ミレー「落ち穂拾い」
今回は誰もが知っている、
そう、教科書でも見た、
この絵 「落ち穂拾い」を取り上げる。
作者は ジャン・フランソワ・ミレー、
あの農民画家といわれたミレーである。
彼は農夫にスポットをあて「種をまく人」「晩鐘」なども
描いている。
よく見てみると、なんと広大な大地なのだろう。
前面に落ち穂拾いをする3人の農婦が
クローズアップされている。
腰をかがめ、散らばった落ち穂を黙々と拾っている。
このように拾い集めるほど、
落ちているものなのか。
刈り入れの時、こぼれた麦の穂は貧しい人達が
拾うことを許されたもので、
いわば ”神からの恵み” とする慣習だったようだ。
この落ち穂は、拾う人のために、
わざと残されたものだったのか・・・・・。
なんと素敵な話なのだろう。
今まで、そんな風にこの絵を見てはこなかった、
単に農作業する3人の農婦の姿ぐらいにしか。
でも、そのことを知って、
この絵の見方が変わったような気がする。
3人の農婦の背景には広々とした大地が続く。
遠くに、日差しを受け、穀物がうず高く積まれ、
たくさんの農夫がはたらいている。
忙しい収穫の風景である。
ミレーの描いた「落ち穂拾い」は見慣れた絵だったが
この残された「落ち穂」のいわれを知り、
温かさがじんわりと伝わってきた。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
この豊かな大地に・・・・
注1:
細部を見るため絵画を拡大して見るには、
絵画をクリックすると少し大きくなります。
さらに大きくするには、キーボードで、
左指でCtrlを押しながら右指で+を押すと、
押すたびに、500%まで拡大できます。
縮小はCtrlを押しながら-を押すと、
順次、縮小されます。
注2:
最適な状態でブログを見ていただくには、
左指でCtrlを押しながら右指で+を
一回押すと110%に拡大されます。
是非、この大きさでご覧いただきたいです。
そう、教科書でも見た、
この絵 「落ち穂拾い」を取り上げる。
作者は ジャン・フランソワ・ミレー、
あの農民画家といわれたミレーである。
彼は農夫にスポットをあて「種をまく人」「晩鐘」なども
描いている。
よく見てみると、なんと広大な大地なのだろう。
前面に落ち穂拾いをする3人の農婦が
クローズアップされている。
腰をかがめ、散らばった落ち穂を黙々と拾っている。
このように拾い集めるほど、
落ちているものなのか。
刈り入れの時、こぼれた麦の穂は貧しい人達が
拾うことを許されたもので、
いわば ”神からの恵み” とする慣習だったようだ。
この落ち穂は、拾う人のために、
わざと残されたものだったのか・・・・・。
なんと素敵な話なのだろう。
今まで、そんな風にこの絵を見てはこなかった、
単に農作業する3人の農婦の姿ぐらいにしか。
でも、そのことを知って、
この絵の見方が変わったような気がする。
3人の農婦の背景には広々とした大地が続く。
遠くに、日差しを受け、穀物がうず高く積まれ、
たくさんの農夫がはたらいている。
忙しい収穫の風景である。
ミレーの描いた「落ち穂拾い」は見慣れた絵だったが
この残された「落ち穂」のいわれを知り、
温かさがじんわりと伝わってきた。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
この豊かな大地に・・・・
注1:
細部を見るため絵画を拡大して見るには、
絵画をクリックすると少し大きくなります。
さらに大きくするには、キーボードで、
左指でCtrlを押しながら右指で+を押すと、
押すたびに、500%まで拡大できます。
縮小はCtrlを押しながら-を押すと、
順次、縮小されます。
注2:
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クラーナハ「子どもたちを祝福するキリスト」
母親に抱かれた赤ちゃんがいっぱいだ。
中央には赤ちゃんを抱いた男性が一人。
この絵は新約聖書の一場面で、
自分の子供をイエス・キリストに触れてもらおうと
集まった母子たちだ。
描いたのはクラーナハで
「子どもたちを祝福するキリスト」である。
大切なわが子をイエスに触れてほしい
