【三橋貴明】新自由主義と「青春の詩」【日本のグランドデザイン】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

 前回、前々回の記事で、三橋貴明氏の「グローバリズム」に関する変節を追う記事を書いた(http://urx3.nu/oYPnhttp://urx3.nu/oYPr)。
 「グローバリズム」をキーワードにして、三橋氏が変節して不合理な安倍叩きをしているということが伝わればいいなと思う。
 記事に対する反応をいくつか見た。
 変節に変節を重ね、もはや「三橋貴明vs三橋貴明」状態になっているという感想が多いのかなと思った(http://urx3.nu/oZzfhttp://urx3.nu/oZzgなど)。
 違った反応の1つがこれ。


みさぎ和ツイッター 2015年10月29日
http://urx3.nu/oZzm



 おもしろい読みだと思った。
 安倍内閣は国益を守る姿勢で粘り強くTPP交渉をし、そしてTPPは「亡国最終兵器」(http://urx3.nu/oYSc)と呼ぶには弱すぎる代物になってしまった。日本はアメリカのいいようにやられなかった。
 これはTPP亡国論ビジネス的にはマズい。
 そこでTPPに関連して「農協改革」をスプリット・アウトして局所拡大して目先をズラしてみたり、グローバリズムという言葉を介して「移民」や「帝国主義」など、手当たり次第に亡国論を撒き散して煙に巻く。
 緊縮財政についても、安倍総理大臣は緊縮財政で実質賃金を下げる貧困化政策を行う「黄金の拘束衣を着た首相」だとしており、半ば亡国論か(http://urx3.nu/oZzr)。
 「亡国」を銘打つと売上がいいという単純な話のような気がしないでもないが、こういう読みもあり得るのかなと。

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 三橋氏が参院選に出る前から彼を支持していたakiraさんの感想も、大変示唆を得られた(http://urx3.nu/oZzt)。
 政治に顧客視点を持ち込もうと言っていた三橋氏が、今や選挙に立候補する意思も見られず、言論ビジネスとして顧客視点を探っている。
 ブルーオーシャンの市場の顧客を狙うわけだが、アベ倒せのアカい市場の顧客に狙いを定めているのではないか。
 もはや彼自身が批判していた「絶対的価値観の持ち主」になってしまっているのではないか。そしてそうなることに心の痛痒はなさそうだ。
 これを読んで私が思ったのは、三橋氏が「ブレイクダウン」という考え方をするということだ(http://urx3.nu/oZzA)。
 物事を解決するためには、その物事を局所的に見るのではなく、全体像を大局的に俯瞰しながら徐々に細分化して考えて、その物事の解決に到るという考え方だ。
 今の三橋経済論の体系を考えるに、最上位に「経世済民≒安全保障」を置く。そこからブレイクダウンすると「反新自由主義=反規制緩和、反グローバリズム(保護主義)、反緊縮財政(公共事業拡大)」となり、さらにそれぞれについてブレイクダウンがなされていく。
 そして、新自由主義に陥った安倍総理大臣を倒すことが経世済民であり、安全保障だ、ということになる。
 「反新自由主義」「反安倍」を絶対的価値観とする思考体系がありそうな気がする(あくまで憶測。なお、三橋ブログを検索すると「経世済民」の語が頻繁に見られるようになるのは平成24年の末頃からで、TPP反対論を深める時期と重なる印象。経世済民とTPP反対を結びつける記事としてhttp://urx3.nu/oYSr。この語の初出は平成22年12月22日の記事で、中野剛志氏のTPP反対論も載っている。http://urx3.nu/oYSA)。
 三橋氏の論理の立て方でおもしろい(?)のは、安全保障を重んじるという保守の感覚に始まって、なぜか最終的にはアカいところに行きつくことだ。
 私が挙げた「反新自由主義=反規制緩和、反グローバリズム、反緊縮財政」だが、これらを一言でいうと、統制経済・計画経済の傾向があるのではないか。
 三橋氏はかつてはインフレ期・デフレ期で適切な経済政策は逆になると言い、統制経済・計画経済的政策もデフレ期という非常時の出番に過ぎないということだったが、今はそういう政策を安全保障と関連づけているため、これが常時原則の政策になってしまっているという印象がある(http://urx3.nu/oYTlhttp://urx3.nu/oYPP)。

