オレのパンツは どこなんだ?  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
たとえば、エルヴィス・プレスリー というアメリカの1950年代に華を飾った歌手は
後年、身も心も甘い物の食べ過ぎとドラッグに溺れた人生で幕を閉じたとされているけど
生前のエルヴィスは、子供の頃に
お母さんから買ってもらったギターを弾いて歌を歌うことが大好きだった。
イギリス出身のキース・リチャーズ という人も
お母さんから買ってもらったギターを弾いて、常に、その頃のラジオ放送の、
アメリカから電波に乗ってやってくる黒人音楽の音に耳を傾け 
プレスリーやエディ・コクランばかりでなく、
チャック・ベリーの音は全曲マスターして弾ける ほど
熱心に独学で、あらゆるギター奏法を習得した・ということらしい。
そんな中で両者は、世間が何をどう嫉ましく思おうと、
誰がどこでどのように憧れて彼らの真似をしたり、自分と他人の区別なく 
自分自身の自由や努力なしの才能の開花を錯覚する者が
どこの国に何人いようとも、
運・不運がつきまとうらしき、一つのカタチある成功や富や名声には関係なく
ただ歌が好きなので、ただ音楽が好きなので
ギターを片手に歌ったり、大勢の観客が踊り騒ぐステージの上で
自分や自分達のつくった曲をおもいっきり、誰に、何に遠慮することなく演奏したり、
たとえそれでメシが喰えなくても、今日の家族や仲間たちを養う日銭が稼げなくても
本人たちは、我々には想像も絶する世界意識や
人間としてのありのままの姿で音楽を愛する趣味を仕事として生きてきた。
ところが、エルヴィスの場合は人気絶頂期に街を歩くことが困難。
家から一歩でも外へ出ると、待ち受けるのは、
スーパーの買い物カゴをさげた韓涙ドラマ好きのパパラッチ・オバサン連中…
じゃなくって、大勢のマスコミや当時の芸能レポーターやサインをせがむ人だかりの山。
純粋に「これは観たい!」という、
自分が出演させられた映画ではない映画を観たくても、おちおち街へ出かけることもできない。
戦争から帰ってきても、莫大な富と名声と人気は不動のままに近いので
短い間の栄光がどうあろうとも、ご本人は最早、一般大衆ピープルには戻りたくても戻れない。
観たい映画があるなら、どこぞの映画館の高級シートを全席貸切にして
こころゆくまま当時の映画館の大画面に、
時折、用を足すために立ちあがる自分の姿の影を写すなりして、
ポップコーンでも何でも喰い放題なはずだ
それでもエルヴィスは、たった独りだけで映画を観ることは嫌って
恋人も、友人知人、家族から仕事仲間から全部を集めて
貸しきった映画館のそこへ座らせ、あとは観るなり寝るなり、みんなの自由にさせて
一つ残らず大勢の人間で席を埋めるほどの、
普通にある映画館の雰囲気を自らつくりだして、その中へ自分も座って
自分の観たかった映画を観ていた…というようなエピソードがある。
それに引き換え… 
ここではあえて人間として創られ方が絶対的にちがう特定の人物の人生を比較するように
それをみなさんの人生と照らし合わせる(?)ように引き合いに出させてもらうけど

キース・リチャーズ という、いまの人類では最大で最高峰の
The Rolling Stones というロックバンドのリードギタリストでありながら、
どこの国のどんな街に何の危険があるやも知れない場所であろうと、
平気で単独行動もできてしまうほど、
ファンとしては、「椰子の木から落ちるほどのそんなところにまで昇らなくてもいいじゃない。」
という気持ちがあっても

