論が行われたことを意味する。しかし他方では、仁科芳雄のように、積極的にこの機会を利用して核エネルギーの実際の活用にまでもってゆきたいという欲求も学術界には大きくあり、両者はその後、肯定的な言説を生みだしてゆくこととなった。つまり、政治界が先にとりあげ、そこに報道界がつながり、技術系学者を携えて、戦後まもなく、ただちに原発は産官学の肯定的言説を携えて推進されたのだ。

・・・と、ここまでは、私の理解も、中村氏の記述も、それほどズレがあるわけではない。しかも、実際のこの推進トライアングルを強化する側の意識がどのようなものだったのかを伝える、貴重な引用がある。出典は「読売新聞社史」とある(が発行年などは未記載)。当時の読売新聞経済部の部長、佐々木芳雄の言葉である。

「原水爆の恐怖と、原子炉を導入すればアメリカの原爆製造工場になるという考えを持っているものが多く、まず、その観念を改めさせなければならなかった。次に産業とくに電力界の人々に、次のエネルギー源としての原子力発電の認識を高めさせることだった。」(21ページ)

やはり、最初から、原爆と原発は別物ではなかったのだ。両者にある連続性、そして、米国への依存、この二点の「観念を改めさせること」、これが、「報道」の原発に対する第一の態度で、そして、産業界において原発はまだメリットがそれほど感じられていなかった時期に、積極的に推進するように仕向けること、が第二の態度だったのだ。

それにしても、原水爆の恐怖という「観念を改めさせる」とは、一体どういうことを行ったのだろうか。言葉足らずであるが、おそらく、原水爆は兵器として用いられたから駄目で、原発は平和利用だから善いのだ、というように考え方を改めさせる、ということなのであろう。

この「転換」がうまく行ったのは、「報道」と「出版物」などのメディアの「力」の活用の結果であろう。だとすれば、つじつまがあう。そして、そうすると、最初に行った引用の正しい読み換えができるようになる。私たちの目からみると、おそらく、こういった本が言いたいことは、こういうことになる。

「原子力発電は「安全」という名の”妖怪”に絶えずおびやかされている。妖怪を実体以上に大きく見せかけているのはマスコミの報道である。世論形成に大き な影響力を持つメディアが原子力発電に対する賛否の鍵を握るようになった。そのメディアが正確で公正な報道をするかどうかに、この国の安全保障がかかっているといっても過言ではない。」

どうであろうか。著者は、暗にこういった反対のことを言いたかった、と私は考える。

戦後の原発推進体制の確立に続いて指摘されるのは、その後、1970年代に米国の各地で地元住民による原発への反対運動が起こったことに対する対応である。それはヨーロッパ、さらには日本にも影響した。当時の記事をこの著者は実際に書いており、これもまた実に正当な表現を行っている。

「原子力委員会の安全審査を担当する立場の専門家は「安全だ」と言い、在野の専門家は「不安がある」と意見は全く対立した。」「何度やっても論点がかみ合わない。かみ合わないから私たちがいちばん知りたいことの答えが得られない。」(30ページ)

こういった「対立」がその後、延々と続いているのである。おそらく今もなお、変わっていはいないのだ。

中村氏は、もう少し厳密に、この経緯を書いている。チェルノブイリ事故以降、広瀬隆「危険な話」が人気になり、今までの反原発運動を進めている人たちとは異なる、「若い女性」が、「「原子力は嫌いだ」という感情的反対」を訴えはじめたというのである。反対の声はチェルノブイリ以降さらに高まったという。

ここで「感情的」という表現に、揶揄が入っている。これは、中村氏が直接書いているわけではないが、先ほどの「かみ合わない」という問題点と共通していると思うのは、次のような思いがこめられているからだ。

「放射能という目に見えないものからくる原子力の不安を”見える安全”に変えるには、情報提供しかない。」(38ページ)

正しい。そして、この広瀬隆流のやり方が、多くの人たちを引き付けることを目の前でみた報道関係者たちは、原発の危険性を過剰に言い、不安をあおるような記事を増やしていったという。そこで、最初の、不安という名の「妖怪」という説明になるのであるが、だが、この著者もまた、その報道関係者の一人であるから、こういった表現は要するに、これまで報道が原発やその事故について、十分に情報提供をしてこなかったということを告白している、と読める。

