前回の記事
‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その18(ポラリス寄港問題と韓国の内紛)‐
・下火になるリベラル運動 『日韓会談反対』の終わりの兆し
安保国民会議は、幹事会を開き『日韓会談打ち切り闘争』と『春闘』とを結合させ、1963年2月20日に『第七次統一行動』として10万人の国会請願を成功。引き続き、3月5日に全国的な地域・職場の学習討論集会をおこない、3月9日、『第八次統一行動』を開催することを決めた。
アフリカのタンガニーカ共和国(現タンザニア)のモシで開かれていた、『第3回アジア・アフリカ諸国人民連帯大会』は、1963年2月10日、『沖縄返還』、『日韓会談反対』などの決議を採択し、運動に参加する日本国民を励ましました。
つづく2月11日の大分県の安保共闘再開でもって、日韓会談粉砕を期して立ち上がった都道府県の安保共闘の数は41に達し、2月20日における『日韓会談粉砕第七次統一行動』の日、東京の中央大行動には全国からつめかけた上京代表団を含め、数万の人々が結集し、大集会と国会請願デモをおこなった。
しかし、本来主催者側の目標は「10万人」の動員であったはずなのに、実際は数万を出なかったことに、運動が上向きにならない証拠が露呈しました。
南朝鮮(韓国)の政権に混迷が続いていたのは、日韓会談粉砕を目指す勢力にとって、何よりも追い打ちをかける「絶好のチャンス」で、事実有利な情勢であったはずでしたが、現実はそうはいきませんでした。
・その「原因」は一体何か?
‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その18(ポラリス寄港問題と韓国の内紛)‐
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略)‐
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略②)‐
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略③)‐
‐シリーズ『日米同盟』の正体 その4(「中国封じ込め」作戦の経緯)‐
原子力潜水艦日本「寄港」問題を、アメリカの「中国封じ込め」政策との関連で捉えれば、それをも日韓会談と結びつけることは出来ただろうし、同時に春闘や地方選挙といった、労働者を中心とする国民の行動や、選挙など政治に対する関心が高まるシーズンを有利に活かす余地は十二分にあったにも関わらず、実際は『日韓会談粉砕闘争』自体が、いつのまにか最高のヤマ場を過ぎていたのでした。
おそらくこれは、情勢分析や情勢判断を「運動の中でしか」活かしきれないという、日本のリベラル運動の『弱点』をあらわした(※当時はネットもなく、自発的な情報発信が出来ないがために、一般市民は「運動」という形でしか意思を見せる手段がなかった/本の出版などは権威や実績のある人に限られる)と同時に、日韓会談を端にテーブルを囲む会談とみて、それが本来「軍事的・経済的に重要な意味を持つ米日韓体制の推進」であるという、本質理解ができない弱さの反映であったと、参考図書の畑田氏は指摘されています。
※は筆者註
つまり『日韓会談』は、上述の本質からみて、少しばかり韓国政権内で混乱が生じたからと言って、到底断念されるようなシロモノでないのでした。
・隅に追いやられる『日韓会談』 周到な米日支配層の立ち回り
1963年2月25日、『総評第22回臨時大会』が東京品川公会堂で開催された。
日韓会談は、いちおう重要議題に掲げられていましたが、「新週刊問題」の処理に関する議題にくらべ、副次的に扱われたという感は免れませんでした。
『朝鮮総連』 (Wikiより)
日本の日韓会談粉砕を目指す勢力が、韓国軍事政権の内紛が深まるにつれ、一種の「楽観的な見方」に陥り、闘争の矛先を緩めがちであったとき、唯一朝鮮総連は1963年2月20日に『南朝鮮の現事態と関聯して』(『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 191頁より)と題する声明を発表し、(韓国における)軍事支配が崩壊に直面しているに際して、日韓会談はすぐ中止せよと、明確な態度を打ち出して注目された。
日本人の中には、韓国政権の崩壊が、日本との会談の代表を送れなくなることになり、イコール「日韓会談の不進展」という風に考える人が多くいました。
つまり、考えが甘かったということですね。
事実は逆に、韓国政権の動揺が深まれば深まるほど、米日支配層(エスタブ)は、急いで『米日韓体制』の完成を仕上げるため、権力が弱体化する韓国に、政治的なり経済的にテコ入れをしなければならないと考えるはずですし、実際その方向に物事は進んでいきました。
日本政府は、朝海大使を通じてアメリカ政府に日韓会談の経過を「報告」しましたが、米政府は1963年3月12日、記者会見で南朝鮮(韓国)の政情が不安定でも「早期妥結に進むべきだ」と日本政府へ指示しました。
総評をはじめとする、いくつかの組織では、『日韓』をよそに、『春闘』と『地方選挙』に関心をあつめ、勢力を注ぎ始めていた。本来、『春闘』も『地方選挙』も、『日韓』を抜きにしてたたかうことが出来ない議題でしたが、事実はそういかなかった。
韓国政権の内紛が深まりゆくと同時に、日本国内では、『ポラリス原子力潜水艦問題』が人々の神経を刺激してやまなかった。
‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その18(ポラリス寄港問題と韓国の内紛)‐
日本平和委員会と、その影響にある地方の平和諸団体の呼びかけに応え、『一〇・二一大動員』の流れをひく、1963年の『三・三全国統一行動』では、米原潜問題がおのずと中心にすわった。
横須賀(5万)、神戸(1万)、佐世保(8000)、で大示威行動が展開されましたが、どこでも『ポラリス来るな』の呼びかけの影にかくれ、『日韓』は副次的な地位におかれていた。
1963年3月12日、安保反対国民会議主催の『第八次統一行動中央集会』が、東京・日比谷で開かれましたが、万を割って、7000人しか集まりませんでした。
統一戦線組織である安保共闘を軸とする『日韓会談』反対の動きでも、中央・地方で下降線をたどっていき、ただひとり前年1962年の『三・二五板付10万人大集会』の実績をもつ福岡では、いままでリベラル勢力が掲げていた「諸要求」を統一した運動を展開しました。
‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その12(日韓会談粉砕、在日米軍撤退など)‐
1963年3月24日『春闘、地方選挙に勝利し、日韓会談、板付基地拡張を粉砕する三・二四福岡県民大集会』を、再び10万人のデモ行進で成功させて、全国の平和勢力を励ましていました。
<参考資料>
・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房
<ツイッター>
【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】
https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As
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