• 「敵失頼みで地力は無い。」って認識はあるんだ。で、そんな立民に、誰がした?ー【朝日社説】立憲民主党大会 敵失頼みで無く地力を


 朝日新聞って会社は、徹頭徹尾無責任な責任逃れ体質が身についている、らしい。

 例えば、従軍慰安婦強制連行」報道が、その一例だろう。再三再四執拗なまでに繰り返された従軍慰安婦強制連行」報道記事によって、日韓関係を根源的に毀損する要因となっておきながら、朝日ときたら日韓関係悪化にも従軍慰安婦問題解決にもほぼ「他人事」で、その「報道記事」が「尽く」と言って良いぐらいに虚報と判明し、否定された今日に至るも「悪化した日韓関係」について全く責任を感じていない(としかおも思えない)。数多の虚報誤報は、実に判りにくい「謝罪と訂正記事」で誤魔化している。

 判りにくかろうが小さかろうが、「謝罪と訂正記事」が出れば良い方で、旧日本陸軍の毒ガス使用写真」って大誤報に対しては、開き直りやぁがった事も、忘じがたい。朝日は旧日本陸軍の毒ガス使用写真発見って記事を当該写真入りで記事にして紙面掲載し、これは、旧日本陸軍の毒ガス、ジフェニル何某、通称”アカ弾”である。」と抜かす「専門家の言葉」までご丁寧に報じやぁがった。

 「抜かす」「報じやぁがる」と汚い言葉を使うのは、この朝日が引用した「専門家」ってのが、自称だか他称だかは知らぬが、絶対に真面な真面目な専門家ではないからだ。

 左様に私(ZERO)が断じるのは、一つには当該「毒ガス使用写真」が撮影されたのが野外で、天に向かってモクモクと立ち上っている「毒ガス」を写しているから。こんな「毒ガス」では、野外での野戦には全く役に立たない。折角散布された毒ガスは、忽ち希釈されて、その効力を失う。
 もう一つには、この専門家が言う「ジフェニル何某」とやらは、その名前からして「フェニル基が2個付いている」のだから(*1)、分子量は確実に空気よりも重い。これが気体であるならば、その「毒ガス」は(余程加熱していない限り(*2)「空気の下に潜り込む」筈である。第1次大戦に最初に使われた毒ガスである「塩素ガス」が、「地を這う煙」と表されたのは、正に「毒ガス(塩素ガス)の分子量が空気よりも大きく、為に重く、空気の下に潜り込んだ」から。
 つまり、上述の朝日記事が引用した「専門家」は、高校程度の化学の知識も、中学程度の物理の知識も、些かの(*3)戦史の知識も、持ち合わせていなかった、と言うことだ。それを言うならば、その「専門家の言葉」をそのまま記事にした朝日新聞記者も、記事に対して責任を負う(筈の)朝日新聞社デスクも、同様だが、な。
 で、この朝日新聞記事を取り上げた産経新聞は「誠に新聞社らしい」と言うべきか、「ジャーナリズムの片鱗を発揮した」と言うべきか、当該写真の元ネタとなった書籍を特定し、一連の写真が「渡河作戦に際し、渡河点を隠すために煙幕を張っている(*4)」写真との記載があることを突き止めた。そればかりか、未だ当時存命であった写真を撮ったカメラマンにインタビューして「渡河作戦中の煙幕展張である」って証言まで得て、報道記事とした。
 即ち、「旧陸軍の毒ガス使用写真」と言うのは、誤報/虚報であり、「渡河作戦中の煙幕展張写真」である、と報じた訳だ。
 で、これに対する朝日の言い分が、凄かったので未だに覚えている。旧日本軍が大陸(支邦)で毒ガスを使用したことは間違いない。」ってやぁがった。つまり、「旧日本軍が毒ガスを使用した」事実/史実さえあれば、「写真は合成でも特撮でもCGでも構わない。」と、平気で抜かしたのである。

