バンソウコウ・ジュニアからのお知らせ!  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
    
   
昨日も今日も日本海側は
「冬型の気圧配置」が どーとかこーとかで
荒れ模様のはずなのに
ほとんど雪は降らない、珍しい孤島の冬。
朝は、雨やアラレが木枯しと共に降りつけるものの、
午後になると…
巷の専業主婦の皆様にとっては洗濯日和。
気温の上昇も…日中だけは生ぬるい風も吹く。
んで、夕方近くになると再び、雨やミゾレがパラついてみたり…
そんな、テルテル坊主がブレイク・ダンス踊ってるような天気が繰り返す中、
仕事の昼休み、
酒の通函が積みあげられた、いつもの駐車場脇で
煙草を吹かし、トンビの啼き声を耳にする。
ふと、見上げれば晴天 。 
   
そして俺は…
昨年、秋 。この島からずっと遠く離れた同じ空の下で生きる、
この世にたった一人しかいない男が見た夢や希望。あるいは野望…
そのすべては決して解らないものの、
思い描かれた未来への可能性(?)
その断片にあった幾つかの言葉を想い出してみた。
   
以下、とあるサイト の、『かつて書かれた内容 』より抜粋。
一部省略、一部編集あり。…いつも ごめんなさい。
   
06.10.2
柳に飛びつく蛙は疲れ果て、腹ばいになって白い腹旗を掲げながら、まだ風に揺れる柳をにらむ。
なんとかならんのか?とバタバタする。そしてしばらくは横たわっていた。起き上がる気にもならん。
そして気が着いた。何だ俺は?プロデューサーなのか歌手なのか?小説家なのか?坊主なのか? 
何者なんだ! 突き詰めて突き詰めて、何が本当にしたいのか? 何をしなければいけないのか? 
俺の中の一流を捨て、水たまりの中で輝く朝陽を見つけた。この水たまりに朝陽が輝く頃、
琵琶湖にも朝陽は輝くだろう。この水たまりの朝陽も琵琶湖の朝日も同じ朝陽じゃないか? 
『靴磨きの唄』で俺自身が歌っているように路上の水たまりを琵琶湖にしようじゃないか? 
おぼろ気ながら、蛙は一歩、庭から8年振りに出る。そう、軽やかに、快活に、
身を軽くして蛙は飛び上がる。
   
06.10.9
『見上げれば晴天』 清清しい空じゃないか! 
   
06.10.17
そう言えば、俺のファーストでも歌ってるよな。
凍てつく都会のその片隅で 
そこだけ時間が止まっているのさ・・そんな歌通りの男になったな。
若い頃から片隅の美学というものを持っていた。中央にはない光と影の世界。
俺はずっとそんなものを持ち続けている。
それはいつも片隅にいた女に関係するかもしれない。
みなが中央で大笑いをしていても 
その女は何気ない微笑みを浮かべてこちらを片隅から眺めていた。
俺の歌も、女から生まれたのかもしれんな。
あの娘、どうしているんだろう。
思い出は年々美化され、せつない秋に舞いあがる。
詩人の本でも読みながら枯葉が舞い散るオープンカフェで君を待つよ。
俺は今もあの頃のまま、時折、教室の片隅で笑っていた君を待ち続けているんだ。
来るはずもない君を・・

   
そして、
見上げれば晴天
その曲は、そんな日常の中で、
ある日、「誰のため」というわけでもなく
ただただ、風に吹かれるまま、
その 理由なく吹く風を感じて作られ、歌われたのかも知れない。
   
何かを考え込んだり、悩んだり…
大なり小なり、そんなことは誰にでもある。俺にもある。
人間なら、当たり前のことだし、
生きていて何かを見て、何かを聞かされ、知らされ、
何かを感じる動物のうち、人間だけは
それを言葉に出して、嘆いたり哀しんだり 
人によっては涙も流す。俺も流す。
そして、泣きながら怒ることもある。
泣いたあとで、顔が笑うこともある。
俺もある。同じ天の下で…。
   
