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「今日は何の日~毎日が記念日~」

http://ur0.work/u1SQ

 

「小学校開校の日

1869年のこの日、京都市に日本初の小学校「上京第二十七番組小学校」が開校した。

住民が自分達で資金を調達して開校したものだった。」

 

 

 京都市のHPによると、当時の小学校では、

 

 

「教育は府独自の規則により,筆道,算術,読書の3教科を中心として行われました」

 

 

とのことだ(http://ur0.work/u1SS)。

 大・中・小学校の区分を規定する「学制」は明治5(1872)年8月に発布されたので、これに先行して小学校ができていたということになる(同上)。

 

 明治時代の小学校教育には「教育勅語」「修身」が存在した。

 修身はこの「学制」発布時の「被仰出書」(おおせいだされたるふみ)の中で重要性が指摘されている。

 他方、教育勅語は明治23(1890)年に渙発され、教育勅語に基づいて修身教育を行うことを示す「小学校教則大綱」が発せられたのはさらにその翌年の明治24(1891)年だ。

 小学校ができてから20年以上、教育勅語もなければこれに基づく修身教育もなかったということになる。

 

 現在の日本では、教育勅語およびこれに基づく修身は、軍国主義の危険思想教育であると捉えられがちで、近寄りがたいという印象が広まっていると言えるだろう。

 しかし、実態とは大きくかけ離れている。

 わが国が古来より積み重ねてきた道徳を教えるものであり、特に教育勅語は欧米でも通用するような穏当な内容だ。

 一応、戦争が始まってしばらくすると、修身にも軍国色が入ってきたらしい。

 しかし、例外的な一時期を取り出して全体を否定するのは不当である。

 

 

渡部昇一監修 「国民の修身」 (産経新聞出版、平成24年) 11~19ページ

 

「修身」は人間としての基礎を教えている

渡部昇一

 

 国があり、家があり、自分がある

 

 「修身」という言葉が普及し、四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を「修身・斉家・治国・平天下」という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に記憶されるようになったからである。

 この『大学』の言葉は支配階級の人たちの心がけの順序として教えられたのであった。天下を治めようとするなら、まず自分の国(領地)をよく治めなさい。自分の国を治めるには、まず自分の家をよく平和に保つように斉(ととの)えなさい。自分の家を斉えるには、まず自分自身が修養して立派な人格を作らなければなりませんということである。これは朱子学のエッセンスとして受け取られた。

 中江藤樹(一六〇八~四八)は十一歳の時、初めて『大学』を読み、「天子ヨリ庶人ニ至ルマデ、一ニコレミナ修身(身ヲ修ムル)ヲモツテ本トナス」というところに至るや、深く感嘆して涙を流したという。それは徳川家康が亡くなって二、三年後の話である。

 当時、庶民も天子も、人間としての基礎になるのは同じこと、つまり修身なのだと感奮したのである。そして彼自身は近江聖人といわれる人物になったのだった。

 また荻生徂徠(一六六六~一七二八)は少年のころ、南房総に父と共に流落しており、学問の師となる人もいなかったが、たまたま父(将軍綱吉の侍医だったが流罪)の持ち物の中に『大学諺解』があった。

 諺解というのは和文の注釈である。彼はこの本一冊を十二年間読み続け、そのため後に江戸に戻ってみると、他の漢籍を注釈なしに読めるようになっていたという。こうした逸話が伝えられるほど、『大学』は普及しており、その「経一章」に述べてある修身の大切さを学んだのであった。

 

 諸外国から称賛された教育勅語

 

 明治維新によって藩校はなくなった。明治五(一八七二)年に「学制」頒布がなされ、その時の指令書(『被仰出書(おおせいだされたるふみ)』)の中にも「身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スル」ことの重要性が指摘されている。そして修身科で「修身口授(ぎょうぎのさとし)」があり、教師が口でよいお話しを聞かせることにした。しかし実際には欧米の新知識を与えることに熱心であった。小学校の先生を作るために幕府の昌平黌の跡を師範学校にしたが、その指導者はアメリカ人スコットであった。

 その後、明治一二(一八七九)年の「教育令」は自由を重んじ、放任をも認める感じであり、授業を視察された明治天皇が「これでよいのか」と心配されたという話も残っている。それで明治一四(一八八一)年の「小学校教則綱領」が出され、修身が各教科の首位に置かれたが、実際は格言や史実についてよい話を聞かせ、作法を教えることであった。

