アムステルダム・2(蘭[オランダ]) | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

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 さて、一昨日、すなわち、去る4月29日(水)の「アムステルダム・1(蘭[オランダ])」のブログ の最後で、

「(前略)アンネフランク([ドイツ]語: Annelies Marie Frank)の家に向かいました。御承知のように、『アンネの日記』の著者として有名ですね。このブログの冒頭に『昭和天皇・誕生日』のことを言及させて頂きましたことに因(ちな)ませて頂きますと、実は、当方の誕生日が、アンネフランクの生誕日である6月12日と同じ日なので御座います。(中略)機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、続きを記させて頂きます。(後略)」とぉ伝え申し上げまして、誠に有り難いことに、「いいね」を頂きましたので、今回、その続きを記させて頂きます。


 昭和61年(1986年)(菜食を始める前のことです)8月24日【日】午後、アンネ・フランクの家(蘭[オランダ]語: Anne Frank Huis)に到着しました。ダム広場から約1km位歩いた所にあります。その家の前で撮影(と)った写真を、下に掲載致します。入り口に、"Anne Frank Huis"(蘭[オランダ]語で、「アンネ・フランクの家」のことです。)と記されています。画像をクリック(click)(もしくはタップ)して頂きますと、拡大致します。因(ちな)みに、写真の右下に、前述致しましたように、昭和61年(1986年)8月24日【日】と日付が入っております。


アムステルダム
"Anne Frank Huis"(「アンネ・フランクの家」)




 アンネ・フランクの家は、上の写真で見られる、同・家の間口に比べて、奥行が深くなっています。購入した、同・家の内部の図解を、下に添付致します。同・家には、ロフト(英語:loft)(屋根裏部屋のこと)があります。このロフトのことも、「アンネの日記」に書かれてあります。隠れ家(英語:annex)で唯一人の10歳代である男の子のペーター(独[ドイツ]語: Peter)とは徐々に恋仲になっていき、アンネとペーターは、ロフトで2人きりで長い時間を過ごすようになります。

 また、中庭を見下ろす窓、すなわち、中庭を挟(はさ)んで隠れ家(英語:annex)に面している倉庫用の部屋の窓は、遮光幕を張った上に、更に黒く塗りつぶされていました。この仕掛けのため、表側からは、隠れ家の存在が、人に気付かれずに済んだ訳であります。前述致しましたように、画像をクリック(click)(もしくはタップ)して頂きますと、拡大致します。



アムステルダム
アンネ・フランクの家の内部の図解



 同・家の中に入りまして進みますと、下の写真のように回転本棚があって、その後ろに、隠れ家(英語:annex)への入り口があります。本棚は蝶番(ちょうつがい)で回転して、隠れ家への入り口が開閉出来るようになっています。その回転本棚の上部は、御覧のように、掛(か)け地図で隠されています。ここは、インパクト(英語:impact)が大きかった、すなわち、印象が強かったです。書物に喩(たと)えるならば、圧巻の部分ですね。この隠れ家への入り口の写真を、下に掲載致します。


アムステルダム
隠れ家への入り口



 フランク家は、この隠れ家に、約2年1ヶ月住むことになります。アンネ・フランク(以下、アンネと記させて頂きます。)は隠れ家に住んでいたので、日記を書けたとも言われていますが、アンネは曝(さら)け出したい、表現しないではいられないという欲求が強かったようです。

 高校2年の英語の教科書で、この「アンネの日記」を読みました。先生によりますと、この内容には、性についての記述、すなわち、性的描写はカット(英語:cut)されているとのことでした。お読みになられておられると存じ上げますので、「アンネの日記」の内容につきましては、敢(あ)えて触れませんね。


 蘭(オランダ)人のナチス・ドイツ協力者の密告によって、フランク家が全員捕らえられてしまう約2ヶ月前に、去る4月26日(日)の「モン・サン=ミシェル(仏[フランス])」のブログ の中段に記させて頂きましたノルマンディー上陸作戦が始まります。この作戦が始まったときには、人々は驚喜します。その約1ヶ月後、すなわち、隠れ家の生活が約2年過ぎた頃、家族でイチゴ・ジャムを作ります。そして、1ヶ月満たないうちに、前述のように、フランク家は収容所に送られます。すなわち、約2年1ヶ月の隠れ家生活に終止符が打たれます。捕らえられた住人たちは、まず、宝石など貴重品を、残らず没収されました。ゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密国家警察)は、アンネのノート類が入っていた書類鞄(かばん)を、逆さに振って空にすると、その中に分捕(ぶんど)り品を詰め込みました。そして、日記帳やノート類は、床の上に散らばったままで残されました。フランク家の隠れ家での生活を支援していたオーストリア系・蘭(オランダ)人女性であるミープ・ヒース(蘭[オランダ]語: Miep Gies)たちは、思うところがあって、残されていたものを、手に持てるだけ拾い集めて、運び出しました。その中に、この日記帳が混じっていました。ミープ・ヒースがアンネの精神と肉体の象徴である日記帳(精神の象徴)と化粧ケープ(肉体の象徴)を拾った、という表現をする方(かた)も見えます。


