アメリカのメディアを味方につけた金子堅太郎。
$かつて日本は美しかった

 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争当時は黄禍論(おうかろん/こうかろん)と呼ばれる主に日本人並びに支那人を蔑視する思想がありました。こういった国際情勢でロシアと戦うのは不利であり、これを打破する任を負ったのが金子堅太郎(かねこ けんたろう)です。

 金子はハーバード大学に留学した経験があり、その同窓にアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルトがいました。金子はボストンの上流階級WASPと呼ばれるイギリス系白人プロテスタント社会で人脈を築きあげた実績がありました。そこで金子にアメリカの世論を親日に変えさせる任が下りたのです。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると伊藤博文からその任を言い渡された金子は「ロシア相手に戦うなどとても無理です。そういう役目は御免こうむりたい」といったん断っています。伊藤が「万一の場合、自分も銃をとって一兵として戦うつもりだが、君もその気になってくれぬか」と言われ引き受けています。

 日本は当時も今と変わらず宣伝下手で、司馬遼太郎著「坂の上の雲」では外国観戦武官や記者に対して秘密主義をとったため、「われわれは豚のように扱われた」と憤慨した観戦武官がおり、遼陽会戦で「日本軍は負けている」と思われ「日本軍は遼陽において勝ったのではない。ロシア軍の作戦に乗っかってしまっただけだ。ロシア軍は堂々と撤退した」という内容の記事が世界にばら撒かれてしまったことが書かれています。これによって日本の戦費にあてる公債の応募が激減してしまったのです。

 その一方、金子は主要なマスメディアの本社があるニューヨークを活動拠点に選びます。ここでマスコミを味方に付けようと考えたのです。あるパーティのスピーチで金子は日露戦争の目的を以下のように語ります。

「日本はペリー提督によって開国の道を歩み始めて以来、アメリカにはさまざまなことを教えていただきました。その恩を忘れることなく、アメリカが教えてくれたすばらしい文化を今度は支那や韓国へ紹介するのが私たちにほんの役割だと思っています。
 ところが残念なことに、その使命を果たそうとしただけなのにヨーロッパ最強国と敵対することになってしまいました。日本がロシアと戦うのは領土拡大の野心があるからではなく、アメリカに教えられた文化をアジアのほかの地域にも広めたいと願っているからです」


 アメリカは支那大陸への門戸開放を狙っていましたから、日本に野心はない、アメリカをよいしょして同調するスピーチをしています。また金子は旅順港で戦死したロシアのマカロフ提督へ追悼の言葉を述べており、これもアメリカ人の心を揺さぶりました。翌日の新聞で金子を絶賛する記事が掲載されたといいます。金子は母校ハーバード大学でも日本の正当性を詳細なデータを用いて熱弁します。こうしてアメリカの黄禍論からおこる反日感情を抑制し、徐々にアメリカ世論は日本に同情的になっていきました。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「黄禍論」

添付写真
 金子堅太郎(PD)

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本記事は平成21年12月5日「黄禍論を吹き飛ばした「金子堅太郎」」を再編集したものです。

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スパイ大作戦。
$かつて日本は美しかった

 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争において明石元二郎(あかしもとじろう)大佐のスパイ活動は有名です。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えました。

 明石元二郎は運動神経が鈍かったといいます。また外見に無頓着だったといいます。しかし語学力はずば抜けており、あるパーティで外国人から「何語なら話せるか?」とフランス語で問いかけられて「フランス語が少し話せる程度です」と答えて、風采の上がらぬ明石を見て安心したのか、その外国人は隣の人間とドイツ語で密談を始め、明石はそしらぬ顔で彼らの会話を聞き貴重な情報を収集したといいます。

 明石元二郎は100万円(現在の40-50億円)の工作資金を持たされ、大国ロシアの不満分子、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどをたきつけて内乱を起させ、ロシアを内部から揺さぶる使命を帯びます。
 日露開戦によってロシアのペテルブルグ日本公使館はひきあげとなり、明石を含む公使館員はスウェーデンのストックホルムへ移動しました。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると、ストックホルム駅に着くと、ホームには多数の紳士や軍人が集まっていました。明石らは「これは何か?」と怪訝に思っていましたが、自分たちを歓迎する人たちだと知り驚嘆します。スウェーデンにとってロシアの侵略は脅威であり、隣国のフィンランドは既にロシアに占領されていました。スウェーデンの人々は小国日本がロシアに対して開戦した勇気に驚き、讃え、ひそかに支持し、集まってきていたのでした。明石はストックホルムを拠点に活動を開始しました。明石の活動は「坂の上の雲」(六)『大諜報』に詳しく描かれています。

