70年前の今日、広島に原爆が投下され、あまりにも多くの人々が大虐殺され、また負傷しました。
放射能という悪魔は今日に至っても被爆者の家族にまで爪痕を残し、原爆を過去のものにしていません。
思えば、私がなぜ戦争というものが起こったのかと思ったきっかけが原爆だったのです。
その時は小学生でした。
図書館で放射能の本ばかり読むという時期もありました。
日本の戦争の全貌というのは未だに私には見えてきません。
一つづつ確かな真実を積み重ねていくほかないようです。
今回も書籍から抜粋します。
「 1945年8月6日(月)
テニアン時間午前2時45分、エノラ・ゲイ号は滑走路に達した。
原爆と7000ガロンの燃料を積んだ重さのため、離陸は困難だった。
見守る人をハラハラさせてやっと離陸した。
<中略>
・L.ギオワニティ、F.フリード、堀江芳孝訳『原爆投下決定』(原書房)1967 」
・竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945夏』(文藝春秋)P.258
このエノラ・ゲイ号が悪夢の始まりでした。
作戦前、搭乗員はチベッツ大佐から
「今夜、われわれのの努力の上に歴史がつくられる。」
と言っていました。
当然、「悲劇の歴史」という意味ではありません。
「 広島市のほぼ中央、地上から570メートルの上空で原子爆弾が炸裂した。
直系150メートルの巨大な火の玉ができた。
表面温度1000度の人工の太陽は、約3秒間輝いた。
放出された熱戦は、爆心地から半径500メートル以内を3000~4000℃の高熱で焼き尽くした。
一瞬にして十数万人が死傷した。
・戦死研究会編『原爆の落ちた日』(文藝春秋)1972 」
・竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945夏』(文藝春秋)P.258
このキノコ雲の下でどれだけの悲劇があったのかは、未だに想像できません。
写真や映像を見るより、現実として体験した被爆者の人の体験談の方が心にくるものがあるからです。
そして、原爆を投下したアメリカの反応ですが・・・
信じられないような反応をしています。
「 トルーマン(当時のアメリカ大統領)はオーガスタ号で昼食をとっていた。正午2、3分前、作戦室のグラハム大佐が大統領に一通の電報を渡した。
「ワシントン時間8月5日午後7時15分、広島を目視爆撃。戦闘機、高射砲の抵抗なし。爆弾投下15分後、パーソンズは『あらゆる点で結果は実験結果を上回った。投下後の本機の状況は正常』と報告」
続いてスティムソン陸軍長官から第二報。
「前の実験を遥かに上回る完璧な成功の模様」
トルーマンは躍り上がって喜び、
「さあ、帰国だ!」
と言った。」
・竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945夏』(文藝春秋)P.258-259
原爆というこれ以上ないほどの地獄が広島を襲う中、アメリカ大統領は喜んでいたのです。
広島にはやむを得ず原爆を投下した、という雰囲気でないことがよく分かります。
こんな状況であったのに、日本人が悪かったのでしょうか?
極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で「A級戦犯」に全員無罪の判決を下したパール判事は、原爆慰霊碑の、
「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませんから」
という碑文を見て憤慨したと言います。
「過ち」を犯したのはアメリカなのに、なぜ日本人が日本人に「過ちは繰り返しませぬ」と謝っているのか、というのです。
パール判事は、
「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする政治喧伝のデゴマークがこれほどまでに日本の魂を奪ってしまったとは思わなかった」
「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」
と慨嘆したといいます。
しかし、広島県の本照寺にある「大亜細亜悲願之碑」にパール判事の碑文が刻まれています。
「 激動し 変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし
大地深く打ちこまれた
悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため
その厳粛な誓いに
いのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたは我が心の中に在る
その啓示に従って 我は進む
1952年11月5日
ラダビノード・パール 」
日本人は自虐史観を乗り越え、他国からの卑怯極まりない貶めに対して「真理」を持って立ち向かえるのはいつの日でしょうか?
「原爆によって戦争終結が早まった」
などと怒りがこみあげてくることを厚顔無恥で教育しているのはどこの国でしょうか?
原爆は「大虐殺」であることを教育すべき、ということをアメリカに言う、同盟国でも言いたいことは言う、そんな時代が来るのはいつでしょうか?
今日という日を迎えるにあたり、全ての政治家は「真理」を追い求めてその職務を果たして欲しいと切に願います。
広島への原爆投下で亡くなられた方々の御霊安らかならんことを祈ります。