 そうしたやり方ではまだ不十分があるということから、憲法発布の翌年の明治二三(一八九〇)年に「教育に関する勅語」いわゆる「教育勅語」が下賜された。この勅語にはここで立ち入ることはしないが、誠に立派なもので、明治天皇側近の儒学者・元田永孚と、近代派の学者的官僚の法制局長官・井上毅が中心となってまとめた。

 これ以降、アメリカ占領軍の干渉があるまで、日本の道徳教育問題は全く安定していたのである。欧米は道徳教育は主として教会がやることになっていたが、日本では宗派・学説・洋の東西・時の古今を問わず、万人が認める徳目を学校が教えることにしたのであった。

 教育勅語は英・仏・独・漢の訳本も作られ諸外国に配布されたが、どこからも反対・批判はなく、称賛の反響のみがあった。日本の学校での道徳教育は修身と称され、教育勅語に添ったものとなった。欧米諸国では修身に相当するものは、十九世紀末まで宗教教授であった。宗教と分離した道徳教育は、日本が明治五(一八七二)年の「学制」頒布以来、欧米諸国に先んじ、フランスが一八八二年以来、公立小学校で宗教科を廃止したのがこれに次いでいる。

 教育勅語下賜の翌年(明治二四年)の「小学校教則大綱」には、「修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ、児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ、人道実践ノ方法ヲ以テ要旨トシ……」(傍点は下線に代えた)として教育勅語の徳目を述べてある。

 これは戦前の修身教授の大綱を確定したものであって、その後、字句の修正があったものの、昭和二〇(一九四五)年一二月に連合軍が修身、日本歴史、地理の授業停止と従来の教科書の破棄を指令するまで続いたのである(ちなみにこの連合軍の指令は「ポツダム宣言」違反、国際法無視の命令と考えられる)。

 明治三三(一九〇〇)年の「小学校令施行規則」によれば小学校では一週二時間、中学校では毎週一時間、高等女学校では三年生まで毎週二時間、四年生以上一時間となっている。私が小学生のころは毎週二時間だったことになる。修身の時間にはたまに校長先生が来てお話しなさることもあった。中学校の時はもう大戦中であり、「修練」というのがあった。これは修身と勤労奉仕の働きぶりを一緒にしたようなもので、他の全学科に相当する比重が置かれていたようである。

 小学校の修身の時間についての記憶はほとんどない。本書に出てくる鈴木今右衛門の話は、自分の家の近所のことだから驚いたことがあったくらいである。当時の小学校の教科書は修身も国語も国史も似たようなものだったという気がする。ただ四年生以上の修身の教科書の冒頭には教育勅語がついていた。

 

 よい話は記憶の底にすり込まれる

 

 今年、私は八十二歳になるが、この年になって幼少時に「よい話」を聞かせることの重要性に偶然気がついた。それは古い『キング』という雑誌の付録の小冊子を書庫を片付けながら広げた時のことである。そこには大チェリストのカザルスがパリーに住んでいた貧学生のころ、日記を二週ぐらいまとめてはスペインにいる母に送り続けて、母を安心させたという話が書いてあった。

 それを見て私はアッと驚いたのである。私が東京に出たのは昭和二四(一九四九)年で、まだ東京の大部分は焼け野原にバラックで、食糧事情は緊迫していた。寮の夕食では米がなく、サツマイモ三、四本と福神漬だけということもあった。もちろん郷里の親はそれを心配していた。それで私は毎日簡単な日記――たいてい食事の中身――を書いてまとめて送った。

 また後にアメリカに客員教授で出かけた時は――当時の条件で家族同伴は許されなかった――東京で子ども三人と留守居をしている家内に簡単な日記を送り続けていた。私はこの「日記を送る」という行為を自分で考え出した名案と思っていた。

 そうではなかったのである。小学生のころにカザルスの話を読んでいたのだ。私はカザルスの名も知らず、チェロという楽器を見たこともなければ聞いたこともなく、その名も知らなかったが、この話を読んで、「いい話だな」と思ったらしいのである。それっきり私の潜在意識の底に沈みっぱなしになっていたらしい。ところが自分が敗戦後間もない東京に出て、郷里の母が心配していると思った時、日記を送ることを思いついたのである。もちろんその時はカザルスの話は念頭にない。