 前回、前々回の記事を一通り書き上げてから、三橋貴明「日本のグランドデザイン 世界一の潜在経済力を富に買える4つのステップ」(講談社、2010年)の、グローバリズムに関連する内容がありそうな項目を読んでみた。これは今年の3月頃に古本で買った(http://urx3.nu/oYPH)。
 本書は「日本の未来、ほんとは明るい!」と同時期、つまり三橋氏が参院選に出た時に出版されたものだ。
 私が見る限り、「グローバリズムがデフレを悪化させる」という記述はなかった。自由貿易について問題意識は特にないように思った。
 前回の記事で、私はソ連とソマリアについて触れたが、奇しくも、「生産力と供給力の維持・向上こそが国家経済の意義」という項目にこの2国が出てきた。
 「輸入は供給力の向上だ。デフレ期にはダメ。」という記述があるのかなと期待して読んでみたら、そういう記載はなく、こんな記載が出てきた。


「 物やサービスが十分に供給されない状況とは、どのような経済環境だろうか。ずばり、インフレーションが最悪な形で進行した社会だ。
 インフレ下では、国内の需要に対し供給が不充分で、物やサービスの価格が日に日に上昇していく。ソ連崩壊後のロシアは極端な物不足に陥り、商店の前で行列するロシア人の姿がたびたびテレビの画面に流された。あれこそが、国家経済の破綻である。
 すなわち、
「物・サービスの生産と流通を滞らせないこと」
が、達成されていない状況だ。
 逆の言い方をすれば、国家経済の究極的な目標は、ソ連崩壊後のロシア、あるいは近年のジンバブエやソマリアと真逆の状況を維持することなのだ。すなわち、物やサービスの生産・流通の仕組みを崩壊させないことである。
 近い将来はもちろん、1000年後に至っても、日本国内の物やサービスが適切な品質で生産され、末端の消費者まで供給され続ける――これこそが国家経済の真の意義であり、国家のグランドデザインを描く際の根本的なコンセプトなのである。
 すなわち、国家経済の意義とは「お金」の話ではないのだ。生産力と供給力の維持、あるいは向上こそが、国家経済の目標であり、存在意義というわけだ。」(83ページ)

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 ソ連やロシアのようになってはいけない。
 真に正しい問題意識だ。
 にもかかわらず、前回の記事で書いた通り、今の三橋氏の経済論を聞くと、ソ連が思い浮かんでくるし、アカっぽいのだ。
 また、ソマリアに目配りしていたら、難民問題とグローバリズムを結びつけるという発想にもならないのではないか。
 「国家のグランドデザインを描く際の根本的なコンセプト」が変わってしまったからこそ、「2013年 大転換する三橋貴明」「2014年 三橋経済論連鎖破綻」「2015年 暴走する三橋貴明」状態になり、「三橋vs三橋」状態になってしまったのではないか。

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 三橋氏は先月28日、帝国主義を「相手国の「住民」から主権を奪い、あるいは主権を与えず、所得を継続的に吸収する仕組みを構築することを意味する。相手国の「住民」の主権を奪い取る手段は、何も軍事力の行使には限らない。」と定義した(http://urx3.nu/oYTQ)。これは前回の記事で紹介した。
 「日本のグランドデザイン」にも、「世界帝国」の定義が書かれている。


「 文明論者として名高い増田悦佐氏は、「世界帝国の定義」について、
世界中の人々が憧れ、ライフスタイルを真似したくなる国こそが、世界帝国です」
 と、解説してくれた。そういう意味で、20世紀のアメリカが「世界帝国」の資格を持ち合わせていたことについて疑いはない。」(106ページ。260ページにも同様の記載あり)


 「帝国」について、イソップ寓話の「北風と太陽」ほど印象が逆さまになっている。
 かつては、相手国がライフスタイルを自発的に真似したくなるような「太陽」が帝国であり、今は、相手国のライフスタイルを無理やり奪う「北風」が帝国だ。
 なんとなく、三橋氏自身も「太陽」から「北風」に変わってきたような気はする。
 
 平成25年、三橋氏は二階俊博衆議院議員に好感を示し、族議員の否定は民主主義の否定だなどと言って擁護した(http://urx3.nu/oYT0http://urx3.nu/oYT5http://urx3.nu/oYQ3)。
 「日本のグランドデザイン」にはこんなことが書いてある。


