『悲恋の極北です』 氷上の哲学者・町田樹32歳の今…“強烈すぎる個性派スケーター”はなぜ生まれた? 『私はちょっとひねくれているので』

“氷上の哲学者”と呼ばれた元フィギュアスケーターの町田樹。彼は今、何をして何を考えているのか? 2014年の(全)日本選手権で競技引退を電撃発表してから7年――。現在32歳になった町田のもとを訪ねた

 

 氷上で見せてきた姿からすると、意外なことを言う

 

 『幼少期の頃、とても人見知りで自己表現がまったくできない人間だったんですよ』

 

 穏やかな表情で語るのは、町田樹である

 

 競技から退いて7年以上が経つ今日も、その名と演技はフィギュアスケート界に強く刻まれている

 

 大会の1年前には『代表候補の6番手』と評価される位置にいながらそれを覆し、2014年のソチ五輪に出場した。5位入賞を果たすと、同シーズンの世界選手権では銀メダルを獲得した。鮮烈な1年を過ごし、翌シーズン、4位となった全日本選手権の会場で引退を発表した

 

 その後、アイスショーで活躍するかたわら研究者の道へと進み、現在は國學院大学で助教を務める

 

 2018年10月6日にプロを引退して以来、アイスショーのリンクには立っていない。それでもスケーターとして残してきた演技の記憶は風化することはない。町田ならではの表現とともに築かれた世界があった。それを思えば、『自己表現がまったくできなかった』というのは意外な感があった

 

 だからこそ、スケートの道を究めようとしたのかもしれない。次の言葉はそう思わせた

 

 『スケートをしてみると、自然となんの恥ずかしさもなく、なんでも表現できるという快感がありました。例えば体育の授業でダンスをするのは全然できないけど、氷の上では自然と音楽に乗って踊ることができる。本質的には同じ行為をしているのだけれども、陸でできなかったことが氷上ではできたんです。自分でも不思議なのですが、そういう経験を通してフィギュアスケートの魅力に取りつかれていったように思います』

 

 この原体験によって、町田はスケータとしてのキャリアを貫くことになった

 

『私のフィギュアスケート人生は谷ばかりだった』

 『自由に自己表現ができる快感から私のフィギュアスケーターライフが始まっているので、勝ち負けよりも先に、踊ったり表現したりすることからフィギュアスケートを愛した。だから私は芸術性や表現面に重きを置いて、このスポーツと向き合ってきたのかなと思いますね』

 

 ただ、愛するばかりではなかった

 

 『でも一方で、小中高とフィギュアスケートがあまり好きじゃなかったんですよね。結構辛かった(笑)。負けることもたくさんあるし、上手くいかないこともある。……というか、私のフィギュアスケート人生は谷ばかりだったんですよね。なので、なので、本当に自暴自棄になってしまうこともあって』

 

 やがて葛藤は深くなっていった

 

 『大学生になって、幸いにもアイスショーにたくさん出させていただいて、1つの演目をたくさん演じる機会が出てきました。それまでは多くても競技会で1つのプログラムを年に10回くらい演じて、また次のプログラムに移っていたのですが、アイスショーとなると、年に50回とか60回とかになるんです

 

 そうなってくると徐々に自分の中でもプログラムに対する新鮮味が薄れてくるわけです。結局、プログラムは踊れば踊るほど摩耗していく消耗品なのかなと。どんどん価値がなくなっていくもの、みたいな考えを抱いていたんです』

 

 『フィギュアスケートの芸術性を愛した』町田にとって、それはスケートを続ける上での大きな悩みとなった。町田のスケート人生を形作るターニングポイントは、ちょうどそんなときのある出来事だった

 

『そこから自分の存在意義を認められるようになった』

 『ある大学の先生から「プログラムは消耗品ではない。例えばクラシックバレエを観てみなさい。白鳥の湖は何百回と、何千回と、何万回と上演されて、今なお人に愛されている。それはなぜか。上演されるごとに文化的に深みが増し、色んな人が改良を加え、よりよく育てていくという風土がある。そもそも芸術とはそういうものである」と教えていただきました。その時に、ああそうか、と腑に落ちた