「ああ、こういうのが子どもに修身のような話を聞かせることの意味なのか」

 と私は悟った。子どもはいい話を聞いた時には素直に感動する。

 子どもは善悪には不思議に敏感なところがあり、テレビの物語でも絵本の物語でも、主人公的な者を指しつつ「これは良い人? 悪い人?」と聞くものである。子どもの時に読んだ話は、その時に感心してもすぐ忘れる。しかし十年も二十年も経ってから、人生のある局面においては、昔読んで、感心して、忘れていたような行動を選択するものなのではないか。

 昭和一七(一九四二)年二月のジャワ沖開戦<ママ>で、イギリスの重巡洋艦エクゼター、駆逐艦エンカウンターが撃沈された時、日本の駆逐艦「雷」は四百名以上のイギリスの軍人を救い続けた。敵潜水艦がいるかもしれない危険な海上で、工藤俊作艦長の行ったすばらしい行為はイギリス軍人たちを感動させた。その様子は恵隆之介『海の武士道』(産経新聞出版)に詳しい。

 日本海軍は日露戦争の時、蔚山(うるさん)沖でロシアの軍艦リューリック号を沈めた際、上村彦之丞提督は戦闘を中止して海中の敵兵を助けるという国際的美談を残した。これは日本人の誇りでもあり、佐々木信香作詞・佐藤茂助作曲の『上村将軍』という歌になった。駆逐艦「雷」の艦長だった工藤艦長も若いころにこの歌を歌っていたのではないか。この工藤艦長の行為のおかげもあって、戦後もイギリス海軍には反日感情が薄かったという。

 

 普遍・不変の価値

 

 もう何十年も前の話になるが、小学校の校長先生たちの集まりで講演する機会があった。その後の茶話会で、ある校長先生がこう言われた。

「非行少年が出た場合、その親が教育勅語や修身を教えられた世代の場合は指導に成果が上がりました。しかし親が教育勅語も知らず、修身も教えられていない世代になると手の施しようがありません」と。

 確かに戦前は親を殺したり、先生を撲(なぐ)ったりする少年の話を聞いたことがなかった。教育勅語と結びついた義務教育は、確かにモンスター・ペアレントや、したがってモンスター・チルドレンの発生を予防する力があったのである。

 今日には今日にふさわしい道徳教育が行われるべきであるが、教育勅語の徳目は時代や場所を越えて普遍・不変の価値があるし、そこに示された徳目を目指して修身に心がけることは、普遍・不変の価値があると思う。」

 

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渡部昇一監修 「国民の修身 高学年用」 (産経新聞出版、平成25年) 7~18ページ

 

戦前の日本は暗黒時代だったのか

渡部昇一

 

 戦前の修身の教科書、しかも高学年用ともなれば、なにやら勇ましく、重苦しい内容を想像される人もいるかもしれない。しかし、本書を一読して頂ければ分かるように、当時の日本は決して好戦的な国ではなく、一部で言われているような「暗黒の時代」でもなかったのである。

 そもそも、戦前の日本が軍国主義一色だったという見方に私はずっと異を唱えてきた。例えば、「戦時下」に入ったとされる昭和十二(一九三七)年の支那事変以降も、日本人の生活は大きく変わらなかった。

 『東京ラプソディ』『もしも月給が上がったら』などの大衆歌謡は流行していたし、講談社が発行していた国民的大衆誌『キング』も飛ぶように売れていた。その内容は楽しい読物が大部分で、反米英的でない記事もあった。国民は、大陸の戦況を気にしながらも、明るくつつましく平和に暮らしていたのである。

 では、米国などとの戦争に突入した昭和一六年一二月以降はどうか。むろん、ここからは、列強を相手にした覚悟の上での戦争である。それでも、国民の生活は一夜にして変わったわけではなかった。

 昭和五年生まれの私は、一八年四月に山形県の旧制中学に入学したが、当時はまだ学校で英語の授業が普通に行われていた。日本軍がイギリス軍を破った一七年二月のシンガポール陥落から一年以上も経った頃である。

 『ザ・キングス・クラウン・リーダーズ』という教科書には、イギリスの王冠のマークがついていたし、イギリス人の日常を紹介した文章などがたくさん載っていた。野球用語などで、「敵性語」が自粛されたのもこの頃とされるが、当時の文部省は学校教育を徹底して統制したり、変えたりする手間も暇もなかったようなのである。庭球(テニス)部もあったのだ。

 「戦時色」が本当に強まったのは、開戦から三年近くが経過した一九年七月のサイパン島陥落以降である。その後、本土空襲が本格化したのだから、これは当然であり、「戦時色」というよりも、本土防衛のためにそうせざるを得なかったというのが事実であろう。学校教育も必然的に「軍国主義」になっていき、勉強どころではなくなっていた。ただ、この時代を仮に「暗黒の時代」と呼ぶ人がいたとしても、実際にはわずか一年ほどの特別の期間であり、長い日本の歴史の中でほんの一瞬に過ぎないのである。