 明治38年(1905年)1月におきた「血の日曜日」(民衆のデモに対して軍が発砲した事件。ロシア革命の幕開けともいわれる)のデモを指揮したゲオロギー・ガポン神父やフィンランドの独立運動活動家のコンニ・シリアスク、さらにはレーニンとも面識があったといいます。(最近はレーニンとは面識がなかったという論が強いようです)
 明石は100万円を東ヨーロッパの反ロシア勢力にばらまくことにより、帝政ロシアの根幹を揺るがします。ロシアが日露戦争継続可能であったにもかかわらず、日本と不本意な講和をせざるを得なかったのは国内の反体制勢力の跳梁が無視できないほどに激しくなったことが大きく関係しており明石の活躍が大きいと評価されています。
 
 明石は100万円すべてを使い切れず27万円を残して帰国し返納しました。使ったお金の受領書や使途の書付はきちんと残しておいたそうです。
 明石は後に第7代台湾総督に就任し、大正8年(1919年)、公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去しました。孫にあたる明石元紹は画家で日本李登輝友の会理事を務めています。ちなみにご先祖は関が原、大阪の陣で奮戦した明石掃部頭全登(あかしかもんのすけたけのり)といわれています。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「明石 元二郎」
添付画像
 明石 元二郎(PD)

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本記事は平成21年12月3日「明石元二郎の工作」を再編集したものです。
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武士道精神。
$かつて日本は美しかった

 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争は小さな黄色人種が大きな白人をやっつけたことにより、有色人種に希望と勇気をもたらしました。それと同時に日本の心も世界に知らしめたといえます。

 旅順攻防戦終結後の明治38年1月5日、水師営で行われた乃木希典とステッセルの会見は、日本の武士道精神の精髄を世界に知らしめ、日本の精神文化に世界が驚倒した事件でした。勝者と敗者の会見でしたが、「武人の名誉を保たしむべし」という明治天皇の希望によって敗軍の将・ステッセルに帯剣が許されたのです。また、外国の記者から写真撮影の申し出がありましたが、「後世まで恥を残すような写真を撮らせることは、日本の武士道精神が許さない」として断り、「会見が終わり、友人として同列に並んだところならよい」として両軍の幕僚が並ぶ写真だけが撮影されました。
 旅順戦には観戦武官といって外国の武官も数多く参加していましたが、乃木将軍と接するとことごとくその魅力の虜になったといいます。イギリスのハミルトン将軍などは退役後、エジンバラ大学の総長になってからも「自分がもしも日本人だったならば、乃木将軍を神として仰ぐだろう」と学生たちに語り続けたといいます。
 ダグラス・マッカーサーも父のとともに観戦武官として乃木将軍とともに過ごしており、大東亜戦争の日本空襲で乃木神社は爆撃対象からはずさせたといいます。

 米海軍のニミッツ提督は東郷平八郎を敬愛し、大東亜戦争後、戦艦三笠の復元を訴えました。沖縄戦のときに慶良間諸島の日本軍に医薬品を届けたというエピソードもあります。

 日露戦争後のロシア革命においてシベリアにポーランド人の孤児が取り残される事態がおきます。ポーランド系移民協会は欧米諸国に保護を求めますが反応は冷淡でした。このとき委員のひとりがこう述べます。

「私の叔父は10年前の日露戦争に召集されて日本軍の捕虜になり、日本に連れて行かれた。でも叔父は数ヶ月の捕虜生活の間、周囲の見知らぬ日本人にとても親切にされたことをよく私に話して聞かせてくれた。」

 日露戦争時、ポーランドはロシアの属領となっており、ポーランド人は満州の前線に出されていました。日本は捕虜をとても大事に扱いましたから、そのことが伝わっていたのです。そして白人の国ではない見知らぬ日本に援助を求めることになりました。これが日本とポーランドを結ぶ友好の第一歩となりました。

 イスラエル建国の志士とあがめられているトランペルドールはユダヤ人地位向上のためロシア軍に志願し、日露戦争を戦います。旅順守備軍にいました。しかし、明治38年(1905年)1月1日に日本軍に降伏したため、大連から日本の大阪浜寺へ移送され捕虜生活を送ります。ここで彼は日本を学び、日本人の規律の正しさ、勤勉さ、私欲をすてて公のために協力し合うとか、愛国心などを知り、日本人の精神に心酔します。
 トランペルドールは後にイスラエルに戻り、ユダヤ人自衛組織をつくり、ユダヤ人集落をアラブ人の襲撃から守ります。しかし、大正9年(1920年)10月29日にアラブ人の武装集団の弾にあたり致命傷になります。彼はこう述べて息をひきとりました。

