大陸的F1編集後記 -2ページ目

僕の「ICHIBANN」物語19



人間ひとり分よりも高い荷物の超過料金、

納得がいかず悶々とした12時間を機内で過ごし、パリ、シャルル・ド・ゴール空港に到着。

問題の超過分を払ったバゲージを受け取り、無事に入国を済ます。


さて、次は車をピックアップしなければ...

T.Tというシステムだが、これは旅行者が最大6ヶ月に渡り、車をリースで借りるシステムだが、

新車を受け取れるし、車種やグレードも選択できる、

しかも当時、ルノーの21クラスで半年借りて60万円程度と、レンタカーよりも割安だった。

とはいえ初めての試み、そう簡単にいくのだろうか?


エレベーターで1Fにおり、あたりを見渡すと、レンタカーのカウンターのならびにT.Tカウンターがある。

カウンターには人の姿は無いが、電話が置いてあり、

受話器を取ると自動的につながり名前を告げると、担当者が来てくれた。

予想外に実にスムーズに車を受け取ることができた。


パーキングロットまで行き、車に荷物を積むとここまでの嫌な雰囲気もどこへやら!

さあ、ここから僕のヨーロッパラウンドの開始だ!

本日から1週間予約をしてあるアパートメント・スタイルのパリ郊外のホテルに向かう。


不思議なもので初めて自分で運転するヨーロッパだが、

これといった違和感も無く、最初から自然に馴染めた。

地図で確認したように、A1からペルフェリックに入り、ポルト・マイヨーで降りて、

ラ・デフォンス方向に向かい、最初のニュイイの橋を渡ってすぐ側。

ここが今日から1週間の滞在予定のレジデンス・ホテルになる。


とりあえず荷物を運び込み、一息つく。

冷蔵庫もキッチンもあるけれど、食材や飲み物などはまったく無いので、

とりあえず近所に買い物へと食事がてら出かけるが、

周りにスーパーやコンビ二は一切見当たらない。そうだここは日本じゃないんだ!


諦めて食事をと思うが、一人で見知らぬ地でレストランに入るのは勇気がいるもの。

ましてや相手はフランス人、英語が通じない可能性も高い、

そういえば出発前に友人から「フランス人は意地悪で英語ができてもフランス語しか話さないらしい」、

といわれてきたこともあったので、色々と悩んだ末に一番無難な中華料理を選択することにした。


「ボンソワール!」うっ、フランス語だ!

取り合えず「ボンソワール」と返し、人差し指を立て、一人だと伝え、

テーブルに案内される。

そしてメニューを開いて、一安心。英語と中国語が併記されている!

緊張が解けたと思ったら、急に食欲が出てきた。

ベトナム風の中華なので、春巻きも美味しそうだし、チャーハンも魅力だ!


さっき日本から来たばかりというのに...

しかしこの時に、旅の緊張をほぐすには、未知の領域ではなく、

自分の知っている世界が手っ取り早いことを、自らの本能で理解した。


到着1日目のパリ、夜の8時を過ぎても、空はまだ充分に明るい。

ホテルから表に出ると、すぐ後ろに新・凱旋門、そして反対側に凱旋門が見え、

セーヌ河が目の前を流れている。

気持ちの良い風に吹かれ、恋人たちの抱擁に混ざり一人セーヌを眺めていると、

改めて、今自分がパリにいることを不思議に思う。


この1週間で準備を整え、来週にはサンマリノGPへと向かわねばならない。

承知の上での事とはいえ、パリからサンマリノまでおよそ、1300キロ!

今の僕ならなんでもない距離だが、当時の僕には想像を絶する距離であった。

初めての車による国から国への移動、想像もつかない道中、

期待と不安、複雑な思いが入り乱れ、夢なのか現実なのか区別のつかないまま、

うつらうつらと初めての夜を過ごした。

VODAFONE McLaren Mercedes



本日プレスリリースが届いた。


マクラーレンとボーダフォン?うそでしょ?
VODAFONEと言えばフェラーリのイメージしか浮かばない。


チーム名:VODAFONE McLaren Mercedes


2007年から10年に渡る長期のタイトルスポンサー、

そしてオフィシャルモバイルパートナーとしての契約。


えっ、「2007年」?今は確か2005年...