「 ・・・「リニア&新幹線ネットワーク」は、国家プロジェクトとして構築されなければならない。その際に注意しなければならないのは、各公共投資に地元の利権や都合を絡めてはならないという点だ。
 リニア&新幹線ネットワーク・プロジェクトは、徹底的に地元を「無視」して進めなければならない。あらかじめ選定された中核都市以外への高速鉄道の停車は、可能な限り排除する必要がある。それで不便を訴えてくる人々がいたら(絶対にいるだろう)、堂々と「中核都市への移住」を政策として訴えなければならない。その際に苦情をいってくる政治家などには、正面から「国家のグランドデザイン」や「文明フェーズの移行」を唱え、強行突破を図る必要が出てくるだろう。
 別に「癒着」や「利権」と呼ばずとも、公共投資と政治家が結びつくのは自然なことだ。地元の有権者の歓心を買いたい政治家は、新幹線の駅やルートについて様々な声を発信してくるだろう。
 政治家が地元の「代表」として声を上げるのは当然のことだが、現実問題として、すべての日本国民を満足させる新幹線ネットワークの整備など、できるはずがない。駅やルートの調整が必要になった場合は、
「将来の供給不足を解消するための投資支出により現在の需要不足を補う」
 という国家のグランドデザインの戦略を思い返し、目的から外れる投資を行うことを避ける必要がある。政治家の「地元優先」の心意気をくんでいては、文明フェーズの移行などできるはずがないのである。
 かなり驚いてしまったのだが、長野県のホームページ「リニア中央新幹線の整備促進について」には、中央新幹線(リニア新幹線)が長野県を突っ切るルートで、「リニア中央新幹線の概要」として、堂々と掲載されている(167ページ図3-5参照)。この種の地域エゴや政治家のわがままに振り回されていては、できるものもできなくなってしまう。
 筆者は確かに公共投資前面悪論に異議を唱え、成長を目的とした公共投資の復権を叫んでいる。とはいえ、この種の地域主義や政治家の得票主義に基づいた公共投資を、さすがに「悪」と呼ぶことに、躊躇いはない。
 日本国家の将来のために「国家レベル」で推進されるべき事業が、地域エゴにより歪められてはならない。資金面はもちろん、政治的な面からも、リニア新幹線は国主導で実施するべきものなのである。」(164,165ページ)


 本当に「躊躇いはない」の?
 二階議員をフルボッコにする覚悟はあるの?

 三橋氏は、先月8日、サミュエル・ウルマンの「青春の詩」を紹介した。
 なお、この記事で示された国境線を越える要素のないグローバリズムの定義については前回、前々回の記事で述べた。


「未来のための投資」 三橋貴明ブログ2015年10月8日
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12081823180.html

「 サミュエル・ウルマンの「青春の詩」の一節をご紹介します。

『青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう。薔薇の面差し、紅の唇しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。年を重ねただけど人は老はしない。理想を失うとき初めて老いる。(サムエル ウルマン「青春の詩」より)』

 理想を失うとき、人は初めて老いる。その通りだと思いますが、人間には最終的には寿命に勝てません。人間はいずれにせよ、老いるのです。

 それに対し、国家には寿命がありませんし、本来的には「老いる」ことはありません。

 なぜ「本来的には」と書いたかといえば、国家は確かにある状況になれば「老いる」のです。すなわち、未来のための投資が減少したときです。

 投資とは「未来」のために行われる経済行為です。未来のために投資をすることで、国民経済は成長し、国家は「青春」を維持することができるのです。

 特に、建設投資はインフラ(国家の下部構造)を建設する、「投資の中の投資」です。我が国は橋本政権以降、未来のための「投資の中の投資」を削減していき、結果的に老い、青春を失っていっています。


 三橋氏はこの詩を、公共事業を増やさないからインフラが老朽化して日本国は青春を失っている、と解釈する。
 なぜ私がこの部分を取り上げたか、参院選当時の三橋ファンならピンときたのではないか。
 「日本のグランドデザイン」の冒頭が、この詩なのだ(12ページ)。
 三橋氏は巻末でこの詩の解釈を述べる。
 確かに、本書でもインフラの老朽化は指摘されてはいる(202~208ページ)。
 しかし、当時の三橋氏はこの詩をインフラ老朽化の問題に直接に結びつけてはいない。


