大陸的F1編集後記 -3ページ目

僕の「ICHIBANN物語」11


結局その年のウィンブルドンのファイナルは歴史に残る名勝負、

マッケンローとボルグの死闘の末、ボルグの3連覇で2週間のトーナメントの幕を閉じた。


だがウィンブルドンは終わっても僕の日程は終わらず、

休むまもなく、スペインでのバスケットボール男子の世界選手権の撮影が待っている。

しかし貴重なインターバルの1日はロンドンで過ごせることになったので、

かねてからロンドンへ行ったなら、どうしても行ってみたいと思っていた場所へ足を運ぶことにした。


あれは中学生の頃だった...

モノクロの画面、そして聞き覚えのある曲、何気なく見ていたテレビの深夜映画だったが、

引き込まれるように最後まで見てしまった覚えがある。

原題「ウォータルーブリッジ」、そう何故か邦題は「哀愁」、悲しいけれどロマンチックな映画だ。

ロバート・テイラーとヴィヴィアン・リー、かつての時代の美男美女の演ずる役柄、

そして二人がかみ合わないストーリーにイライラしながらも最後には涙にくれた映画だった。


写真学校の時代にも「カサブランカ」と並んで何度も見直した映画だった。

ちなみに「カサブランカ」はセリフまで覚えるほど繰り返して見ていて、

リバイバルで上映される度に、映画館に通い、15歳の憂鬱、18歳の憧れ、20歳の旅立ちと、

見るたびに同じ映画なのに自分自身がまったく異なる感想を持つので、それがまた不思議で楽しかった。


そのメトロの駅、そして舞台となったウォータルーブリッジがテムズ河沿いににあるので、

ローマに引き続き名画の舞台を自分の目で確かめたくなりたずねてみた。

残念ながら橋も駅も完璧にリニューアルされていて当時の面影はまったくないが、、

それでもウォータルーブリッジに来たということで僕は満足していた。

ローマ以降、旅の途中に寄り道をして名画の舞台を自分の足で訪れることが楽しみになっていた。


わずか1日の休養だが、心を和ませた僕は再び戦場に向かうことになる、

明日からはスペインがその舞台だ。

そして、ここで僕の人生において最大の出会いとなる相手、

初めて僕が「天才」を意識した相手との対面が待っているとは、この時の僕は知る由もない...

僕の「ICHIBANN物語」10(少し脇道へ...)

写真はパリのアパルトマンの真下での駐車禁止の取り締まり風景。

しかしどこの国でも婦警さんは...


カナダのトロントででみんなが止めてるからと、30分ほど路駐をしていて、

戻ってきたら車は消えていて、警察に行ったら駐車場を案内され、

現金での持ち合わせがないと伝えると、カードでもいいよ!と初のカードでの罰金の支払い。


モナコで昼間見れば明らかにここはヤバイよね!と思う場所に夜だったので判らず止めておいて、

車輪止めをロックされ、周りを通る顔見知りの外人ジャーナリストに散々ひやかされたこと。

イギリスで市街地の入り口にあるカメラが、存在も知っていたし、方向も知っていたのだが、

ある日カメラが突然反対側を向いていて、無防備にカメラ目線でフラッシュを浴びたこと。

(これはレンタカー会社の請求に載ってきた...)

イタリアからフランスに戻る時に、モンブラントンネルを抜けるとポリスに車を止められ、

何も身に覚えがないのでたずねると、車間距離が不十分だった!

普通に走ってたのに...

実はこのトンネルは過去に多重事故で火災になり修復まで何年も封鎖された経緯があり、

モニターでトンネル内を常に確認しているのだそうだ。

言われれば、トンネル内に安全車間距離100mみたいな表示はあったかも...

数々の苦い思い出の中でも忘れがたいのは...

2004年にパリからモナコに向かう道中の高速道路での出来事かもしれない。


マルセイユを過ぎカンヌへあと一息というあたりの料金所を目前に控えたところで、

坂道を登りきったところに紺色のプジョーがいて、なにやらピストルみたいなものでこっちを狙ってる。

とっさにスピードを緩め、速度を確認すると150キロ+α!

やばいかも(フランスの高速は130キロ制限)...


バックミラーを確認しながら料金所に入ろうとしたt時に、先ほどの車が視界に入った。

スピード違反である、まあこれは自覚があったのでしょうがないが、

問題はその後だった。


基本的に僕は海外ではカード暮らしなので、あいにくユーロの持ち合わせが足りなく、

罰金を支払うことができないと伝えると、

(フランスでは外人はニコニコ現金払いだ!)

