文教祖的血統転換についての雑感(7) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

私の血分けについての雑感(独り言)です。


文教祖のみ言葉にたびたび登場してくる「レアとラケル」理論。

<文教祖をめぐるレアとラケルの関係の女性たち>

(聖書<文教祖的解釈>)
レア- ラケル
エリサベツ(レア)-マリヤ(ラケル)
マリア(レア)-イエスの新婦(ラケル)

(1945年以降)
許孝彬(再臨主のレア型の妻)-十六歳の娘(ラケル型の新婦)
朴氏ハルモニ(レア)-金氏(ラケル)-羅氏

(1960年以降)
*金慶継(文教祖の実母・レア)⇒(代行)崔元福
*崔先吉(文教祖の前妻・レア)⇒(代行)崔元福

崔先吉(レア)-韓鶴子(ラケル)
崔元福(レア)-韓鶴子(ラケル)
洪順愛(レア)-韓鶴子(ラケル)
韓鶴子(レア)-女性信者(ラケル)

レアとラケルの関係をこのようにみ言葉では説明しています。

『先生を中心として見ても、二人目のお母様です。最初のお母様が代を継ぐことは難しいのです。レアとラケルが一つにならなければなりません。ここで心情圏の分裂が起きてはいけないのです。ここで一体圏を成さなければなりません。レアとラケルが双子のようになった立場で、アベル的夫人とカイン的夫人のような立場で、これを完全に取り替えても一つになることができる心情圏をつくらなければなりません。兄が弟になっても喜び、弟が兄になっても喜ぶことができる内的基盤の一体圏をつくっておかなければなりません。そのような過程を経てお母様を迎えるようになったのが一九六〇年度でした。』
(真の御父母様の生涯路程10)

また大母様(洪順愛)と娘(韓鶴子)のこともこのように言っています。

『それゆえ、お母様の立場でも二人の女性が必要なのです。お母様の立場とは縦的なのです。母と娘の関係は縦的と横的なのです。洪ハルモニに大母という言葉を贈ったのもそのためです。お母様の直系にならないがために、すべてのことを蕩減条件に連結させて定着したのです。先生から見ると、二番目のお母様に当たるのです。一番目のお母様が世代を育ててあげなければなりません。レアとラケルの立場で一つにならなければなりません。心情圏の分裂が起こってはなりません。一体圏レアとラケルのような立場で、またカイン代表の婦人、アベル代表の婦人のような立場でもって、もし立場を交代したとしても一つになれるという心情圏が必要なのです。兄が弟になり、弟が兄になるとしても、「良し」と言えるような内的基盤の一体圏をつくっておかなければならないのです。』
(天地父母宣布1990年2月27日)

『レアとラケルは、血筋が一つになっていますか、なっていませんか? (「レアとラケルは血筋が一つです。」)ですから、サタンの血筋なので反発が起きるのです。しかし、これは天の血筋なので順応するというのです。姉の夫はだれですか? 先生なのです。分かりますか? (「はい。」) しかし、その先生はだれかというと、昔、自分と婚約した人なのです。その人が姉の夫になりました。それでは、ヤコブを中心として「この怨讐め。」と言いながら、けんかをする立場ですが、そのようにはなりません。反対です。姉がだれよりも妹を愛し、天の祝福を一緒に受けて妹の立場に立ち、真の父母とともに真の父母の妹の立場に立って、天国に入っていくためのみ業に協助しているので、これ以上ありがたいかたは、いないというのです。』

『大母様は、縦的な母の立場に立って、横的にレアの立場を復帰したのち、ラケルの立場にある真のお母様を、真のお父様の前に奉献し、真の娘の立場に降りて永遠に仕える道を喜んで歩まれた。そのような意味からも、「大母」としての使命を全うされたのである。』
(著書「実録・洪順愛大母様の生涯と信仰」光言社刊)


レアとラケルはどのような関係かと言えば、簡単に言うと一人の男性(夫)をめぐって愛で対立する立場です。この女性の嫉妬の関係一体化させ歴史的に蕩減しようとさまざまな女性をレアとラケルの立場に喩えて立てさせていますが(私が疑問に思うのは、中心人物は「神」が立てるものであり、人間(たとえメシアであったとしても)が立てるものではないように思うのですが・・・。なぜか文教祖が決めています。その説明も後でします。)果たして、文教祖の立てたレアとラケルは一体化したことがあるのでしょうか?

そして何を持って一体化したというのでしょうか?

『(聖進様のご子女様に対して)あなたは、何をしてきたのですか? この者が。自分の父親について行くのですか? 母親が、よく分かっていなければなりません。食べていけるだけでも、ありがたいと思わなければなりません。統一教会に負債を負って暮らしながら……。 それは、祖父のお金ではありません。統一教会の血肉を搾り取って食べているということを知らなければなりません。わたしが手を放せば、あなたたちは、どこに行くか分かりません。何が「おじいさん」ですか? アダムとエバが過ちを犯したとき、追い出してしまったのです。逆さまに打ち込まれたのです。』

文教祖でさえ上記のような感情を抱いているのに、韓鶴子夫人は崔先吉前夫人を暖かく向かい入れたのでしょうか?