「 本書、冒頭に掲げた、サムエル・ウルマンの「青春の詩」(岡田義夫・訳)を再掲しよう。

 青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう。薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いはしない。理想を失うとき初めて老いる。

 まさしく、現代の日本を悩ますのは「心の持ち方」の問題である。自国が成長できないと勝手に決めつけ、祖国のあら探しばかりに精を出し、他国を無意味に賞賛する一部の人々のために、日本国民が理想を失ってしまった。
 ――それこそが、問題なのだ。
 とはいえ、問題が「心の持ち方」である以上、逆にいえば、単にコミュニケーションのみで解決することが可能なのだ。
 お金や人材、技術などのリソースが決定的に不足している国に比べ、日本が抱えている問題の解決は、どれほど楽なことであろうか。
 日本の問題は、人々が理想を取り戻し、再び夢や希望を持ち始めれば、容易に解決する類のものに過ぎない。筆者が本書「国家のグランドデザイン」の構想を抱いたのも、まさに多くの日本人に理想や夢、そして希望を取り戻して欲しかったからに他ならない。」(263,264ページ)


 三橋氏はこの詩を、理想を失ってしまったから日本国民は青春を失っている、と解釈する。
 青春を失ったのは日本国民であり、日本国ではない。
 青春を取り戻すために必要なのは「心の持ち方」を改めるコミュニケーションであり、老朽化したインフラを更新する公共事業ではない。
 同じ詩の解釈でも、ここまで違ってしまうものか。
 しかも初の選挙の際に出した代表作の1つに載せた詩、それも重要な詩について、何の断りもなく解釈を変えてしまう。
 さらに言えば、今の三橋氏の解釈の方が我田引水的であり、歪んでいる。
 三橋氏の「心の持ち方」はコミュニケーションで解決できるのだろうか。
 中野剛志氏とのコミュニケーションを通じて、三橋氏は「心の持ち方」を大きく変えてしまったのだろうか。

 前回の記事で「新自由主義」についても触れたが、三橋氏は昨年3月、倉山満氏に「新自由主義」「新古典派的な政策」の出典を問われ、これに答えなかった(http://urx3.nu/oYSU)。
 三橋氏は、新自由主義について、「顔のない独裁者 「自由革命」「新自由主義」との戦い」(PHP研究所、2013年)という作品の企画監修をしている(さかき漣著、帯に藤井聡氏の推薦文。http://urx3.nu/oYTB)。
 この出版に際して、三橋氏はチャンネル桜の「さくらじ」に登場するのだが、この番組の異様さは印象に残っている。
 新自由主義について妄想を深め、恐怖を募らせていくのだ。
 ちなみにこの後、司会の古谷経衡氏は三橋経済塾に入った(https://youtu.be/ADYO3rvIPXA)。霊感商法のように見えた。

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「【古谷経衡】さくらじ#110、三橋貴明&さかき漣「顔のない独裁者vs顔の出ない出演者」【saya】」 YouTube2013年11月8日
https://youtu.be/BbDFuqC_kcw

※ 三橋氏は、「新自由主義」と「新古典派経済学」を区別していない(25分55秒~)。
※ 2年前の長い動画なので今さら見る人はほとんどいないと思うが、疑義のあることを言っている。
  たとえば、某T社(おそらくトヨタ)のある人が「日本には底力がある。なぜTPPを恐れるのか。」と言ったことについて、三橋氏は「自分が負けることを想像しないのか。傲慢だ。共存を考えないのか。」などと言う(1時間10分56秒~)。
  ケインズが指摘した「アニマル・スピリット」をどう考えているのか、疑問だ(前回の記事では「労働意欲」と書いたが、アニマル・スピリットと言ってもよかったかもしれない)。
  ある解説によれば、「貨幣錯覚」はアニマル・スピリットの一側面だとのことだ(http://urx3.nu/oYS1)。
  とすれば、デフレ脱却過程における実質賃金下落を殊更に問題視する三橋氏は、貨幣錯覚を否定し、アニマル・スピリットを否定し、ケインズを否定しているのではないか(関連記事としてhttp://urx3.nu/oYQf)。
  三橋氏は合理的経済人を念頭に置く新古典派経済学を批判しながらアニマル・スピリットに反する主張をするが、矛盾していないか。
  今にして思えば、この時点で「実質賃金ガー」の兆候があったのかもしれない(なお、上念司「経済用語 悪魔の辞典」(イースト・プレス、2015年)210ページ以下の「偽装保守」の解説を見てほしい。偽装保守の行動例に「実質賃金ガー」が挙げられている。三橋氏は保守を自称しないが、この動画でも紹介されている通り、中野氏は「保守とは何だろうか」(NHK出版、2013年)という本を出している保守言論人であり、「実質賃金を下げれば、雇用が生まれるというのは、典型的な新自由主義の発想です。」と言って「実質賃金ガー」を焚きつけた張本人でもある。http://qq3q.biz/p1fn)。
  ちなみにこの動画で三橋氏は、TPPで日本が大勝利して市場を席巻することも、所得収奪の植民地主義であり、帝国主義だからダメだ、ということも言っている(1時間11分48秒~)。
  消費者の自由な選択による淘汰と、権力によって消費者の自由な選択を奪う搾取・独占とが、一緒くたにされている感あり。