 にもかかわらず、戦前の日本は、すべて否定され、ましてやその当時の教育を評価することなどあってはならないというのが戦後日本が歩んできた道である。なぜ、そのようなことになったのかは後述するが、例えば本書には諸外国との付き合いについて述べた次のようなくだりが登場する。

 

 我らも国交の大切なことを忘れず、つとめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当たっては、常に彼我の和親を増すように心掛けましょう。

我が国 第十課 国交(現代語訳)

 

 国旗はその国の印でございますから、我ら日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。また礼儀を知る国民としては外国の国旗も相当に敬わなければなりません。

我が国 第四課 国旗(現代語訳)

 

 外国人に対して礼儀に気をつけ、新説にするのは、文明国の人の美風です。

公民の務 第一課 礼儀(現代語訳)

 

 

 「好戦的」というよりも平和的であり、むしろ奥ゆかしさすら感じさせる。当時、東洋の小国が生き残るためには、欧米列強の植民地にされないことが第一であり、そのためには、自らも列強に追いつくしかなかった。だからこそ国は一つにまとまらねばならず、外国に対しては出来る限り敬意を払い、無用な争いをしてはならなかった。そんな教科書を作り、学んできた日本人が突然、アジア各地を侵略し、理由もなく米英に戦争を仕掛け、傍若無人の限りを尽くしたというのだろうか。

 

 教育勅語は万人が認める普遍的徳目である

 

 「修身」という言葉が広がったのは、江戸時代に儒学が普及し、四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を「修身・斉家・治国・平天下」という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に親しまれるようになったからである。

 明治維新によって藩校はなくなったが、明治一四(一八八一)年の「小学校教則綱領」で、修身は各教科の首位に置かれ、明治憲法発布の翌二三年には「教育に関する勅語」いわゆる「教育勅語」が下賜された。以降、わが国では、この教育勅語を道徳教育の根幹に据えてきた。

 教育勅語の大きな特徴は、いかなる宗教、宗派とも関係がないことである。欧米の道徳教育は主として教会が宗教教育として行ってきたが、日本では、万人が認める普遍的徳目を学校が教えたのである。

 さらに、宗教との関係がないことと関連して、教育勅語は自然科学の発達とも衝突することがなかった。例えば、キリスト教であれば、キリストによる奇跡を信じなければならず、『旧約聖書』の記述であれば、進化論とは相いれない部分が出てくる。今なおアメリカの一部の州では、こうしたことが教育界の問題になっているが、教育勅語はすでに一九世紀後半に、自然科学の発達と衝突しない倫理的な教育目的を堂々と明らかにしていた。だからこそ、その近代性と普遍性は大いに注目されたのである。

 当時、教育勅語は英・仏・独・漢の訳本も作られて諸外国に配布されたが、どこからも反対や批判はなく、むしろ賞賛の声ばかりだった。先の理由に加え、軍国主義や侵略につながるような文言は何もないのだから当然である。

 ただ、あえて難癖をつける人がいるとすれば、教育勅語が「御名御璽」として、天皇陛下のお名前で出されている点であろう。しかし、考えてもみてほしい。教育勅語が出されたのは明治二三(一九八〇)年。まだ維新の混乱から二十年余りである。明治天皇のもと、新国家として国民をまとめていく中で、「誰がお出しになったものか」を明確にするのは当然だった。さらに言えば日清戦争(明治二七年)より数年前の話であり、当時の日本はむしろ清国の大戦艦に威嚇されているような状態だった。大国意識や軍国主義など持ちようもなかったのである。

 教育勅語の最初の部分は、日本の皇室が永く続いていることを述べているに過ぎず、これは事実である。「忠」や「孝」といった徳目の部分にしても、どこの国であっても国家への「忠誠」や親に対する「孝行」を否定するはずがない。さらに、最後の部分では、こうした徳目が古今東西に普遍であることを強調しており、天皇陛下御自身もその徳目の実践に努力しよう、一緒にやろうと述べられている。

 このような文章に反対する国や人があるはずはないにもかかわらず、教育勅語は戦後、左翼文化人の「教育勅語は軍国化の恐れがある」という主旨の申し入れを受けたアメリカ占領軍の示唆を受けて廃止になったのである。占領軍もはじめから教育勅語の廃止を考えていたわけではなかったのだ。