という母の思いが伝わってくる。
イエスは子どもを優しく抱きあげ、頬ずりしている。
この光景を弟子たちは喜ばなかった。
それは多忙なイエスに女性や子供を
相手にしている時間などない
ということだったようだ。
それでも、
イエスの力は大きく、母子たちは集まってきた。
今なら考えられないことだが、
当時は、女性や子供たちは
それほど大切に扱われていなかった。
だからこそ、子の幸せを願う母は、
イエスに祝福して欲しいという願いが
あったのだと思う。
それに応えるかのように、
イエスの顔はとても優しく、幼子を慈しんでいる
イエスは、
「子供たちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。
だから子供のような最も小さい者たちこそ
神の国にふさわしい。」
と説いている。
そして、何ごとにも、理屈ではなく
子どものような素直さ無邪気さをもって
すべてを謙虚に受け入れることが大切だ
と諭したのだ。
今、かわいそうな子供たちがたくさんいる中で、
このイエスの言葉がとても心に響いた。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
この神聖な場面に・・・・
中央には赤ちゃんを抱いた男性が一人。
この絵は新約聖書の一場面で、
自分の子供をイエス・キリストに触れてもらおうと
集まった母子たちだ。
描いたのはクラーナハで
「子どもたちを祝福するキリスト」である。
大切なわが子をイエスに触れてほしい
という母の思いが伝わってくる。
イエスは子どもを優しく抱きあげ、頬ずりしている。
この光景を弟子たちは喜ばなかった。
それは多忙なイエスに女性や子供を
相手にしている時間などない
ということだったようだ。
それでも、
イエスの力は大きく、母子たちは集まってきた。
今なら考えられないことだが、
当時は、女性や子供たちは
それほど大切に扱われていなかった。
だからこそ、子の幸せを願う母は、
イエスに祝福して欲しいという願いが
あったのだと思う。
それに応えるかのように、
イエスの顔はとても優しく、幼子を慈しんでいる
イエスは、
「子供たちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。
だから子供のような最も小さい者たちこそ
神の国にふさわしい。」
と説いている。
そして、何ごとにも、理屈ではなく
子どものような素直さ無邪気さをもって
すべてを謙虚に受け入れることが大切だ
と諭したのだ。
今、かわいそうな子供たちがたくさんいる中で、
このイエスの言葉がとても心に響いた。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
この神聖な場面に・・・・
クラーナハ(父)「マルティン・ルターの肖像」
”マルティン・ルター” といえば、
そう、あの人。
世界史で学んだ「宗教改革」の
マルティン・ルターである。
名前は知っていたが、
姿、顔までは知らなかった。
これがクラーナハ(父)が描いた
「マルティン・ルターの肖像」である。
ルカス・クラーナハ(父)、
なぜ父かというと、同じルカス・クラーナハという名前で、
息子も画家である。
でも、父ほど有名ではないらしいが・・・
1917年、ドイツの神学者マルティン・ルターが
ローマ教皇の腐敗を批判する
「95ヶ条の論題」を発表した。
それが契機となって「宗教改革」が始まった。
ルカス・クラーナハ(父)は、
ルターの考え方に共感し、
これを分かりやすく広めようとした。
そこで、目に見える絵画や版画で表現することで、
彼の改革を強力に支援していった。
肖像画からルターという人物を
いろいろ想像してみると、
口元を強く引き締め、油断なく前方を見据えている、
なんと意思の強い人なのだろう。
大きな目的を持ったゆるぎない態度は、
この堕落に満ちた宗教界を
本気で立て直そうとしているかに見える。
この肖像画によって、ルターという人が、
世の中にどれだけ知れ渡ったことか。
実は肖像画の描き方にも、ひと工夫あったようだ。
それは、どこにどんな工夫があったのか、
じっくり眺めてみたい・・・・・
この絵は、
