世の中に新譜としてCDやレコードが発売されると、
それがひとつのアルバムの場合、その中には
たいてい、『ライナーノーツ』とか、アーティストの解説のほか、
それが丁寧でなくても実に親切な内容でも、楽曲解説もついている。
素晴らしく幅広いジャンルを熟知した音楽評論家の方が書いていたり
発売元の依頼や企画では、ファンやそのアーティスト本人による“今の声”
も掲載されたりしているケースもある。
そういうコンパクト・ディスクという商品は、
発売されたばかりのアルバムであり、それを買ってくれたり、
…たとえレンタルショップでの貸し借りであったとしても
聴いてくれる人、リスナーに対しても失礼のないように
「出来たてホヤホヤだよ!」
の、ヤキイモ屋の精神のように
それなりにテンションを高めるべくした解説や推薦文が載っている。
中には、「最初はハッキリ云って、それほど関心を惹くアーティストではなかった…(略)」とか、
そのアーティストやファンに対してのワル愚痴にはならないように
起承転結や日本語文法もキッチリと守って
業界用語や流行語を織り交ぜたスタイルで
そのCDやレコード音源(など)を聴く人をワクワクさせる内容もあれば
勝手に押しつけるような専門用語や和製英語を並べ
まったくギクシャクした文章で読みづらいライナーノーツも実は最近は多かったりもする。
伊丹哲也というアーティストは今、CDは出さない。
出しても売れないから出さないのではなく
今は出す必要性がないので出さない…んだと思う。
かつては、世の中にCDが普及される以前に
ファースト・アルバム、セカンド…とつくり、
「ターンテーブルの黒い種板盤の上へ針を落として音を聴く」
という誰もがワクワクしてたはずの瞬間が
ガチャッ!
無造作にCDプレーヤーにCDが放り込まれる時代に替わってからも
伊丹哲也というアーティストは4~5枚のアルバムを制作し
堂々と世の中へ送り出してきた。
アーティスト自身のスピリットや幾つかの可能性にかける挑戦…
などがどうあろうと、セールス的には
近頃のメジャー路線で浮き沈みを繰り返すアーティストには及ばなかった。
今後もし、なんらかの形でCDが発売された日には、どうなるかは判らない。
それでも、伊丹哲也というアーティスト。独りのシンガー・ソングライターは
今はもう、たった一人ではない ので
風のように消えてゆく歌を歌い、ステージを己の生きる場所と自覚している。
ひとつのステージで何が歌われたかも、セットリストはあっても…ない。
何が歌われたのか? 何が歌われているのか?
当日の観客 、ファンにしか解らない。
幾つかの楽曲が、オフィシャル・サイトで紹介されている。
「こんなヤツです!」という感じで。
アーティスト自ら、フルトラックで試聴を提供している。
http://home.p02.itscom.net/fighting/T.ITAMI%20OFFICIAL.html
そこで初めて聴く人には、好みもあり、
「みんな同じジャン!」と思う人もいる…かも知れない。
それでも、伊丹哲也というアーティスト。プロのシンガー・ソングライターは
晴れ渡る空の下で風のように歌う。
ここ10年来は、毎年コンスタントに定期LIVEを行ってきた という。
それ以前は、人前でも歌うことを休み、
業界の片隅でプロデューサーという裏方業務 に回っていた時期もあったらしい。
昨年、2006年12月10日には、実に半年ぶり にステージに立ち、
その模様は、たとえば、
http://kogopara.seesaa.net/archives/20061211.html 2006年12月11日
こちらのブログ でも、ご自身の心に忠実なまま正直に、
ひとつのLIVE体験として伝えられている。
(勝手なリンクお許しください。)
巷の音楽業界では
幾つかのシングルヒットを放ち、その感触で
アルバムも制作され、そのアルバムのプロモートのために
LIVEコンサートやクラブ・ギグも開催され、