じゃあどこのお金を持ってるんだ?と聞かれたので、日本円ならあると伝えると、

カードは持ってるよな?と問い返され、あると答えると、この車に付いて来い!と言われた。

時刻はすでに6時を回っている、暗闇の迫る中、高速道路の横道から料金所を通らずに市街地へ出て、

街中へと案内され、さあここだ、といわれたのがなんとATMの前!

ここでキャッシングをしろという事だった。

そして帰り際に「モナコに行くのか?」とそのポリスに尋ねられ、

「俺は昨日モントーヤを捕まえたんだ!」と彼は得意げに話しだした。

話によるとモントーヤは190キロ(60キロオーバー!)で罰金は1100ユーロ!

僕は170キロ(40キロオーバー!)で罰金は90ユーロ。

20キロの差でこんなに金額が違うの?

実は180キロ(50キロオーバー)を超えると途端に金額が跳ね上がるのだそうだ。


それにしてもモントーヤは1100ユーロ(約15万円)をキャッシュで払ったのか?

あるいは僕みたくヒモ付きでATMまでいったのか?

その姿を想像したら可笑しくなってきた...

パドックで本人に聞こうと思いながら忘れてしまったが、

F1ドライバーだからキャッシュだろうと勝手に思うことにした。(笑)

最近はせいぜいアパートの前での駐車違反程度だが、これには訳がある。


フランスの駐車場は料金が以外と高く、昼間12時間置いたら、40ユーロは最低でも必要。

その上車が壊されたり、盗難に合う可能性が高い!

でも家の前のパーキングスペースなら1日置いても11ユーロの反則切符で済むし、

窓から眺めれば現状が一目瞭然なので安心してられる。


駐車場のほうが危険で、さらに罰金よりも料金が高い、

だからフランスの路上駐車は一向に減らないのである。

僕の「ICHIBANN物語」9


イタリアを何とか切り抜け、空路ロンドンへ。


ここイギリスではヘンリーレガッタの撮影と、メインはウィンブルドンのテニスの撮影だ。

もちろん今までも様々なスポーツを撮影してきたが、やはり日本国内とは勝手が違う!

ましてやテニスの聖地ウィンブルドンとなれば知っているだけに緊張も増す。

さらに僕自身もテニスをやっていたので、「ウィンブルドンのセンターコート」と聞くだけで、

もうそれだけでワクワクしてしまう。


通称ウィンブルドン、正式にはオールイングランドローンテニスクラブ。

初めてのウィンブルドン、明日からの戦いに思いを馳せ観客席からセンターコートを眺めてみる。

1年をかけて整備してきたセンターコートの緑の芝が眩しく輝いている、

残念だが、2週間に及ぶ大会が終わるころにはこの芝は見るも無残に剥げ、

また来年のためにこのセンターコートは使用できなくなる。

ここの会員にはとても理不尽なように僕には思えるが、むしろ彼らはそれを誇りにしている...


通称グランドスラムと呼ばれる大会は128ドローになり、(つまり128人が本選に出場できる)

男女それぞれに2週間に渡り開催される。

大会初日のセンターコート、そこにはビヨン・ボルグの姿があった。

寡黙なスウェーデン人プレーヤーは、

芝のコートではサーブ&ボレーのプレースタイルが有利と言われてきた定説を覆し、

ベースラインプレーで連覇を成し遂げていた。

地味なプレースタイルだが彼は現役を引退するまでそのスタイルを貫き通した。


続いてセンターコートにはジョン・マッケンローが登場し、

初戦から派手なアクションとジャッジにクレームをつける姿はテレビで見たままの悪童ぶりだ。

いずれのプレーヤーも雑誌やテレビで見る程度の存在だったので、

正直に言えば結構嬉しく興奮していた。


初めてのウインブルドン、初めてのイギリス、何もかも初めてづくしだったが、

もう一つ初めてのことが起きたのはトーナメントも佳境を迎えた2週目だった。

日没になり撮影を終え、レンタカーでホテルまで戻ろうと走り出し、ロンドン市内に近いづいたころ、

横断歩道に黄色いボンボリみたいなランプが点灯しているのは解かっていたが、

その意味するものは理解しておらず、歩行者がいたけれども、

まあこのタイミングなら...という感じで歩行者の前を横切ると、

その先にいたあの映画で見る山高帽みたいな帽子を被ったポリスが僕を止めた。


そんなに危ないタイミングでもなかったので、何で?と思い車を止めると、

ポリスは結構な剣幕で僕に迫ってきた...

