前回の記事
‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その20(アンチ米軍運動の再開)‐
『原水爆禁止2008年世界大会』
http://www.antiatom.org/intro_activity/world_conference.html
・『理想』ばかり優先しても世界の本質は見抜けない
1963年8月の初旬は、日本の平和勢力の眼のすべてが『第九回原水爆世界大会(広島)』に集中された。前年の大発会大会の時と同じく、大会では多少の混乱がみられた。
その中で、『いかなる国の核実験にも反対すべきである』という主張を原水禁運動の基本原則として認めるべきとする一部勢力が退場し、分裂集会を開くことになった。
以下のように、全体としては、伝統を守り、全員一致で『当面の統一行動に関する決議』『被爆者救援運動の強化にかんする決議』『国際共同行動のためのアピール』を採択し、それなりのまとまりを見せましたが、この原水爆禁止大会にて、『伝統』を意識する人々との軋轢によって、日本の民主勢力、とりわけ安保闘争を共に戦ってきた人々の中に後味の悪いシコリを残したのは事実でした。
ただ、私が個人的に思うことは、この原水爆禁止の問題について、確かに「いかなる国の核実験には反対だ」と叫ぶこと自体は、地球の環境や人類の平和を保つ上で、ものすごく正しいことなのは分かりますが、その先々に続いた現実を見れば、やはり空虚な「理想論」と捉えられても仕方がない側面が大いにある。
少なくとも、今それを前提として話すには「早すぎる」というか、根本的に物事を考えると、今この瞬間もある国際政治の「不均衡」を彼らはまったく理解できていない。
核兵器の問題にしろ、もっとも強勢な集団による「実験」はなおざりにされ、その影響下にある国々の『大本営報道』により、自らの生存権を守る国の「実験」ばかり批判され、これ以外にも、あらゆる「理不尽な批判」や「バカ真面目な批判」含め、矛盾が数多くあります。
・リベラル運動は衰えていなかったが・・・
1963年8月16日になると、安保国民会議は、『第九回原水禁大会』後初の幹事会をひらき、先の7月15日の全国代表者会議の決定による、9月1日予定の横須賀や佐世保両拠点地区における米ポラリス原潜阻止の10万人以上の大集会をおこなうことを決定した。
そして当日9月1日の集会では、日本核武装反対、米原子力潜水艦「寄港」阻止、日韓会談粉砕、安保条約破棄の『4大スローガン』を掲げ、横須賀15万人、佐世保6万人という空前の大動員となり、これら『第十二次統一行動』は予想以上の成果を収めました。
この日はちょうど、関東大震災40周年にあたっていたので、日比谷公会堂では、日朝協会をはじめとする、数十の団体共催による『関東大震災40周年記念朝鮮人犠牲者慰霊祭』が開かれていた。
※日朝協会について
‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その3(遅れすぎた朝鮮との接触)‐
ただ単に、40周年だからというだけでなく、日本人としての朝鮮観の反省などが『日韓闘争』の中で高まりつつあった時期でもあったので、この催しは、多くの人々の賛同と協力を得ることができたのでした。
1963年9月1日の『第十二次統一行動』が、最大の動員を得て行われたのを見てわかるように、日本人の平和闘争へのエネルギーは少しも衰えてはいませんでした。
ただ、原子力潜水艦問題がクローズアップされると、もはや日韓会談粉砕闘争は終わったので、今度は原潜闘争だというふうに、移り気的に、かつ受動的に運動が展開されていくきらいが感じられた。
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略)‐
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略②)‐
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略③)‐
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その4(「中国封じ込め」作戦の経緯)‐