 

 日本人の道徳観がなくなる

 

 そもそも、教育勅語の前年に交付された大日本帝国憲法にしても当時のプロシア王国憲法を参考に作られたものであり、世界史的な流れの中でみても決して特に軍国主義的な中身ではない。当時の日本は江戸末期に結ばれた不平等条約に苦しめられており、欧米諸国の治外法権を認めるという屈辱的な状況にあった。大日本帝国憲法は、「日本も法治国家として世界の仲間入りをする準備が整いましたよ」「これで治外法権を見直すテーブルについてくださいよ」という諸外国へのPRであり、国内に対しても議会を持つ立憲君主国家であることを宣言するものであった。

 ただ一方で、憲法はあくまで最高法典であり、その性格上、個人の道徳にまで踏み込むものではなかった。日本人には、聖徳太子の十七条の憲法以来、「和を以て貴しとなす」というような道徳的、倫理的な教えがあるべきだ、という思いがあった。また、貞永式目以来の武家の慣習や、商人、農家の慣習もあって、当時の人々はこの憲法にしっくりこないという感じがいくらかあったようである。少々体に合わない着物のようなものだった。

 そこで、明治天皇側近の儒学者、元田永孚と近代派の学者的官僚の法制局長官、井上毅が中心となって教育勅語をまとめ、その空隙を埋めたのである。

 つまり、戦前の日本は、プロシア憲法というヨーロッパの大陸法の系統に連なる大日本帝国憲法と、聖徳太子の十七条憲法以来の慣習に連なる教育勅語という二重の憲法を持つ国だったとも言えよう。

 大日本帝国憲法が日本国憲法に全面的に改定されたのは昭和二二(一九四七)年五月三日。続いて、教育勅語も二三年六月一九日に廃止された。占領下において、衆議院が「教育勅語等排除に関する決議」を、これ受けた<ママ>参議院が「教育勅語等の失効確認に関する決議」をそれぞれ決議したのである。ただ、これは占領軍の教育担当者が廃止を示唆しただけで、当時の文部省や議員が過剰に反応したというのが真相のようである。

 なにしろ、度々述べているように、教育勅語の中には軍国主義的な要素は一切含まれていない。さらに皇室についても、マッカーサー憲法自体が天皇を国民統合の象徴としてるのだから占領政策上も問題はなかったはずである。それでも当時の日本人は、戦争犯罪人になったり、公職追放令にひっかかったりすることをひどく恐れ、少しでも日本の戦前体制の弁護になるような発言はしにくいという風潮が強かったのだ。

 当時の日本人を責めても仕方ないが、この時の議会の行為によって教育勅語はもちろん、その中に盛り込まれていた普遍的な徳目まですべてが、「失効」し、「排除」されたものとして扱われるようになってしまった。これは日本の教育から大黒柱を抜くような行為であった。

 明治以来、日本人は、憲法に何が書いてあるかを義務教育で教えられることはほとんどなかったが、教育勅語はすべての小学生が暗記すべきものとして、四~六年生の修身教科書の冒頭に載せられていた。小学生で必ず覚える九九や五十音図と同じである。「父母ニ」と言えば「孝ニ」と応え、「一旦緩急アレバ」と言えば、「義勇公ニ奉ジ」とみなが言えたのである。

 それが終戦後のある日を境になくなったのだ。そもそも教育勅語は、さまざまな普遍的徳目を誰かが新しく考えたのではなく、日本人の昔からの道徳規範を整理してまとめたものである。それがなくなるということは、日本人の意識から徳目がなくなったということに他ならない。日本人という民族が大きく変わったのは、ここからである。

 

 よいお話しは繰り返される

 

 本書では、当時の四年生以上の修身教科書と同様、教育勅語を冒頭に載せ、巻末にもその意味を掲載しているのでぜひお読み頂きたい。また、それぞれのお話しは、学年別ではなく、修身の教科書で繰り返し教えられた「我が國」「公民の務」「祖先と家」「勤勉、勤勞」「自立自營」という五項目に編集部が分けて掲載した。

 子供はよいお話が好きである。古人の立派な道徳的行為、人物伝を必ず好む。そのときに感心してもすぐに忘れてしまうこともあるが、大人になってから、人生のある局面で蘇り、そのような行動を選択することもある。