「アイン・ダバル!トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」(俺にかまうな。国のために死ぬほど名誉はない)

これは捕虜時代に大阪の浜寺で日本兵士に教えられた言葉でした。彼の遺品は記念館に展示されており「新生ユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」と手記が残されています。



参考文献
 オークラ出版「世界に愛された日本」
    『世界に愛された乃木将軍』福井雄三
    『ニミッツ提督と東郷元帥』皆本義博
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 徳間書店「東郷平八郎と乃木希典」

添付画像
 水師営での会見に際し、乃木、ステッセル両将軍が幕僚たちと撮った写真 ~ 国立公文書図書館より

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本記事は平成21年12月1日「日露戦争は日本の心も世界に知らしめた」を再編集したものです。

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戦費の多くをユダヤ人が支援した。
$かつて日本は美しかった

 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争ではユダヤ人ロスチャイルド、ジェイコブ・シフをはじめとする世界のユダヤ人が日本を金銭的に支援しました。他方、ロシアの外債は暴落を続けます。ユダヤ人の妨害によるものです。

 明治37年8月、9月の遼陽会戦、10月の沙河会戦の後の11月10日には第二回外債1200万ポンドが売り切れます。(第一回は1000万ポンド) 明治38年(1905年)3月10日、奉天海戦で日本軍が勝利を収めます。3月25日の第三回外債3000万ポンドが売り切れます。5月28日、日本海海戦で連合艦隊が圧勝。7月8日第四回外債3000万ポンドが売り切れます。これらの外債の半分はユダヤ人の引き受けによるものでした。この四回に及ぶ外債で日本は日露戦争を戦い抜くことができました。

 日露戦争の日本人勝利の報にアジア民族は狂喜しました。
「新京では支那人が日本人と中心街を練り歩き、花火がいつ果てるとのなく夜空をまった。」(ニューヨーク・タイムズ)
 親日国トルコでも熱狂し、トルコ共和国国歌(独立行進曲)の作詞者であるメフメト、アーキフは賞賛を込めて日本の勝利を描写し、女性作家で英文学のハーリデ・エディーブ・アドバルは日本海海戦の年に誕生した息子を「トーゴー」と名づけました。「ノギ」「ジャポンヤ」も付けたといいます。
 支那革命の父と呼ばれる孫文はヨーロッパから支那へ帰る途中、スエズ運河でアラビア人が嬉しそうに「お前は日本人か?」と問いかけてくるので「違う支那人だ。何があったのか、なぜそんなに嬉しいのか」と尋ねるとロシアのバルチック艦隊を日本が全滅させたというのを「自分が勝ったようなものだ」と言って喜んでいたといいます。
 インド建国の父、ジャワハルラル・ネルーは16歳の少年で、「日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍をたくさん買い込んで読もうと努めた」と自伝に書いています。

 日本を支援したユダヤ人も子供に「トーゴー」と名づけることが流行します。トーゴー・ミッズラヒというユダヤ人の中では有名な俳優、作家、映画監督がおり明治38年(1905年)の生まれなのだそうです。イスラエルの国歌「ハティクバ」(希望)の歌詞を書いた詩人のナフタリ・インベルは明治天皇と日本国民を称える詩を発表しました。悪い「ロシアのおばさん」と善い「ニッポンのおじさん」の喜劇なんてものもあったそうです。
 ロシアでは明治14年(1881年)と日露戦争の前年明治36年(1903年)に、ロシア政府の黙認の下で全国規模でユダヤ人街や、ユダヤ人部落の襲撃が行われ、「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)が行われていました。そこでユダヤ人は日本および、レーニンを始めとする過激派革命組織を支援し、日本勝利に熱狂したのです。

 ユダヤ人最大の功労者ジェイコブ・シフは民間の外国人では初めて明治天皇に招待され、謁見し、旭日大綬章を授けられました。午餐会では明治天皇の健康のために乾杯することをこっそり提唱すると明治天皇は破顔一笑され、快諾され、シフの乾杯が終わると明治天皇からシフの健康を祝って親しく乾杯の音頭を取られました。シフは大山巌元帥、東郷平八郎元帥にも招待され、日光、箱根、京都、瀬戸内を案内され、韓国の仁川に行き、そこでも日韓あげての歓迎をうけたといいます。




参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 竹書房「世界が愛した日本」四条たか子(著)
 徳間書店「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー(著)
 「歴史通」WILL10月『乃木神話はなぜ生き続けるのか』中山彰彦・山内昌之
添付画像
 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦三笠 ~ 国立公文書図書館より