な、なんだ!そんな重罪を犯したのか?

う~ん、昨日までイタリアで聞いた英語とは全然発音が違う、

これがクィーンズ・イングリッシュなのか?

まるで何を言ってるか聞き取れない...


プリ~ズ、スピークスローリー!

やっとの思いでポリスの剣幕を抑え、伝えると、

今度は1センテンスごとに区切って話してくれた。

ホッ、これなら判る!なんて安心していたらとんでもない!

イギリスでは横断歩道に黄色いランプが点灯している際には、

歩行者がいたら必ず停止しなくてはならないという道交法があったのだ。

知らないこととはいえ、違反は違反だからと、

冷酷にもポリスは僕にチケットを渡す。


これが海外での記念すべき初の違反切符となった。

しかしこの当時から25年以上過ぎ、今までに世界中で頂いた違反切符、罰金の数々は、

合計したら一体いくらになるだろうか?

(もちろん払っていない切符も多数あるけれど...)

仕事納め


ARTA FESTAのひとコマです!

パリの2日間での変化です!


始めに、せっかくブログをご覧になりに来て頂いてる皆様に更新が遅くなったことをお詫び申し上げます。


例年、F1のシーズンが終わると基本的には僕の撮影の仕事は終わります。

しかしこれだけは年中行事とも言える、ARTA FESTA(渦中の鈴木亜久里率いるレーシングチームです)

のイベントが11月21日にお台場で開催されました。

これは1年を通してサポートやスポンサードしてくださった協賛企業やパートナーの方々をお呼びして、

1日を通してカートのミニ耐久レース、あるいはレーサーとの同乗走行などのイベントに参加していただき、

よりモータースポーツを身近に感じてもらおうという趣旨と感謝の意味を込めたイベントです。

今年で8年目を迎えるこのイベントでは、僕も年に一度しか会わないスポンサーの方々も多く、

お互いを確認しては「元気でしたか?」と笑顔で挨拶を交わす、割と楽しみなイベントでもあります。


実は11月24日にパリでF1SCENE/2006の全体ミーティングが予定されていて、

23日には日本を発たなくてはならず、逆算するとイベントの終了からデータの整理、

DVDへの焼付け、発送などの手続きを22日中に終わらせなくてはならず、

しかも11月末からは新しいV8エンジンを搭載したマシンがバルセロナで走るということもあり、

一旦日本を離れたら12月後半までは帰れそうもないので、

諸々の雑務もこの日までにこなさなくてはならず、アップアップの状態でした(笑)

(これがブログの更新をサボった一番の理由なのですが...)


何とか表面的には形を整えて、さあこれで準備オーケー!と思った時には、

すでに東の空は明るく、フライトを6時間後に控えていました。

これでしばらくはノンビリできる...何故か日本にいると用事が多く、

休んでいても家にジッとしていることは叶わず、

日々どこかへ出向いては打ち合わせの連続でした。


パリはさすがに遠いので(笑)メールや電話は届いても、

本人が呼び出されることはないので、かなり気楽な状態です。

パリからの情報では寒く、雪の可能性もあるとのことでしたが、

到着した日は外気温3℃とまずまずのコンディション(?)

翌日のMTGも気温は高くないけれど、まずまずの天気、

しかし夕べから雪が降り始め、今朝からは本格的な降りで、

家から一歩たりとも出たくない!そんな状態でした。


肝心のF1SCENE のミーティングは英語、フランス語、日本語が飛び交う怪しい会議でしたが(笑)、

2006年度のはさらにクオリティーを上げ、より洗練されたグラフィック誌として、

F1ファンならずとも、手にとって見てみたくなるような本に変化をしていくはずと、そう改めて確信しました。


さあ、ここからはしばし心身ともに休養の日々。

夏の間に使い切ったパワーの充電開始です!

オフィスのあるRue de SEINEはギャラリーの多い通りとしても有名です、

アパートからオフィスまで歩く間にも新しい発見が日々あります。

新年を迎えるのはまだ先ですが、すでに2006年も走りきるために何でも吸収しようと、

僕自身は新しい気持ちに切り替わっています。


遅くなったブログの更新もスタートです!