自分が今やりたいことをやるし、いま行ってみたいところへ行ってしまう。
…もっとも、あんなのが いきなり街を歩いていた日には、少し以前であるなら、
誰もが、その存在を避けて通り過ぎるのを待ったかも知れないけど。
ちゅうわけで、キース・リチャーズ という人は、スタートが
“お母さんからギターを買ってもらって好きな曲を弾いたり歌ったりしていた”
という部分が誰かと似ていたとしても、
自分が今日、自分という人間として生きることを貫き通して
あらゆる孤独や心の貧しさ、人間の醜い部分などの諸問題を通り越し、
時には何かを逸脱、時には何かを克服して
今日のあのような、由緒正しき寺の坊さんがカミソリを持って歩いているような人になっちまってる。
誰にでもできることではないけど、そういう人も世の中にはいるんだ。
運とか不運とか、成功とか努力したという問題ではなく。
んで、結果的に、そういうような生き方においてカネがあってもなくても
名声や自身の野望実現とかがどうあろうとも、
この日本にも、そういう人が存在していた事実もある。
お母さんからギターを買ってもらって好きな曲を弾いたり歌ったりしていた
スタートは、偶然にも、エルヴィスやキース・リチャーズと同じようなもんだったのかも知れない。
それ以上のことは、今これを書いている俺には判らないけど、どうやら、
「楽器を演奏できるってことは素敵なことじゃない」
という感じのお母さんを持った人というのは、やはり、目に見えない空間から
何かを摑んで、それまで自分が聴いてきた心に響くメロディやフレーズやリズム…
そういうモノをいとも簡単につなぎあわせてしまう能力に恵まれているように想う。
かといって、世の中の、巷の、シャバの、今の日本人の多くの親が、
勝手に夢見る我が子の未来の姿とか、どんな分野の何の種目であろうと
その手の英才教育を推奨、奨励するわけではない。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10006141376.html
親は、自分の子供のことを 120%、何も解らない。
それは、自分の腹を痛めて自分が産んだ子供であっても、絶対に、
その子供が、どんな能力を備えられて、
世の中にある人間の営みにおける何の役割を果たすべくして この世に生を受けたのか、
誰も何も解らない。
しかも、男には男、女には女の区別が、本来ならハッキリとして産まれ出でてくる人間は、
生まれるときも、引っ張る人がいて押し出す人がいて、
産まれてから、五体満足に自分の肉体の2本の足で大地に立って歩くようになっても、
人間が生きる世界には、本来なら常に、引っ張る人がいて押し出す人がいて人間は生きていられる。
そして、その人間が心身ともに健全であるためには常に、
大地の上に立って、陽の光りを浴びて、澄み切った空の下で
誰に深呼吸や腹式呼吸を強制されることもなく、無意識のうちに呼吸…
自分の肉体に備えられた肺と鼻と皮膚によって、
全身の細胞に酸素を行き渡らせ、血液を介してそれを脳味噌にまで供給し、
それをまた、いつ頃からかどこからか初まったらしきはずの、
決められた時期から時期までの間は、その肉体の中にある心臓を遣って
全身の筋肉に血液をまんべんなく回している。
そして更に、そのように当たり前のことができる人間には、
食欲もあり、性欲もあり、
男も、女も、ノドが渇けば水を飲む。それを「旨い」と感じる心もある。
男も、女も、腹が減れば、何かを喰うなり食べるなり、
「食べたい」とも想えば、「美味しい」ということも判るし、喜べる。
男も、女も、やりたいときにはやるし、パンツが邪魔なら脱ぐし、脱がせる。
その相手が一人では物足りない女も、一日に何度もやらないと落ち着かない女も
この男だけならと心に決めている女も、男も、
やるときにはやって、燃えるときには燃えて、
その上で、法律上や戸籍上で結婚していなくても結婚していても、
自分たちの子供が産まれて、大いなる自然界の中で生きて生かされ、
そこに子孫繁栄の義務を果たし、それは今日まで、今の今まで、この瞬間までも
この地球上では、本来の人間の創られ方に在った通りに、
代々つづき、受け継がれてきた。
そしてまた人間は、
今いま自分のスグ近くで流れている音楽や歌のメロディやリズム…
そういう旋律とか節や、どこか一部分の歌いまわしの声の強弱や上げ下げ。そういうものが
純粋な気持ちで美しいと想えば、それをまた聴いてみたり、聴き返してみたり、
ときには自分で歌ってみたり、歌えなくても「歌ってみたい」と想ってみたり、
そういう歌や楽曲をつくってみたいと想ったり、
それを誰かの前で演奏することができてもできなくても、
「やってみたい」と想うことには、
どこからか自分に伝えられた何かをどこかへ伝えようとする心がある。
たとえば、キース・リチャーズ という人は、そういう意味で、かつて、
    
