どうしても嫌いになれない上坂氏の本2冊目。彼女の行動力は、本当に尊敬に値する。憎めない方だ。
まず、彼女の立ち位置であるが、しっかりと「まえがき」で明言されている。
「私が本業と無縁な原子力発電に関心を持ったのは、簡単にいえば野次馬根性からである。賛否の対立する問題の真ん中に、中立の立場で飛び込んで両者の言い分を聞くのが好きだからと言い換えてもよい。」(13ページ)
ちなみに本書は、中村政雄氏の「原子力と報道」とほぼ同時期に刊行されており、両方ともまえがきに「怪文書」のことが書かれている。
この「怪文書」とは、2004年に出たもので、六ヶ所村の核燃料再処理工場は19兆円もかかるコスト高のしろものなので凍結すべきだ、という内容のものである。どうも、この本も、中村氏の本も、この妙な怪文書への批判書のようなのである。
しかしそれはあくまでも私の勘ぐりなのかもしれない。上坂氏が、どのくらい「中立」なのかを確認したい。これは、とても重要なことである。とりわけ書名に「原子力問題のウソ・マコト」と書いてある以上、その真偽をジャッジする「作者」としての責任があるはずだ。
まず、対談の相手(と当時の肩書)。
中曽根康弘 自民党、元総理。原発を最初に国策化した人
殿塚猷一 核燃料サイクル開発機構理事長
有馬朗人 自民党、物理学者、元東大総長、元科学技術庁長官
竹村健一 評論家
加納時男 自民党、参議院議員、元東電副社長
与謝野馨 自民党、参議院議員
あれ? 「自民党」がきれいに並んでいる。「中立」ではなかったのか?いやいや、きちんと内容を確かめてみようではないか。たとえば、こう言っている。
「高速増殖炉「もんじゅ」は、準備万端ととのえて、トラブル以前の状態、というより、もっとよい状態に改善すべく、いまかいまかと工事再開の許可を待っているところです。」(34-35ページ)
待ち遠しい気持ちが、よく伝わってくる。さらに、こんなことを言ってもいる。
「「怪文書」は合理主義を装った反体制運動、昔風にいうと”アカ”の人たちの思想運動に通じるものと考えると、話はわかりやすいですね。」(43ページ)
そうか、「アカ」というのは、上坂氏からみると、同じ国民と思われていないのだ。だから、彼女のなかで「中立」というときには、「アカ」と彼女が呼ぶ人間は、きっと論外にあるのだ。
「原子力といえば原爆だ、なんて昔も今も物事の区別のつかない薄っぺらな人がいるのねえ。」
「物事の区別のつかない」「薄っぺらい」というのは、揶揄であるが、現実的に、原爆と原発の違いをはっきりと説明できる人は、割合からいって、かなり少ないはずだ。せいぜい、概念的に、「武器」もしくは「軍事的利用」されるものと、平和的利用されるもの、といった言い方ができるくらいではないのか。そして、今回の「事故」でよく分かったように「被爆」ではなく「被曝」しかも低線量の被曝に対する底知れぬ「不安」を、「薄っぺらい」という言葉で済ましてよいはずがない。ものを書く人間がこうまでして、そういった「アカ」とか「薄っぺらい人間」と言うのを聞くのは、正直言って愉快なはずがない。「中立」と書くのは、そういった姿勢をあらためてからにしてもらいたいものだ。上坂氏のような方には、そういった、内向きの、仲間内でそうじゃない人の悪口を言い合うようなやり方ではなく、本当に公正にウソ・マコトを問うてほしかった。
あと気になったのは、次の発言。
上坂「日本の原子力発電所ではIAEAの監視カメラが24時間働いていて、カメラは封印されていますから、ごまかしなんてききません。」(63ページ)
フクシマは、監視していたのであろうか。
また、次の一節も気になる。
上坂「初の原子力委員会は正力松太郎、委員としては湯川秀樹を筆頭に、物理学の藤岡由夫、経済学の有沢広巳、経団連の石川一郎という面々が目を光らせていました。」(69ページ)
というが、実際には湯川は、厳しく目を光らせようとしていたにもかかわらず、それがかなわなくなり、辞任している。当時の記録に、こうある。
「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘(わた)って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない。」(湯川秀樹の発言、『原子力委員会月報』1957年1月より)
さらにこのあとの、ラッセル=アインシュタインのパグウォッシュ宣言に湯川氏が賛同するという流れをご存知ないのであろうか。
また、有馬氏が、自分は物理学の専門家ではあるが原子力は専門外であると言っているのにもかかわらず、次のように言うのは、公平であろうか。
「有馬先生は子供たちの前で「原子力は安全です」とおっしゃったでしょう。専門家であれだけはっきりおっしゃったのを聞いたのは初めてですよ。」(77ページ)
そういうのは、信仰の世界なのではないか?
