地図上で巡る会津若松の旅(3・・・1970⇒1980年の変化・七日町西側編)/過去記事更新
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七日町通り西側(七日町駅前)現況
福島県会津若松市七日町にて本ブログ管理者2017.1.7撮影
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図:福島県会津若松市(全体図/niftyの地図引用・加筆)
★本ブログ内「会津若松市七日町」関連記事
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■地図上で巡る会津若松「七日町」の旅⑧【空き店舗補助条例編】
■地図上で巡る会津若松「七日町」の旅⑨【テナントミックス編】
■地図上で巡る会津若松「七日町」の旅⑫【昭和なつかし館・珈琲館「蔵」】
★会津若松市「七日町(なぬかまち)」について・・・・
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■本ブログ内関連記事 にて概説したとおり、
会津若松市は、人口12万9千人(当時)・・・・・
年間約270万人の観光客が訪れる福島県会津地方の中心都市でありますが、
その中心商業地の一角に位置するのが七日町通りであります。
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七日町通りには、
街の中心である大町四つ角から西にJR七日町駅までの約800mの通りで、
藩政時代には、会津五街道のうち日光、越後、米沢街道の主要道路が通り、
城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていました。
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明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め、
昭和30年代頃までは、2館の映画館を擁するなど
会津一の繁華街としてにぎわっていました。
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しかし、他の地方都市と同じように、
市街地をとりまくバイパスの完通、道路事情の変化により
消費者は、中心市街地から郊外店へと移動してしまいました。
七日町通りも次第に寂れ始め、空き店舗が目立つようになってきました。
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幹線道路(国道指定)のため、車の交通量は、多いものの
買い物客はめっきり減り、
ついには七日町通り商店会も市の商店街連合会を脱退する事になりました。
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そこで、
趣きを失ってしまっていた歴史的建築物の外観を昔の風情に戻し、
保存しながら、城下町らしい特色のある商店街の再生を目指そうと、
平成6年3月に、七日町の、今なお残る古く味わいのある建物を活かして、
城下町らしい特色ある商店街再生をるという目的で
七日町通りまちなみ協議会を発足させるに至ったのであります。
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ここでは、
このような「街の履歴」を持つ七日町通りに着目し、
『街並みの変化』を、
ゼンリン住宅地図上において時系列的に追っていきたいと思います。
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ゼンリン住宅地図「会津若松市1970年」×40%
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ゼンリン住宅地図「会津若松市1980年(1:1500)」×50%
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上図より判別可能な、
1970年⇒1980年における
主な『街並みの変化』を下に列挙します。。。。
(○番号は地図上の注記に一致します)
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①
カネマンベーカリー
板橋魚店 ⇒タジマショッピングセンター
(七日町駅前)
②
トヨタオート福島(現・ネッツトヨタ福島)
⇒会津商工信用組合
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(ちなみに)
トヨタオート福島(現・ネッツトヨタ福島)の移転先は・・・・・
③
福島いすゞ自動車⇒遠山医院
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(ちなみに)
④
会津商工信用組合⇒家具のマルケン
(ちなみに)
会津商工信用組合七日町支店の現在地は、
↑上述②の場所。
⑤
二瓶商会
と
会津タクシー
(の、間の土地)に、コンビニニエンス・ストア新店舗が出店・・・・
1980(昭和55)年の時点で、
既に、
福島県会津地方においてセブン-イレブンの進出が見られます。。。
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七日町駅前の踏切から向こう側も見てみよう♪
福島県会津若松市七日町にて本ブログ管理者2017.1.7撮影
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西七日町(旧「祝町」)
国道252号線から南側の斜めに区割りされている地区で、かつて昭和11(1936)年3月時点で95戸、565人が暮らしていたそうだ。
読み方は「イワイマチ」。
1967(昭和42)年に現在の西七日町という地名に変更されている。
一時期は「七日町九丁目」という通称もあったそうだ。
当時の地区内における主な産業は食肉商、製革業 草履製造。
(福島県会津若松市西七日町にて本ブログ管理者2017.1.7撮影)
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西福寺
この寺を境にして、
若松城(鶴ヶ城)に近い方を「上」、
遠い方を「下」と呼んでいたらしい。
(福島県会津若松市西七日町3−34/本ブログ管理者2017.1.7撮影)
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西七日町地区の南側を散歩する♪
「上」は旧○多系で肉屋が多い。
(福島県会津若松市西七日町にて本ブログ管理者2017.1.7撮影)
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西七日町の西側街区
「下」は竹細工を主とする恐らく旧○人系で
履物や樽や竹刀を作って暮らしていたと推定されている。
(福島県会津若松市西七日町にて本ブログ管理者2017.1.7撮影)
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柳橋(涙橋)
会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、
付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので
古くは楊柳橋と称された。
(福島県会津若松市橋本2丁目6/本ブログ管理者2017.1.7撮影)
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今も井戸の跡が残る「涙橋」の別称由来
藩政時代になると、
柳橋の200m程の下流の薬師川原に処刑場が設けられ、
ここから舟に乗せられ処刑場に向かったといわれている。
この場所(橋の上流右岸袂)には休み小屋がおかれ、刑場にひかれる罪人は、ここにあった井戸の水で家族等と水杯を交わして別れを惜しんだそうだ。
そのため
この橋はいつしか「涙橋(なみだばし)」と呼ばれるように
なったのかもしれない。。。
(福島県会津若松市橋本2丁目6/本ブログ管理者2017.1.7撮影)
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柳橋(涙橋)の200m下流現況
左岸側に藩政時代キリシタンが多数弾圧・処刑された場所の印として、
現在も「キリシタン塚」が残存している。
まさしく、ここは藩政時代における処刑所の跡なのだ。。。
(福島県会津若松市神指町橋本にて本ブログ管理者2017.1.7撮影)