    空気、食物、水、SEX。
    次に人間に必要なのが音楽。
    いかなる芸術形態や表現形式にも先立つコミュニケーション手段。

   
ということを既に、1989年に大勢の人間に伝えて 今日に至る。
   
ああ、いつも思うことは、俺は哲学的なことなんて、ひとつも頭にないよ。
なによ、その哲学ってのわ? アホくせ。
そういうのはさぁ、もうナシね。なし。
知識ではないの。学問ではないの。特定の枠で何かを話して書いてる問題ではないの。
すべてにおいて、自然界と人間の関係における、
自分自身が今、この時代に人間として生きるか?死ぬか? 
本来の自分自身を獲り戻してみようぜ! 
という、Rock 'N' Rollな気分で書いてるわけ。 
深刻な書き方ばかりだと学者連中の役立たずに並んで堅苦しくなっちまうだろ。)
んで、社会や、そういう枠の中の医療、教育、経済、宗教、政治については、
たとえばねぇ…、
朝から晩まで毎日のように働いてるお父さんが、ある日、
子供のパンツが何処にしまってあるか判らなくって、時には
風呂へ入る前も、風呂からあがったあとも、自分自身が穿くためのパンツさえすらも、
おい、何処にあるんだよ!
とか言ってる人とかもいる。世の中には。
んで、
その旦那や子供の奥さんとか、お母さんは、妻は、永遠の恋人だったはずのオバサンは、
「そこにあるじゃないっ! 自分の目の前に!」
よく探してみなさい」 「ったく、子供と一緒なんだから…
などということを風呂の脱衣所とかパンツがしまってある場所とは別の部屋や空間で
そういうことを言い返したり、ブツブツ言ってたりする。
ところがだ 
そのパンツというものは、洗濯して、天日に干そうが乾燥機にかけて乾かそうが、
それを取り込んでから、どこへしまったのかは、箪笥であろうとクロゼットの引き出しであろうと
冷蔵庫だろうと、下駄箱の隅であろうと、台所の流しの上の棚のタッパウェアの中くらいの、
その3番めの大きさの中であろうと、
それはそれをキッチンと畳んでしまった、その人には判る。自分でしまったんだからな。
でも、しまった覚えがない人とか、普段あまり家の中にいない人とか、
そういう場所があちこち部屋の模様替えなどで変えられてしまうことに関わってなかった人とか、
そういう人はまったくもってして、
「そこにあるでしょっ!」
と言われても、
「どこぉ?」
てな具合で、わかんないわけ。どうしても。
解らない人は、解る人に素直に聞いて尋ねりゃぁいいんだけど、
解る人も、解らない人に丁寧に教えてあげりゃぁいいんだけど、
世の中の人は、社会の人は、なぜかどうしても、
なにがそんなに忙しいのかなんなのか? 
自分の目先鼻先にあることや、手におえない問題とかで精一杯なのかも知れないけど
そこで、
おい、ちょっと待てよ! なんかスレ違ってねぇか?
というのが俺であって、そのために書いているモノも、
もう誰も読んではもらえないほど、ヒえぇ~!てなくらいに長くなっちまうんだよ。
別に丁寧に読まなくたっていいよ。こっちは丁寧に書いてるつもりなんだけど。
読み方は自由。
「これは明らかに字がマチガッテル。」「誤植…」というところも、もし発見したら教えてくれ。
俺のパンツは どこなんだ? 
そういうあなたは、ちゃんと穿いてるの? 
いつ穿き替えたの? 
んまぁ、その程度だ。俺の書いてることなんてもんはな。
   
よし、戦路はつづくよ、どぉこ、まぁでぇもぉ~ 
   
男も女も、やりたいときにはやる。
パンツが邪魔なら脱ぐし、脱がせる。
その相手が一人では物足りない女も、
一日に何度もやらないと落ち着かない女も
「この人なら…」と心に決めた女も、
おまえしかいないという男も、
やるときにはやって、燃えるときには燃えて、
その上で、法律上や戸籍上で既婚でも未婚でも 
結婚披露宴や挙式は、ひと組のカップルが一日に何回も結婚するほど盛大なのに
別れる時は新たなる人生の門出に盛大な離婚披露宴をできない人も 
離婚して半年間は再婚できない人が、その期間は
「誰とやってもいけない!」と思い込んでいる人がいても、いなくても  
一部の宗教法人が無縁仏や合同結婚式をどのように騙ろうとも 
日本人としての営みにシキタリや風習や文化に根ざす一夫一婦制が
他国の…どこかの国の村落にあるような一夫多妻制や
アンダーグラウンドの世界に生きるジゴロや光源氏モドキな人たちと
日本国内の国際社会の男女の意識の中で、どこでどう食い違っていようとも 
人類の未来や過去における群婚【ぐんこん】の時代がどうあろうとも 
今の時代も未だ、とりあえずは、男と女がいて、夫婦があって、
自分たちの子供が産まれて、大いなる自然界の中で生きて生かされ、
そこに子孫繁栄の義務を果たし、それは今日まで、今の今まで、この瞬間までも
この地球上では、本来の人間の創られ方に在った通りに代々つづき、受け継がれてきた。
それによって、今ここにも、これを書いている俺も、
今こうして、この瞬間に、この行を読んでいる読者も、この世に存在している。
事実、それによって、そういう行為があったことによって、誰もが生きている。ここに。
そして、そういう当たり前の道理、正しい道筋、
人間が生きとし生ける穢れなき生命の成長する過程。そのすべては
草も木も、動物も魚も、あらゆる生命が、この地球上に、
創られ、産まれ、育ち、やがて決められた時期に死に逝くという、
神聖なループ現象の中に実在している事実がある。
それは本来なら、永遠に代々つづいてゆくはずの道理。
自然界の取り決めのうちのひとつだった。
この世界で、社会に、世の中の一部の枠の中で、
男女平等思想が叫ばれ、唱えられる以前に、
性に対する正しい認識が捻じ曲げられるほどのメディアが氾濫する以前に、
それらによって、人間の男と女の区別・識別・判別が解りづらくなる以前に、
男が女に化けてみたり、女が男にも勝ろうと無理をして努力を積み重ねた結果に
ある日、女として子供も満足に産めないような身体になってみたり、
現代日本人女性になぜ、リウマチの人が多いのか? 
男も、自分の肉体の一部の奇形や未成熟を気にしたり、
観てはいけないモノ、観る必要なきはずのモノ、覗くべき・覗かせるべきではない場所を
自ら、すべて覗いて観てしまった挙句に、
本来なら、なにげない相手のシグサや言葉の温かさに感じられる愛や恋心も見えなくなるほど
必要以上の知識や欲望は、
世の中には在ってはならないはずだった事態をも造り出させてしまう。
ここはどこなのか? 地獄なのか? 
地獄にしては、あまりにも聞いていたモノ、訊かされてきた場所とちがうではないか? 
    