歴史に残る「宗教改革」を推進したマルティン・ルターを、
広く世に知らしめた一枚として覚えておきたい。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
このマルティン・ルターに会いに・・・・・
そう、あの人。
世界史で学んだ「宗教改革」の
マルティン・ルターである。
名前は知っていたが、
姿、顔までは知らなかった。
これがクラーナハ(父)が描いた
「マルティン・ルターの肖像」である。
ルカス・クラーナハ(父)、
なぜ父かというと、同じルカス・クラーナハという名前で、
息子も画家である。
でも、父ほど有名ではないらしいが・・・
1917年、ドイツの神学者マルティン・ルターが
ローマ教皇の腐敗を批判する
「95ヶ条の論題」を発表した。
それが契機となって「宗教改革」が始まった。
ルカス・クラーナハ(父)は、
ルターの考え方に共感し、
これを分かりやすく広めようとした。
そこで、目に見える絵画や版画で表現することで、
彼の改革を強力に支援していった。
肖像画からルターという人物を
いろいろ想像してみると、
口元を強く引き締め、油断なく前方を見据えている、
なんと意思の強い人なのだろう。
大きな目的を持ったゆるぎない態度は、
この堕落に満ちた宗教界を
本気で立て直そうとしているかに見える。
この肖像画によって、ルターという人が、
世の中にどれだけ知れ渡ったことか。
実は肖像画の描き方にも、ひと工夫あったようだ。
それは、どこにどんな工夫があったのか、
じっくり眺めてみたい・・・・・
この絵は、
歴史に残る「宗教改革」を推進したマルティン・ルターを、
広く世に知らしめた一枚として覚えておきたい。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
このマルティン・ルターに会いに・・・・・
ゴーギャン「自画像」
今回はゴーギャンの自画像を取り上げる。
ゴッホほど枚数は多くないが、
かなり描いている。
これは36歳の自画像らしいが、
もう少し落ち着いて見える。
ゴーギャンの作品を見て、
私が勝手に描いていたイメージとは、
ちょっと違う雰囲気が漂っている。
絵を描いている自分を描いているのか、
キラリと光るこの目が印象的だ。
この時代は画家としては、
まだまだ無名の時代だった思う。
また、ゴーギャンは株式仲買人もしていたが、
なかなか思うようにならず、
結局、画家への道を選んだようだ。
おそらく家族も、
そんなゴーギャンに愛想をつかし、
家族との関係はますます悪くなり、
バラバラになって行ったと思われる。
このころ、ゴーギャンの友人は
こんなことを言っている。
「彼は、時々、偉そうに威張った態度をとり、
人を寄せ付けないところもあったが、
絵の話になると、
時間を忘れるほど熱弁をふるっていた。
こんな絵に対する熱っぽい自信も、
魅力の一つだった・・・・・ 」と。
そんな背景を考えながらこの絵を見ると、
ゴーギャンの絵に対する深い思いや、
強い意志が感じられる。
そして,その姿はとても紳士的で崇高にさえ見えてくる。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
ゴーギャンと、このアトリエで・・・
ゴッホほど枚数は多くないが、
かなり描いている。
これは36歳の自画像らしいが、
もう少し落ち着いて見える。
ゴーギャンの作品を見て、
私が勝手に描いていたイメージとは、
ちょっと違う雰囲気が漂っている。
絵を描いている自分を描いているのか、
キラリと光るこの目が印象的だ。
この時代は画家としては、
まだまだ無名の時代だった思う。
また、ゴーギャンは株式仲買人もしていたが、
なかなか思うようにならず、
結局、画家への道を選んだようだ。
おそらく家族も、
そんなゴーギャンに愛想をつかし、
家族との関係はますます悪くなり、
バラバラになって行ったと思われる。
このころ、ゴーギャンの友人は
こんなことを言っている。
「彼は、時々、偉そうに威張った態度をとり、
人を寄せ付けないところもあったが、
絵の話になると、
時間を忘れるほど熱弁をふるっていた。
こんな絵に対する熱っぽい自信も、
魅力の一つだった・・・・・ 」と。