だが次第に読み進めると、分かってきたのは、どうやら「報道」にもいろいろあり、この著者や読売新聞は、この「加害者」には含まれていないようなのだ。そして、主に、朝日新聞(と毎日新聞)がこの「加害者」である、と言いたげだ。読んでいて私は混乱した。いや、マスコミとか報道と書いてあるところは、実は、大部分は、朝日新聞、に読み換えてほしい、と中村氏は言っているようなものだが、実際に書いてあることの「真実味」は朝日新聞だけではなく読売新聞にもあてはまることだと、読み手の私は思う。これでは、中村氏は失敗である。素直に「原子力と朝日新聞の偏向報道」という書名にして刊行したほうが、どれだけすがすがしかったことだろう。それこそが彼の言う、良い「情報提供」の仕方だったはずだ。中村氏自身が書いていることを裏切っており、とても残念である。

もちろん、この本には、正論が多々書かれているし、実際に中村氏は優秀な方でしっかりとした記事を書いてきたのだと思う。

しかし、何かがねじれている。

結局、中村氏の原発に対する態度もまた、「絶対安全」「絶対必要」に偏りすぎているのである。

つまり本書は、ジャーナリストとしての「公正」さは持っているが、「中立」ではないのだ。

それぞれの主張にうなづけるのに、その結果導き出される方向性が、最初から決まってしまっているため、おかしなことになっている。

このあたりのことは、適当に流すことなく、かなり慎重に、しっかりと読んでゆかねばならないと思う。



▼読んだ本
原子力と報道 (中公新書ラクレ)/中村 政雄2004年11月
¥756
Amazon.co.jp


奇妙なねじれが見出される。

アマゾンの「商品内容説明」には、以下のように書かれている。

「1945年、焼土の日本。新しい時代に期待し、ほとばしる言葉、文章。だが、周到に張りめぐらされた占領軍の検閲は、原爆の悲惨さを伝える術さえ奪っていく。プランゲ文庫に残る原爆作品を中心に、検閲個所を復元しつつ、日本人自身の表現へのこだわりを問う。」

こう書いてあるが、本書を読むと、これが、そう一筋縄ではなかったことを知らされる。

堀 場は、米メリーランド大にあるプランゲ文庫の資料を踏査して、実際に何が行われたのかを念入りにチェックする。たとえば栗原貞子の詩集「黒い卵」は、 GHQの検閲を受けて、大幅な削除や修正があったと伝えられており、また、文学は言うにも及ばず、医学文献も含めて、多くの書籍や雑誌が検閲を受け表現の 自由を奪われた、と私たちはなんとなく理解している。極端に言えば、原爆投下の事実さえも消し去る勢いだったのではないかとまで、疑う人もいる。

しかし、実際はどうであったのか。

(「黒い卵」収録の)「原爆作品は無傷なばかりか、自己規制で削られており、検閲局によって削除処分されたのは、反戦作品等だった。」(34ページ)

もちろんこの「自己規制」もまた、一つの「検閲」のテクノロジーの成果であるとも言えるだろう。当局が削除せずとも、本人が自ら削除するように仕向けること、このことの方がむしろ、内面化された検閲として、もっと大きな力を持っていたと考えることもできる。

しかし、上記の本書への説明は、あまりにも紋切り型になりすぎており、すでに読み手にある種のバイアスを共有させたうえで、そのことを了解させて本を買わせようとしているかのように、みえてしまう。

こ ういった「出版」側の「原爆もの」の本の「営業」の姿勢には、私はかなり違和感がある。少なくとも著者が見出したのは、「検閲」における「原爆」に対する 扱いと、他の内容に対する扱いとの、「差異」なのである。このことを強調せずして、紋切り型の説明をするのは、著者の探求した道のりとその到達地点に対す る敬意が払われていないと思う。

「検閲処分を受けた原爆作品は、被爆者であり被占領者であった私たちが想定するより、はるかに少なかった ――原爆作品についての検閲は、他の分野(占領軍や連合国への批判、いわゆる「極左・極右」宣伝、組合運動、とりわけ共産党関係に比し、ことさら厳しくは なかった、とする立場をとるしかない。」(172ページ)

このことは、十分に注意をしておきたい。

▼昨日読んだ本
原爆 表現と検閲―日本人はどう対応したか (朝日選書)/堀場 清子
1995年


▼核の言説史 本日の増補

所謂「原子爆弾傷」に就て(特に医学の立場からの対策) 都築正男 綜合医学 2(14) 日本医学雑誌 1945.10
 GHQの検閲を受けた論文
 
原子爆弾の中にあった私信 児玉励造 技術文化 1(1) 天然社 1946.3
 「全アングロサクソンの牧師たちが原爆の使用に対して米当局を非難した」、といった箇所など、GHQの検閲を受け削除される。