何でもありのF1だけど、2005年の年末に2007年の話とは...

2006年の間違いじゃないよね?


それにしても怖い世界だと改めて思う。

2006年のシーズンが開幕していないのに、

既に2007年のスポンサーシップの話。

それもフェラーリからマクラーレンへ...


ある意味で対照的なチーム。

スポンサードする企業のイメージがガラリと変わる、

この決断の意味するものは何だろうか?


これで案外SIMENSがフェラーリに行ったりして...

今からボーダフォンショップへ言って、フェラーリ仕様の携帯買っておくべきか?(笑)

僕の「ICHIBANN」物語18



開幕戦のブラジルを終えると、F1GPの舞台はヨーロッパへ。


無事にブラジルGPの撮影、というより初めてのF1Gの撮影を終え、日本に戻った僕に吉報が待っていた。

なんとS社の「PL○YBO○」から写真を使いたいという依頼が来た!

今年は何も収入を当て込んでいず、作品撮りをメインに考えていたのでこれはラッキーだった。

スタートシーンをはじめ、わずか3ページだが僕の初めてのF1写真が掲載された!


幸先の良さを感じながら、ヨーロッパへの準備を急ぐ。

なんせ今度は日本GP直前まで、およそ6ヶ月近く帰ってこない予定なので、

準備もそれ相応に必要になってくる。

一番肝心の資金は今のところ予定通りで、車の予約も済み、航空券の発券も完了、

シーズン中に使う、およそ1000本近いフィルムも購入済み。

あとは出発を待つだけとなった。


4月上旬、新しいことを始めるにはとてもいい季節だ。

夢と希望に満たされて、多くの荷物と成田空港に向かった僕は、
エールフランスのチェックインカウンターにいた。


さすがに長期なので荷物の量は半端じゃない、

そしてフィルム1000本も結構な重量だし、その上機材が満載。

当たり前だがエコノミークラスの客としては、明らかに重量オーバーだ。

判っていたけれど、何とかなるのでは...しかし考えは甘かった。

現実はもっとシビアで、何とオーバーチャージ15万円を請求された!

15万円?どうして?僕のチケット代が12万円なのに...

「なんで荷物のが高いの?これなら誰かもう一人連れて行けば安いじゃない?」

「確かにその通りなんですが、これが航空規約なもので」、

そして「これでもおまけをしたんですよ!」という厭味な一言も丁寧に添えていただいた。


しかしこれを払わなければ荷物を置いていくしか方策は無い。

ここまで絶好調だった僕だが、好事魔多し、諺どおりの洗礼を受けた。

しかし150万円での予算、というより全財産の中から1割削減はキビシイ...

先行きの怪しさ、やや雨雲が垂れ込めてきたような気分。

事情を話し、もう少し何とかならないか?無駄を覚悟で訴えたが、

「ルールなので...」という冷たい言葉で、僕は仕方なしに15万円を支払った。


税関、イミグレーションを通過して、搭乗を待つ時間。

最近は割と好きな時間帯でもあるのだが、

この時ばかりは先行きの不安が重く、とても寛いだ気分にはなれなかった。

飛行機に乗り込みパリまで12時間近く、おそらく僕の表情は周りの観光客のように華やいではいず、

まるで誰かの葬式にでもでるように見えたことだろう。

たかだか15万円、でも全財産が150万円だとしたら、

そしてこれから半年をその全財産で暮らすと思うと...


少なくともホテル代2週間分はこれで足りなくなる可能性がでてきた。

パリから始まる僕のヨーロッパラウンド、いきなり節約からスタートをしなくては...
これじゃあ何だか訳の判らないうちに、いきなりピットスタートさせられる気分だ!

僕の「ICHIBANN」物語17


再び28時間の旅を経て、灼熱の太陽のブラジルから、まだ吹く風の冷たい早春の日本へ。


初のF1GPの撮影、そして一刻も早く撮影の結果を見たい。

リオからロス経由での帰国便だったが、トランジットの時間さえもどかしく、

機内でも、ああすればよかった、こうすればよかった、と反省しきり。

それでも撮影した中には自分なりにシャッターを切って、

手応えのあるタイミングや、気に入ったフレーミングなどがあったので、

早く結果を!そんな思いで過ごす28時間はとてつもなく長い時間に思えた。


成田に着くと、そのまま迷わずに現像所に直行!