「お父さん、てんか(天下)ってなに?」
   
アニメなのか? ヒーローもののドラマに出てきた台詞の一部だったのか? 
自分の好きなテレビ番組を観た息子(6才・年長組保育園児)の、俺に質問。
   
「ああ? 天下?」 (文字だけをアタマに浮かべるバカな父親)
「うん。」
「…ああ、最近のアマクダリのジジイのことだろ。
世の中にはテキトーに自分勝手に生きてる兇いヤツがいてな。
そういう大人がやってる嘘の生き方もあって…」
「そうじゃないでしょ! 
子供にヘンなこと教えないの!」
 (母親・俺の妻)
「だって、そうじゃん。『天下』と書いて、『アマクダリ』とも読む。
実際に今、現実の世の中にあるこった。」
「だけど今、そういうことは質問されてないでしょ!」
「…ああ、そうだな。
…必要以上の知識のバケモノ
だな。
ごめんね。今日は、今日も?お父さんのアタマはヘンだ。
お母さんに訊いて…」 (反省)
   
「お母さん、てんかってなぁに?」
「天下ねぇ…。それはねぇ。
…そうねぇ、この世の中のこと。
みんなが今、こうして生きてる場所。空の下。」
「ふ~ん。」 
(自分なりの納得。?。)
   
俺の子供は、俺だけでは育てられない。
また、母親だけの子供でもないし、
両親というもんは、子供の考えてること、感じてることを
決して、
なにひとつ解るものではない

解った気になってる人も中にはいるかもしれないけど
人間というもんは、自分以外の他人について、
その人がどんな人なのか? 
何をするために産まれて来たのか? 
どうして今、ここに、この時代のこの世に存在しているのか? 
それは自分以外の他人はおろか、自分でさえも解らない。
自分が生きるためには必要以上に教育・教養を積んでみたり  
無理な努力で限られた枠の何か を追い求めてみたり 
どんな者が言った言葉や他人の知識を借りるなどして、
何か解ったフリをしても、それは本来の自分ではない場合が多い。
   
たとえば、かつて、インドという国の中に王子として産まれ、
その後、世界中に、ある一定枠の、人の世と人の生死の意味について…
その何かを悟り得たことを教え広めたという人…。広めたのは枝別れを繰り返した弟子か?
その母親は、自分の子供が産まれる幾日も前に
白い像の夢を見たらしい。
そして、その白い像が父親なワケはないけど
やがて王妃の息子として、この世に生を受けた命は 
産まれた場所が屋内ではなく、屋外で、
蓮の花がいっぱいの湿地帯(?)だったらしい。
そしてその産まれたばかりの赤ん坊は 
赤塚不二夫先生の漫画『バカボン』に出てくる“ハジメちゃん”でもないのに
「人は生まれながらにして尊し」
などという口を訊いたという言い伝えまである。
2600年以上も前に。カレーで有名な印度という国 の中で。
それを知っている人がいたり、
「その話は何か違うんじゃねぇのか? おいっ!
と思う人がいても・いなくても、
それを実際に目で見て、実際に同じ時代に生きて関わったという人は
いない。
今はもう、どこにもいない。
そして、見上げれば晴天。 
人なんて… 人間なんて、それほど大したヤツなどいないさ。 
   
俺は今、何か特定の宗教を非難・否定してるわけではない。
単に、あの時代と、今いま我々が人として生きている時代は、
まったくちがう…ということを云ってるだけだよ。

   
今この時代、素晴らしいほどにまで文明も発達し 
数千年前や2007年前2003年前か?の時代よりも遙かに
いろいろな経験や様々な情報が溢れかえる中に生きている我々。
この21世紀初頭の人類に生きる現代人の中には、
逃げ道を造ることが得意な人もいたり、
知識や美貌や経済も含め、何かを守り抜こうと必死な人もいれば、
あるいは、開き直り、投げやりな気持ちの繰り返しで
その言葉の節々に捨て鉢やヤル気のなさが見え隠れする人もいる。
決して誰かが台無しにしたわけでもない自分の人生を
自ら悪い方向へ傾け、予期せぬところまで自分を追い込んでしまうような人もいて、
多種多様に、善悪の区別ができる人とできない人がいる。
やっていたのは自分で、やっているのは他人ではない。
「悔しい」とか、「畜生!」「残念」…と思うことも 
それ以前に、自分自身が見落としてきたモノが何であったのか? 
「そんなの嫌だ」「これじゃダメだ」…そんなふうに決め込んだり 
たとえ自分に対して思い込む何かにしても 
それは一体、いつから、どこから、勝手に押しつけた念い【おもい】だったのか? 
「みんなと同じようにできなくて当然。当たり前だ。
くらべても意味ないじゃん。一人ひとり、創られ方が ちがうんだから。」
俺も、そういう言葉を自分に対しても押しつけたりする。
そのことでさえ、今はもう自分以外の人間には通じないほど
世の中は必要以上な知識や物で いっぱいになってる。
ケータイの発達も。インターネットのパソコンの中身も。
各種、多機能なブログサービスにしてもな
一方、これほどまでに便利で快適なはずの世の中なのに
人によっては、自分自身が自分として生きることに
とても不自由な思いが募り、
場合によっては、他人を傷つけてみたり、勝手に自殺してみたり…
何かを奪い合い、それを競うことに追われつづけている人もいたりする。
何十年か前よりも何年か前よりも、
そういう人達が世の中に増え続けている。
そして、いろいろな恐怖 を感じて生きている人もいる。
俺自身も未だに、そういう中で生きている。
   