原子革命のユートピア 原子が持ち来すであろう社会革命について空想的に述べる 阿部真之助 潮流 1(4) 1946.4

隠るべき所なし ビキニ環礁原爆実験記録 ブラッドリー 佐藤亮一 大日本雄弁会講談社 1949.8

原子力発電所について 藤田三郎 発送電 日本発送電 10(6) 1952.12

アイソトープの設備と防護 (アイソトープ応用技術講座 4) 井上武一郎:編著 地人書館 1956.9

第二次俊鶻丸ビキニ水爆調査の記録 戸沢晴己等 新日本出版社 1957.5

原子力用語集 日本放送協会放送文化研究所:編 日本放送協会 1957.11

エネルギーの長期展望 巽良知:編 学献社 1960.9

原子力船 ホームズ・F・クラウチ 住田健二、飯沼和正:訳 みすず書房 1962.9

日本のエネルギー 金須正夫 田村政治経済研究所 1962.9

原爆の誕生 ロナルド・クラーク 久世寛信:訳 みすず書房 1963.2

放射線しへい壁の施工 福田乙二 鹿島建設技術研究所出版部 1963

原爆はこうしてつくられた レスリー・R.グローブス 富永謙吾、実松譲:訳    恒文社    1964.9

実録関西原子炉物語 熊取に第三の火が灯るまで 門上登史夫 日本輿論社 1964.4

原子力への道を開いた人々 (さえら伝記ライブラリー 15) 藤本陽一 さ・え・ら書房 1966.9

スウェーデンの核兵器問題 (鹿島平和研究所選書) スウェーデン外交政策研究所:編 鹿島平和研究所:訳 鹿島研究所出版会 1967.12

兵器文化 ラルフ・E.ラップ 八木勇:訳 朝日新聞社 1968.10

原子力潜水艦 (三省堂新書47) 服部学 三省堂 1969.1

科学戦争 兵器と文明 (現代の戦争1) 小山内宏 新人物往来社 1970.5

原爆後の人間 対話 重藤文夫、大江健三郎 新潮選書(新潮社) 1971.7

ナガサキ 忘れられた原爆 フランク・W・チンノック 小山内宏:訳 新人物往来社 1971

原爆文献誌 豊田清史 崙書房 郁文社:発売 1971

放射性元素 無機化学全書 17(3) 中井敏夫、斉藤信房、石森富太郎:編 柴田雄次、木村健二郎:監修 丸善 1974.1

原発の恐怖 アメリカからの警告 シェルドン・ノビック 中原弘道:監訳 新潟大学原発研究会:訳 アグネ 1974.3

米ソ核戦略と日本の防衛 小山内宏 エコノミスト選書(毎日新聞社) 1975

エネルギー 非浪費型社会への道 NHK取材班 日本放送出版協会 1976年

特集 反原発・近代科学技術を撃つ! 情況編集委員会:編 情況 91号 情況出版 1月号 1976

原子力発電所(最新高級電験講座 22) 若林二郎 電気書院 1976.12.

見学記 浜岡原子力発電所 名古屋YWCA「核」問題読書会 1977.9

人民勝利の記録 豊北原発阻止斗争の理論と実践 つぶせ豊北原発1977-1978 長周新聞社:編・刊 1978.8

米国の原子力発電論争 (国際問題新書48)    D・マイヤーズ3世 高榎尭:訳    日本国際問題研究所 1980 The nuclear power debate

日本の原子力 図解で見る原子力発電と平和利用 週刊現代Backs(講談社) 1983.10

長寿命放射性廃棄物の消滅処理法 松本高明、植松邦彦 原子力工業(日刊工業新聞社) 33(3) 1987.3
   
現場検証・原発災害 経済性を最優先した原子力行政の末路 原子力問題フォーラム21 社会問題総合研究所:監修 フォトにっぽん出版事業部 1991.12

コンセンサス原子力発電 22のQ&A 電気事業連合会 1991.9

エネルギー、いまそこにある危機 坂本吉弘 日刊工業新聞社 2002.11

「エネルギー」を語る33の視点・論点 新井光雄:編 エネルギーフォーラム 2005.4

*これらの文献がリストに反映されるまでには、多少時間がかかります。ご了承ください。
上坂冬子「原発を見に行こう――アジア八カ国の現場を訪ねて」を読んだ。

同行者は、以下の人物。

中部電力 常務取締役 殿塚猷一
日本原子力発電 広報部部長 寺垣鐡雄
日本原子力産業会議調査役 若林格

中部電力と日本原子力発電は分かるが、日本原子力産業会議」とは、一体どういった組織であろうか。ホームページには次のように書いてある。

わが国のエネルギー問題における原子力利用の重要性を踏まえ、国民的立場に立って原子力の平和利用を進めるとの産業界の総意に基づき、直面する課題の解決に主体的に行動することを目的とする公益法人