アメリカの極東軍事政策、特に日本を拠点とする『中国封じ込め政策』の展開という観点からは、陸が『日韓会談』、海が『原子力潜水艦』、空が『F105D』というように、これらのイシューを統一して掴むことは可能で、またそう理解しない限り反対運動を有効に組織はできないのです。
‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その19(運動のオワコン化 その弱点とは)‐
しかしながら、運動の進展状況は必ずしもそうなってはいませんでした。
・朴正煕の「大統領選」出馬と当選
日本の民主勢力が、原潜問題で血眼になっていたとき、こと南朝鮮(韓国)で朴正煕(パク・チョンヒ)が1963年8月30日、民主共和党に入党し、この日の党大会で総裁に就任。翌31日には、来る1963年10月15日の大統領選挙に向け、同党から出馬する旨を正式に発表しました。
つまるところの、見せかけの「脱」軍事政権化、「民政移管」への準備態勢を着々と整えつつあった。
その後見るべき日韓会談粉砕闘争としては、日本平和委員会の呼びかけで、米原子力潜水艦「寄港」阻止、日韓会談粉砕を軸とする『一〇・一三全国一斉統一行動』でした。
この日に向けて、中国平和委員会、中国AA連帯委員会からの連帯メッセージや、朝鮮民主女性同盟からも同じくこの『統一行動』への支持や激励メッセージが、新日本婦人の会宛てに届きました。
集会は、京都、大阪、兵庫、大分、埼玉、山形、北海道など各地で開かれた。
そして1963年10月15日、総評は安保国民会議に対し、後の衆議院総選挙を前に、全国民を結集する『第十三次統一行動』を組織してほしいと申入れを行い、ちょうどこの日は、韓国の大統領選挙の開票日でもありました。
『韓国大統領選挙の結果発表』 (同)
結果はご覧のとおり、朴正煕(パク・チョンヒ)が、僅差で尹潽善(ユ・ボソン)その他の候補者をおさえて当選しました。
・日本の総選挙の行方 「争点隠し」の自民党と無力なリベラル
1963年10月23日には、愛知県民会議主催の米原子力潜水艦「寄港」阻止、日韓会談粉砕を目指す愛知県総決起大会が名古屋でひらかれ、結集した2万5000人の労働者たちは、『池田内閣打倒』を叫びながらデモ行進をおこない、この時期における愛知の統一行動は、中央の安保国民会議の指導性が揺らいでいた時であっただけに、全国的にもその意義が高く評価された。
『日本衆院総選挙の結果発表』 (同)
1963年11月21日投票の総選挙中、本来『日韓会談問題』こそが、論議の焦点に据えられるべきでしたが、政府与党である自民党は、それを主たる争点にすることを避け、批判勢力の側も、またこれを中心に据えて与党への攻撃を加えることが出来ませんでした。
こうやって見ると、今も昔も日本の「根本的な政治状況」は変わっていないような気がします。
ひるがえって、大衆運動としては太平洋戦争開戦22周年にあたる1963年12月8日に、被爆者完全援護法制定、米原子力潜水艦「寄港」阻止、F105D撤去などの要求を掲げる統一行動が、東京、山口、京都、宮城、長野をはじめ全国各地で開催。
また、東京日比谷では、12月11日、全日自労、全自交、新日本婦人の会、平和委員会など30数団体主催の『高物価、重税反対、国民の生活と権利を守り、日韓会談粉砕、原子力潜水艦「寄港」を阻止する中央集会』が催されました。
この集会では、安保国民会議に対し、『第十三次統一行動』を実施するよう要求する決議がなされたが、これと前後し、安保国民会議へは、中央・地方から活動を即時再開せよという申し入れが相次いだ。しかし安保国民会議は、『第九回原水禁世界大会』以来、特に冷えている社会党、総評と共産党との意見(路線)の食い違いを理由に、行動への立ち上がりを渋り続けていた。
しかし日韓や、F105D問題などについては社会党、総評、共産党の態度は「まったく同一」だったので、そうした共通点を求め、相違を保留するという『統一行動』の原則を振り返ってみても、団結しなければ元も子もないのに、その実践はまったく困難極まるものでした。
<参考資料>
・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房
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