されど、見上げれば晴天
俺は俺として生きて、歌ってる人も歌ってる人として生き、
そして今日、とても新鮮な気持ちで その歌を聴いている様子の俺の子供も 
自分は自分として生きている。
   
そんな子供は、名前を一龍【いちろう】という。
西暦2000年という20世紀最期の年の、辰(龍)年に生まれ、
俺と妻の間に出来た長男、一人息子なので
単に、「この世にたった一つしかない命【モノ】」ということで
俺がつけた名前。
俺は親として、この、自分で付けた名前以外は、
自分の子供のことは何ひとつとして解らない。
決して解るものではない。
   
その一龍という、まだこの世に生を授かって7年くらいでしかない男の子は
昨年の秋 から毎日毎日、楽しみに日課としてきた絵日記で
文字を書くことの楽しさ も覚え、
自分の目で見た文字や自分の耳で聞いた言葉を
自分の書きたい場所へ書きたいように書いてみたりする。
   
   
   kadomatsu2007  
   
   
こんな感じ。
べつに正月のカキゾメというわけではない。
そんなことは周りの誰も強要も強制もしていない。
ただ、自分で書きたかっただけなのか? 
『かどまつ』と書いて、
そのうちのという文字には、なぜか、怪獣の口に似せたような装飾もある。
そして、何かの紙に書いたその部分をハサミで切って
それを
「そこへ貼っといて!」
ということで、絵も描くので
   
   
   nennga2007  
   
   
こういう正月らしき風景想像画の下へたれさげて貼ってある。
凧を飛ばして遊んでいる様子が描かれている。
   
先日の凧 は、作られたまま玄関に放置され、
未だに晴天を泳ぐことはない。
それを作っただけの父親は、
朝5時から夕方、冬の曇り空が暗くなるまで仕事をして帰ってくる。
可哀想ではないけど、
見上げれば晴天
青く澄んだ空を想像してみろ。
いつかはきっと、青空の下を舞う凧。
2007年の正月、天高く飛ばす目的で作られた。
生きている限りは、親子で夢見る晴天に はばたくであろう、凧。
必ずな。きっとな。たとえ正月が終ってもな。
   
この地球上には、どんなものでも、生命も、物体も、
何か必ず目的あって創られ、産まれ、育ち、やがて寿命を迎えるという、道理。
ある一定の義務を遂行して生きる役割がある。
どんな者にも。
時に、悩めるような雲が雨を降らせても 
そのうちにはまた雨もあがり、晴れ渡る空もある。
そこで、その澄み切った青空の下、
自分の足でしっかりと大地に立ち、
冴え渡る空を仰ぎ、もしも何か吐き出したいモノがある人は
たとえ臭い息でも吐き出してしまえばいい。
そして、その肺で思い切り空気を吸い込んでみてもいい。
たとえ独りきりに思えても、その空の下には他にも誰かがいる。
俺もいるし、俺の子供も、俺の妻もいる。みんないる。
だから時として、笑顔になれる人もいるかも知れない。
この天の下で。
そこではさ、決して自滅したり、勝手に命を投げ出す許可などは、
最初からない。
何者においてもな。
   
そして一龍は、今日、こんな文字も書いたよ。
   
   
   tenkanisume2007jan10th  
   
   
天下に住めと書いてある…らしい
本人の希望で、新潟日報地方新聞のカレンダーの横に貼ってある。
そこへ貼りつけるように書いたらしい。
日中、テルテル坊主さんがブレイク・ダンス踊ってるような異常気象の今日、
俺が子供の知らない場所で仕事に明け暮れてた時間… 
そのわずかな、いっときの時間。俺の知らないところで書いた瞬間があった。
同じ空の下でな。
   
   
見上げれば晴天
   
聴いてます。
今この時代に生きる、世界中すべての人がリクエストしてるような歌。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
       誰がつくったの  
   
   BurgerShop2006