怖れ、自分責めから軽くなる
感覚を感じる禅タロットセッション
奈美です
これまで自分が
何かを間違ってしまった体験
そんなことよく考えればわかることなのに、おかしな行動をとってしまった体験
などが多くあり…
何かを決めようとしても
自分は間違っているのではないか?とか
これでいいんだよねと、なにかを選んだり始めたりしようにも
自分のことが信じられない
自分の感覚が信じられないし わからない
ということはないでしょうか…
自分はとんでもないことをしでかしてしまうかも
自分はまた失敗して人に迷惑をかけてしまうかも
恥をかいてしまうかも
何かを選択をしても
やっぱり間違えた、やらなければよかった
と思ってしまうかも
と思うことが私はありました。
そしてその思いの奥には
間違えるのが怖い
間違えてどうしようもない結果になり絶望し、途方にくれるのが怖い
また間違えてしまったら、また自分を責めなければならない
などの思いがありました。
さらにさらにその奥には
絶望したらもう元気が出なくなっちゃう
もう生きていたくなくなっちゃう
一つのことがダメだったら他のことも全部ダメだと思っちゃう
人からも自分はダメ人間だと思われる・嫌われる
などなど、そんな思いもあったのです。
ただ自分のことが信じられない
という感覚の奥にいろいろな感覚が潜んでいました。
一つのことがダメだと他のものも全てダメだと思っちゃう
という感覚って、そういえば昔からよくあった…
1つのことがダメだと人間的に全部ダメ…
そう、完璧じゃないともうダメなんだ
と強く思っていたのでした。
自分のことを完璧主義だ
とは、普段意識していなかったり
完璧主義の人をみて
完璧にやらなくてもいいじゃん
と思ったりするくせに
自分の奥を深くをみてみると
完璧じゃないとダメだ
という信念が、がっつりあったのです
だから間違いをゆるせないのですね。
自分をゆるしていい
と思って
どんな自分もゆるそう
と決めていても
なかなか自分をゆるせなかったり
自分に厳しいのは
完璧にやらなきゃダメだと思っているからですね。
自分の内側に向かい
自分の内側を深くみていくと、いろいろなものが出てくる、出てくる
やっぱり自分の内側にあるものが元になって
外側の現実をつくっている
ということが実感できていきますね。
1つのことがダメだったら人間的に全部ダメ
それ、明らかにそんなことないですよね
ただ苦手なものがあるだけ
その時はできなかっただけ
自分の奥深くをみると
とんでもないことや
もう頭ではしっかり理解しているはずなのに
まだがっつり信じて、いらないものを握っている
そういう自分がいたりします。
いつもいろいろな気づきやアドバイスをきいたり、読んだりして
うん、わかった
そうだな、そうしよう
その通りだ
と、頭の中ではすごく理解して、そう心がけているつもりなのに
それでも変化しない
と、感じているのなら
頭の中の理解だけだから
実感ではない
ということなのでしょう
自分の内側の深いところにある感覚を感じ実感したところから、そこにフォーカスしていくことで
頭で理解しているだけではなく、内側の深いところから変化していくでしょう。
体感、感覚にフォーカスして