そんな背景を考えながらこの絵を見ると、
ゴーギャンの絵に対する深い思いや、
強い意志が感じられる。
そして,その姿はとても紳士的で崇高にさえ見えてくる。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
ゴーギャンと、このアトリエで・・・
ゴーギャン「ブドウの収穫、人間の悲惨」
前回に続いて収穫という同じテーマで、
描かれた絵がある。
それはゴーギャンが
アルルでのブドウの収穫の風景を描いた
「ブドウの収穫、人間の悲惨」である。
この絵はゴッホの熱心な誘いを受けて、
アルルの地に行って、まもなく、
共にイーゼルを並べて、描いた絵でもある。
第一印象として、とても怖い絵だ。
前面には頬杖をつきながら足を広げ、
座り込む女性がいる。
何か不満を持っているのか、
憂鬱そうな顔だ。
その横には黒尽くめの女性が立っている。
表情はなく不気味だ。
まるで死神のようである。
そして、農婦たちは陽が沈む前に、
ブドウの収穫に精を出している。
この農婦たちの服装も、不思議だ。
アルルにいて、
頭に「コワフ」と呼ばれる白い優美なレースをつけた
ブルターニュ地方の民族衣装を着ている。
また、赤く大地を染める山積みのブドウ。
このブドウから、
やがて、美味しいワインが作られるのだろう。
だがしかし、
これがぶどうの収穫の風景なのだろうか。
暗くおどろおどろしくも見え、
収穫の喜びなど、あまり感じられない。
この絵のタイトルは「ブドウの収穫、人間の悲惨」
ゴ-ギャンはこの絵で何を描きたかったのだろう。
何を訴えたかったのだろう。
その心理を読み取ることはとても難しい。
でも、少しだけ感じることは、
自然からの恵みを喜ぶ傍らに、
人間は生きるための、
苦悩、悲しみ、悲惨を持ち合わせ、
そして必ず、死が待っている・・・・・
ということなのかもしれない。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
このブドウ園で、ゴーギャンと共に・・・
描かれた絵がある。
それはゴーギャンが
アルルでのブドウの収穫の風景を描いた
「ブドウの収穫、人間の悲惨」である。
この絵はゴッホの熱心な誘いを受けて、
アルルの地に行って、まもなく、
共にイーゼルを並べて、描いた絵でもある。
第一印象として、とても怖い絵だ。
前面には頬杖をつきながら足を広げ、
座り込む女性がいる。
何か不満を持っているのか、
憂鬱そうな顔だ。
その横には黒尽くめの女性が立っている。
表情はなく不気味だ。
まるで死神のようである。
そして、農婦たちは陽が沈む前に、
ブドウの収穫に精を出している。
この農婦たちの服装も、不思議だ。
アルルにいて、
頭に「コワフ」と呼ばれる白い優美なレースをつけた
ブルターニュ地方の民族衣装を着ている。
また、赤く大地を染める山積みのブドウ。
このブドウから、
やがて、美味しいワインが作られるのだろう。
だがしかし、
これがぶどうの収穫の風景なのだろうか。
暗くおどろおどろしくも見え、
収穫の喜びなど、あまり感じられない。
この絵のタイトルは「ブドウの収穫、人間の悲惨」
ゴ-ギャンはこの絵で何を描きたかったのだろう。
何を訴えたかったのだろう。
その心理を読み取ることはとても難しい。
でも、少しだけ感じることは、
自然からの恵みを喜ぶ傍らに、
人間は生きるための、
苦悩、悲しみ、悲惨を持ち合わせ、
そして必ず、死が待っている・・・・・
ということなのかもしれない。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
このブドウ園で、ゴーギャンと共に・・・
ゴッホ「収穫」
八月も半ばだが、
まだまだ暑さは続く気配。
そんな時に、この絵。
ゴッホ「収穫」
実りの秋である。
現実とは少々ギャップを感じるが、
あと少しで、このような季節がやってくる。
手前から、黄金色の麦畑が延々と続き、
はるか遠くには薄い紫の山なみが見え、
青い空が広がっている。
近くの山から見下ろしているのだろうか、
とても気持ちが良い。
ゴッホはこんな明るい絵を描きたかったのかもしれない。
アルルでこの風景を見た瞬間に、
これを描きたい!!