 左様な無責任体質の朝日新聞なればこそ、こんな社説も、朝日新聞の公式公的な主張として掲げてしまえるのだろうな。

  • <注記>
  • (*1) こんなのは、大学受験=高校生レベルの化学の知識だ。 
  •  
  • (*2) PV=nRTは、気体の状態方程式。Pは屋外だから忽ち1気圧で一定。Rは気体定数。従って、密度n/Vは、絶対温度Tに反比例する。
  •  故に、常温の気体は、約300℃に熱して漸く「密度半分」である。 
  •  これは・・・ひょっとすると高校受験レベルの、中学の物理の知識だ。 
  •  
  • (*3) だが、「専門家レベル」と言うには程遠い。精々の所「戦史マニア」レベルの「戦史の知識」。 
  •  
  • (*4) この報道自体を疑うことも出来る。が、「これから渡河する河川」も一連の写真には写っており、「野戦であるばかりか、渡河作戦で、敵は川向こうに居る」状況で、「天に向かってモクモクと上る煙」では、届きようが無いのだから、当該写真(並びに当該作戦)を「毒ガス使用」であると断じるのは、「無理がある」どころではない。
  •  ああ、「ジフェニル何某だ!!」と断言するのは、もっと難しいなぁ。 

 

  • (1)【朝日社説】立憲民主党大会 敵失頼みで無く地力を

立憲党大会 敵失頼みでなく地力を

 

 

https://www.asahi.com/articles/DA3S15855837.html?iref=pc_rensai_long_16_article

 

社説

 

2024年2月5日 5時00分

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写真・図版

立憲民主党の党大会で、拳を突き上げ結束を呼びかける泉健太代表(中央)ら=2024年2月4日、東京都港区

 

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 政治への信頼を取り戻すため、派閥の裏金の実態解明や政治資金規正法改正を、自民党に強く迫るのは当然だ。同時に、政権交代を掲げた以上は、「敵失」頼みではなく、国民から選ばれるよう、政策を磨き、地域の足腰を鍛え、地力を高めねばならない。

 

 立憲民主党の党大会がきのう開かれた。泉健太代表はあいさつで、「金権政治の自民党を国家権力からたたき出す」として、次の衆院選で自民党を上回る第1党となり、政権交代の実現をめざすと述べた。党の活動計画にも、その方針が明記された。

 

 党勢の低迷で「封印」していた政権交代という目標を、改めて前面に押し出したのは、裏金問題で自民党への不信が極まったことを追い風と受け止めたからだろう。

 

 自民、公明両党が政権に復帰して12年目。この間、離合集散を繰り返す野党の非力が、強引な政策転換や国会運営を許してきた。裏金事件の背景にも、長期政権のおごりや緩みがあろう。失政があれば、とって代わる野党が存在することは、政治に緊張感をもたらすうえで不可欠だ。

 

 とはいえ、岸田内閣の支持率が最低水準で推移するなか、立憲の支持率が一向に上向かず、時に日本維新の会を下回る現実を、立憲は厳しく受け止めねばならない。

 

 経済界の意向を尊重しがちな自民党に対し、労働者や生活者の視点に立った、きめ細かな施策を打ち出せているか。目先の世論受けを狙うのではなく、財源の手当てを含めた持続可能な制度設計になっているか。幅広い国民に支持される政策づくりに愚直に取り組むことが必要だ。

 

 選挙の態勢づくりも容易ではない。野党がバラバラのままでは、批判票の分散が避けられないことは明白なのに、共産党を含む「野党共闘」の機運はしぼんだままだ。立憲の活動計画は「可能な野党連携を進めつつ」との表現にとどめているが、野党第1党が汗をかかねば、与党との1対1の構図はつくれない。

 

 泉氏はここに来て、政治改革や教育無償化など、一致できる政策に絞って連立を組む「ミッション型内閣」構想を提唱しているが、維新も国民民主党も冷ややかだ。政治改革を実現した後、求心力を失って短命に終わった細川連立政権の顛末(てんまつ)を見ても、基本政策のすり合わせをおざなりにはできまい。

 

 4月には「政治とカネ」をめぐる問題で議員辞職した2人の後任選びを含む三つの衆院補欠選挙がある。野党が結集して受け皿をつくれるか。泉執行部の手腕が試される。

 

  • (2)立憲民主党が、「敵失頼みで地力が無い」ってのには同意する。

 だが、その立憲民主党を、「出来損ないスキャンダルの追及しか出来ない、永久抵抗野党」にした責任が、そんな立憲民主党を甘やかし、「出来損ないスキャンダル追及」を再三煽り立てた、朝日新聞はじめとするアカ新聞共には、「無い」のかね?
 