12時間の時差も、そしてブラジルとの気温差22℃もまったく気にならない!

後で冷静になった際にふと思ったが、「無我夢中」とは、まさにこんな状態のことだろう。

ようは頭の中は撮影済みのフィルムのことで一杯で、

ただ単に他のところまで気が回らない、それだけのことなのだが...


成田からの電車の中でも走りだすか?(笑)と思うほどの勢いで、

東京駅で降り、銀座にある現像所にフィルムを預け、

そのそのまま1時間半を近所の喫茶店で待つつもりでいたが、

1時間も過ぎるともう我慢がならず、再び現像所へ舞い戻る。

受付の女の子をせかして確認をしてもらうと、

「今スリーブに入れる作業をしているので、5分ほどお待ち下さい」とのこと。


今回のブラジルGPでの撮影ロール数は全部で56本。

その現像が上がった!延べ4日間分のコダクローム56本、2016カット、いよいよご対面である。

現像所の片隅にあるライトボックスとルーペで早速チェック!

緊張の瞬間、まず1本目...


予選前のピットレーン、リオのサーキットで、そしてF1での記念すべき最初の1カット。

突き抜けるような青い空と、あの時に魅入られたフェラーリの深紅のカウル。

思ったとおりのフレーミング、露出、ともに言うこと無しの1枚だ!

そして次から次へと...1時間近くも過ごしただろうか?

お気に入りのカットにチェックをつけ、いい気分で現像所を後にした。


結果としては全体で75点、やはり走行シーンの流し撮りが難しく、

この部分が60点、人とピットがらみは90点、そんな自己採点だった。

しかし、生まれて初めて撮った最初の1枚は忘れがたい思い出のカットとして、

そして僕のF1撮影の原点として、今も脈々と行き続けている。


2016カットに込められた、初めての僕のF1グランプリ。

グリーンシグナルからスタートへ!

モンツァの騒音問題

気になる記事が目に入ったので...


イタリアGPが騒音問題で開催が危ぶまれているらしい。


しかし実際にモンツァに行かれた事のある方なら、サーキットを取り巻く環境はわかると思うが、

大きな公園に囲まれていて、サーキットに隣接した場所には住宅はほとんど無い。

またF1でも長い歴史のあるモンツァの住人が、自慢こそすれど、

いまさらF1の騒音が煩くて...なんて騒ぐとは思えない。


確かに環境破壊は考えなければならない問題だが、

現実的に1年にたった3日間のF1の開催がもたらす騒音がそんなに理不尽だろうか?

むしろ普段ならガラガラの地元のホテルやペンション、レストランやバーなどに、

観客が落とす観光収入の方が地元産業にはありがたいのではないか?


では極論を言えばモナコはどうなんだろう?

あんな狭い場所で、しかもコースは市街地で音の反響は凄まじい。

だが、F1の騒音なんて問題にされた事など一度も無い。

(実際には煩いと思う人たちはレース期間中はモナコから離れる)

今回の提訴はごく一部のアンチF1派、もしくは環境保護団などによるものか...


F1は確かに昔とは変わった。

市販車の開発という使命は現在のF1からは感じられない。

だが人々に夢を与え続けていることは間違いないと思う。

もし1年のうち、3日間だけ、あなたの家の隣でF1が走ったとしたら?

あなたはどう思いますか?

僕の「ICHIBANN」物語16


F1SCENE/4巻ボックスセット日本国内限定300部販売中です。

でもこのコピー、お歳暮の季節にはちょっと...○○ハムかデパートのキャッチのようでどうも...


1987年の開幕戦となったブラジルGP。

予選はホンダパワーで、ウイリアムスのN・マンセル、N・ピケ、そしてロータスのA・セナが、

1、2,3とグリッドを得て、日本人ドライバー中嶋選手は12番手グリッドと、

初めてのGPにしては上出来の結果となった。


しかしレースではA・プロスト、S・ヨハンソンを擁するマクラーレンが1、3位。

N・ピケが何とか2位を確保するが、N・マンセルが6位、

そして中嶋選手がN・マンセルに次いで7位フィニッシュ!