ではこれからもよろしくお願いします。

僕の「ICHIBANN物語」8



さて、無事にローマの一夜を明かしたまでは良かった。(ホッ...)
当時は今みたくメールなんて便利なモノは存在していず、
アポ取りやコンタクトには電話が主力の時代。
先方に「ローマに着いたら連絡するように!」と言われてるので、
早速電話をかけようと思うが、何て言えばいいんだろうか?
自分のボキャブラリーの少なさに悩みながら、
とりあえず電話をしてみたら...
案の定、「ボンジョルノ!」から始まってイタリア語の連打!
相手が一気に話し終えた瞬間を狙って、「Do you speak English or Japanese?」
まさか日本語なんて話せるわけゃないだろうが!
そう頭では理解していたのだが、万に一つ、念のため、念のためですよ!

期待は当然のごとく裏切られ、
答えは英語のみ、それも「A little...」ときた。
さあ、どうする?
まずは会長の名前を告げ、僕が日本から来たカメラマンで、
会長の写真を撮りたくて、アポイントを取っていてるということは伝えた。

「One moment please!」
しばしの静寂、そして「O.K! come to the office at noon!」
ハイハイ、お昼にオフィスに伺えばよろしいんですね?
やった!何とかなるもんだ。

その日の午後、今度はタクシーに事前に料金を確認してから、
先方のオフィスに向かい、無事にオフィスで会長の撮影を終えた。
ローマでの仕事のスケジュールをクリアした僕には、
この後ローマで3日間のフリータイムが待っている!
ホテルに戻り、ブラブラと散策をしつつ、
バールに入り、飛び交うイタリア語に自分がイタリアに居るんだという気分が少し誇らしく、
仕事を終えたという心地よさも手伝って、いい気分で歩いていた。

すると正面から外人が(といっても周りはみんな外人なんだけど...)
地図を見ながら英語で話しかけてきた。
僕に地図を見せながら「ここに行きたいんだけど...」
少々気分も良く、得意げになっていた僕は、
場所も有名で近くだったので、何だこんな場所も知らないの?と、
親切にも彼をその場所まで案内した。

すると彼は大袈裟に感謝し、
自己紹介をして、僕に一人か?と尋ね、僕が「そうだ」と答えると、
「一緒に一杯やらないか?」と誘ってきた。
僕はアルコールが得意ではないので、断ろうと思っていると、
「少しだけいいだろう?」と言われ、日本人は付き合いが悪いなんて思われるのも癪なので、
まあ少しだけなら...と渋々了承すると、
「僕の知ってる店があるからそこへ行きましょう!」と。
これって後で冷静に考えれば不自然極まりない話で、
僕に道を聞いたはずなのに、なんで知ってる店があるのよ!

でも外人と話し、外人を案内してあげたことで舞い上がっていた僕は、
そんなことも不審がらずに彼と歩きだしていた。
少し歩くと「ああ、あそこにタクシーがいるから乗りましょう!」
と彼が言い出し、まっいいか、と僕も隣に乗ることに。
(これも後で思えばグルだったのだが...)

さすがにどこに行くのか多少は不安になった僕は、
どこに行くのか?と彼に尋ねると「すぐそこです」と言われ、
その言葉が終わるや否やタクシーは走り出した。
せめて道を覚えようと必死で窓越しの景色を食い入るように見ていた僕だが、
タクシーは裏通りばかりを敢えて選んでいるかのように走り回った。
方向感覚は優秀な僕だが、この時ばかりは全く方向音痴に等しかった。

ものの10分もするとタクシーはある店の前に着いたが、
しかし道中は全く記憶にとどめることは不可能だった。
そこはクラブのような店で、勧められるままに店の中に入ると、
二人でテーブルに付いた脇に、それぞれ当たり前のように若い女性が座る。
何だかな~と、アルコールの苦手な僕は不審がっていると、
彼はその女性とフロアで踊りだす。
僕は席に着いたままその様子を見てると、
僕の脇に付いた娘が「タバコを買ってもいい?」ときたので、
まあタバコぐらい...と思ったのが運の尽き。

当然のように「何を飲みますか?」「私ももらっていい?」と話は進み、
僕はコーラを頼むと何と彼女はシャンパンをオーダー!
先ほどの彼を捜すが、踊っていたはずの彼の姿は既にフロアにない!
そう、この時点でこの店がキャッチ・バー(古い表現だけど)と判明。
判るのが遅いって...既に手遅れ。