 「無い」訳、無かろうが。

 朝日はじめとするアカ新聞共は、立憲民主党どころかその前身たる民主党の、「政権交代」以前の野党時代から、大甘やかしに甘やかして「政権交代」を実現し、その「民主党政権」が終わって下野してから以降は更にヒドくなって、モリカケ桜シリーズの「出来損ないスキャンダル追及」を煽りけしかけ、立憲民主党と一心同体となって騒ぎまくり、「敵失頼み」を推奨支援してきたろうが。

 その甲斐あって、「国会でワイドショーを実演するしか能の無い、追及だけの永久抵抗党」に立憲民主党を仕立て上げておいて、今更今頃「敵失頼みを止めて、地力をつけろ」って、何を言っているんだ、朝日新聞は。

 マッチポンプも、大概にしやぁがれ。

  • ゴジラ-1.0並びにゴジラ-1.0/C(モノクロ版)は、必見である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現在も絶賛・・・かどうかは兎も角、未だ公開・上映中である(*1)邦画「ゴジラ-1.0」並びに「ゴジラ-1.0/C(モノクロ版)」は、必見である。コレは、自分で言うのも何だが「平凡」とか「平均的」と言うには程遠い私(ZERO)と「いささかでも共通点のある人」などと言う狭い範囲に限った(*2)>話ではない。


 逆に本作をオススメし難いのは・・・そうだなぁ、日本人とか日本と言えば絶対悪に決まっているし、日本人には人間らしさなんて、ある訳がない!!!」と狂信盲信しているようなチョウセンジンか支那人か似非日本人(*3)ぐらいだろうか。

 それ以外の多くの人には、是非ともご覧いただきたいのが、本作である。アカデミー賞の特殊映像賞にノミネートされているが、特殊映像賞にしかノミネートされていないのは「おかしい」とさえ、私(ZERO)には思えるほどだ。作品賞だろうが監督賞だろうが主演男優賞だろうが「十分狙える」とさえ思っているし、ブルーリボン賞だかではそれらを「総ナメにした」そうである。

 断っておくが、私(ZERO)は怪獣映画もゴジラ映画も別に好きではない。本作の前に見たゴジラ映画(且つ、多分怪獣映画)は「モスラ対ゴジラ」のリメイク版で、「見なければ良かった」ってのが、率直な感想だった。「たまには邦画を応援しようとして、失敗した。」と思ったモノだ。

 第一、巨大ロボットアニメすら「理不尽である」と原則拒否している私が、怪獣映画なんぞ、そうそう見る気にはならない。だから、ゴジラに限らず、ガメラそのほかの邦画も、ハリウッド映画も、見る気にならなかったし、見ていない。ジュラシックパークさえ地上波のテレビで見たきりで、別に二度見ようとも思っていない。

 そんな私(ZERO)が本作「ゴジラ-1.0」を見る気になったのは、大東亜戦争を戦った大日本帝国陸海軍兵器が登場するから」という、「いささか不純な動機」であったことは認めよう。そこの貴方が、そんな「不純な動機」を抱くとは全く期待しない。

 第一、いささかネタばらしをすると、本作では「大東亜戦争を戦った大日本帝国陸海軍兵器が登場は、する。」が、「大活躍してゴジラを倒す」訳ではない。時代背景として戦後間もなくの、未だ自衛隊さえ発足する以前の我が国で、本来我が国の防衛を担うはずの占領軍GHQ=米軍が我が国防衛を放棄した「代償」として提供されたのが、種々の大日本帝国陸海軍兵器であり、それ故に、駆逐艦4隻/雪風/響/夕風/欅は砲は外され魚雷も(恐らく)搭載していない。謂わば「丸腰状態」だ。

 そんな絶望的な状況で、如何に戦うか?そもそも、「誰が、戦うのか?」。帝国陸海軍は既に無く、自衛隊もない。先述の通り米軍も動かない。

 うーん、ネタばらしになるので詳しくは書けないが、「誰が、戦うのか?」に答えた、「兵児モンのみ来よ!」シーンと私(ZERO)が名付けている「雪風駆逐艦長演説シーン」とその後の聴衆の反応は、本作の白眉の一つだ・・・他にもいくつも白眉はあるが。「なけなしの白米」シーンも、結構「来る」ぞ。
 