1986年の最終戦でチャンピオンを決めたA・プロストは、

その確かな戦略でこの開幕戦も手中に収めた。


初めてのF1の撮影、初めての場所、いや、というより初めての世界。

あっという間の1時間半あまりのレースディスタンスだった、

実は初日にレースの時間に合わせて、光の加減や逆光の具合など、

コース上の撮影ポイントを見て回っていたのだが、

いざレースとなると、あそこも、ここも、と気はあせるが、

時間の流れはいつもより速く感じ、実に不満だらけで初レースを終えた。


そして肝心の撮影結果だが、

今のようにデジタルカメラではないので、

日本に戻って現像が上がるまでわからない...

今ならなんてもどかしく思えることだろうか?

デジタルカメラの普及で、撮影結果がすぐにフィードバックされ、

次の撮影に如実に反映される。


カメラのデジタル化はプロはもとより、

カメラを嗜む全ての人に素晴らしいチャンスを与えた。

最近は画質の問題もフィルムを超える域まで上がってきているので、

デジタルカメラを導入していないメディアは無いといってもいいだろう。

(この辺りのことは以前に書いているのでこちら を参照して欲しい)


表彰台の撮影を終え、撤収しようと荷物を車に積んで、

いざサーキットを出ようとするが、物凄い車の数で動きが取れない...

と、その時斜め前方にいた車がUターンをして勢いよく走り出した!

何故かわからないけど、直感的に僕も釣られてUターンをしていた。

先行車について行くと、その先に、ありゃ白バイが待ってる!

そういえば運転手の横顔に見覚えがある!そうだA・プロストだ!


彼は窓を開けて警官と短い会話をすると、なんとお金を渡している。

すると警官はおもむろに白バイに跨ると、エンジンをかけ、

赤灯を点け、サイレンを鳴らしプロストの車を先導しだした!

こりゃついていかない手はない、そう判断した僕はピッタリと彼の車の後ろにつき、

白バイの掻き分けてくれるその隙間を一緒に走り出した。


何とかゲートを無事に通過すると、その後は車は多いがさほどの渋滞は無い。

信号でプロストの車と横に並んだのを機に、勝手に彼の車についていった非礼を詫びようと窓を開け、

手を上げると、彼はそれに答えニッコリとウィンクをして走り出した。

途中までついていこうとするが、さすがはFドライバー!

抜群の判断力で車線を次から次へと変えながら、たちまち彼方の人となってしまった。

サーキットならずともレーサーはやはり運転がうまいと再認識した。


しかしサーキットを出ると道は流れるが、今度はむしろ危ない車が多くなる。

F1を見た勢いで全ての運転手がピケになり、セナになり、プロストになっているからだ!


例えそれが、アルコール燃料の甘い香りを漂わせるワーゲンでも、

ダンパーが抜けていて勝手にシャコタンになっているような車でも、

そして左右のドアやフェンダーとボディの色が異なっている車だとしても

また定員オーバーで荷台に大勢の人を乗せたトラックでさえも、

運転手、もとい!ドライバーはハンドル、もとい!ステアリングを握って、シフトレバーに手をかけると、

アクセルペダルに乗せた右足におのずと力が入る。(笑)

目は信号を睨み、視線の端で横の車を捕らえ、グリーンシグナルを待つ、

気分は全員がレーサーか...

(余談だが翌日の新聞でF1帰りの事故の多さが話題になっていた...)


僕のF1初体験は、はるばる地球の裏側まで来たのに、

まるで一瞬の瞬きのように、自分の思っていたことはロクにできずに終わってしまった...

自分の撮影感覚と現実の結果を一刻も早く照らし合わせなくては。

早く日本に戻りたい!

だがどんなに急いでも、あと28時間はやはり必要であった...

僕の「ICHIBANN」物語15

「僕の愛用のRIMOWAのスーツケース、一番大きいサイズで、既に15年以上使用してますが、

壊れては修理にだしの繰り返しで、まだまだ現役。

渡航暦200回を超える僕の旅の大半はこいつと一緒でした...」


朝から30度を超える気温。

富と貧困を背中合わせに持ち、

貧しくとも陽気なキャリオカたちの住むリオ・デ・ジャネイロの市街から、

そして僕の滞在しているコパ・カバーナから40分程度の距離にジャカレパグワ・サーキットはある。


交通ルールのあるようで無い、もしくは無いようである(?)