 新自由主義で都市に人口が集中するとやがて東京一極集中になって首都直下地震が来て日本滅亡、みたいに、飛躍した話が出てくる(40分55秒~)。
 そこまではまだいい(従来の三橋氏の主張と矛盾はするが。三橋氏は、「日本のグランドデザイン」146~151ページにおいて「人口の都市への集中を」という項目を設けて、地方の高齢者を説得してでも都市への人口集中を推進せよと主張していた。)。
 45分20秒から、古谷氏が「非効率が無駄なら文化は無駄ということになる」という指摘をし、これに端を発して明らかにおかしくなる。

新自由主義の世界では芸術は費用対効果を失しているということで衰退する。
経済学は経済合理性しか考えない経済人を想定して理論を組み立てているから文化も非常事態も想定しない。
・経済学は営利すなわち金儲けそのものを目的としていて人間性を否定している。
・経済学はグローバル市場の勝ち組に利用される道具だ。
・規制緩和されたルールなき市場では勝ち組が勝ち続ける。
・強者と弱者を競わせる自由競争は欺瞞だ。
・経済学は弱者切り捨てで人道に反する。
・ネアンデルタール人ですら弱者をいたわる心があったのに新自由主義的な現代人はどうよ。
・助け合いが大事だということを「尊敬していた人」(安倍総理大臣)は理解しているのか。
・わかりやすい考え方に飛びつくのは保守ではなくて全体主義であり「自由化」「構造改革」に飛びつくのは人間の退化だ。
・新自由主義・新古典派経済学は助け合いを考えない弱者切り捨ての思想だ。
・現代日本は助け合いを忘れた最終局面に辿り着いた。
・これから新自由主義が進行すると(無駄が許容されず、効率化が進行して)世の中が同じような物で溢れかえる均質化が進んで欲しいものがなくなっていく。
自由主義・市場主義は競争を奨励して同種同族同士で戦わせていて自然の摂理に反している、人類滅亡への道だ(三橋新著は人類救済の書だ)。
無駄を省いて均一化する新自由主義社会で芸術家の価値は薄れて淘汰されていなくなってしまって人間らしく生きられなくなる。
・わが国を世界のリーダーにするために反新自由主義闘争をしよう。

 大体こんなノリだ。
 想像力の欠如も問題だが、想像力が逞しすぎるのも問題だ。
 ていうか、経済学が非常事態を想定していないってホンマかいな、と思う。それこそ経済学が盛んなアメリカは第二次世界大戦後も戦争という非常事態を経験し、今まさに軍事費削減・戦費調達の問題に直面していて、私が想像するに、経済学が非常事態を想定していないとは、ちょっとあり得ないんじゃないかと思う。これこそ想像力の欠如という気がする。
 皮肉っぽく言えば、三橋氏や中野氏が重視する「ショック・ドクトリン」的に考えると、新自由主義に基づく抜本的改革が採用されるのは戦争や災害という非常事態によって恐怖が蔓延した時なので、ある意味で非常事態を想定しているのではないか(ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上」(岩波書店、2011年)223,224ページには「フリードマンの危機理論はますます自己強化される。」「シカゴ学派のモデルには「危機」が組み込まれている。」との記載あり。新自由主義の代表格であるフリードマン氏は危機という非常事態を想定しているということになる。)。
 規制が緩和されても規制が無くなるわけでもないし(あくまで緩和)、金融取引の規制を緩和したアメリカでは、リーマン・ブラザーズが大問題を起こし、そして倒産したわけで、勝ち組が勝ち組であり続けるわけでもない。
 新自由主義の恐怖について、経世済民ならぬ自己催眠を深めているように見えた。
 空き地さんが「ドミノ理論」を紹介している(http://urx3.nu/oZzI)。
 これは「一度ある事件が起これば、次々と連鎖的にある事件が起こるとする理論」だ。
 ああなればこうなる、という仮定(想像)を重ねているうちに、ほとんどあり得ない結論に到る。
 三橋氏はこの動画で、新自由主義について仮定を重ね、日本滅亡を通り越して人類滅亡というところまでイってしまった。
 新自由主義で文化も滅んでしまうらしい。