と、思ったのだろう。
中央には青い荷車、赤い荷車、
大きな積み藁が描かれて、
ところどころに家もある。
そして、働く人も点々と描かれている。
見事な収穫の秋だ。
ゴッホはこういう生活感も大事にしたのだと思う。
そして、明るい陽の光を浴びながら、
この絵を描いているときのゴッホは
、
安定感のある安らぎを感じていたのだろう。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
ゴッホと共に、この景色の中に・・・
まだまだ暑さは続く気配。
そんな時に、この絵。
ゴッホ「収穫」
実りの秋である。
現実とは少々ギャップを感じるが、
あと少しで、このような季節がやってくる。
手前から、黄金色の麦畑が延々と続き、
はるか遠くには薄い紫の山なみが見え、
青い空が広がっている。
近くの山から見下ろしているのだろうか、
とても気持ちが良い。
ゴッホはこんな明るい絵を描きたかったのかもしれない。
アルルでこの風景を見た瞬間に、
これを描きたい!!
と、思ったのだろう。
中央には青い荷車、赤い荷車、
大きな積み藁が描かれて、
ところどころに家もある。
そして、働く人も点々と描かれている。
見事な収穫の秋だ。
ゴッホはこういう生活感も大事にしたのだと思う。
そして、明るい陽の光を浴びながら、
この絵を描いているときのゴッホは
、
安定感のある安らぎを感じていたのだろう。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
ゴッホと共に、この景色の中に・・・
ゴッホ「自画像(1887年)」
ゴッホは数多くの自画像を描いている。
37枚位と聞いているが、実際はそれ以上とか。
なぜ、そんなに多くの自画像を描いたのだろう?
この絵は、アルルに行く 1年前の春に
パリで描いたゴッホの「自画像 (1887年)」である。
この自画像が10月8日から
東京で展示される予定なので、とても楽しみだ
これは何歳のゴッホなのだろう。
鋭い眼差しで、何かを見ている。
キラリと光る眼が印象的だ。
その背景には、大きな渦が湧き起こっているようで、
ゴッホの強い野望の塊のようなものを感じる。
しかし、これが34歳のゴッホというから、
驚く。
なんと落ち着いた34歳なのだろう。
パリでの生活は厳しく、
モデルを雇う金にも困っていたのか、
自画像を多く描いていたといわれている。
ゴッホはいつも、
たくさんの挫折と喪失感など、など、
苦悩を抱えていたのだろう。
そんな中でも、
将来は、ゴーギャン達と一緒に、
アルルの明るい太陽のもとで、
力いっぱい描いてみたいという
密かな希望を持っていたのかもしれない。
苦悩するゴッホと、
希望に向かうゴッホを感じさせる絵だ。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
34歳のゴッホに会いに・・・・
37枚位と聞いているが、実際はそれ以上とか。
なぜ、そんなに多くの自画像を描いたのだろう?