 「全く、良い迷惑だよぉ・・・・」(*4)

 本作を一言で言い表すのはかなり難しいし、色んな切り口、考え方があるだろうが、私(ZERO)としては戦後日本の再発見を挙げたい。本作の冒頭シーンこそ未だ大東亜戦争中ではあるが、映画の大半は戦後程なく、主な部分は1947年・昭和22年。未だ大東亜戦争の傷跡深く、主人公自身「大東亜戦争中に敷設された機雷の掃海(*5)」を、生業として戦後の日本で生きている。

 「生きている」。そう、主人公はじめとして、登場人物一人一人が「生きている」様が深く掘り下げられ、描かれているのが、本作の特徴の一つである。「戦後日本の再発見」とも関わるが、人間ドラマが深く、大きいのが本作であり、その点が「怪獣映画と人間ドラマの融合」とも評される所以であろう。極端な話、本作は「アカデミー賞特殊画像賞」にノミネートされているモノの、そのVFXシーンを全部抜いたとしても「作品として成立する」し、相応の「傑作映画」たり得るほどに「人間ドラマが熱い/厚い」のである。

 それ故にこそ、私(ZERO)のような「大東亜戦争を戦った大日本帝国陸海軍兵器が登場するから」等という「不純な動機を持つ者」以外の、広く一般の人に、本作をお勧めするのである。

 端的に言って、私(ZERO)は、本作を今までに9回見た。カラー版のオリジナルを7回。モノクロ版を2回。その内4DXでは、3回見た。全て映画館で、自腹でだ。「ロードショーを自腹で2回見る」事さえ初めてだと言うのに、だ。断って置くが、私(ZERO)は趣味は偏向していると思うが(*6)相応の「映画ファン」であり、此処十数年ほどは大部ご無沙汰して入るが、学生時代には週一に近いペースで映画を見ていた。(ロードショーは高いので、3本立てが多かった、気がするが。)

 更に序でに言えば、9回見た。9回ともボロ泣きしているし、あのシーンとこのシーンでは毎回敬礼を捧げている。捧げざるを得ない程、没入している、と言うことだ。

 これは・・・如何に最近のAV機器が普及発達しようとも、なかなか映画館には敵わないところ。私(ZERO)は、本作(の一回目)を見た後に、前作たる「シン・ゴジラ」を見たのだが、DVDで家内視聴したきりなので、私(ZERO)の「シン・ゴジラ」評が今一つで、本作と比べると「圧倒的な差」とさえ言えそうなのは、「映画館で『シン・ゴジラ』を見ていないから』と、思えないことも無いぐらいだ。
  
 でもなぁ、登場人物の浅さ、人間ドラマの希薄さは、映画館とは関係ないよなぁ。主人公・矢口(=十兵衞/明智光秀)とライバルの対立関係とか、掘り下げればもっと重厚なドラマに仕立てられたろうに。名前だけ出て来るが1シーンだけとか、肩書きだけとかの『使い捨てキャラ』が多いのも、映画館のせいじゃないよなぁ。

 そんな「余り高くは評価できない」前作「シン・ゴジラ」の日本国内興行収入に、未だ本作が及ばないのは、大いに不満である。約80億円の前作に対し、本作は約50億だから、なかなか『今から抜く』のは難しそうではあるが(*7)、アカデミー賞受賞共々、大いに期待したいのである。