 

 私はもともと表現面、芸術面に重きを置いていたけれども、フィギュアスケートだってバレエやアート&エンターテインメントと同じような域にいけるのではないかと可能性を見い出せた。そこからは、どういう風にその芸術性や表現面を深めていけばいいのかと試行錯誤しながら、主体かつ能動的にフィギュアスケートに取り組めるようになったんです

 

 自分の愛したフィギュアスケートを、自分の愛した芸術の面で深めながら極めていくことができる『プログラムは消耗品ではない』という言葉と出会ったことで、町田はようやく主体性を持ってフィギュアスケートと向き合い始めた

 

 『もちろん、それまでも漠然と自分の目標はありました。でもその目標というのは、競技会で何位に入りたい、という競技成績でしか考えられていなかった。私にとってどのような演技が理想なのか、フィギュアスケーターとして何を成し遂げたいのか、という芯の通った志やビジョンはなかったんです。しかし、「フィギュアスケートはアートであるべき」という志を持ったことで、アートであるためにアートであるために何をすればいいのか、自分には何が足りないのかということを自ら主体的に考えるようになりました。そこから、フィギュアスケーターとしての自分の存在意義、存在価値を自分で認めてあげられるようにもなりましたね』

 

 フィギュアスケートに取り組む上での使命感を抱いた、と言えるかもしれない。町田ならではの数々のプログラムが生まれた理由がそこにあった

 

『SPは「悲恋の極北」』 “町田語録”はなぜ生まれたのか

 しばしば町田樹というスケーターは“個性的”と表現される。それは一時期メディア紹介やファンの間で親しまれた“氷上の哲学者”という別名からも読み取れる

 

 特に異彩を放っていたのが、町田が生み出す言葉だった

 

 例えば、2014-15シーズンのグランプリシリーズ開幕前の記者会見ではシーズンのテーマに『極北』を掲げた

 

 『ショートプログラムは「悲恋の極北」、フリーが「シンフォニックスケーティングの極北」』

 

 時に“町田語録”と紹介されることもあったこの言葉も、町田ならではの考えから生まれたものだった

 

 『私はちょっとひねくれているので、そういう意味では「この競技会どうですか」 「はい、頑張ります」みたいなありきたりなことを言いたくない性格なんです(笑)。競技会で頑張るのは当たり前だからそんなことを語っても何の価値もない。何を語るべきか、どういう言葉で語るべきかということを常日頃から考えていました』

 

 それは氷上の内外で、フィギュアスケートを、己の求める道を突き詰めようとしていた姿勢の一端でもある。そしてその成果が数々のプログラムとして体現されていたことがあらためて実感される

 

『アスリートもプロフェッショナルなんです』

 そして、自らが妥協なく歩んできたからこそだろう。以前に町田は、フィギュアスケーターのタレント像が注目されて消費されていることへの違和感を投げかけたことがある

 

 『タレントとして認識されるのは、別に悪いことではないと思うんですよね』

 

 そう前置きして、その真意を教えてくれた

 

 『説明しづらいのですが、違和感というよりもそればかりが先行しすぎると、アスリートでなくなるというか……

 

 今、私は大学教員としてまだ新米ですけれども、博士号を取得してプロフェッショナルとして仕事しているわけですよね。それでいうと、アスリートもプロフェッショナルなんです。長い間努力を積み重ねて、人並み外れた技能で持ってパフォーマンスを発揮し、競技会に出る。そして観る人にパフォーマンスを提供する。そういう意味でタレントとはまた違う。もっとプロフェッショナルとしてしっかり見ていただきたいという思いはあったかもしれないですね。もちろん、アスリートの方からタレントの方へ歩み寄っていくのは個人の価値観ですし何も否定しないですけれども』

 

 忘れがたい演技とともに競技人生を駆け抜けた町田樹は、競技から退いたあと、研究者として歩んできた

 

 その道を見い出したのもまた、フィギュアスケーターとしての真摯な姿勢あればこそだった