この絵は、アルルに行く 1年前の春に
パリで描いたゴッホの「自画像 (1887年)」である。
この自画像が10月8日から
東京で展示される予定なので、とても楽しみだ
これは何歳のゴッホなのだろう。
鋭い眼差しで、何かを見ている。
キラリと光る眼が印象的だ。
その背景には、大きな渦が湧き起こっているようで、
ゴッホの強い野望の塊のようなものを感じる。
しかし、これが34歳のゴッホというから、
驚く。
なんと落ち着いた34歳なのだろう。
パリでの生活は厳しく、
モデルを雇う金にも困っていたのか、
自画像を多く描いていたといわれている。
ゴッホはいつも、
たくさんの挫折と喪失感など、など、
苦悩を抱えていたのだろう。
そんな中でも、
将来は、ゴーギャン達と一緒に、
アルルの明るい太陽のもとで、
力いっぱい描いてみたいという
密かな希望を持っていたのかもしれない。
苦悩するゴッホと、
希望に向かうゴッホを感じさせる絵だ。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
34歳のゴッホに会いに・・・・
モネ「アルジャントゥイユのひなげし」
ここはセーヌ川沿いのアルジャントゥイユの郊外、
なだらかな丘に赤い花が咲いている。
この花はひなげし、
ひなげしは夏の花だ。
青い空には、白い雲が浮かび、
夏の風景を描いたものだが、
とても爽やかさを感じる。
日本の、このムシムシとした夏ではない。
さらっと爽やかな風が吹いてくるような・・・・・
この絵はクロード・モネが描いた
「アルジャントゥイユのひなげし」である。
丘の上には、日傘を持った母子がいる。
そして坂の下にも、日傘をさした母子が。
子供の手には、途中で摘み取ったのか、
ひなげしの束がしっかりと握られている。
この二組の母子は、同じ人物のようだ。
どうして、こういう描き方をしたのだろう。
モネの最も愛した妻と息子だから、
丘の上と、坂の下に、
二度も描いたのか?
本当のところは誰も分からない。
それにしても、緑の木々のラインを境に、
夏空の青と白、
ひなげしの丘の赤、
なんと美しいのだろう。
この色の使い方が一段と爽やかさを感じさせる。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
このひなげしの丘に・・・・
なだらかな丘に赤い花が咲いている。
この花はひなげし、
ひなげしは夏の花だ。
青い空には、白い雲が浮かび、
夏の風景を描いたものだが、
とても爽やかさを感じる。
日本の、このムシムシとした夏ではない。
さらっと爽やかな風が吹いてくるような・・・・・
この絵はクロード・モネが描いた
「アルジャントゥイユのひなげし」である。
丘の上には、日傘を持った母子がいる。
そして坂の下にも、日傘をさした母子が。
子供の手には、途中で摘み取ったのか、
ひなげしの束がしっかりと握られている。
この二組の母子は、同じ人物のようだ。
どうして、こういう描き方をしたのだろう。
モネの最も愛した妻と息子だから、
丘の上と、坂の下に、
二度も描いたのか?
本当のところは誰も分からない。
それにしても、緑の木々のラインを境に、
夏空の青と白、
ひなげしの丘の赤、
なんと美しいのだろう。
この色の使い方が一段と爽やかさを感じさせる。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
このひなげしの丘に・・・・
ピカソ「20歳の自画像」
この人が本当にピカソなのだろうか。
20歳というがとてもそんな風には見えない。
頬がこけ、目は落ちくぼみ、
不精髭も生えたままだ。
目は一点を見つめているが、
放心状態のようにも見える。
黒い外套のようなものを着ているが、
どうでもよく、ただ黒く塗りつぶしている。
私がイメージしていた20歳のピカソとは
だいぶ違う。
いったい何があったというのだ。
こんなにも深い青を、
こんなにたくさん使って・・・・
こんな暗い絵を描くなんて。
ピカソの心にはどんな闇が潜んでいたのだろうか?
このほかにも
青を基調とした絵をたくさん描いているが、
それらは後に青の時代の作品とされた。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
哀しみに耐えるピカソの傍に・・・・
20歳というがとてもそんな風には見えない。
頬がこけ、目は落ちくぼみ、
不精髭も生えたままだ。
目は一点を見つめているが、
放心状態のようにも見える。
黒い外套のようなものを着ているが、
どうでもよく、ただ黒く塗りつぶしている。
私がイメージしていた20歳のピカソとは
だいぶ違う。
いったい何があったというのだ。
こんなにも深い青を、
こんなにたくさん使って・・・・
こんな暗い絵を描くなんて。
ピカソの心にはどんな闇が潜んでいたのだろうか?
このほかにも
青を基調とした絵をたくさん描いているが、
それらは後に青の時代の作品とされた。
今晩の
「ひとりぼっちのウォークマン」の旅は、
哀しみに耐えるピカソの傍に・・・・