冗談じゃない、この時点で「帰るから!」というと、
まるで映画のようだけど、本当にレシートを持った強面の男がやってきた。
明細を見ると当時の日本円で12万円!
ふざけんな!と暴れようかと思ったが、場所と相手が悪過ぎるし、
そもそも財布にそんな現金持ってないので、
これしかないよ!と日本円で3万円ほどを見せると、
「クレジットカードは?」と聞かれたが、
ホテルのセフティボックスにカードとチェックを置いて来てたので、
「これで全財産だ!」というと、
「泊まってるホテルは?」ときた。
泊まってるホテルを教えたらヤバイと思った僕は、
実際に泊まっているホテルの向かいにあった大手チェーンのホテルの名前を告げた。

「名刺はあるか?」とも聞かれたので、
幸か不幸か名刺もホテルにおいていた僕は「持ってないよ」と財布の中身を全部見せる。
「じゃあホテルまで送るから」えっ!そりゃまずいよ...
ここからの話が作り話のようで、まるで映画の中のワン・シーンのようなのだが、本当の話!

その場で適当に告げた大手ホテルの前まで車で送られると、
そいつはフロントで待ってるという。
こうなったら逃げるしかないでしょ!
フロントをいかにも宿泊してるような顔をして手を挙げて通り、
エレベーターホールを抜けて、反対側のレストランの出口から逃げ出す!
あとは後ろを振り返ることもなく走り出す。
すぐに自分のホテルに行っては目立つと思い、
全然違うホテルのロビーに入り、柱の影でしばし時間をつぶし、
ようやくと自分のホテルへ。

「君子危うきに近寄るべからず」先人は偉大だった...

何とかピンチを切り抜けた僕は、とっくに仕事を終えた満足感も何もかも吹っ飛んで、
ただひたすらヤバかった...という思いだけに捕われていた。

翌朝目覚めた僕は、ローマに滞在する3日間をどうすべきか?
しきりに悩んでいた。
映画青年でもあった僕には、「ローマの休日」でおなじみの「真実の口」へ行って、
それから「終着駅」で有名な「テルミニ駅」も、もちろん「スペイン階段」も外せないし、
トレビの泉も必須だし...映画のシーンを思い浮かべると思いを馳せる場所が多く、
昨日の一件は既に忘却の彼方へと葬り去っていた。
O・ヘップバーンとG・ペックの二人乗りのベスパに憧れて、
日本でベスパを乗り回していた僕だけに(一人でだけど)、
映画の中のヘップバーンの台詞ではないが「ローマ...」という気分だった。

さてこの後僕はイギリス、ロンドンへと向かうことになるのだが...
その話は次回へと続く。

僕の「ICHIBANN物語」7



初めての訪問地スウェーデンはコマーシャル絡みの撮影だったので、
現地コーディネーター(もちろんスウェーデン人!)が居たこともあり、
ここでは片言の英語で事なきを得た。

さあ問題は次の訪問地イタリア。
ここでは何と国際バレーボール協会の会長とコンタクトを取り、
写真撮影をしてくるという課題が与えられていた!
そしてここでの問題は事前に日本から連絡を取ったところ、
先方から「現地に入ったら連絡をしなさい」と言われていたこと、
そしてコーディネータも誰もいないことが問題だった!

ストックホルムからローマへ飛んで、何て言うと簡単に聞こえるが、
影でそれ相当の苦労があったのは推し量って欲しい。(笑)
例えば今ではほとんどの場合関係の無い、フライトのリコンファーメーション、
これだって直接電話をするのは勇気が必要だった。
(簡単に言えば予約の再確認、電話で航空会社に連絡を入れ、そのフライトに乗りますよ、という確認の行為なのだが)

日系の航空会社なら世界中どこでもほぼ間違いなく日本語が通じるが、
経費を切り詰めるために、海外の航空会社を使用していたので、
基本的に日本語はダメ。
こちらの言いたいことは言えるが、相手に何か想定外のイレギュラーな質問をされたら...
たちまちお手上げなのは明らかだった。

結果的には電話よりもチケットを見せた方が早いし、
間違いなかろうということで、ホテルのフロントにチケットを見せ、
航空会社へ予約の再確認をしてもらった。(結構情けない...)