 「ゴジラー1.0」並びに「ゴジラー1.0/C」。未見の方は、是非一度拝見されたい。
 既に見た方も、今再びの視聴を、オススメする。


 9回見た私(ZERO)の経験からすると、「やはり、見る度に新たな発見がある」。
 9回ともボロ泣きの敬礼なのは、先述の通りである。
 

  • <注記>
  • (*1) 上映回数が大分減ってしまったんだよなぁ・・・ 
  •  
  • (*2) 反りゃぁ、相当に狭い範囲で、日本国内で言うと数%ってぐらいではないかな。 
  •  
  • (*3) 一定数、居るよねぇ。 
  •  
  • (*4) 「神ってる」等と、最近安易に使われる「神」って言葉は、こう言うシーン、こう言う科白にこそ、使われるべきだ。
  •  その一寸前の、「どう言うこったい?」からの瞬時のツンデレ切り替えも、本作の白眉の一つ。アカデミー助演女優賞モノだ【断言】。 
  •  
  • (*5) 作中に「日米両軍がばらまいた」旨の科白はあるが、日本近海にばらまかれた機雷の大半は米軍が撒いたモノで、あの「B公」ことB-29スーパーフォートレス戦略爆撃機(広島・長崎に原爆落とした奴だ。)がばらまいたモノである。B-29は日本中の都市という都市を廃墟とするほどの爆弾もばらまいたが、ばらまいた量としては機雷の方が多いのである。
  •  日本に対する海上封鎖作戦「飢餓作戦」の一環である。この点、強調しないまでも、触れ方が弱いのは、本作に対する私の抱く不満の一つである。 
  •  
  • (*6) 一番好きなのは戦争映画で、次いで西部劇だ。この二つについては、「本が書ける」とさえ、思っている。 
  •  
  • (*7) 全世界で言うならば、とうに本作は前作を越えている。それだけ、『広く海外に受け入れられた』本作、と言うことである。 
  • どの口で、「推定無罪」と抜かすのか。日本政府と、帝国に謝れ。-【東京社説】名張再審認めず 「疑わしきは」の鉄則で

 タイトルでは(和歌にしようとして)字数不足で単に「帝国」表記となってしまったが、その直前の「日本政府」との併置で判るだろうが、この「帝国」とは「大日本帝国」、即ち「我が国」のことである。

 諄いようだが繰り返そう。「大日本帝国」は、「我が国」である。時間軸が百年ばかりズレている、だけの話。従って、私(ZERO)含めて日本国民もまた、大日本帝国臣民とは「時間軸がズレている」だけだ。「原則として」だが。

 無論、左様に考えない「現代日本人」ってのも、相応に居る。「大東亜戦争(*1)敗戦によって、大日本帝国は滅び、日本人は生まれ変わった!!!」と主張し、信じている連中である。まあ、東京新聞なんてのは、その筆頭格だろうな。

 仮にそれが真実・事実・史実だとしても、だ。「自分自身の先人・先達・御先祖様では無い」からって、「推定無罪の対象外」になんて、出来る訳がないだろうに。

  • <注記>
  • (*1) と、斯様に考えるヤツバラは呼ばないようだが。大抵は当時の米国呼称である「太平洋戦争」と呼ぶ。 


 

  • (1)【東京社説】名張再審認めず 「疑わしきは」の鉄則で

名張再審認めず 「疑わしきは」の鉄則で

2024年2月2日 07時37分

 

 三重県名張市で1961年、女性5人が死亡した名張毒ぶどう酒事件で、殺人罪などで死刑が確定した奥西勝元死刑囚=病死=の妹が求めた再審請求を最高裁は棄却した。だが、判事1人は「再審を認めるべきだ」との反対意見をつけた。「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則で考えるべきだ。

 公民館の懇親会で出されたぶどう酒を飲んだ女性17人が中毒症状を起こし、元死刑囚の妻を含む5人が死亡した事件である。

 第10次の再審請求だった。今回の最大の争点は、元死刑囚とは別の真犯人が毒物を混入したと立証するため、弁護団が行った「封かん紙」の科学鑑定である。

 ぶどう酒の外ぶたに巻かれた紙で、弁護団の鑑定では、封かん紙に製造時と成分が異なるのりが重ね塗りされていた。

 つまり真犯人が毒物の混入後に封かん紙を貼り直したことになる。犯行機会が奥西元死刑囚しかいないとする確定判決の根拠を揺るがすことができる。

 だが、最高裁は封かん紙の採取や保管の過程で何らかの物質が付着した可能性があると指摘し、「再審認めず」と結論を出した。

 この4人の多数意見とは逆に、宇賀克也判事は封かん紙の鑑定に信用性を認めた。「のりが別途塗布された可能性が極めて高い」とし「再審を開始すべきだ」との反対意見を述べた。

 「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則も用いつつ、確定判決に合理的な疑いが生じているとした。