 例えば、『沈勇』というお話がある(本書二三七頁に収録)。これは、事故で沈みゆく潜水艇の中で、死ぬ間際まで「潜水艇の発達を遅らせてはならない」と沈没の原因などを毅然と書き残した明治の軍人さんのお話だが、これは世界中の海軍関係者を感激させた。

 日露戦争時に、いったんは沈めたロシアの軍艦リューリック号の乗務員を助けた上村彦之丞提督のお話(一〇一頁に収録)は、後に、大東亜戦争のジャワ沖海戦で繰り返され、日本の駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長が、撃沈されたイギリス艦から四百人以上のイギリス軍人を救った行為のもとになっている。この行動のお蔭もあって、戦後もイギリス海軍には反日感情が薄かったという。

 これらは戦争にまつわる物語ではあるが、決して憎しみや争いの話ではない。あくまで立派な方の人物伝であり、徳目のお話である。そして、その話を子供のころに聞き、当時の記憶が蘇ったために、彼らも同様の行動を取ったのではないかと思う。

 勝海舟、渡辺崋山、伊能忠敬、吉田松陰……。本書には他にも立派な人たちのお話がたくさん出てくる。そうしたよいお話を今の子供たちが聞く機会はほとんどない。教育勅語に書かれていることを意図的に避けて教えようとすれば当然そうなるし、道徳の授業も「マナーを守りましょう」のような末梢的な話題になってしまう。

 戦前に立派な人がいるということになると、反日的左翼の人たちは困るのかもしれないが、現代の日本の子供たちに必要なのは、まさに徳目を明らかにした修身のお話である。特に次世代のリーダーになるような子供たちにはぜひ本書を読んで頂きたいと思う。」

 

 

 

 

 そもそも、なぜ教育勅語が発せられたのだろうか。

 文明開化以後、西洋の国力に精神的にも圧倒され、西洋に魂を奪われてしまった若者が続出した。

 教育現場も西洋の文物の輸入に躍起になった。道徳教育も西洋に依存した。

 自国を軽視する教育、日本人としての美風を軽視する教育が横行した。

 西洋かぶれの日本人を育てるばかりで、日本人が立脚すべき道徳が蔑ろにされた。

 このままでは日本の将来は危ない。

 そういう危機感をもって、教育勅語は起草されていった。

 なお、教育勅語は信教の自由にも慎重な配慮がなされた。

 明治天皇側近の元田は儒教を根本とすべしとしたが、伊藤博文は「教育議」で信教の自由の抵触を問題視した。この起草者は井上だと見られている。

 井上は大日本帝国憲法の起草者でもあり、帝国憲法と教育勅語の整合性を意識していた(伊藤哲夫「教育勅語の真実」(致知出版社、平成23年))。

 信教の自由に配慮したことは、これに敏感な欧米から称賛されたところからも推測できるであろう。

 

 教育勅語は諸外国から称賛されたが、先の戦争に敗れると、GHQによる占領統治の中で否定され、教育の場から消えていくこととなる。

 精神的武装解除の一環だ。

 

 

伊藤哲夫 「教育勅語の真実」 (致知出版社、平成23年) 156~159ページ

 

「日本弱体化の切り札にされた「教育勅語」

 

 こうして、世界各国から称賛された教育勅語も、大東亜戦争敗戦後は一転、全面否定されることになります。

 それは当然のなりゆきでした。というのも、日本を占領した連合軍にとって、大東亜戦争であれほど強力に敵対してきた相手国の弱体化を図ることは、当たり前のことだったらからです。

 そこで彼らが見いだしたのが日本人の精神、いわゆる大和魂の支柱となっていた「教育勅語」でした。この教育勅語による日本の教育をたたき壊さない限り、日本という国を、ある意味で米国に対して「再び脅威となることのない安全な国」にすることはできない、と考えたのです。

 これは何も、私が極端なことをいっているのではありません。彼らが作成した占領文書を見れば、「占領の目的は、日本が再び米国の脅威となり、または世界の脅威とならざることを確実にすること」(『降伏後の初期対日方針』)と明確に示されているからです。

 

 だからといって、占領軍としても、欧米各国でも絶賛され、普遍的で正しいことしか書かれておらず、しかも国民に権力をもって命令・強制するわけでもないこの教育勅語を、いきなり否定することは簡単にはできないことでした。

 そこで、まず憲法を変え、次に教育基本法を押しつけて外堀を埋めた上で、衆参両院が教育勅語の「排除・失効」を決議するようにもっていったのです。

 教育基本法を成立させた時も、「教育は教育基本法ですべて行えるものではない。日本人の心の原潜となっている教育勅語はその背景の精神をなすものであって、そのまま残すべきだ」という意見の大臣や議員が大半を占めていました。