 しかし、新自由主義の先駆けであるアメリカを思うに、均一化して文化に見るべきところがなくなっているのだろうか。
 私にはそうは思えない。

 ちなみに、確かに、新自由主義の権化扱いされている竹中平蔵氏は、文化は非効率だという旨を言う。
 しかし、だからこそ文化を存続・普及させるために補助金や寄付金を投入するべきだとし、また、補助金を出すにしても官僚にその権限を与えると有名人ばかりに補助金を投入してしまって格差拡大になってしまうおそれが強いという問題意識を示す(関連記事としてhttp://urx3.nu/oYQn)。


竹中平蔵 「日本経済こうすれば復興する!」 (アスコム、2011年) 50~55ページ

4 「日本は文化大国である」のウソ

 最近、日本の文化の力を見直す動きが目立っています。
 日本のアニメ、漫画、ゲームなどが世界で注目され、人気を集めるようになってずいぶんたちます。
(中略)
 考えてみれば、日本文化が急に向上したのではなく、それは昔から優れていました。しかし、日本では強い経済が前面に出て文化が陰に隠れ、あまり注目されなかった。皮肉なことに経済が悪くなって、相対的に日本文化が大きな注目を集めたわけでしょう。「日本経済はダメでも日本は文化大国だ」というような、一種の開き直りもあるようです。
 私自身、日本文化は誇るものであり、これを大切にしなければならないと思います。経済交流と文化交流を一体化させて日本の力をアピールすることの必要性も強く感じ、政府の仕事をしたときは少なからず政策に反映させたつもりです。だからこそ、日本は文化面でも自信過剰になってはいけないと思います。
 そもそも文化とは何でしょうか。文化を定義することは容易ではなく、この本で述べる紙幅もありません。ここでは、文化を経済の営みと比べたとき浮き彫りになる特徴的な問題を紹介します。まず指摘すべきは、文化というのは、何らかの経済的な支えが必要だということです。これは文化経済学の重要なエッセンスの一つです。私も慶應大学で「アートと社会」という講座を受け持って教えています。
 文化経済学の産みの親の一人とされる経済学者ウィリアム・ボーモルは「ボーモルのコスト病」という考え方を示しました。たとえば自動車産業では、時の経過とともに技術革新や改良が進み、生産性が向上して賃金も上がります。マーケットでは生産性に応じて賃金が支払われるからです。しかし、文化の生産性は向上しません。
 10年前に50人で公演したオペラを今年は30人でできるかというと、やっぱり50人必要です。しかし、自動車工の賃金と同様、オペラ歌手や演奏家の賃金も上げなくてはなりません。そうすると、文化のコストはどんどん高くなっていきます。10年前に5000円だったオペラのチケット代が今年は8000円というわけです。これがボーモルのコスト病です。
 この状況を放っておくと、文化は一部の金持ちしかエンジョイできなくなります。だから、多くの人びとに文化を享受してもらうためには、国が補助金を出すなり、金持ちが寄付するなり、何らかの支えが必要なのです。