「まあ、マスコミは恐ろしい力を秘めているけれども、注目を集めた核燃料サイクルに対する見直し論も、原子力委員会にそうとう頑張ってもらわないと、六ヶ所村でのリサイクルは天下の無駄として扱われかねません。まさかそうはならないと信じたいですけれど、この先どうなりますかねえ。」(95ページ)
と、結局は、中村氏と同じ、結論ありきで、語っているではないか。
「竹村(健一)さんは、本の中でも原子力アレルギーにあたたかい眼差しを送っていらっしゃいますね。反対派の存在が、推進派を緊張させるからって。」(116ページ)
と、反対派にアレルギーをもっていらっしゃることを公言する上坂さんだった。
もう一つ、気になるのは、中曽根の次の発言、
「原子力発電でちょっとしたトラブルが起こると、非常に大げさに取り上げられて、致命的な事故のように報道されたり扱われたりしてきました。しかし、いままで日本は、科学的、技術的に厳重な点検をしながら発電所を動かしてきたわけで、実際に、原子力発電のメカニズムとして人命にかかわるような大事故を起こしたことはありません。」(31ページ)
これまで日本の原発で起こったのは「事故」ではない、トラブル、事象である、というのは、本書で、何度となく繰り返される内容である。これは一体、何を訴えているのであろうか。
もちろん本書のなかで、加納氏においては、かなり厳密に、「設備事故」と「原発事故」を分けて考えるべきという指摘もなされているので、すべて、「事故」という言葉を消したがっているというわけではないにしても、他の発言をみているとどうみても、厳密にその両者の線引きをしたいようには見えない。
しかし、では今まで安全だったその原発が、2011年3月には、大きな事故を起こしたことも、事実であると認めたうえで、今後の「事故」対策をどのように考えているのか、お話を是非、前向きにお聞きしたいものである。
放談は、続く。
加納「エネルギー政策は、地域の感覚だけで判断すべきではないし、ましてや地域の住民投票のようなことで決めてはいけないというのが私の信条です。」
上坂「同感!」
何度も繰り返される、原発や核燃料リサイクルは「国策」だという表現。ここは重要なところである。彼らが訴えたいことはやはり、個人や地域が文句をつけるのは「エゴ」であって、「国策」や当時の自民党政治は、そういった次元とは異なる「上位」の「高い抽象能力を必要とする問題」(上坂、147ページ)は「専門家」がしっかりと議論した結果なのであり、特別なもの、全体の一つの総意、言ってみれば、ルソーの言う、一般意思として自立しているということである。自分勝手なことを言ったり行ったりすることに対する、この、禁欲的な態度、どうもこのあたりが、原発反対派や放射能をこわがる人たちにたいする不快感のみなもとのようである。これは、いかにも正論のようであるが、ちょっと待ってほしい。