 この鉄則は再審制度でも適用されるとした「白鳥決定」を重視した点を大きく評価したい。そもそも一審は「無罪」。2005年には再審開始が決定されたが、後に取り消された経緯がある。

 つまり犯人かどうか当初から疑わしかったのではないか。状況証拠と自白調書程度しかなかったからだ。誤判は決して許されず、死刑の選択にはより慎重を期さねばならないのは当然だ。

 死刑は生命を奪う特別な刑罰であるゆえに、米国の死刑制度が残る州では陪審員の全員一致という特別な手続きが求められる。

 本来、日本でもそのような特別な手続きが立法で用意されるべきである。今回は1人の最高裁判事が再審を認めた。これは現行法の運用でも再審開始とすべき十分な理由と考える。

 

  • (2)都合の良いときだけ「推定無罪」

 モリカケ桜シリーズで、安倍政権(当時)はじめとする歴代日本政府に対して、またそれとは別口で大日本帝国並びに帝国陸海軍に対して、散々「推定有罪」しまくっている東京新聞が、どの口で「疑わしきは被告人の利益(=推定無罪)」を語るのかね?

 いや、コレこそ正に、「騙っている」訳か。

 こう言うのを普通は「ダブルスタンダード(二重基準)」、更には「二重思考」というのだぞ。

  • 国防は、軍の本来任務なり。帝国陸軍も、陸自も同じ。-【朝日社説】陸自靖国参拝 組織性は否定できない


 国防が、「軍の本来任務である」ってのは、私(ZERO)に言わせれば自明であり、「火を見るよりも明らか」と言って良いぐらいのこと。たとえ帝国陸海軍が、大東亜戦争だか「日中15年戦争」だかを惹起誘引した「戦争の元凶」であったとしても、我が国を防衛することが帝国陸海軍の本来任務であったことには、何ら変わりは無い。「その方法・手段に誤りがある」とは言い得て、「かえって我が国の安泰を脅かした」とは非難し得ても、国防が帝国陸海軍の本来任務ではない/無くなった」とは、非難し得ない。而して、「我が国を防衛すること」は、我らが自衛隊三軍でも本来任務である。

 なればこそ、帝国陸海軍の英霊たちをはじめとして、我が国に殉じた先人たちを祀る(*1)靖国神社に対し、自衛隊・自衛官が敬意を表し、参拝するのはごく自然であり、当たり前のこと。
 
 逆に自衛隊・自衛官が靖国神社に参拝せず、敬意を表しないと言うのは、「国防上、国家安全保障上の大問題」を孕んでいる可能性すら、ある。

 であると言うのに、朝日ときたら・・・いや、逆か。「であればこそ」、か。
 

  • <注記>
  • (*1) 当然ながらその中には、殉死された先輩自衛官も含む。 


 

  • (1)【朝日社説】陸自靖国参拝 組織性は否定できない

 

陸自靖国参拝 組織性は否定できない

社説

 

 

https://www.asahi.com/articles/DA3S15851129.html?iref=pc_rensai_long_16_article

 

2024年1月30日 5時00分

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写真・図版

終戦記念日の正午、靖国神社で一斉に黙?(もくとう)する参拝者=2023年8月15日、東京都千代田区、諫山卓弥撮影

 

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 同じ部署に所属する幹部らが、示しあわせて集団で参拝した。しかも、確認されただけで、過去5年の恒例行事だったとみられる。各人の自由意思に基づく「私的参拝」だというが、組織性は否定できない。旧軍との「断絶」をどう考えているのか。疑問を持たざるをえない。

 

 陸上自衛隊の小林弘樹陸上幕僚副長(陸将)らの今月初旬の靖国神社参拝を、宗教的活動に関する事務次官通達に抵触する疑いがあるとして調べていた防衛省が、違反はなかったと発表した。

 

 憲法は「信教の自由」を保障する一方、宗教上の行為を強制されないことや、国による宗教的活動の禁止を定めている。これを受け、防衛省は事務次官通達などで、部隊としての参拝や隊員への参加の強制を禁じているが、今回の事例はいずれにも当たらないと結論づけた。

 