 戦後、収容所からアムステルダムに帰って来た、アンネの父親であるオットー・フランク(Otto Heinrich Frank)は、隠れ家の住人中、生き残ったのは、自分一人であったことを知りました。このとき、ミープ・ヒースは秘かに保管していました日記帳を、オットー・フランクに返しました。この日記帳を読んで感動した友人たちの強い勧めで、オットー・フランクは、これを出版することを決心しました。この日記は、生前アンネが自ら付けていた「Het Achter-huis(隠れ家)」という原題のままで、昭和22年(1947年)に初出版されました。世に出版物が出る経緯(いきさつ)と致しましては、不可思議な話で御座いますね。アンネは、享年15歳でした。

 因(ちな)みに、ユダヤ人であるということで同様に収容所に送られたヴィクトール・フランクル(Viktor Emil Frankl)(オーストリアの精神科医、そして、心理学者)が収容所でのことを綴(つづ)った著書「夜と霧」も、有名ですね。去る11月25日(火)の「第六感(スピリチュアリティ[spirituality])」のブログ で、

「数年前(平成19年12月)、心身医学の某・医療系の学生サークルに委託されて、分科会を開催致しましたとき・・・」と記させて頂きました、この心身医学の某・医療系の学生サークルにおいて、平成2年夏、岡山県倉敷でのS.W.S.(英語:summer work shop、サマー・ワーク・ショップ)のときに、その著書の存在を知りました。

 また、読了致しましたが、ヴィクトール・フランクルに学ぶ本もあります。


 ときに、旧約聖書の時代から続いていた、迫害の対象としてのユダヤ人に対する差別意識をアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が利用して、ホロコースト(独[ドイツ]語: Holocaust)(第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行[おこな]った大量虐殺を指[さ]します。)を行(おこな)ったという旨の見方をする方(かた)も見えますね。

 また、短絡的に思われるかもしれませんが、ユダヤ人はイエス・キリストの処刑に関わった張本人だから、ホロコーストを受けることになったと言う方(かた)も見えますね。因(ちな)みに、去る12月13日(土)の「土(トルコ)・1」のブログ の上段やや下、去る2月14日(土)の「絵本の影響」のブログ の中段やや上、そして、去る4月12日(日)の「ピサ(イタリア)(ガリレオ・ガリレイの生誕地)」のブログ の下段やや上にも記させて頂きましたように、以前、親戚のクリスチャンの方(かた)に確認致しましたら、キリスト(ギリシャ語)(メシア[ヘブライ語]・ヘブライ語では、キリストに対応する言葉としてメシアと呼ばれる、という意味です。)という称号が尊称となっているとのことで同意されましたので、イエス・キリストと記させて頂きました。また、その去る12月13日(土)の「土(トルコ)・1」のブログ の中段やや上に、イエス・キリストの磔刑(たっけい)の絵画を添付させて頂きました。



 ところで、第二次世界大戦中、日本人の杉原 千畝(すぎはら ちうね)(日本の官僚、そして、外交官。出生は岐阜県。)氏は、リトアニアのカウナス領事館に赴任していました。杉原 千畝氏は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(英語:visa)(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られています。その避難民の多くが、ユダヤ系でありました。海外では、「日本のシンドラー」と呼ばれることがあるとのことです。因(ちな)みに、シンドラー(Oskar Schindler)(ズデーテン地方の独[ドイツ]人の実業家)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツにより強制収容所に収監されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救ったとされています。なお、去る4月24日(金)の「守口大根(もりぐちだいこん)」のブログ の中段やや下に、

「(前略)父親の出身地はこの美濃(岐阜県)なので御座ございます。(後略)」と記させて頂きました。出生が 岐阜県であることは、一緒です。


 昭和60年(1985年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の生命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を、杉原 千畝氏は受賞しました。因(ちな)みに、前述の、去る2月14日(土)の「絵本の影響」のブログ の中段にも、日本の偉人伝につきまして言及させて頂きました。日本には、誠に素晴らしい偉人の方々(かたがた)が大勢おられます。


 さて、機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、この続きを記させて頂きます。


 本日も、最後(まで)ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)