一般意思とは、いつも「絶対」「普遍」のものとして成立しているわけではない。むしろ逆で、近代の「民主主義」の社会においては、「一般意思」とは、固定化されておらず、市民の個別の意志による意義申し立てを尊重こそすれど、無視したり揶揄したり抹殺するものではない。むしろ、そうした「自由」な意見の調整の結果、そのときそのときで創られた「仮設」の「考え方」であって、この仮設物に対して肯定する立場も、否定する立場も、対等であり、その議論こそが「政治」であるはずだ。なぜ「肯定」だけが「正しい」と言い切るのかが、問題である、常にこの一時的な「国策」も検証し続けるべきである。決まったから守れ、というような横暴な態度は、「民主的な」議論ではない。
中曽根「日本の自主独立という大局的な見地から、われわれはリサイクルを国家の政策として決定したんです。損得ばかり考えて、国家の舵を取るのは間違ったやり方です。」(41-42ページ)
有馬「国策で決まったことは国の責任できちんと行うのが当然です。国が横暴だというなら、政府を代えればいいんです。」(97ページ)
確かに、代わった。そして、浜岡原発は、実際に、停止した。「いいんです」というから、有馬氏の論理で言うと、いいはずなのだが、実際には、手続きが悪かったためなのか、非難の嵐となったのはどうしてだろうか。自民党政権が永遠に続くという前提でものを言っているとすれば、その発言の有効期限は、おそろしく短いものだったということかもしれない。
なお、与謝野馨氏、気になる存在である。与謝野鉄幹と晶子の孫にあたり、東大を出た後中曽根氏の口ききで日本原子力発電に入社。財務や通訳、翻訳が主な仕事だったようだが、実際に核燃料のチェックを行ったり、かなり原発には詳しい人間fであった。また、その後自民党議員として長らく所属するが、2010年に離党、その後福島第一原発事故の際にも経済財政政策大臣として民主党政権における大臣にもなっていた。このとき、経産大臣だったのは海江田万里で彼らは選挙区が一緒のため、熾烈な戦いをこれまでしてきた「仲」である。
読んだ本
まず、彼女の立ち位置であるが、しっかりと「まえがき」で明言されている。
「私が本業と無縁な原子力発電に関心を持ったのは、簡単にいえば野次馬根性からである。賛否の対立する問題の真ん中に、中立の立場で飛び込んで両者の言い分を聞くのが好きだからと言い換えてもよい。」(13ページ)
ちなみに本書は、中村政雄氏の「原子力と報道」とほぼ同時期に刊行されており、両方ともまえがきに「怪文書」のことが書かれている。
この「怪文書」とは、2004年に出たもので、六ヶ所村の核燃料再処理工場は19兆円もかかるコスト高のしろものなので凍結すべきだ、という内容のものである。どうも、この本も、中村氏の本も、この妙な怪文書への批判書のようなのである。
しかしそれはあくまでも私の勘ぐりなのかもしれない。上坂氏が、どのくらい「中立」なのかを確認したい。これは、とても重要なことである。とりわけ書名に「原子力問題のウソ・マコト」と書いてある以上、その真偽をジャッジする「作者」としての責任があるはずだ。
まず、対談の相手(と当時の肩書)。
中曽根康弘 自民党、元総理。原発を最初に国策化した人
殿塚猷一 核燃料サイクル開発機構理事長
有馬朗人 自民党、物理学者、元東大総長、元科学技術庁長官
竹村健一 評論家
加納時男 自民党、参議院議員、元東電副社長
与謝野馨 自民党、参議院議員
あれ? 「自民党」がきれいに並んでいる。「中立」ではなかったのか?いやいや、きちんと内容を確かめてみようではないか。たとえば、こう言っている。