 当時の吉田内閣も「教育勅語は普遍性豊かなものであって、今後の日本社会でも十分通用する内容のものである」と表明していました。しかし、最終的には占領軍によって排除・失効へともっていかれたのです。

 実は、この時の議会における排除・失効決議は、何の有効性ももっていないと主張する人もおります。

 その理由は、教育勅語には「大臣の副書」がないからです。となると、これは一般の法律とは異なり、いかなる法的効力ももつことはありません。つまり、失効させようにも、その効力自体が最初からなかったのです。

 これは前にも述べたように、井上が政治上の争いから天皇を守り、教育勅語を政争の具としないために、あえて「社会上之君主」たる天皇の個人的なお考えとして発表されることとした結果でもあったわけです。

 そのため占領軍は、まず各学校にあった御真影奉安殿を廃し、教育勅語奉戴式をなくせ、といった命令を出すことから始めました。

 こうした形式面から潰しにかかり、徐々に内側の掘を埋めていきながら、最終的には憲法・教育基本法の精神とは矛盾するとして、本丸たる教育勅語の「排除・失効」を確認させるという形で、歴史のかなたに葬り去ることを考え、実行したのです。

 

 その結果、どうなったかというと、「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、……」といった日本人が本来持っていた道徳観が徐々に失われていくことになり、拠るべきは「個の自由」であり「人権」のみであるという世の中になっていきました。それに代わる新たな規範を、という要求はときおり聞かれたことは事実ですが、世の中を動かすような流れにはなりませんでした。

 かくして日本社会の美質は年を経るごとに力を失っていき、老人の孤独死や親殺し・子殺し、若者のニートや引きこもり、教育現場の混乱、子供たちの方向性喪失、モラルなき政治の横行など、今日の殺伐とした社会が出現していったといえるでしょう。」

 

 

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竹田恒泰 「日本人はいつ日本が好きになったのか」 (PHP研究所、2013年) 45~47ページ

 

「日本が「ポツダム宣言」を受諾して戦争を終結させると、米国政府は昭和二十年(一九四五)九月二十二日に「降伏後の初期の対日方針」を発表した。このなかで「米国の究極の目的」の筆頭に、「日本国が再びアメリカの脅威となり、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること」と掲げ、非軍事化と民主化を目標とする旨が記されている。

 ところで、米国がいう「民主化」とは、「精神的武装解除」を意味している。そのことは、昭和二十年九月四日付『朝日新聞』に掲載されたワシントン二日発のバーンズ国務長官の声明からも読み取れる。

 

「日本の物的武装解除は目下進捗中であり、われわれはやがて日本の海陸空三軍の払拭と軍事資材、施設の破壊と戦争産業の除去乃至破壊とにより日本の戦争能力を完全に撃滅することが出来るだろう。日本国民に戦争でなく平和を希望させようとする第二段階の日本国民の『精神的武装解除』はある点で物的武装解除より一層困難である。精神的武装解除は銃剣の行使や命令の通達によって行われるものではなく、過去において真理を閉ざしていた圧迫的な法律や政策の如き一切の障碍を除去して日本に民主主義の自由な発達を養成することにある。(中略)連合国はかくして出現した日本政府が世界の平和と安全に貢献するか否かを認定する裁判官の役割をつとめるのだ。われわれは言葉ではなく実際の行動によってこの日本政府を判断するのだ。

 

 米国は日本をまず物的に武装解除させ、のちに精神的に武装解除させることで「軍国主義の廃絶」が完成し、日本の脅威が完全に取り除かれると考え、これを実行したことがわかる。

 

 

 

 

 

 今の教育には教育勅語もこれに基づく修身もない。

 今のわが国は、教育勅語が下賜される前の教育問題が再び生じ得る状態に置かれている。

 もちろん、教育勅語や修身があらゆる問題を解決する万能薬というものではない。

 これらを教えれば犯罪がなくなるとかといえば、そうではないだろう。これらを教育していた時代にも犯罪はあった。国家転覆を企む危険な共産主義勢力もいた。

 とはいうものの、これらの教育が行われた方が、日本人としての良識を共有でき、よりよい国づくりや、よりよい国際交流をも実現できるはずだ。

 意外に思われる方もいるかもしれないが、修身にはわが国の偉人についてだけでなく、外国の偉人についても書かれている(ソクラテスやジェンナーやコロンブスが紹介されている。「国民の修身高学年用」127,218,221ページ)。