どちらなのか訳のわからない道を走るのだが、

車線もあいまいで、ところによっては2台分の幅しかなくても、

自主的に3車線になっていたり、考えようによっては楽しい世界でもある!(笑)


ゲートでパスを見せ、いざ初めてのパドックへ...

嬉しさと緊張、F1GPワールドの入り口にようやくたどり着いた!

東京から乗り継ぎを入れて28時間、地球の裏側なので、

どこをどう回っても日本から一番遠い国だ。

所定のパーキングロットに車を止めると、いよいよ戦闘モードに突入。


プレスセンターを探し、機材用のロッカーを確保すると、

早速カメラのセッティングの開始だ。

愛用の400mm/F2.8をキャノンF1に付け、コダクロームを装填、

そして当時、皆にかなり珍しがられたモノポッド(一脚)をつけてピットへと向かう。

空いてる肩には14mm/F2.8を装着したキャノンF1も下げている。


ちなみにこの頃のレースカメラマンの平均的なセッティングはというと、

500mm/F4.5+20~35mm/F3.5+ストロボ、もちろん一脚なんて誰も持っていない!

そしてこれは日本人だけだが、何故かGパン&ニューバランスのスニーカー、

まるで決まりごとのように不思議な光景で、

暑いから当然のごとく短パン、ポロシャツ姿の僕は、どうやら最初から浮いていたようだ。


そして初めて見たF1マシン!中でも印象的だったのはフェラーリの「紅」!

かつて見たことのない色の深み、ピカピカにワックスもかけられていて、

そのカウルに映りこむリオの青空さえも晴々としていて、

その跳ね馬のエンブレムが誇らしげに見えた。

まさにウットリと眺めているという表現がピッタリだった。


そのうちあちこちのピットからエンジンを暖気する音が聞こえ出した。

僕もいつまでもフェラーリのピットにへばり付いている訳にも行かないので、

次のターゲットを求めて、ピットを観察しながら移動して行くと、

昨日イパネマの海岸ですれ違った中嶋選手がピット前に出て空を眺めていた。


昨日の出会いがあったので気軽に声をかける!

「おはようございます!」「あれっ!カメラマンだったの?」

「日本では見たこと無いけど、どこの雑誌?」

「フリーです、実はF1は、というかモータースポーツは初めてなんです...」

「えっ!初めて撮るのがF1?凄いね~」

半ば呆れられたようだが、「僕も初めてだからよろしくね!」とニッコリと握手を求められた。


彼と他愛のない話をしていると、どこからともなく視線を感じたので、その方向を見ると、

ピットの奥に同じキャメルのレーシングスーツを着た若者が、気難しそうな表情でこちらを見ている。

どことなく漂う哀愁と、時として空ろに見える彼の表情が気になり、

視線をそらしかねていると、中嶋さんが「アイルトンだよ」と教えてくれた。

その容姿や雰囲気からは彼がブラジル人とは思えなかったのだが、

そう、実は彼こそが次に僕が出会う「天才」アイルトン・セナ、彼の若き日の姿であった。


そしてフリー走行の時間が近づいてきたのか、アイルトンがイヤープラグをして、

フェイスマスクを被りだすと、中嶋さんも「じゃあね!」とピットの奥に戻っていった。

ロータスのピットもメカニックがエンジンをかけ出した、


当時のF1はターボ搭載なので、音としては決して綺麗ではなく、

正直に言うと、僕にはただの騒音としか受け取れなかった。

初めてなので耳栓の必要性など知らなかった僕は、あまりの煩さに、

たまらず両耳に指を入れて凌いでいると、ピットの奥から笑いながら、

中嶋さんが「それじゃあ写真撮れないでしょう?(笑)」と、

キャメルのマーク入りのイヤープラグを持ってきてくれた。


実は生まれてはじめての「耳栓」体験。

自分の五感を制御されるのはどんな状況でも心地よいものではないが、

この騒音には素ではとても耐えられそうもないので我慢。

それにしてもF1ドライバーでありながらこの心遣い、

それも初対面に近いカメラマンの僕に対しての思いやり。

人柄の良さが滲み出ているかのような穏やかな彼の笑顔を見ていると、

本当に彼が闘志をむき出しにし、命がけでバトルをするF1ドライバーのようには見えない。


しかしその一瞬後に僕は思い知ることになる...