ファンはアーティスト・グッズを買うために列に並んだりする…
という一連のお約束のようなシステム(?)がある。
その規模は、たとえば、The Rolling Stones や U2 というビッグネームともなると
メディアも放っておかないセンセーションとなり
ファンも口を揃えるように、
「行って来たよ!」「また買ってしまった!」
と、そういう感動や夢 を語ったりもする。
それでも、伊丹哲也というアーティスト。日本のシンガー・ソングライターは
風のように歌いつづけ、そしてまた、ステージに吹く風を感じる。
…しかも、その裏側(?)には、
彼らに果たせなかった夢への野望も未だある…かも知れない。
それらの気持ちを巧みに表現した歌のひとつに、
『ひゅるりら 』
がある。
ここ数年は、CDを出すよりもインターネットのオフィシャル・サイト で
全曲オリジナルを紹介するGallery を通して、また、
“おれのたわ言 ”というコーナーでは
ファンに向けて近況を報告するなどして、4~5年になるという。
俺も一昨年の秋 までは、そのサイトの存在をしらなかったファンの一人。
この一年あまり、そのサイトの中での成長…更新を追っかけて、今日に至る。
風のように消える歌を歌う、伊丹哲也と共に、1%の戦友として。
最近、「お年玉だよ。」と云わんばかりに
大部分が、それまで自宅のブースで録音された珠玉の作やLIVE音源とは別に
正式にスタジオで制作された曲が10曲。新たにまとめて公開された。
Gallery2 の奥 にある。
ところが、そこには『ライナーノーツ』はない。
オフィシャルサイトなので、
「尚、楽曲の著作権は伊丹哲也にあります。」
と小さく書かれた文字はあるものの、曲の紹介や解説は一切ない。
「これが最新作!」ということも、初めて聴く人には判りにくい(かも知れない)。
ただ、
「どこからでも、ご自由にどうぞ。…よろしく。」という感じなのか?
『21世紀初頭の日本をモチーフにした写真集』のようなバックに
時計まわりで10曲が並べられている。
その6曲目に、
『凹垂れ 』という曲がある。
サイトを訪れた人や、何かの検索で、そこへ辿りついた人が
曲目をクリックすると、最新のリアルプレーヤーが立ちあがり、
4分17秒のその曲を最初から最後まで聴くことができる。
どこか、スコット・マッケンジーのヒット曲を彷彿とさせ、
曲の展開そのものは、アメリカのシンガー、P.F.スローン の
『孤独な世界 』
のように、切々と淡々と歌われながらも
「凹まず。あきらめず。しぼまず。投げ出さず♪」
というフレーズが、誰に対してというわけでもなく、
「自分自身が前へ進んで生きてゆきたいのは、オレもみんなと一緒さ」
という、とある時代を見つめた男の優しさとして
実は、それを歌う自分自身にも渇を入れる曲 として歌われている。
世代を問わず、聴く人に、素直に、ストレートに飛び込んでくる、
“今を生きる”人たちに贈る詩とメロディ。そして、
伊丹哲也というアーティストが、アメリカン・ポピュラー・ミュージックを
どこまで知り尽くしているかは別としても
ギター一本とマウス・ハープだけで
これだけ完成度の高い曲の数々を作り、演奏できるということは
今の日本のミュージック・シーンにおいては、そうそうあるものではない。
もしかすると、この広大な世界には
伊丹哲也というアーティストの他にも、まだどこかで、
いるかも知れない。それは、
音楽の分野に限らず、フォト・アートや絵画、文筆や創作などのフォーマットにおいても
その人なりのやり方、そのヒト独自の生き方で
いつの日か自分の心から湧き出したエネルギーや情熱の破片が
誰か何者かの心へ届くことを夢見て
時には歌うように、時には つぶやくように、あるいは風と共に踊るように…
誰かに認められたいとか、今よりも上へ昇りたいとか
そんなこととは関係なく、自由な風のように…
今日、1月8日。エルヴィスの日 にも
『凹垂れ 』という曲を聴いて、そんなことを想う俺もいる。
では、あなた自身は?