??? 何を言っているのかよく分からない。「直面する課題の解決に主体的に行動する」というが、「直面する課題」とは何か。そして「主体的に行動する」というのは具体的にどういう行動をするのか。「主体的」とは何を意図しているのか。さらに言えば、この組織と、この本とはどう関係にあるのか。

日本原子力産業会議の「主な活動」をみると、理解促進・社会合意形成、規制対応・基盤整備、国際協力…と並んでおり、この「国際協力」には、

アジア原子力情報の発信

という項目があるので、どうやらこの本はアジア各国の原発の現状を伝えるこが目的であるようだ。上坂氏は、「素人」(?)としてこのツアーに参加して、難しい技術の話ではなく「雰囲気」を記そうというものだ。

この三つの組織の人とともに、上坂氏は(自費で)、次の6カ国の原発を見に行った。

中国 核工業総公司
インド 原子力公社
インド カクラパール原子力発電所
パキスタン カラチ原子力発電所
パキスタン 原子力科学技術研究所
韓国 電力公社
台湾 電力公司核能発電
フィリピン バターン原子力発電所

パワフルというか、すさまじいエネルギーである。脱帽したい。各国にはそれぞれ次のような発電所があることが本書を読んで知ることとなる(本書刊行当時の情報)。

中国は、上海の近くに泰山発電所、香港の近くに大亜発電所がある。

インドは、イスラマバードの近くにチェシュマ発電所、ニューデリーの近くにナローラ発電所、カラチの近くにカラチ発電所、カラチとニューデリーのあいだにラジャスタン発電所、ボンベイの近くにタラブール発電所、カクラバール発電所、南部に、カイガ発電所、カルパッカム発電所がある。

韓国は、古里、蔚珍、月城、霊光にそれぞれ発電所がある。

台湾は、台北の近くに金山発電所、国聖発電所、龍門発電所、最南端に馬鞍山発電所がある。

フィリピンにはバターン原子力発電所が建造されたが、マルコス政権が崩壊したことによりアキノ政権はこの原発を放棄した。

これらの原発を訪ねる「珍道中」はユーモラスでもあり、巧みな文章力で、現地の雰囲気を伝えてくれるので、あまりよく知られていないアジア各地の原発事情を大ざっぱに知るうえでは、とても良い本であると思う。

しかしおそらく本書の目的はそれで終わりではない。本書には、アジア各地の原発に加えて、

日本 六ヶ所村原燃サイクル施設

も含まれている。
六ヶ所村とアジアの原発とを対比させた次の文章が、どうやら、本当に言いたいことのように思われる。

「「やりすぎだわ」と私は思わず口走った。なぜなら、施設の上は飛行禁止地域としてシグナルをつけ、厳重に飛来を防いであったからだ。これでもか、これでもかと危険を予想するのはいいけれど、あり得ないことまで予測することはないではないかと、私としては呆れる思いを隠せない。アジアの国を見るがいい。確かに各国とも慎重に手を打ってはいたが、これほど微に入り細にわたって、いささかノイローゼ気味といえるほどの対策をほどこしてある国は日本以外にないといっていいだろう。念入りなのはいいけれど、ものには程度があろうと憎まれ口すら利きたいほどである。」(277ページ)

つまり、本書は、アジア諸国の原発事情の紹介をしつつ、国内において原発が直面する課題である、事故や安全対策に対する反対運動などの言動への対抗のために本を出した、ということが「主体的に行動する」ことの意味のように思える。

執拗なくらいに安全への努力をすることが「ノイローゼ気味」であり、それをみる上坂氏は「呆れ」「ものには程度があろう」と述べられているが、このお方は「原発」や「放射能」の性質を知っておられるのであろうか。素人といえども。度を越しており、私なら、こわくてこのような言い方はできない。

また、「あり得ないことまで予測することはない」と述べておられるが、実際「あり得た」かどうかという蓋然性の話ではなく、実際に日本で「起こった」以上、上坂氏が書き残したこの文章は罪深い。これではまるで、原発の安全性を追求することが、愚かしいと言っているに等しい。もう少し適当でも大丈夫よ!と言いたいとすれば、これはいくらなんでも思考停止しすぎだ。

これだけの行動力、文章力、人と接するコミュニケーション能力があるのに、どうしてこんなに無批判的にポジティブなのか、とても、不思議である。


読んだ本
原発を見に行こう―アジア八ヵ国の現場を訪ねて/上坂 冬子
講談社 1996年10月
¥1,631
Amazon.co.jp
放射能とともに生きるために
核をめぐる言説 2012年 1月~2月