ローマ、フェミチーノ空港に着いた時間が夜の9時過ぎ。
初めての国で、この時間帯はちょっとヤバイんじゃない?
僕自身何となく危険は肌で感じる方なので、イヤ~な予感を覚える。
バゲージを受け取り表に出ると、早速客引きのオンパレード!
「セニョール!タクシー?」とスーツケースを転がしながら、
足早にタクシー乗り場に向かおうとする僕に、
5~6人の如何にも怪しげなオッちゃん達がまとわりついてくる...
そのしつこさたるや、半端じゃない!
そのうち1人が「ダイジョウブ、ヤスイタクシーヨ!」と、
妙なイントネーションの日本語で話しかけてくるではないか?
一瞬足を止めたのが運のツキ!
周りをぐるりと囲まれてしまった...
別に危害を加える様子はないが、こうなったら開き直って、
ホテルの予約確認証を見せて、ここへ行きたいと告げると、
「ノープロブレム!」と僕の荷物を持って車に向かいだす。

エイ、ままよ!
こうなったら乗りかかった船、じゃなくてタクシーだ、
行ける所まで行ってやろうじゃないの。
人間開き直ると強くなる、カメラ以外に高価なモノは持ってないし、
キャッシュも日本を出る時に言われるままに、
1時間近くかけて100万円の仮払い経費のほとんどをトラベラーズチェックにして来た。
何で1時間かって?
だって100枚の額面1万円のチェック合計100枚にサインをするんだからね...
窓口のお姉さんに後でするから、と言ったら「今、この場でしてください!」と言われ、
出発の時刻が迫っているのに必死でサインをした。
(最初と最後ではサインがかなり違ってきた気がしたが、まっいいか!)

後は狙われるのは誘拐されて身代金の要求ぐらいか?
だがその場合は運がなかったと思うしかあるまい。(笑)
どこをどう通ったか全く判らないが、ともかくローマ市内に入り、
指定のホテルに到着した。
さて、料金を支払おうと思ったら、何とタクシーなのに料金メーターが付いてない!
ってことは白タク?
料金を尋ねると...詳細は忘れたが、
自分の感覚では走った距離と時間を考えると高い値段だったので、
「高いよ!」と言うと、何と「今日は日曜日だからね!」とのたもうた。
日曜は何で高いの?と聞きたいが中途半端な英語とイタリア語では会話は成り立たず、
らちがあかないので乗った自分が悪いと決めて、言われた金額を支払った。

実際に空港から市内のホテルまでの料金は知る由もなかったので、
結構自分自身に憤慨しながらチェックインを済ませ部屋に入る。
ところが実は後で知ったことなのだが、この白タク結構安かったみたいなのだ!
普通白タクは高いのが常識(?)しかしこのタクシーだけは普通のタクシーより安かったらしい。「白タク=高い!」←最初からそう思い込んで疑ってかかっていて、
イタリアは最低!何て思っていたのに...
実は案外といい国かもしれない!なんて思い直す自分の都合よさに半ば飽きれながら、
ローマの1日目は無事に終了。(しかし何て単純な性格なんだろうか?)

続きは次回へ...物語はいよいよ佳境へ。

僕の「ICHIBANN物語」6




「学校にいてもオマエは意味ないので卒業して世間の冷たい風に吹かれろ!」
という恩師の有り難いお言葉と卒業証書を頂き、
目出たくも、待望のスポーツ誌を発行している出版社で仕事を得ることができた。
もちろん最初は国内イベントの撮影ばかりでだったが、
バスケット、バレー、テニスなどの撮影で日本中を回っていて、
本人的にはそれなりに満足はしていたのだが、
やはりあのスポーツ・イラストレイテッドの写真が忘れがたく、
いつかは世界へ...そう思い続けていた。

そんなある日、当時メインで撮影をしていたバスケットボール誌の編集長から質問をされた。
「キミは英語はできるかね?」
瞬間的に僕は連想した、んっ?英語=海外、ってことは...当然海外取材の話?
こりゃチャンス到来か?
「世界選手権の取材にいって欲しいのだが...」キタ~!

「ついてはキミは一人で取材に行けるかね?」という確認であった。
当時は決して大きくはない出版社だったので、
予算の都合もあり、社から一人しか派遣する予算がなく、
ならば英語ができて、バスケットの知識があれば記事も書けるし写真も撮れる!
高校生時代にバスケットボールプレイヤーだった僕の経歴を知っていて、
そんな選択肢から僕が候補に挙がったようであった。

英語...実は小学校時代は今と反して、僕は優等生であった。
小4から平日は毎日塾通い、そして日曜は有名な四○大○進学教室に通い詰めた。
そしてその全国模試で第2位の成績を収めたほどであった。
しかも何と小学校6年生まで塾と進学教室を続けたのだから、
今の僕を知る人からすると信じられない話だと思う。(笑)
そして有名国立中学に進学を望む母親の期待を見事裏切り、
受験はせずに、地元の公立中学に進んだのであった。

話はそれてしまったが、そんな訳で小学校時代からカンワール・ジット・シンという、
プロレスラーみたいな名前のインド人の先生に、
英会話を習っていたので、僅かな自信と相当のはったりを込めて、
僕は編集長に力強く「できます!大丈夫です!」ときっぱりと宣言をしていた!
本音を言えば、なんとかなるかな~程度の自信しかなかったのだが、
言ってしまったらあとは実行するしかない...