 西洋かぶれになってはならないとしつつも、西洋を無視したり見下したりするものでもない。「偏狭なナショナリズム」ではない。

 

 19日、元米海兵隊員が殺人容疑で逮捕され(http://ur0.work/u1SX)、反基地運動に利用されている(http://ur0.work/u1SY)。

 確かに痛ましい事件ではあるが、この反基地運動が正当かというと、渡部氏が紹介している修身の「諸外国との付き合い方」の教えに照らせば、不当という見方になるであろう。どんな抗議も正当化されるという見方にはならないはずだ。

 近ごろ、SNSが普及し、人に迷惑を掛ける行為を自己顕示欲の赴くままに披露する「バカッター」をする輩がいるが、教育勅語や修身の徳目が心にあれば、歯止めとなるのではないかと思うことがある。

 

 

 最後に、教育勅語を紹介する。

 

 

渡部「国民の修身」192,193ページ

 

「朕(チン)惟(オモ)フニ我(ワ)ガ皇祖皇宗(クワウソクワウソウ)国ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠(クワウエン)ニ德(トク)ヲ樹(タ)ツルコト深厚(シンコウ)ナリ我(ワ)ガ臣民(シンミン)克(ヨ)ク忠(チュウ)ニ克(ヨ)ク孝(カウ)ニ億兆(オクテウ)心(コゝロ)ヲ一(イツ)ニシテ世々(ヨゝ)厥(ソ)ノ美(ビ)ヲ濟(ナ)セルハ此(コ)レ我(ワ)カ國體(コクタイ)ノ精華(セイクワ)ニシテ教育(ケウイク)ノ淵源(エンゲン)亦(マタ)實(ジツ)ニ此(ココ)ニ存(ソン)ス爾臣民(ナンヂシンミン)父母(フボ)ニ孝(カウ)ニ兄弟(ケイテイ)ニ友(イウ)ニ夫婦(フウフ)相和(アヒワ)シ朋友(ホウイウ)相信(アヒシン)シ恭倹(キョウケン)己(オノ)レヲ持(ヂ)シ博愛(ハクアイ)衆(シュウ)ニ及(オヨ)ホシ學(ガク)ヲ修(オサ)メ業(ゲフ)ヲ習(ナラ)ヒ以(モッ)テ智能(チノウ)ヲ啓發(ケイハツ)シ徳器(トクキ)ヲ成就(ジャウジュ)シ進(スゝン)テ公益(コウエキ)ヲ廣(ヒロ)メ世務(セイム)ヲ開(ヒラ)キ常(ツネ)ニ國憲(コクケン)ヲ重(オモン)シ國法(コクハフ)ニ遵(シタガ)ヒ一旦(イッタン)緩急(クワンキフ)アレハ義勇(ギユウ)公(コウ)ニ奉(ホウ)シ以(モッ)テ天壌無窮(テンジャウムキュウ)ノ皇運(クワウウン)ヲ扶翼(フヨク)スヘシ是(カク)ノ如(ゴト)キハ獨(ヒト)リ朕(チン)カ忠良(チュウリャウ)ノ臣民(シンミン)タルノミナラス又(マタ)以(モッ)テ爾祖先(ナンヂソセン)ノ遺風(ヰフウ)ヲ顕彰(ケンシャウ)スルニ足(タ)ラン

斯(コ)ノ道(ミチ)ハ實(ジツ)ニ我(ワ)カ皇祖皇宗(クワウソクワウソウ)ノ遺訓(ヰクン)ニシテ子孫臣民(シソンシンミン)ノ倶(トモ)ニ遵守(ジュンシュ)スヘキ所(トコロ)之(コレ)ヲ古今(ココン)ニ通(ツウ)シテ謬(アヤマ)ラス之(コレ)ヲ中外(チュウグワイ)ニ施(ホドコ)シテ悖(モト)ラス朕(チン)爾臣民(ナンヂシンミン)ト倶(トモ)ニ拳々服膺(ケンケンフクヨウ)シテ咸(ミナ)其德(ソノトク)ヲ一(イツ)ニセンコトヲ庶幾(コイネガ)フ

明治二十三年十月三十日

御名 御璽」

 

 

 今の小学校を見て、井上毅や元田永孚はどう思うだろうか。

 英語教育は盛んになったが、本当に教えるべきことから目を背けているのではないだろうか。

 

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