イヤープラグをして、フェイスマスクを被り、ヘルメットを装着した瞬間、その雰囲気が一転した。

さっきまでの笑顔はどこへ...怖いくらいの目つき、表情だ。

人はこんなに簡単に切り替われるものなのか?

この一瞬にF1ドライバーの真髄を見た思いがした...


マイケル・ジョーダンもジョン・マッケンローも集中力を高めるために、色々なことをする。

マッケンローのジャッジに対する抗議はその際たるもので、

自分を追い込み、怒りをパワーに転換させるのだ。

しかしここまで一瞬にして、まるで瞬間湯沸かし器のように、

変化を遂げたアスリートはかつて見たことが無かった。


後日談だが中嶋さんはゴルフが好きで腕前も相当のもの。

ある時、ゴルフの話をしていたのだが、

「ゴルフは簡単だよ!」もちろん上手なのは知ってるが、何てこと言うの?と思った。

しかしその後に、「スイングの一瞬だけ集中すればいいんだから...」と。

そして「レースは1時間半、一瞬たりとも気を抜けない、それに仮にゴルフならミスってもOBで済むけど、

レースのペナルティは最悪の場合には死ぬことになるからね」

納得。そしてこの辺りが瞬間的にスイッチ・オンにできる秘訣なのかもしれない...


それにしても先駆者の歩む道は常に険しく、厳しいもの。

だが日本人初のF1ドライバーという肩書きは伊達ではない、

ここまで来る彼の道のりも容易でなかったのは周知の事実。

年齢と極東の島国というハンデを背負いながら、

世界を相手に戦おうとイギリスへ渡った男の笑顔、そしてその下に隠された闘志、

同じ新人としてF1デビューをする僕ににも瞬間、その闘志が垣間見えたような気がした。

僕の「ICHIBANN」物語14


1987年3月、僕はイパネマの海岸で強烈な陽射しを浴びながら、

ここまでの自分自身の道のりをひとりで振り返っていた。


マイケル・ジョーダンとの出会い、ジョン・マッケンローとの出会い...

競技は異なるがそれぞれに素晴らしい「天才」と言っても間違いは無い...

だが、今僕はそんな天才たちのいるフィールドに別れを告げ、

見たことも無いF1GPの世界の入り口にいる。

これで良かったのか?この世界に来るために手放してきた多くのものを思うと、

本当に良かったのだろうか?自問自答を繰り返す。


でも動き始めてしまったら、ここまできたら、

もう後戻りはできない!進むしかない!


明日からはブラジル、リオ・デジャネイロのジャカレパグワ・サーキットで今年の開幕戦が行われる。

初めて見る実物のF1マシン、初めて撮るレースの写真、もちろん初めてのブラジル...

さすがに緊張しないわけは無い。

聞けば多くのカメラマンたちは国内のレースで撮影を重ね、経験を積み、

長い時間をかけ、ようやくF1にたどり着くというのが図式のようで、

僕のように初めて撮るレースがF1なんていうのは例外中の例外らしい。


それだけにプレッシャーが無いわけではない...

今までどんなに速い被写体でも100m、10秒前後の人間だ!

時速300kmなんて想像もつかないスピードに果たして僕自身がついていけるのか?


前出の出版社の編集長にフリーになり、F1を撮影すると話した際に言われたのだが、

「決して人の写真は見るな!仮にそれがどんなに有名な写真家でもだぞ!」

新しい世界に向かうにあたって準備をしたいのは誰でも当たり前だが、

彼は僕に「自分を信じ、自分の世界を開け。人の写真を見るのはそれからでも遅くは無い」そう言った。


正直に言えば、僕の心のどこかで、国内のレースでも練習に撮影にいこうかな?

