毎月一回、古典作品を読み味わう吉祥寺古典を読む会。12月は少し欲張った企画に取り組みました。
「勅撰和歌集の変遷 古今和歌集から新古今和歌集の後まで」。
勅撰和歌集は、905年の『古今和歌集』に始まり、足利6代将軍 義教のとき(1439年)に編まれた『新続古今和歌集』まで二十一代集。同じ勅撰和歌集でも、時代によって違うもの。和歌自体が発展を遂げることで変わった部分もあれば、政治的事情の影響を受けて変わった部分もあります。
そうした各歌集の特徴をご紹介しながら、その特徴を如実に感じさせる和歌を読み味わいました。
一部になりますが、こちらのブログでもご紹介したいと思います
ふる年に春立ちける日(=年内の立春を)よめる 在原元方
年のうちに春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ
年内に立春があったんだなぁ。これまでの年を去年と呼ぼうか、今年と呼ぼうか。
清原深養父
冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ
まだ冬だというのに、空から花が舞い散ってくるのは、雲の向こうは春であるからだろうか。
『後撰和歌集』には、権力者とその愛人である女房歌人の歌が多くおさめられています。恋の巻が6巻あることに加え、季節の巻にも、恋の歌としか読めない歌が多数。例えば、春上の巻におさめられたこちらの歌。
かれにける男のもとに、その住みける方の庭の木の枯れたりける枝を折りてつかはしける 兼覧王女
萌え出づる木の芽を見ても音をぞ泣くかれにし枝の春を知らねば
春に生え出す木の芽を見ても私は声を上げて泣いています。枯れてしまった枝には、春になっても萌え出づることのないように、あなたがすっかり離れてしまった私のもとには、春になってもあなたが来ることはないので。
千載和歌集 (新 日本古典文学大系)/岩波書店
さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
さざ波の打ち寄せる楽浪の志賀の都は荒れてしまったけれど、長等山の山桜は昔ながらの山桜なのだなぁ。
後鳥羽上皇が積極的に関わって編まれた『新古今和歌集』は、幽玄・余情の美の極み。例えば、次の和歌。上の句で示した、花(桜)や紅葉の残像が下の句と重なっていく感じが、何とも言えず美しい一首です。
西行法師、すすめて、百首歌よませ侍りける 藤原定家朝臣
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ
あたりを見渡すと、桜も紅葉もないんだなぁ。ただ、入江の苫屋のあたりの秋の夕暮れよ。
鎌倉右大臣(=源実朝)
世に経れば憂き言の葉の数ごとにたえず涙の露ぞ置きける
この世に生きていると、憂鬱な言葉ひとつずつに絶えず涙の露が浮かぶのだなぁ。
『玉葉和歌集』とその精神を受け継いだ『風雅和歌集』は、今回の講座準備を通して、私が大好きになった歌集です。伝統を踏まえながらも、洗練された、シンプルな表現。恋愛の歌には、心理を鋭く分析したものが目立ちます。
待恋の心を 院御製(伏見院)
契りしを忘れぬ心底にあれや頼まぬからに今日の久しき
約束したのを忘れない心が、自分の奥底にあるからだろうか。あてにしないと思うそばから(やはり待つ心が生まれて)今日が長く感じられる。
永福門院
音せぬがうれしき折もありけるよ頼みさだめて後の夕暮
連絡のないことが嬉しいこともあるものだなぁ。すっかり頼り委ねきった後の夕暮れ。
さて、今回が、年内最後の定例会でしたが、会員さんから嬉しいプレゼントを2ついただきました。
1つ目は、谷崎潤一郎の文庫本『吉野葛・盲目物語』(新潮文庫)。私が三味線を習い始めたということで、三味線の出てくる『盲目物語』を薦めてくださったのでした。
実は先日、大阪平成中村座で、中村勘九郎さんが弥市と秀吉の二役を演じた歌舞伎『盲目物語』を観たのです。こうした形で、原作も楽しむ機会を得られるとは
また、別の方からは、三味線の指かけをいただきました。これを使って、しっかり上達したいと思います
さて、吉祥寺 古典を読む会、新年はこのようなスケジュールとなっております。
・2016年1月24日(日)14:00~『伊勢物語』二つの禁じられた恋
・2016年2月21日(日)14:00~近松門左衛門の描く愛と義理『心中天網島』(=河庄)
・2016年3月13日(日)14:00~自分の心と向き合う『紫式部日記』
単発での参加も、継続しての参加も、歓迎しております。ご興味がおありの方はお気軽にお越しください。
吉祥寺 古典を読む会のホームページ