瀧本 往人

残念ながらこの時期に刊行された本はまだ読んでないので、内容については何も言えないが、原発事故の全体像を見渡すような検証本と、日常生活における放射能との付き合い方を紹介する実用書が多産されているようだ。

そして、広瀬、石橋、小出、菅谷、武田、児玉、安斎といったこの間に名前がよく知られた人々の本もコンスタントに発売されている。

しかし、小出氏は「憲法9条」まで語りはじめている。余裕が出てきたという言い方は失礼かもしれないが、少なくともステージが少し変容してきたのは事実である。これに高橋哲哉氏の「犠牲のシステム福島・沖縄」と西尾幹二氏の「天皇と原爆」がどう連なるのか、この流れの読書も重要となってくるだろう。

他、このなかで、もっとも気になったのは、民主党の原口氏の本。上巻ということは、下巻もいずれ刊行されるのであろう。いずれも読んでみたい。

なお、ヒロシマ、ナガサキ、原水爆関連の書籍はかなり少ない。



▼2012年1月

福島原発行動隊 今、この国に必要なこと 山田恭暉、福島原発行動隊書籍編集委員会:編著 批評社 1月

メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故 大鹿靖明 講談社 1月

水俣の教訓を福島へ part2 原爆症認定訴訟熊本弁護団:編 花伝社 1月

原発と憲法9条 小出裕章 遊絲社 1月

原発ゼロ世界へ ぜんぶなくす 小出裕章 エイシア出版 1月

原発にしがみつく人びとの群れ 原発利益共同体の秘密に迫る 小松公生 新日本出版社 1月

FUKUSHiMAレポート 原発事故の本質 FUKUSHIMAプロジェクト委員会 日経BPコンサルティング 1月

福島原発事故・記者会見 検証 東電・政府は何を隠したのか 日隅一雄、木野龍逸 岩波書店 1月

官邸から見た原発事故の真実 これから始まる真の危機 田坂広志 光文社新書 1月
 
官邸本は多々出ているが、そのなかでは、ほとんど「官邸」という言葉に意味がない珍しい本。著者がビジネス書を多く出しているせいか、内容がとても明解になりすぎて、かえって言葉が引っかかってこない。いや、全体的にはうなずける内容ではある。ただ、彼の発言がどこまで社会的に意味や力をもてるのか、難しいところだ。コメントはこちら

原発のない世界のつくりかた 「脱原発世界会議」実行委員会:編 合同出版 1月

検証 原発労働 日本弁護士連合会:編 岩波ブックレット 1月

原子力損害賠償の法律問題 卯辰昇著 金融財政事情研究会 きんざい:販売 1月

日本人は原発とどうつきあうべきか 田原総一朗 PHP研究所 1月

放射能と原発のこれから 武田先生、どうしたらいいの? 武田邦彦 ベストセラーズ 1月

イラストでわかる原発と放射能 これであなたも大丈夫 大木久光 技報堂出版 1月
平和II 上 原子力・放射能の脅威について考える/原口一博 ゴマブックス 1月

原子力災害に学ぶ放射線の健康影響とその対策 長瀧重信 丸善出版 1月

放射能から身を守る本 図解でわかる!あなたの命を守る70の知恵 安斎育郎 中経出版 1月

放射能と子ども達 ヒロシマ、チェルノブイリ、セミパラチンスク、そしてフクシマ 碓井静照 ガリバープロダクツ 1月

放射能から子どもの未来を守る 児玉龍彦, 金子勝 ディスカヴァー携書 ディスカヴァー・トゥエンティワン 1月

放射能汚染と人体(カラー図解ストップ原発2) 新美景子 野口邦和:監修 大月書店 1月

空気と食べ物の放射能汚染 ナウシカの世界がやってくる! 青木泰リサイクル文化社  星雲社:発売 1月

敦賀湾原発銀座「悪性リンパ腫」多発地帯の恐怖 明石昇二郎 宝島sugoi文庫(宝島社) 1月

原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語 安冨歩 明石書店 1月
 
原発事故に対して「東大話法」を問題化した著者と出版社の見識には敬意を表したい。とて も面白い着眼点だった。それからこの安富歩という人がこれから何を発言するのかは、大いに注目したい。ただ、2014年11月の時点で本書を読むと、妙 に、空々しく、つまらない。話法だけを論じると、揚げ足取りのようになってしまうということか。それとも、旬の短い本だったということか。コメントはこちら