今の、この時代の社会というのは、
先に述べた人間の基本的な欲望当然の如くある性欲や食欲など以外のモノ…。それは、すべてにおいて
必要以上の知識、必要以上の経済、必要以上の美貌が邪魔をしていて
本来の在るべき姿ではない、身も心も奇形な状態で今日を生き凌いでしまっている人が
あまりにも多い。
そして、そんな姿で、そんな肉体と心のままで
独りだけで生きて過ごしているつもりになっているような時間が長い。長すぎた。
更には、そのことに疑問を感じたり、このままではどうにも、
自分として生きにくいと感じた人、かろうじて、そこに気づきはじめた幾人かの人は
自分自身でも実際は目に見えない世界までも探り、探ろうとし、探らされ、
探りあてようとしても決して答えが出せない部分までも、
何かに追われ、何かを突きつめようとしてしまう。
それは果たして、男なのか? 女なのか? 人間なのか? 泣くな、最後まで読め! 最後まで書け!
人間が人間として産まれる以前も産まれたあとも、
育つ場所がちがう。決して今まで通りではなく、当たり前でもなく、
人類の母体が破壊された原因が、すべて教育であり、宗教の枝別れ、暖簾分けであり、
最早、どんな思想も、誰のどの学問学識にある方法や策、格言や教訓も、
かつてこの日本にも確かに伝え続けられることが可能だった神話や●●●●●は愚か、
神や仏の存在を曲解し、曲解させ、その捻じ曲げを面白おかしくするために
更に歴史や伝統を捏造してきたあらゆるメディアも、
特定の社会構造を崩す必要以上の情報漏れも、
今の時代西暦で2007年現在に生きる我々にとっては、
本来、自分が自分という人間として、この自然界に生きるためには
頭の上から全体に被されたオブラートみてぇなもんで、
そのフィルターそのものが、社会とか最近の常識、教育の弊害やら何やらなんだよな…。
   
ごめんね。
だいじょうぶ? 
疲れたら休んでもいいよ。
まだ時間もある。明日もある。
たぶんな。

   
   
時間は止まらず、時代は変わってしまう。
取り残されるのは誰でもないはずだ。
それでも、独りだけで生きてる時間が長ければ長いほど
肉体に備えられた血液の流れや酸素の供給も停止しかけてしまう。
生命の育みの道筋や道理にある自然界の掟も
破るつもりもないのに破らされるような恐怖心から逃げようとさえしてしまう。
それが、いつの、何による、どんな場所での体験なのか?
その拘りや悔いやクヤシサを改めようにも許しようにも
そこから先へ一歩も進めなくなってしまったことは
どうしてなのか? 
心の中にある何かによって性欲を抑えつければつけるほど
それは常に、日常の何かに対する不安や不満ばかりか
肉体を動かすはずの心が、その肉体から抜け出てしまうほどの
叫び声や、破壊とか、自虐、虐待などへの方向へ向かってしまう。
行動に伴わない心。精神に制御できない肉体。
人間の、心は、精神は、魂は、肉体を縛りつける鎖ではない。
もっともっと軽やかで、明るく楽しく、柔らかく温かいモノであるべきだ。
   
よぉ~し、もうひと息だぜ。
社会を見るなよ。あれは迷惑なフィルターの薄汚れたワッカでしかない。
そこに包み込まれたまんまで、そこで自分と他人や、誰かの何かを比較するなよ。
   
…と、自分でもここまでを何度か読み返してみるうちに
ちょっと気分転換に、あるサイトを経由 して
ここでまたスゲェ発見をしてしまった! 
ヤッタぁー
   
   
   
   
   
   つづく。  Sunshine & Moonlight  
           http://ameblo.jp/badlife/entry-10030368451.html