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本記事は平成21年11月30日「ユダヤ人も狂喜した日露戦争の日本の勝利」を再編集したものです。
科学が日本を守った。
$かつて日本は美しかった

 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争において、日本海海戦で連合艦隊に勝利をもたらした大きな要因のひとつとして下瀬火薬があげられます。結構有名な話でしょう。
 発明者の下瀬雅允は広島藩の出身で海軍の技師です。兵器製造所に勤務しました。その時の製造科の長が原田宗助という人で、東郷平八郎らとともに英国に留学した人でした。ニューカッスルのアームストロング会社で造兵技術実習しました。

 原田は下瀬に対し「わが日本は弱国である。弱国にしてなおこの帝国主義の世界に生きうる道は兵器の発明あるのみ。君は砲弾の炸薬を専門とせよ。改良よりも世界の炸薬の観念を一変させるような発明をせよ」と訓示します。
 下瀬は火薬の研究中に爆発事故で手を負傷し、不自由となりましたが、研究を続け、明治26年(1883年)下瀬火薬を完成させます。日清戦争のときはまだ使われませんでしたが、海軍少尉の伊集院五郎が鋭敏な「伊集院信管」を開発したことにより、日露戦争で威力を発揮します。

 下瀬火薬は金属に触れると激しく反応して大量の熱を発するピクリン酸を主原料としています。炸裂威力が圧倒的で、炸裂した砲弾のかけらはすさまじい勢いで飛散し、三千度もの高熱ガスを発生させます。ひとたび命中すれば爆風と熱によって、艦上の人間の動きを封殺してしまいます。ロシアの艦隊は下瀬火薬の砲弾に悩まされ、隊列を乱し、魚雷や艦砲射撃によって撃沈されました。

 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると日本海海戦に先立つ黄海海戦で、ロシア水兵は口々に「日本の砲弾はすごい」といい、「あれは砲弾ではない。空飛ぶ魚雷だ」と言うものもいたそうです。下瀬火薬の砲弾を受けた艦船は沈まなくても完全な廃艦になってしまいました。諸外国の新聞はこの火薬について報道します。「日本はこの火薬を最大の国家秘密にしているからよくわからないが、とにかく火薬における革命的なものである。」(1904年7 月31日ニューヨーク・タイムズ)

 明治38年(1905年)5月27日、延々と航海して日本海にたどり着いたバルチック艦隊はこの下瀬火薬の洗礼を浴びます。

「坂の上の雲」よりバルチック艦隊旗艦スワロフの様子
「最初の鞄(下瀬火薬の砲弾のこと)は、スワロフを飛び越えて海中に落ちた。こういう場合、ロシアの砲弾なら長大な水煙をあげるだけだが、日本の砲弾はその鋭敏な伊集院信管によって海面にたたきつけられると同時に海面で大爆発するのである。このため艦隊には命中しなくても弾体は無数の破片になって艦上を襲った」・・・「ついで第四弾が、艦尾左舷の6インチ砲塔に命中し、相次いで大火災がおこった・・・前部煙突のあたりに巨大な火柱が立っており、艦尾も燃え始めた」
「戦艦アリョール上の艦上で、日本の戦艦がぶっ放してくる砲弾をみていたノビコフ・プリボイは『まるで飛んでくる水雷のようだ』と言い、また巡洋艦オレーグの艦上にいたS・ポソコフという士官は、『これは砲弾というより機雷である。炸裂すると不消散質の煙をぱっと撒き、海中に落ちてさえ破片がとんでわれわれに被害をあたえた』」


 日本海海戦は下瀬火薬の強力な火力が大いに貢献し、ロシアの艦船は早い段階で猛火に包まれて戦闘力を失いました。戦闘力を奪えば艦が沈んでいなくてもあとは追いかけて艦砲射撃、魚雷攻撃すればいいだけです。海戦は連合艦隊のワンサイドゲームとなり、世界のマスコミがバルチック艦隊有利と予想したことと反対の結果となり、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させることになりました。弱小日本を科学の力が救い、弱小国でも科学の力で勝てることを世界に証明した瞬間でもあったわけです。



参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 PHP研究所「歴史街道」2011.12『世界を震撼させた下瀬火薬と伊集院信管』
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
参考サイト
 WikiPedia「下瀬雅允」「下瀬火薬」「日露戦争」
 常勝ニッポン 日本海海戦 http://takedanet.com/2007/04/post_3177.html
添付画像
 降伏旗を掲げるニコライ一世 
  国立公文書館より http://www.jacar.go.jp/nichiro/russian_ship_nikolai_1_01.htm

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本記事は平成21年11月28日「弱小日本の科学の力 - 下瀬火薬」を再編集したものです。