福島からあなたへ 武藤類子 森住卓:写真 大月書店 1月

犠牲のシステム 福島・沖縄 高橋哲哉 集英社新書 1月
 
「犠牲」という見地から、フクシマをとらえており、しかも、オキナワとの対比によってである。きわめて重要な論点を提起していることは間違いない。ただ、できることなら、フクシマにおいて起こった「事故」のもつ具体的な内実やその特異性にも目を向けてほしかった。コメントはこちらこちら

天皇と原爆 西尾幹二 新潮社 1月

"核"を求めた日本 被爆国の知られざる真実 「NHKスペシャル」取材班 光文社 1月

物象化論と資本パワー 原発危機・経済危機を超える本質思考 山本哲士 文化科学高等研究院出版局 1月

「災害救助法」徹底活用 クリエイツ震災復興・原発震災提言シリーズ 津久井進 クリエイツかもがわ


▼2012年2月

反原発の思想史 冷戦からフクシマへ 筑摩選書 絓(スガ)秀実 筑摩書房

封印されたヒロシマ・ナガサキ 米核実験と民間防衛計画 新訂増補版 高橋博子 凱風社 2月
 
米国が最初から残留放射線の影響をいかに「隠蔽」もしくは「軽視」してきたのかを緻密にたどった労作。新訂版には、1940~50年代に焦点が当てられていた旧著の内容に、「3.11」以後からふりかえった論考が加えられている。コメントはこちら

「反原発」の不都合な真実 藤沢数希 
新潮新書 
  
全体的には、原発全般について、ていねいに説明されており読みやすい。特に第1章は多くの資料を駆使してリスク論がまとめられている。しかし、それ以外は特に目新しい説を展開しているわけではない。コメントはこちらこちら

原爆投下 黙殺された極秘情報 松木秀文、夜久恭裕 NHK出版 2月

原子力問題の歴史 復刻新版 吉羽和夫 河出書房新社 2月
  
1969年までの核兵器に関する事象を年表形式で描いてみせたもので、全体に「年表」が多い。「原子力問題」いや「核兵器問題」を「年表」としてとらえようとする。コメントはこちら

原発「危険神話」の崩壊 池田信夫 
PHP新書 

原発事故と私たちの権利 日本弁護士連合会公害対策・環境保全委員会:編 明石書店 2月

原発震災 警鐘の軌跡 石橋克彦 七つ森書館 2月

新たなリスク管理と認証制度の構築 放射性物質による食品汚染の現実 横田茂永 筑波書房 2月

フクシマから学ぶ原発・放射能 安斎育郎:監修 市川章人、小野英喜 かもがわ出版 2月

原発事故の被害と補償 フクシマと「人間の復興」 大島堅一、除本理史 大月書店 2月

震災と原発国家の過ち 文学で読み解く「3・11」 外岡秀俊 朝日新書(朝日新聞出版) 2月

第二のフクシマ、日本滅亡 広瀬隆 朝日新書(朝日新聞出版) 2月

見捨てられた命を救え! 3・11アニマルレスキューの記録  星広志 社会批評社 2月

司法は原発とどう向きあうべきか 原発訴訟の最前線 現代人文社編集部:編 現代人文社 大学図書:発売 2月

原発事故と子どもたち 放射能対策ハンドブック 黒部信一 三一書房 2月

原発閉鎖が子どもを救う :乳歯の放射能汚染とガン ジョセフ・ジェームズ・マンガーノ 戸田清、竹野内真理:訳 緑風出版 2月 Radioactive baby teeth

「内部被ばく」こうすれば防げる! :放射能を21年間測り続けた女性市議からのアドバイス 漢人明子 菅谷昭:監修 文藝春秋 2月

微生物が放射能を消した!! 日本復活の革命は福島から 緊急版! 高嶋康豪 藤原直哉:特別寄稿 あ・うん 2月

放射能汚染だまされてはいけない!? ガン・白血病の恐怖におびえないために 船瀬俊介 徳間書店 2月

ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図 NHK ETV特集取材班 講談社 2月

目を凝らしましょう。見えない放射能に。(わが子からはじまるクレヨンハウス・ブックレット005) うのさえこ クレヨンハウス 2月

地震列島と原発 首都直下、東海、東南海、南海地震に備える ニュートンムック ニュートンプレス

震災1年全記録 大津波、原発事故、復興への歩み 朝日新聞社 朝日新聞出版

ひとり舞台 脱原発 闘う役者の真実 山本太郎 集英社

原発のないふるさとを 小出裕章 批評社

原発に依存しないエネルギー政策を創る 科学技術の視点から 久保田宏 
B&Tブックス(日刊工業新聞社)