文化予算はフランスの10分の1、韓国の5分の1

 そこで日本の状況を見ると、日本には文化を支えるメカニズムがほとんどないと断定せざるをえません。画家でも音楽家でも役者でも、アーティストは世界中どこでも苦労していますが、日本のアーティストは格段に苦労していると思います。
 というのは、文化庁には予算1000億円がありますが、国民一人当たりの文化予算では日本はフランスの10分の1にすぎないからです。さらに驚くべきことに、日本の一人当たりの文化予算は韓国のたった5分の1なのです。「日本は文化大国」は大ウソです。
 興味深いのはアメリカです。アメリカは、日本の10分の1の国家予算しか文化に使っていません。それなのにニューヨークには、ニューヨークフィル、メトロポリタンオペラ、ニューヨークシティオペラ、ニューヨークシティバレエがあります。劇場、ホール、芸術学校、図書館などが集中するリンカーン・センターを訪れて、アメリカの文化大国ぶりに圧倒されない日本人はいないでしょう。これは、アメリカが寄付大国で、誰でも寄付するか税金を払うかを選ぶことができる(寄付した分の税金をまける)という制度があるからです。
 日本は国の補助金が不十分で、しかも民間が寄付する制度が整っていません。それでも日本文化は民間の経済がなんとか支えてきました。それが弱くなっていますから、文化だけが強いまま存続することはありえません。08年9月のリーマンショック以降、民間からオーケストラへの寄付がどんどん減っています。しかも財政難によって国や自治体の補助金も打ち切られているのです。私たちは、日本文化を育て、そのパワーを活用するための戦略を持たなければなりません。
 日本の文化政策に特徴的なのは、カネを出す役所が文化やソフトウエアとは何かを充分理解しないままに、ハード至上主義の箱もの行政に偏ってきたことです。
(中略)
 文化に対するおカネの出し方の理想はアメリカ型だ、と私は思います。官僚に文化予算を配分させると、目利きができずエクスキューズがほしいため、名前がある人に補助金を出すといった無難な配分しかできません。実際、邦楽の世界で文化庁の賞や奨学金をもらうのは家元の息子ばかりだと言われています。これは文化を劣化させます。歌舞伎役者が「俺は人間国宝になるんだから生涯で何億円もらえる」と口走ったのは、貧困な文化行政の象徴です。
 文化や芸術の世界は、コスト病と並んでもう一つ、大きな特徴があります。それは少数のスターと大多数の売れないアーティストが生じる極端な所得格差の世界だ、ということです。その世界に無難な補助金を出すと、文化事業が公共事業以上に既得権益層を作ってしまいます。その既得権益層が、政治家や役人の推薦を受けて勲章をもらったりするわけです。そんな文化大国とは何だろうと、私たちは真剣に問わなければなりません。」

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 三橋氏が語る新自由主義の印象と随分違うのではないか。
 経済学が効率性一辺倒で文化の保護を考えていないなど、言いがかりであり、勉強不足なだけだ。
 竹中氏は、文化は非効率だから滅びろとか、弱者切り捨て・格差拡大は当然だとか言うどころか、むしろ逆のことを言っている。
 新自由主義で文化が無駄扱いされて消滅するというのは、お門違いの批判だ。
 どの「お門」に向けられるべき批判かといえば、共産主義だろう。
 共産主義体制下では、歌も自由に歌えない(http://urx3.nu/oYS5)。

 三橋氏はかつて、「治安は悪化している」というマスコミを、「治安の悪化」の定義が不明だ、「必要以上にセンセーショナルな報道をする」とし、一次資料を示して反論を加え、マスコミこそが体感治安悪化の最大の原因だと批判した(「日本の未来~」30~38ページ)。
 かつての三橋氏であれば、「新自由主義で文化が滅びる」という「センセーショナル」な言説に対して、「文化の滅亡」の定義から説き起こし、一次資料を示して反論することを考え、文化経済学にも気がついたのではないかと思う。
 なお、「新自由主義」が初めて出てくる三橋ブログ記事は、平成20年5月20日のもので、奇しくも「治安の悪化」を論じるものであった(http://qq3q.biz/p16q)。
 「厭世的プロパガンダを展開している、確信犯なメディアはともかく、こういうヒステリックな人たちへの対処法は一つしかないと考えています。それは「事実(データ)」を突きつけ、彼らの誤りを容赦なく指摘し、わたしが上でやったように盛大に嘲笑して差し上げることです。」「厭世的プロパガンダを展開するメディアは、少々の非難ではくじけません。・・・事実を認めざるを得なくなったとき、今度は・・・電波論を展開するでしょう。これは予想と言うより、予言です。」
 「安倍はダメだ」と厭世的な亡国論プロパガンダを展開し、少々の非難ではくじけず、だんだんと電波がかってくる。
 なるほど。・・・あれ?
 なお、「勿論、わたしは犯罪学の専門家でも何でもないので、あくまで仮説ですが」と、ドミノ理論に陥らない慎重さも見られる。
 この記事で「新自由主義で治安が悪化する」という主張が出てくると思いきや(上記動画31分27秒から警察の民営化に言及)、「新自由主義の精神的支柱」のハイエクの「社会主義者から我々は学ぶ者<ママ>は何もないと思っていたが、たった一つあった。それは彼らが、繰り返し語ることだ」を引用して結んでいる。
 新自由主義批判はなく、社会主義を批判していた。