大母様(洪順愛)と韓鶴子夫人のレアとラケルの関係を『姉がだれよりも妹を愛し、天の祝福を一緒に受けて妹の立場に立ち、真の父母とともに真の父母の妹の立場に立って、天国に入っていくためのみ業に協助して』とあり、『ラケルの立場にある真のお母様を、真のお父様の前に奉献し、真の娘の立場に降りて永遠に仕える道を喜んで歩まれた』と説明しています。

そうすると大母様(洪順愛)と韓鶴子夫人の母娘のレアとラケルの関係は誰の蕩減として立てた関係でしょうか?誰かが失敗したら、いとも簡単に代役を立てられるのでしょうか?

韓鶴子夫人と崔先吉前夫人の関係をみ言葉では

『先生にも二人の女性がいます。聖進様のお母さんと真のお母様です。二人が戦わないで、如何に一つになるかが問題です。』
(世界の女性の復活と解放1993年2月1日ベルベディア)

とこのように語っていますが、もしこの二人の関係が一体化していなかったら、復帰も蕩減もありえません。(文教祖的)摂理はそこで失敗です。失敗しないように崔先吉夫人の代役(崔元福)を立てても復帰摂理の法則は通用するのでしょうか?

統一教会はこのような代役を立てての摂理が余りにも多いように思います。
中心人物が失敗したら更に重い条件を立てなければ神は中心人物を再び立てることは不可能なはずなのですが・・・・。

<代役摂理がまかり通るあいまいさ・・・・>
三代までしか延長できないはずのメシアが、失敗したらすべてがオジャンなので、無理やりつなげているのか、無かったことにして信者に話さないのか・・・・。

以前に、元紀元年が1960年と1972年に制定したと記事に書いたことがありますが、一度決めたことをうやむやにして無かったことにするのは単純に信者も神も騙していることと何の変わりがあるのでしょう。
統一教会の2つの天紀元年(1)
統一教会の2つの天紀元年(2)

レアとラケルには愛の喧嘩がありましたか、ありませんでしたか。これが問題です。神様の立場は、悪魔までも等しく愛するべきなのに、それと同じ愛がないためサタン側になるのです。ヤコブの時代に、先生が教えてあげることができたならば、どれ程良かったでしょうか。ラバンの妻は母として、長女と次女を一つにしなければなりませんでした。そのようになればサタンはあり得ません。それを知らなかったのです。二人が愛の喧嘩をしました。女性達の喧嘩が、十二人の子供達の戦いに展開されるのです。二人の女性が一つにならなかったために、後孫は、イスラエルの十支派とユダの二支派に分かれました。本来ならば、父が一人なので一つにならなければなりません。誰が一つに結ぶかというと女性達です。』
(世界の女性の復活と解放1993年2月1日ベルベディア)


「嫉妬した関係?それ何?」といえるくらい仲がよくなら無ければまったく意味が無いのではないのでしょうか?喜進の実母の金明煕さんの証にはこのような一節があります。

『イエス様は、わたしに「わたしが、この女性を最後まで愛したとしても、あなたはわたしを愛し続けなさい。三角関係になっても、わたしを最後まで愛しなさい。」とおっしゃいました。わたしは、イエス様の新婦は男女を問わず、すべての人が新婦だと思っていたので、女性だけが新婦になるということは夢にも考えたことがありませんでした。それなのに、イエス様がそのようなみ言を語られるので、妙な思いがしたことがあります。そして、少しばかり嫉妬の思いが生じたことも事実でした。そのような夢のような幻を見た後、わたしには新しい結婚観が形成されたのです。イエス様が、「わたしがあの女性を愛したとしても、あなたはわたしを愛しなさい。」とおっしゃったときに、ねたましく思ったのは、人間の堕落から生じた嫉妬心であると結論を下したのです。それで、その嫉妬心を克服しなければならないという思いを持ちました。結婚して、もし夫が浮気をすれば、その女性の胸ぐらをつかんで引っ張ってくる力と自信はありませんでした。そして、本当に夫を愛するのであれば、そのような夫に愛する女性ができたとき、よく調べて互いに愛し合っているということが確認できれば、二人に結婚までさせてあげようという考えを持ちました。それが愛であるという結論を下したのです。
(金明煕の証「精誠の道、原理の道」)