「高速増殖炉「もんじゅ」は、準備万端ととのえて、トラブル以前の状態、というより、もっとよい状態に改善すべく、いまかいまかと工事再開の許可を待っているところです。」(34-35ページ)
待ち遠しい気持ちが、よく伝わってくる。さらに、こんなことを言ってもいる。
「「怪文書」は合理主義を装った反体制運動、昔風にいうと”アカ”の人たちの思想運動に通じるものと考えると、話はわかりやすいですね。」(43ページ)
そうか、「アカ」というのは、上坂氏からみると、同じ国民と思われていないのだ。だから、彼女のなかで「中立」というときには、「アカ」と彼女が呼ぶ人間は、きっと論外にあるのだ。
「原子力といえば原爆だ、なんて昔も今も物事の区別のつかない薄っぺらな人がいるのねえ。」
「物事の区別のつかない」「薄っぺらい」というのは、揶揄であるが、現実的に、原爆と原発の違いをはっきりと説明できる人は、割合からいって、かなり少ないはずだ。せいぜい、概念的に、「武器」もしくは「軍事的利用」されるものと、平和的利用されるもの、といった言い方ができるくらいではないのか。そして、今回の「事故」でよく分かったように「被爆」ではなく「被曝」しかも低線量の被曝に対する底知れぬ「不安」を、「薄っぺらい」という言葉で済ましてよいはずがない。ものを書く人間がこうまでして、そういった「アカ」とか「薄っぺらい人間」と言うのを聞くのは、正直言って愉快なはずがない。「中立」と書くのは、そういった姿勢をあらためてからにしてもらいたいものだ。上坂氏のような方には、そういった、内向きの、仲間内でそうじゃない人の悪口を言い合うようなやり方ではなく、本当に公正にウソ・マコトを問うてほしかった。
あと気になったのは、次の発言。
上坂「日本の原子力発電所ではIAEAの監視カメラが24時間働いていて、カメラは封印されていますから、ごまかしなんてききません。」(63ページ)
フクシマは、監視していたのであろうか。
また、次の一節も気になる。
上坂「初の原子力委員会は正力松太郎、委員としては湯川秀樹を筆頭に、物理学の藤岡由夫、経済学の有沢広巳、経団連の石川一郎という面々が目を光らせていました。」(69ページ)
というが、実際には湯川は、厳しく目を光らせようとしていたにもかかわらず、それがかなわなくなり、辞任している。当時の記録に、こうある。
「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘(わた)って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない。」(湯川秀樹の発言、『原子力委員会月報』1957年1月より)
さらにこのあとの、ラッセル=アインシュタインのパグウォッシュ宣言に湯川氏が賛同するという流れをご存知ないのであろうか。
また、有馬氏が、自分は物理学の専門家ではあるが原子力は専門外であると言っているのにもかかわらず、次のように言うのは、公平であろうか。
「有馬先生は子供たちの前で「原子力は安全です」とおっしゃったでしょう。専門家であれだけはっきりおっしゃったのを聞いたのは初めてですよ。」(77ページ)
そういうのは、信仰の世界なのではないか?