そう思っていた矢先のことだった。

更に「お前の最初の写真を俺は忘れない、あの時に練習をしたか?」そう問われた。

否、何の練習もせずいきなり国体のバスケットを撮影したのだ。

そしてその写真を編集長が認めてくれて、この出版社にお世話になった。

「世界を相手に写真を撮るのであれば、どこでも、何でも、でいきなり撮れないようじゃ通用しない!」

自然体で僕は彼の言葉を受け入れていた。


心を空っぽにして、あるがままを写真に写す。

一切の予備知識や先入観念も無く、生まれて初めて見て、触れる感動を忘れないように。

それだけを心がけて、明日からサーキットに向かう。

何色にも染まっていない僕のF1、想像するだけで期待と緊張に満たされて最高の気分だった。


数時間を海岸で過ごしたろうか?

海岸通りをホテルに帰ろうと歩き出すと、反対から小柄な日本人がジョギングをしてくる。

中嶋悟、その人であった。

彼もこの年、ニューカマーとしてロータスよりF1に参戦する。


額に薄っすらと汗を浮かべた彼の姿に、僕は思わず自分の姿を重ね、

通りすがりに「こんにちは!」と声をかけた、

彼も一瞬戸惑ったようだが、ニッコリとすると「こんにちは!」と返してくれた。

初めて会う本物のF1ドライバーだ!

一瞬立ち止まった彼は「日本から?」と尋ね、

僕は「そうです、頑張ってください!」と自分にも言い聞かせるように言った。

「うん、じゃあ!」と言って笑顔で彼は走り去っていった。

年齢的には決して若くはない彼が、30℃を越す気温の中で走る姿に僕は大いに勇気づけられた。

走り去る姿を見送りながら、「やるしかないんだ!」強く改めて自らに誓った。


F1グランプリ、男たちがこれほど熱くなれる世界。

だが本当に僕の好奇心を満たしてくれるの世界なのだろうか?

全ては明日から始まる...

僕の「ICHIBANN」物語13

初めて自分が天才だと思える相手と出会い、

自分の中にも変化が訪れていた。

初の海外遠征を終え、以降幾多の世界レベルの戦いを撮影するようになり、

僕の中での全ての判断基準が自然と厳しくなり、いつしか「世界レベル」が僕の全ての基本となっていた。


誤解の無いように言えば、日本レベルがダメという話ではなく、

あくまでも僕が撮りたい被写体が「世界レベル」であるということなので。


そして、この後再び僕に転機が訪れる。

1986年の秋のことであった。

翌年からフジテレビがF1の全戦中継を行い、

鈴鹿サーキットで日本GPが開催されるというニュース飛び込んできた。

世界最高峰のF1GP、そしてヨーロッパ、とても刺激的な響きで、

何とか自分の目で見てみたい、確かめてみたい!

そう思うと何とかしてF1に行きたくなった。


しかしF1のシーズンは長いし、他のイベントとも重複する。

F1に行くためには今までの仕事を全てをリセットしなければならない...

当たり前だが悩んだ、それ相応のギャランティーをしてくれていた出版社だったし、

何より僕に世界を知るきっかけを与えてくれた恩のある出版社であった。

思い悩んだ末に、編集長にに事情を話すと、

「もう決めてるんだろう?(笑)お前がやるといったら止められないと思ってる、

だからどうせならやるなら思いっきりやってこい!」

嬉しくて涙が出そうな言葉だった。

自分を応援してくれる他人の存在、その有難さを身をもって実感した。


僕の我侭で職を辞すと、

翌年1シーズン(およそ6ヶ月間)の経費を考え、

自分の持ってる車、オーディオなどお金に換金できるものは全て換金した。

来年1年間は基本的には無収入だから、節約して有り金で過ごさなければならない...

果たしていくらかかるのだろうか?

あくまでも想像の域をでないが、車を半年借りて約60万円

(T.Tというシステムで旅行者が最大6ヶ月間新車を借りられるシステム)

飛行機代は東京-ブラジル、東京-ヨーロッパ、ヨーロッパ-北米、

それぞれ1往復なので、安いディスカウントでチケットで合計およそ40万円ぐらい。

後は滞在費、ガソリン代、食事代...etc


自分なりに計算したおよその予算が150万円!

半年間、最低のラインで暮らせばこれで凌げるはずだ。

何よりこの金額は当時の僕の全財産とピッタリ同じ額だった!(笑)


今、当時を振り返ってもまったく不安は無かったと思う。

あるのは「夢」だけだった。

夢のために邁進する自分の姿、

そしてその先にある未来しか僕の目には見えていなかった。

行かなければ始まらない!