さて初の海外取材だが、気がついてみるとバスケットボールの世界選手権の取材を皮切りに、
更にそのまま幾つかのイベントを回り、
最終的には6カ国、3ヶ月に及ぶ長期取材になってしまった。
オイオイ、本当に大丈夫か?自分でもさすがに戸惑った、

しかしそんな時に限って時間の流れは速く、
思っていた準備もロクにできずに、とりあえず慌ててパスポートを取り、
必要最低限のチケットとホテルを手配をした段階で出発の日を迎えてしまった。
本来ならサビついていた英語も少しはリハビリをして...なんて思っていたのだが、
僕のそんな思惑に関係なく時間は経過していた。

生まれて初めての海外旅行が取材!自分勝手に格好いいと思っていたが、
実際にパスポートコントロールを通り、機上の人となると心細いことこの上なかった。
最初の取材先はスウェーデン、ストックホルム。
ここは空港まで迎えの人が来てるから...という話だったので安心していたのだが、
確かに迎えの人はいた...勝手に日本人だと僕が思い込んでいただけなのだが...
現地の方が迎えに来てくれていた。
問題はそのスウェーデン訛りの英語が聞き取りにくく、
しかも相手は僕が英語をできると思っているので始末に終えなかった。

一旦ホテルに送ってもらい、ロビーに何時に待ち合わせね!
という約束をしたのだが、オーケー、オーケーと調子良く別れたのだが、
その後で何時だったかあやふやになり、チェックインを済まし、
不安になりそそくさと着替えを済まし、ロビーで相手を3時間も待つ羽目になってしまった。

情けないけどそんなレベルの英語力だった。
しかし、実はこんな事は困難のまだ序の口だったと、後で思い知ることになるのだが...

続きは次回に...

僕の「ICHIBANN」物語5



1980年、通称「SI」、USAスポーツイラストレイテッド社発刊の、
「SPORTS」という写真集をご覧になった方はいらっしゃるだろうか?
当時気鋭のニール・ライファーというアメリカのSIのフォトグラファーが、
スポーツ全般をテーマにした素晴らしい写真集だった。
僕にとってはバイブルと言っても良いほどの存在で、
視点の豊かさ、発送の転換、創造力、そして刺激と撮影意欲を与えてくれた。
後にも先にも、影響を受けた唯一無二の写真集かもしれない。

その写真集にどうしても忘れられない写真があった。
それはモハメッド・アリが世界選手権のリング上で、
相手をノックアウトし、叫び声が聞こえそうなくらい凄まじい形相で、
睨みつけているシーンを俯瞰でリングの真上から撮影しているのだが、
スクェアーなリングのバランスと、選手の構図は完璧だった。

スポーツ写真は「報道」だと思っていた僕が、
大きな転機を迎えるきっかけとなった1枚の写真であった。
「報道」でありながら「アート」でもあり得る写真の存在、
「計算」と「偶然」がもたらす一瞬の素晴らしさ。
一瞬だから、一瞬だからこそ見えないシーンを想像させる事のできる写真、
そこに映画に無い面白さを感じ、写真家としての自分の道を選択することになった。

写真学校を何とか卒業すると、
スポーツ誌の出版社に嘱託で働きだした。
嘱託と言うと聞こえが良いが、ようはアルバイトみたいなもので、
当時の最初の時給は600円であった。
バスケットボールの試合は通常1時間30分で終わる、
そうすると僕の撮影代は時給は900円になる。
もちろん交通費やフィルム現像代は会社持ちだったが、
写真の版権、使用権も会社に属していた。

今なら版権の大切さは痛いほど判っているので、何があっても手放さないが、
当時はそんな余裕も無く、ともかく写真が撮れるだけで嬉しくて、夢中になっていた。
そんな理由により、今も当時の写真は僕の手元にはないのだが...

そんな僕が世界を舞台にするチャンスが到来した!...続きは次回に。

僕の「ICHIBANN]物語4



さて昨日は鈴木亜久里の新チームの話題で終わってしまったので、
今日からは続きに戻ることに...