 またも三橋氏と倉山氏の訴訟の感想を述べる字数的余裕があまりなくなってしまった。
 先月23日、三橋氏は「完全勝訴」を宣言するが、請求内容や、三橋氏が引用しなかった訴訟費用についての判決主文を見るに、一部認容判決に過ぎず、「完全勝訴」とは呼べない代物だった(http://urx3.nu/oZzbhttp://qq1q.biz/p0tghttp://urx3.nu/oZz7 なお、控訴中)。
 一部認容判決は、一部勝訴であるとともに、一部敗訴でもある。
 「完全勝訴」は嘘だ。
 特に訴訟費用が注目されている。
 訴訟費用は通常、敗訴者が負担する(訴訟費用敗訴者負担の原則。民事訴訟法61条。伊藤眞「民事訴訟法 第3版再訂版」(有斐閣、2006年)547ページ)。一部敗訴の場合には、裁判所の裁量でその負担が定められる(同法64条)。
 一部敗訴の場合に訴訟費用の負担をどう案分するか、その基準は私も知らないが、三橋氏が訴訟費用の13分の10を負担しているのは気になるところだ。半ば濫訴扱いなのではないか。
 それにしても、「三橋貴明氏に関して事実に反する記載」と認められた記載とは、倉山満「増税と政局 暗闘50年史」(イースト・プレス、2014年)の具体的にどの記載なのだろう。
 倉山氏は誇張した表現を使うが、これが事実に反するということなのだろうか。たとえば、麻生太郎財務大臣は三橋氏の「飼い主」だという記載があるが、これは言い過ぎだと言えばそうだとも言える。
 逆に、三橋氏の主張が認められず、事実に反していないと認定された部分があるのかも気になるところだ。三橋氏を「偽者」呼ばわりした記載は、どのように判断されたのだろう。
 言論業界では、言論で決着を付けるのが作法であり、訴訟に出るのは邪道らしい。
 また、民主政治においては政治的言論を萎縮させる真似は慎まれるべきだ。特に、三橋氏は「グローバリズムから民主主義を守れ」と主張し、民主政治を重んじる立場である。
 とはいえ、「訴訟はダメ」とも言い難い。三橋氏から攻撃したならまだしも、三橋氏は攻撃された側であり、我慢しろとも言い難いものがある。
 三橋氏が訴訟に出たことの適否はよくわからないところではあるが、三橋氏は、一部認容判決を得たものの(確定していないが)、失ったものも大きいのではないか。
 言論活動をビジネスと割り切るにしても、ビジネスでは信用が大事だろう。
 三橋氏は、倉山氏によって低下させられた信用を回復すべく訴訟を提起し、そしてその結果を報告する記事を書き、嘘つきを非難したわけだが、その記事で自らが「完全勝訴」という嘘をついてしまった。
 信用を回復するはずの記事で、自らの手でこれを毀損してしまった。
 三橋支持層の多くはネットユーザーだと思われるが、こういうスキャンダラスな話はネットユーザーに広く知れ渡るだろう。
 三橋氏は今回の訴訟によって自身の信用のいくらかを回復したかもしれないが、それ以上に、失った信用の方が大きいのではないか。
 「青春の詩」が紹介される三橋ブログ記事はもう1つあって、その記事で三橋氏は、「青春の詩」は「日本の現状と解決策をあまりにも見事に表現している」と言う(http://qq3q.biz/p22s)。
 三橋氏は、新自由主義批判に傾いて、現状認識が歪み、解決策も歪み、「心の持ち方」も歪み、「青春の詩」も素直に読めなくなり、自らの手で言論人としての「青春」に終止符を打ってしまったのではなかろうか。