カラー図解ストップ原発 3 
電力と自然エネルギー 大月書店

夢で語るな日本のエネルギー 「新エネ礼賛」「さらば原発」の幻想 鈴木光司 マネジメント社

福島第一原発 真相と展望 アーニー・ガンダーセン 
集英社新書 

日本人は「脱原発」ができるのか 原発と資本主義と民主主義 川本兼 明石書店

大学生がえがく脱原発の未来マニュアル 検証!自然エネルギーのチカラ フェリス女学院大学エコキャンパス研究会 編 東京新聞

福島原発現場監督の遺言 恩田勝亘 講談社

震災と原発 日経サイエンス編集部 編 日経サイエンス社

3・11慟哭の記録 71人が体感した大津波・原発・巨大地震 金菱清 編 新曜社


***

奪われた野にも春は来るか 鄭周河 2012年 写真

さがしています アーサー・ビナード 童心社 2012年 絵本

~放射線を浴びた~X年後 伊東英朗監督 2012年 映画

無主物 壷井明 2012年~(未完) 絵画

光のさなぎ 安藤栄作 2013年 彫刻

原爆ドーム ジミー・ツトム・ミリキタニ 制作年不詳 絵画

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NHKにおけるドラマ「ハゲタカ」で一躍名が知られるようになった、真山仁の小説「マグマ」を読んだ。本編の主人公は女性で、ハゲタカ・ファンドに所属している。テーマは、外圧により、日本がこれまでのエネルギー政策を方向転換せざるをえなくなったとき、つまり、原発を国際政治的に推進できなくなったときに、何に依拠しようとするか、というものであり、具体的には地熱発電に絞ってストーリーが進む。代替エネルギーとして、風力や太陽光ではなく、他ではなかなか具体的にとりあげられない「地熱」というところが、本作の魅力となっている。

本筋ではないが、興味深かったのは、かつて日本で原発を推進した主要人物の一人で、後に突然反原発派になったという、高齢の政治家が、本作に登場していることである。これを読んで、中曽根康弘氏のことを思い出さない人はいないであろう。「転向」の理由は中曽根氏と本編の登場人物では全く異なってはいるものの、あの中曽根氏が、原発事故のあとに行われたテレビ番組のインタビューで、これからの時代は原発にしがみつかないで、再生可能エネルギーを模索すべきだ、といったようなことを平然と語っていたことは、記憶に新しい。私はあの映像をみて、驚愕するとともに、なぜかつて彼が「政界の風見鶏」と呼ばれたのか、本当によく分かったのだった。

また、物語のなかでは、投資ファンドというものが、必ずしも「ハゲタカ」という蔑称でよばれるだけではない、ということが、強く描かれている。むしろ、ビジネスとして、しっかりとした財政、経営、人材、など、多面的に企業組織を考え、事業を進めてゆこうとするときに、大胆な手法がとれる「実験的な場」として、有用性を発揮するのではないか、たとえば、こういった政財学界を巻き込んだ新規事業、しかも国の将来を左右するような試みの場合、きわめて有益なのではないか、という思いを強くする。

むしろ「ハゲタカ」とみなして批判や攻撃するのは、旧来の制度や体制を守りたかったり、権益を享受しようとしている人々の場合があり、そのネガティブ・キャンペーンに単純にふりまわされると、方向を見誤ることになることに、気づかされる。私たちはすでに、2011年に、当時の菅直人総理が脱原発を宣言した瞬間に、一気にメディアの論調が変わったことを見ている。あれをみて「風見鶏」というのは、決して中曽根氏だけの「愛称」ではないことを、嫌でも知った。これからもこうした言説の変化には注意深くありたい。もちろん、変化が悪いと言っているのではなく、どういった理由で変化したのかを理解することが重要だ、と言いたい。

今思えば、ホリエモンや、欽ちゃんみたいな顔した村上ファンドの人など、どういった理由で吊るしあげられたのか、彼らに「罪」があるとすれば一体何だったのか、もう一度冷静に見直さねばならない。あまりメディアにおける評価づけ、印象操作、「ラベリング」を、うのみにしてはならないだろう。

それはさておき、本書で語られているのは、具体的で本格的な、地熱エネルギー産業を興すにあたっての、ある種のシミュレーションが行われていると考えてよい。これが、小説のよさであろう。本書はその意味では、SFとまで行かなくとも、そう遠くはない、近未来小説として読める。