 調査によれば、小林氏を委員長とする陸自の航空事故調査委員会の関係者41人に、航空安全祈願のための靖国参拝の案内があり、うち22人が参加した。全員が自由意思で応じ、私的参拝との認識から、休暇をとり、玉串料も私費で払ったという。

 

 参拝が自発的で、私的参拝の外形を整えていたとしても、「実施計画」をつくったうえ、トップを含む大勢のメンバーが一斉に行動している。これを部隊としての活動ではないというのは、苦しい説明ではないか。そもそも、航空安全祈願がなぜ靖国神社でなければいけないのかも、よくわからない。

 

 防衛省は通達違反を否定したうえで、小林副長ら3人が移動に公用車を使ったことについては、その必要はなく「不適切」だったと認め、訓戒とした。公用車の使用自体、公務の延長上と受け止められても仕方ないというのに、正面からの検討を避けたと言うほかない。

 

 もちろん、自衛隊員が一国民として、神社仏閣に参拝することに、何ら問題はない。しかし、自衛隊の幹部が集団を率いて靖国神社に参拝するとなると話は別だ。

 

 靖国神社は戦前、旧陸海軍が共同で管理した。戦没者を「英霊」としてまつり、国家主義や軍国主義の精神的支柱となった。東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)されてもいる。それゆえ、政治指導者など公的な立場にある者の参拝は、過去を正当化するものと受け止めざるをえない。

 

 戦後、平和憲法の下で再出発した自衛隊に、歴史への反省を疑わせるような振る舞いがあってはならない。

 

  • (2)靖国神社に祀られているのは、先の大戦の英霊たちばかりではない。それ以前に我が国に殉じた御霊も、それ以降に殉職された方々も祀られている。

 当然ながら、戦後この方、殉職された先輩自衛官の方々も、祀られているのである。その靖国神社に対して、「自衛隊、自衛官は参拝するな」と言わんばかりの上掲朝日の社説は、人ならざるモノ、人非人の所業・主張と言うべきであろう。

 更に言うならば・・・

  • ☆「平和憲法」なるモノは、「自衛隊に違反」している。


 有り体に言おう。自衛隊三軍は、日本国憲法の外にある。

 日本国憲法は、日本国の憲法である筈だが、日本の軍隊に関する記述が全く無い。更には、我が国民ならざるらしい「平和を愛する諸国民」なる曖昧模糊にして実体不明で実在さえ疑われるが「外国人である」事は確からしい、平たく言って「外国」に、我が国の安全を付託してしまうと言う、大凡主権国家の憲法に在るベからざる自殺自滅自虐自壊憲法だ。

 そんな自殺自滅自虐自壊憲法の下で我が国が未だに存在し、一定の範囲で自主独立の主権国家たり得ているのは、そんな憲法が「軍隊に関する記述が無い」にも関わらず、左様な憲法成立後程なく「事実上の軍隊」たる自衛隊三軍が発足し、その自衛隊三軍によって成立する同盟関係たる日米安保条約があるからだ。
 
 言い替えようか。日本国憲法なる「平和憲法」、就中その「憲法9条」だの「憲法前文」だのが、我が国の国家安全保障上「役に立った」事はタダの一度も無い、と、私(ZERO)は考えて居る。
 
 朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争に、日本が(大規模な)出兵を行わず、我が自衛隊三軍に死傷者が(表向き)出なかったことは、「日本国憲法の影響」と言い得るだろう。だが、その事によって、我が国の安全保障や「名誉ある地位」やらが「高まった」などとは、到底言えない。寧ろ、「名誉ある地位」という点では「低下させた悪影響」の方が大きかろう。

 諄いようだが繰り返そうか。我が国が戦後80年以上ものあいだ、相応に平和に自主独立した主権国家であり続けたのは、自衛隊三軍と日米安保条約のお陰であって、「平和憲法」などと美称される日本国憲法のお陰、では無い。日本国憲法は自衛隊三軍について全く触れていないのだから、我が国の国家安全保障に「役立った」と考える方が、どうかしている。まあ、そう言う「どうかしている」輩は、掃いて捨てるほど在るがね。アカ新聞記者とか、憲法学者とか。
 