Ready to Go!

僕の「ICHIBANN物語」12

ロンドンからスペインのマドリッドへ。


この地で、この旅のヨーロッパで最後となるイベント、

バスケットボールの世界選手権が開催される。

日本をでてから2ヶ月近くが過ぎ、ホテル暮らしで過ごした日々、

移動の連続、そして撮影する喜び、全て初めての体験だった。

今思えばこの旅が現在の僕を決定づけたのかもしれない。


そして運命の人との出会い。


アメリカチーム、通称ドリームチームと呼ばれるエリート集団。

アメリカバスケットボール界がプライドと意地をかけて送り出した、

世界最強のチーム、それがこのドリームチームだった。


最初から優勝することを義務付けられていて、

それをプレッシャーとも思わず、当たり前のように優勝を遂げてしまう、

そんなアメリカチームの中でも、僕の目を引いたのは、

決して長身とはいえない(とはいえ195cmはあるのだが)、

一人のノースカロライナ大のプレーヤー、マイケル・ジョーダンだった。


もちろん彼がこの大会ででMVPを取ったわけでもないし、

結果としてはそれほどの活躍をしたわけではない。

ただ凄く印象的だったのは獣のような反応の速さ、鋼のようなバネだった。


そして僕が最初にハッキリと「天才」を意識しだしたのは、

このマイケル・ジョーダンかもしれない。

もちろんウィンブルドンのファイナルで敗れたとはいえ、

ジョン・マッケンローのプレーにも似たような思いを持ったのは事実だが、

しかしこれほど明確に「天才」という言葉はを意識しなかった。


その後、一連の取材を終え日本に無事に戻った僕は、

日本での撮影を続けていたが、

一旦海外取材の楽しさを知ってしまうと、「世界」が恋しくて、

もう日本から出たくてしょうがない!

何とか海外取材へ行く方法は無いか?何か機会があれば海外へ...常にそう考えていた。


そして巡ってきたチャンス!

結果として僕にとって初のオリンピック取材となった、
1984年のL.A(ロスアンゼルス)オリンピックだ。(その前のモスクワは日本がキャンセルしたので...)
当時彼はまだノース・カロライナの学生だったが、
再びアメリカ代表のドリームチームの一員として参加し、
見事に金メダル獲得の立役者となった。

その後、彼がドラフトでシカゴ・ブルズに入団してからの活躍ぶりは僕が紹介するまでもない。
195cmという身長からは想像もできない俊敏な動き、
ダンクコンテストで見せつけた、まさに「AIR JORDAN」の名のごときジャンプ!
その抜きん出た身体能力、そして何よりも獲物を狙う野生動物のように鋭い眼差し、
どれをとっても今までには見たことのない選手へとなっていた。

彼が結果的に最初のNBAのタイトルを獲得した年のシーズン中に、
本拠地シカゴでインタビューをする機会があった。
約束した時間通りにインタビュー予定のアリーナまで彼は黄色のコルベットに乗ってきた。
ハンチングを被り、革のコートを着た彼は、気さくに握手を求めた。

僕が世界選手権当時から彼を見ていたと伝えると、嬉しそうに再び握手を求めてきた。
そしてカメラマンの僕のオーダーに嫌がるどころか、ニコニコとむしろ嬉しそうに、
彼自身がポーズを付けてくれた。

30分ほどの取材だったが、
彼はしきりに「どこからきたんだ?」「住んでるのはTOKYOか?」などと、
僕に質問を浴びせ続けた。
そんな和やかなインタビューの中で、
一瞬彼の眼光が鋭く光った!
それは「No.1になりたいんだ!」と彼がその言葉を放った瞬間だった。

結果としてその年彼は念願のNBAのタイトルを手中に収め、
歴史に残る記録的な活躍がここから始まった。


初めて僕が「天才」を意識したマイケル・ジョーダン、

そしてテニスプレーヤー、ジョン・マッケンロー、

さらにこれから幾人もの天才たちとめぐり合うことになるのだが、

当時の僕は嬉しくて、楽しくて、

世界を舞台に撮影できること、ただそれだけで満足だった。