「まあ、マスコミは恐ろしい力を秘めているけれども、注目を集めた核燃料サイクルに対する見直し論も、原子力委員会にそうとう頑張ってもらわないと、六ヶ所村でのリサイクルは天下の無駄として扱われかねません。まさかそうはならないと信じたいですけれど、この先どうなりますかねえ。」(95ページ)
と、結局は、中村氏と同じ、結論ありきで、語っているではないか。
「竹村(健一)さんは、本の中でも原子力アレルギーにあたたかい眼差しを送っていらっしゃいますね。反対派の存在が、推進派を緊張させるからって。」(116ページ)
と、反対派にアレルギーをもっていらっしゃることを公言する上坂さんだった。
もう一つ、気になるのは、中曽根の次の発言、
「原子力発電でちょっとしたトラブルが起こると、非常に大げさに取り上げられて、致命的な事故のように報道されたり扱われたりしてきました。しかし、いままで日本は、科学的、技術的に厳重な点検をしながら発電所を動かしてきたわけで、実際に、原子力発電のメカニズムとして人命にかかわるような大事故を起こしたことはありません。」(31ページ)
これまで日本の原発で起こったのは「事故」ではない、トラブル、事象である、というのは、本書で、何度となく繰り返される内容である。これは一体、何を訴えているのであろうか。
もちろん本書のなかで、加納氏においては、かなり厳密に、「設備事故」と「原発事故」を分けて考えるべきという指摘もなされているので、すべて、「事故」という言葉を消したがっているというわけではないにしても、他の発言をみているとどうみても、厳密にその両者の線引きをしたいようには見えない。
しかし、では今まで安全だったその原発が、2011年3月には、大きな事故を起こしたことも、事実であると認めたうえで、今後の「事故」対策をどのように考えているのか、お話を是非、前向きにお聞きしたいものである。
放談は、続く。
加納「エネルギー政策は、地域の感覚だけで判断すべきではないし、ましてや地域の住民投票のようなことで決めてはいけないというのが私の信条です。」
上坂「同感!」
何度も繰り返される、原発や核燃料リサイクルは「国策」だという表現。ここは重要なところである。彼らが訴えたいことはやはり、個人や地域が文句をつけるのは「エゴ」であって、「国策」や当時の自民党政治は、そういった次元とは異なる「上位」の「高い抽象能力を必要とする問題」(上坂、147ページ)は「専門家」がしっかりと議論した結果なのであり、特別なもの、全体の一つの総意、言ってみれば、ルソーの言う、一般意思として自立しているということである。自分勝手なことを言ったり行ったりすることに対する、この、禁欲的な態度、どうもこのあたりが、原発反対派や放射能をこわがる人たちにたいする不快感のみなもとのようである。これは、いかにも正論のようであるが、ちょっと待ってほしい。
一般意思とは、いつも「絶対」「普遍」のものとして成立しているわけではない。むしろ逆で、近代の「民主主義」の社会においては、「一般意思」とは、固定化されておらず、市民の個別の意志による意義申し立てを尊重こそすれど、無視したり揶揄したり抹殺するものではない。むしろ、そうした「自由」な意見の調整の結果、そのときそのときで創られた「仮設」の「考え方」であって、この仮設物に対して肯定する立場も、否定する立場も、対等であり、その議論こそが「政治」であるはずだ。なぜ「肯定」だけが「正しい」と言い切るのかが、問題である、常にこの一時的な「国策」も検証し続けるべきである。決まったから守れ、というような横暴な態度は、「民主的な」議論ではない。
中曽根「日本の自主独立という大局的な見地から、われわれはリサイクルを国家の政策として決定したんです。損得ばかり考えて、国家の舵を取るのは間違ったやり方です。」(41-42ページ)
有馬「国策で決まったことは国の責任できちんと行うのが当然です。国が横暴だというなら、政府を代えればいいんです。」(97ページ)
確かに、代わった。そして、浜岡原発は、実際に、停止した。「いいんです」というから、有馬氏の論理で言うと、いいはずなのだが、実際には、手続きが悪かったためなのか、非難の嵐となったのはどうしてだろうか。自民党政権が永遠に続くという前提でものを言っているとすれば、その発言の有効期限は、おそろしく短いものだったということかもしれない。
なお、与謝野馨氏、気になる存在である。与謝野鉄幹と晶子の孫にあたり、東大を出た後中曽根氏の口ききで日本原子力発電に入社。財務や通訳、翻訳が主な仕事だったようだが、実際に核燃料のチェックを行ったり、かなり原発には詳しい人間fであった。また、その後自民党議員として長らく所属するが、2010年に離党、その後福島第一原発事故の際にも経済財政政策大臣として民主党政権における大臣にもなっていた。このとき、経産大臣だったのは海江田万里で彼らは選挙区が一緒のため、熾烈な戦いをこれまでしてきた「仲」である。
読んだ本
- ほんとうは、どうなの? 原子力問題のウソ・マコト
- 上坂 冬子
- PHP研究所
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