写真学校に入ればカメラマンになれる!
そう思っていた僕だったが、学校が始まるとすぐに自分の浅はかさを思い知る羽目になった。
最初の頃の授業で現像とプリントを自分自身で行うことがあったのだが、
初めて買った一眼レフ、中古のニコーマート(Nikomart)と35mmのレンズのセットで、
気分だけは一端のカメラマン気取りで、街を歩き自分の気に入った風景を撮影した。
そして学校の暗室で現像をしプリントをしたのだが...
その時の周囲の反応が僕からは想像できない会話だらけだった。

いわく「焼きがあまい」「黒が締まってない」「肌がとんでる」一体何のこと?
当時の僕には全て何のことやら謎の言葉だらけ...
そう、当然と言えば当然なのだが、学友達はほとんどが高校時代に写真部所属で、
何々展入選、何々賞受賞などと肩書きを持っていたり、
あるいは少なくとも写真やカメラが好きで趣味で写真を撮っていた者ばかりで、
僕のように一眼レフ・カメラを持つのも初めてで、
写真が趣味でもなかった者や、現像はもちろん初体験なんていうのは、
クラスに僕以外は皆無だった記憶がある。

皆が謎の会話をしている最中に僕はと言えば、
酢酸臭い暗室の暗い電球の下で、
「おっ、絵が出てきた!」「不思議だね~」など超ド級のつく初心者の感想を持っていた。
やがて、その会話の意味が判りかけて来た時には、僕の頭の中は後悔の念で一杯だった。
「うわ~何て世界だ!」「レベルが違い過ぎ!」
写真学校の面接で言われた、「大学行ってからでも遅くないんだぞ!」の一言が、
頭の中で繰り返し流れていた...

そうなると徐々に学校へ行く気も薄れ、
映画好きだった僕は4月から始まった学校生活のほとんどの時間を、
飯田橋界隈の名画座で過ごすことが多くなった。
学校からそう遠くない所にあったし、何よりも3本立てで入れ替え無しで、
1日中いられる所がお気に入りでもあった。
その名画座で「行ってきます!」と、さも学校に行くようなフリをして、
自宅で作ってもらった母親手製のおにぎりを持って、
ゴダールやトリュフォー、キュブリックなどの作品に触れ、繰り返し同じ映画を見ていた。

写真学校の学生としては不真面目極まりなかったかもしれない、
しかし、その頃の映画のスクリーンのワン・シーンは、
現在の僕の写真のフレーミングに多大な影響を与えているのは事実だと思うし、
自分が気持ちの良いフレーミングを知り、
それを追い求める気持ちはこの頃に養われたのかも知れない。

スポーツ一辺倒だった少年は、映画に無限に広がる可能性を覚え、映画に傾倒して行くが、
そんな時にある一枚の写真が彼を再び、写真の世界に引き戻すことになる。

次回に続く...

速報!SUPER AGURI FORMULA 1




今日は連載の「ICHIBANN物語」は休んで、
久しぶりの朗報をお伝えしたいと思う。

ついにやってくれた!鈴木亜久里。
1987年のウィンター・テストに彼が参加して以来、
現役ドライバーを退いて、チームを興し、今日に至るまで、
僕は彼の写真を撮り続けてきた。
オフィシャルフォトグラファーでもあり、また友人でもある僕だが、
今日の発表会は何とも言えない気分で迎えた。

新チームはALL JAPAN、まさにDREAM TEAM。
ご存知の通り、今年BAR・HONDAで参戦した佐藤琢磨は来期のシートが決まっていないのだが、
ホンダが日本GP直前にプレスリリースで公表した、
来期のエンジンを新チームへ供給するという内容を巡り、
更に佐藤琢磨がその新チームで走る可能性もある、というコメントを残したので、
関係者を始め、F1ファンまでも巻き込み、やれどこがスポンサーだ、誰がオーナーだと、
推測の域で既に新チームが結成されていたような状態だった。

「いつかはF1に!」亜久里はずっと思い続けていた。
そして「思い続ければ必ず夢は叶う」という彼の信念が、
夢のゲートに辿り着けた最大の理由だと思う。

彼自身がF1をモータースポーツの最高峰と捉えているのは間違いないが、
いかんせんF1はかかる費用も天文学的な金額ゆえ、おいそれとは始められない。
これも本当の話。
正式発表までドライバーやスポンサーなどの話は待ちたいと思うが、
ともかく今日の発表は僕にとっても嬉しい。
しかしこれからが大変だという思いもまた同時にある、

まさしく今こそ出発点!
Dream come true!