前回の記事

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その11(日本共産党の決意)‐

 

 

・「政治運動」に関する先人の知恵

 

 

『ウラジミール・イリイチ・レーニン』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3

 

個々の労働者が全労働者階級の一員であることを自覚するとき、また、個々の雇い主や個々の役人にたいするその日常の小さな闘争を、ブルジョアジー全体と政府全体とにたいする闘争と考えるようになるとき、そのときはじめて彼の闘争は階級闘争となるのであり、資本家にたいする労働者の闘争は、それが階級闘争となるのに応じて、必然的に政治闘争になるのである。

 

レーニン「われわれの当面の任務」 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 176頁より

 

日本のリベラル運動の「弱さ」を考えるなら、それぞれが未だ小さなレベルに分かれ、物事を大局的に捉えてまとまることが出来ないがゆえに、より強い相手の「結束」に、まったく太刀打ちできない性質があります。

 

 

・朴軍事政権の「正当性」を主張し続ける日本政府

 

 

尹潽善(ユン・ボソン) 大韓民国第4代大統領

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E3%83%9C%E5%96%84

 

1962年3月22日尹潽善(ユン・ボソン)「韓国」大統領は、朴政権(当時は国家再建最高会議議長で実質権力者。1963年~1979年まで韓国大統領)が公布した『政治活動浄化法』を不満として辞任を表明した。

 

尹大統領の辞任は、「韓国」の政治指導層内部の矛盾の表れであったし、日本では当然に朝野から日韓交渉の行方に関心が集まった。特に、朴軍事ファッショ政権の合法性を認めるのに、尹大統領が張勉時代から引き続き存在していること「唯一の根拠」としてきた日本政府の態度が注目された。

 

※張勉について


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%8B%89

 

しかし同年3月23日、日本政府は「尹大統領の辞任(根拠の喪失)」によっても朴政権の合法性は変わらないとの態度を表明しました。

 

朴正熙が独裁的政権であるかぎり、大統領がやめても「韓国」の政権に実質的な変化はあろうはずがなかったが、それにしても、尹辞任は朴政権弱体化の兆候には間違いなかった。

 

日韓会談粉砕を期す日本人の側では、「追撃をかけるべきチャンス」でした。

 

国会では無論、共産党川上貫一議員を先頭に、「韓国」政権の合法性に関する議論が沸きました。

 

戦後、吉田内閣『平和条約(サンフランシスコ条約)』を、鳩山内閣『日ソ国交回復』、そして岸内閣(吉田内閣以後の)『日米安保改定』と、それぞれ大きな外交懸案を「解決した」と言われている。

 

その意味でも、池田内閣の「解決すべき」最大の外交懸案は、他ならぬ『日韓会談の完全合意』であると言われた矢先だけに、池田首相の態度は異常に真剣でした。

 

共産党の川上代議士が、『日韓会談』(日本政府が)朴政権による“滅共統一”の政策に同調し、協力する目的以外ないことを暴露したとき、池田首相が緊張しながら、しきりにメモをとる姿が人々の注目を引きました。

 

さらに、川上発言の後半になると、自民党議員は盛んに妨害しましたが、ついに川上委員の発言が森下外務委員長によって、一方的に中止させられるという前例のない事態が起こった。

 

政府与党にとって、日韓問題がいかに重要であるかと同時に、国民との関係でいかに慎重に扱おうとしているのかの証拠を示した一幕であると、参考図書において畑田氏は指摘されています。

 

 

・遅れを取りながらも「会談反対」を掲げるリベラル

 

この段階にきても、院外闘争を「第二の安保闘争化」するまでには、なお距離がありました。

 

地方的、分散的には春闘決起集会などで、日韓会談粉砕がスローガンの中に含まれていました。たとえば、1962年3月24日に、名古屋ではじめて統一行動に立ち上がったという金融ビジネスマンたちの『東海地区金融決闘決起大会』には、『八千円の賃上げさようなら』『政暴法粉砕』とともに、『日韓会談粉砕』のプラカードが目立っていた。

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その11(日本共産党の決意)‐

 

春闘の推進力として期待されていた港湾労働者の三・ニ七国際港湾ストを準備する過程でひらかれた港湾労働者の諸集会にも、大幅賃上げ、労働時間短縮、港湾労働法の制定など、上述の記事で指摘した「経済問題(日銭問題)」に関する要求とともに、日韓会談阻止、政暴法粉砕、軍国主義復活反対「政治問題」のスローガンも掲げられました。

 

 

・その「完成形」ともいうべき在日米軍追い出し運動

 

この運動の中で、日本全土から米軍基地をなくし、極東の平和を守ろうとするたたかいの狼煙(のろし)があがった。

 

内でも、1962年3月25日における全九州の民主勢力を結集した板付の『10万人集会』は、画期的な成果をおさめました。

 

 

『1962年(昭和37年)3月25日 板付基地撤去10万人九州大集会と基地の航空機』記事より

 

http://www.geocities.jp/hikoki100/itazuki.htm

 

前回の記事で、在日米軍基地の酷さについて述べましたが、この集会に向けて福岡平和委員会が発行したパンフレット『基地板付の全貌』は、日韓会談が具体的に板付基地と「どういう関係」にあるのかを、先の1962年2月16、18両日三機の「韓国」軍用機の飛来を例にあげながら説明していた。

 

 

板付基地を離陸するアメリカ軍のF-82戦闘機を見送る家族 (Wipediaより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%A9%BA%E6%B8%AF

 

つまり、朝鮮戦争でもアメリカ軍の「前線出撃基地」として機能した日本の『板付基地(現・福岡空港)』は、日本が戦争に「片足を突っ込んだ」ことを意味し、さらには日米韓の「軍事同盟強化」の側面からも、北東アジアに緊張を作り、周辺諸国との「分断」を生み出し、一部の権力者たちを除いて、平和を害することにより、大衆や一市民たちにとって、生活破壊のリスクを高めるだけのガン細胞でしかないことを意味した。

 

そうした、日本自体が「巨大な米軍基地」という事実を踏まえ、前述の『10万人集会』と同じ性格のデモが、関東では横田(1962年3月24日)東北六県北海道三沢で、また浜松などの各地(同年3月25日)でも開かれました。

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その10(もつれるリベラル運動)‐

 

改善点としては、安保国民会議が提唱し、彼らが主導的に全国的に統一して、この種の集会(行動)が繰り広げられていたならば、おそらく板付とその他の地域のようなアンバランスは起こらなかったであろうし、全国的にさらに気勢があがっていただろうという反省とも批判ともつかぬ声もあちこちで聞かれました。

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・『1962年(昭和37年)3月25日 板付基地撤去10万人九州大集会と基地の航空機』記事

 

http://www.geocities.jp/hikoki100/itazuki.htm

 

 

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