実際に前妻の崔先吉夫人が韓鶴子夫人にこの様な感情を抱ける状態ではなかったことは、み言葉からも察しがつきます。

『それで、あちらこちらで反対して、自分のやりたいように全部したのです。先生に「この道を行くな」と言いながら、指にかみついたり、つねったり、ひっかいたり、それでも駄目なのでゴム靴の裏でほっぺたをひっぱたいたり、女性からひどい虐待を受けました。そして統一教会の幹部らも、聖進の母親から、ありとあらゆる受難を受けました。ほっぺたをひっぱたかれ、けられたり、糞尿をかけられたり、もろもろのことがあったのです。幹部たちがむち打たれ、あらゆることをされたのです。糞を持ってきてまいたり、ありとあらゆることをしたのです。それこそまさにサタンの役事をしたのです。このような意味で先生は女の人から世界で一番極悪な試練を受けた男であるということを、皆さんは知らなければなりません。皆さん、ソクラテスの妻が悪妻だったという話がありますが、そんなものではなかったのです。』
(真の御父母様の生涯路程3)

上記の内容は、文教祖のみ言葉ですが、これと同じ内容を六マリアの著者の朴正華氏も書いています。そして、なぜ崔夫人がこのような行動をとったのかは、文教祖と女性信者の淫行現場を目撃したからなのです。しかし、文教祖は『聖進の母親は烈女です。ただ一つ犯した罪が何かと言えば、「あなたは私の夫であって、統一教会よりも私の夫の役割をすべきでしょう。統一教会の先生であるよりも、夫であることが先だ」としたことです。それが間違ったというのです。(真の御父母様の生涯路程3)』と述べるにとどめています。

『そんなある日、三千浦へ李鳳雲長老が突然訪ねてきた。李長老は、「水晶洞の教会がたいへんなことになっています。崔先吉さんが、文鮮明先生が婦人の食口たちと復帰の儀式(セックス)をやっているのを見て暴れ出し、食口たちを全部、追い出してしまいました。そして、水晶洞の教会を崔さんが家財道具ごと売り払って、教会がなくなってしまい、集会もできない状態になっているのです。できるだけ早く戻ってきて下さい」と私に言った。(中略)あとでわかったことだが、文鮮明の復帰の儀式に名をかりた目に余る乱脈なセックスに腹をたてた崔先吉夫人は、水晶洞教会で大暴れして、女の食口たちを叩き出した。恐れをなした文鮮明は、女たちを連れてソウルヘ逃げ、清進洞に隠れ家を借りて女たちと住んだ。しかし、そこもわずか一週間で崔夫人に突きとめられてしまった。私が釜山の専売庁支店から帰る直前、文鮮明はあわてふためいて女たちを四散させ、命より大切なはずの原理原本の草稿もそのままに、崔夫人から逃げ出したのである。女の食口たちに囲まれて暮らすことは、つまり乱れた「女護が島」を意味する。なぜなら文鮮明を取り巻く女食口たちは、復帰原理に沿って身体を開き、再臨メシアを自称する文鮮明とセックスを最低三回はしなけれぱ、女として復帰の資格が与えられないからだ。
 当時、文鮮明を先生と仰ぎ、その原理を盲信していた私は、しばしば復帰の実践現場であるセックスを目撃したり、宗教儀式にそぐわない女食口たちの、狂態や矯声を見聞したこともある。だが、あくまでもそれは、再臨主としての務めだと解釈していた。一方で、どうしてもわからなかったことは、なぜ再三にわたって尻に帆をかけたように崔夫人から逃げ出すのか?だった。メシアなら妻の前でも堂々とやれぱよいのに、妻一人伝道できなくて、どうしてこの世が救えるのか?と疑問が湧いてきたのも事実だった。それともう一つ。あれだけ大切な、伝道には欠かせない原理原本を放り投げて逃げ出した文鮮明に、言行不一致の疑いを持ったのも事実である。清進洞から逃げた文鮮明は、また別の場所で女と一緒だったが、それがまたとんでもない事件に発展していくことになった。』
(朴正華著「六マリアの悲劇」より)

文先生の不倫は神の摂理?(1)
文先生の不倫は神の摂理?(2)
文先生の不倫は神の摂理?(3)


また、崔先吉夫人が文教祖と離婚したのも神の摂理だと言っていますが、では崔先吉夫人は反対したほうがよかったのでしょうか?あきらかに矛盾しています。

『ですから、ヤコブが、そのように結婚したことも、先生が離婚するようになったのも、天がさせたのです。レアとラケルのように、二人の兄弟(姉妹)が、一つになることができなければなりません。そのためには、聖進の母親が、そのように妹を育てて、そのようにすることができる、このような立場を助けてあげなければなりませんでした。ところが、それをしないで反対したので、すべて破綻したのです。それで、解放後十四年目を越えて一九六〇年代に、再びお母様を祝福し、第一、第二、第三イスラエルの蕩減歴史を、そのまま同じようにしました。キリスト教が、英・米・仏ができなかったことを、そっくりそのまま蕩減する歴史を、今まで経てきたのです。』
(第十五回「八定式」における御言2003年8月31日イーストガーデン)