もちろん本書では、ただ単純に地熱発電を実現させる工程が描かれているというわけでない。政界、財界、マスコミ、学界、それぞれに、さまざまな「政治」がうごめいており、ストーリーを複雑にしているが、ここではそのあたりは割愛しよう。本書が描いている地熱エネルギーに対するベーシックな見込みだけを、まとめておきたい。

まず、地熱発電について、なぜ、私たちはこれほどまでに、淡泊なのであろうか。大方の「脱原発」の言説は、風力と太陽光を中心に述べられることが多い一方で、地熱発電については、あまり「マグマ」のように「熱く」語られてこなかった。この違いは何なのだろうか。本書を読んで考えられるのは、以下の理由である。

・出力規模(発電量)が小さい(標準で5万キロワット)
・コストパフォーマンスが悪い(調査や最初の設備投資に、かなりの時間とコストがかかる)
・統御しにくく、危険である(地震のとき、大丈夫か?)
・景観を損ねる(具体的には、温泉街や国立公園などに建てることに危惧する人がいる)
・科学技術の進歩の方向性としては、退歩しているとみなされる
・政治的利権になりにくく、地球温暖化対策助成から地熱は外されている(地熱は「新エネルギー」として認められていないし、再生可能エネルギー利用割合基準法でも対象外となっている)

しかし、本書を読むとメリットも大きくあり、以下のようなことがらが考えられる。

・日本は火山大国なので豊富に資源がある
・これまですでに調査が進んでおり、有力な場所が絞り込まれている
・資源コストがかからない
・危険な廃棄物が出ない

というように、十分に力を入れてよいもののように思われてくる。地熱発電については、是非とも、今後の議論と検討、実用化を期待したい。

さて、これに対して、本文では、原発について、以下のような説明がなされている。

「原発は僅かなウランの力で莫大な発電をしてくれます。火力で常時100万キロワットの発電を維持しようとすると、相当な体制がいります。でも原発にはそれが最適なんです。原発1個で、地熱発電所20基分が賄える。これはたまらない魅力です。しかも原発は一度稼働すると、ずっと発電させ続ける方が良いとされている。つまりは最低限のルーチンワークで、50万世帯をカバーできる発電ができる。都電の柏崎発電所には、七号機まであるんです。合計は、なんと820万キロワット。ここ1ヶ所で、横浜市全部の電力をカバーしてもおつりがきます。こんなおいしい発電方法を知ってしまったら、だれも環境だの循環社会だのなんて気にしないでしょう」(99ページ)

そうなのだ。私たちはこの言説に対して、決して、単なる傍観者でも被害者でもない。むしろ、加害者として、この事実、この誘惑、この欲望について、目を逸らしては、ならない。そして今後も、この誘惑、この欲望を本当に抑止できうるのか、時間をかけて考えてみるべきである。

なお、本書巻末には作者が参考にした、文献リストがある。

大地のエネルギー 地熱 湯原浩三 古今書院
市民科学者として生きる 高木仁三郎 岩波新書
原発事故はなぜくりかえすのか 高木仁三郎 岩波新書
検証東電原発トラブル隠し 岩波ブックレット
原子力発電で本当に私たちが知りたい120の基礎知識 広瀬隆、藤田祐幸 東京書籍
脱原発のエネルギー計画 高文研
電力自由化完全ガイド 西村陽 エネルギーフォーラム
電力自由化2007年の扉 井上雅晴 エネルギーフォーラム
「エネルギー」を語る33の視点・論点 エネルギーフォーラム
エネルギー、いまそこにある危機 坂本吉弘 日刊工業新聞社
湯布院の小さな奇跡 木谷文弘 新潮新書

こうした文献一覧を掲げる作者には、好感をもつ。なぜならば、すでに、一つの方向性を、控えめではあるが明確に語っているからである。

そう言えば、以前ここでもとりあげたマンガ、西炯子「娚の一生」は、単に中年の恋愛を描いているだけではなく、元々は原発関連の社員だった女性主人公が、地熱発電に未来を見ると言う話であったことを思い出した。これは2009年刊行であるというから、もしかすると、基本的なアイデアをこの「マグマ」から得ているのかもしれない。

なお、ちょうど、国立公園の件、規制緩和の動きが出てきた。しかも25万キロワットクラスのものが作れる可能性があるという。これは、いろいろな意味で朗報であろう。あとは、小説のなかにも出てくるように、温泉街や地元の意向も大切であるので、地元の人たちとの十分な話し合いをしたうえでの進行を望みたい。

読んだ本
マグマ/真山 仁
朝日新聞社

2006年
¥1,785
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お勧めの本↓

娚の一生 1 (フラワーコミックスアルファ)/西 炯子
¥420
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