 「役立った」と言うならば、その事例を挙げて因果関係を説明しろや。世の「憲法変えちゃぁいけない教徒」どもよ。

 閑話休題(それはさておき)。

 上掲朝日社説は、先行して弊ブログでも取り上げた「自衛隊の靖国神社参拝を批判した社説」の「続編」とでも言うべきののであり、「組織性を否定できない」と批判しているのである・・・まあ、呆れるほか無いな。

https://ameblo.jp/zero21tiger/entry-12837450814.html

 

 

 そりゃ朝日新聞と言えば、「憲法変えちゃぁいけない教徒の筆頭」みたいなモノだ。日本国憲法を金科玉条にして神聖不可侵な「不磨の大典」とでも思っているのであろうが、

1> 戦後、平和憲法の下で再出発した自衛隊に(*1)
2> 歴史への反省を疑わせるような振る舞いがあってはならない(*2)。


って、上掲朝日社説の主張(それも、結語であり、結論)は自衛隊・自衛官は、靖国神社に参拝するな。」って主張である。(他に、解釈のしようがあろうか?)

 「自衛隊・自衛官は、靖国神社に参拝するな。」って主張は、「自衛隊・自衛官は、靖国神社に祀られている大東亜戦争の英霊たちにも、それ以前に我が国に殉じた先人たちにも、それ以降に殉職された先輩自衛官らにも、公式公的には、敬意を表するな。」って主張である。「歴史への反省を疑わせる」などと言う、一見尤もらしいが実に恣意的で、軍国主義復活!」と大差ない(*3)理由で、だ。

 それは、靖国神社を参拝する自衛官の内心の自由を蹂躙する人権侵害であるばかりではない。我が自衛隊三軍の士気にも関わる、国防上、国家安全保障上の大問題である。

 まあ、なればこそ、「誠に朝日らしい」社説であり、主張なのだが、な。沖縄二紙もそうだが、朝日新聞も、「我が国の侵略を狙う外国の手先にして尖兵」と考えて置いた方が、安全側だから、な。
 

  • <注記>
  • (*1) 異議あり。日本国憲法には、軍隊に関するする記述が無い。その憲法をそのままにして、事実上の軍隊たる自衛隊が発足したのだから、「自衛隊に先行して日本国憲法があった」のは事実・史実としても、「日本国憲法の下で自衛隊が再出発した」とするのは、少なくとも「疑義の余地がある」。
  •  日本国憲法の下で自衛隊再出発」するためには、「憲法に自衛隊の記載が必要」であり、それは「改憲が必要」である筈だが、事実史実は日本国憲法は発布されて以来タダの一文字変更されていない。コレでは「自衛隊が日本国憲法の下で再出発」なぞ、出来ようはずがない。QED。 
  •  
  • (*2) 「それって貴方の感想ですよね。」ってヤツだな。「歴史への反省を疑って」貰った方が「抑止力としては高まる」という考え方だってある。
  •  即ち、「あってはならない」ってのは、「朝日の主張」ではあるが、それだけだ。私(ZERO)は当然ながら、同意しない。 
  •  
  • (*3) ッてぇか、「ほぼ同じ意味」か。 
  • 恐るべき、思考統制「女性蔑視」。「表現の自由」は何処へやら。-【朝日社説】麻生氏の発言 女性進出阻む旧態依然 +1


 まぁ、女性蔑視反対」に限らないのだが、大方の「差別反対」とか「差別を無くせ」とか声高に主張するお歴々ってのは、「表現の自由」「言論の自由」、更には「内心の自由」ってのを、一体どう考えているのか(或いは、「全く考えて居ないのでは無いか」)と、思うことが多々ある。

 もとい。差別を無くせ!」って時点で、「内心の自由」なんざぁ「蹂躙している」事は「明白である」と考えるべきか。「行動にも言動にも出さずに、内心密かに差別しているだけ」って状態すら許容しないのが、「差別を無くせ!」って主張なのだから、少なくとも差別意識・差別感情に関する限り、「内心の自由」なんぞ、在る訳が無い。
 かかる「差別反対論」を突き詰めるならば、ウソ発見器ならぬ「差別発見器」って脳内感情・意識センサを開発配備し、空港とか駅とか公共の場で不特定多数の脳内をスキャンし、「差別感情保有者」は強制収容して「再教育キャンプ」送りって、小説「1984」以上のデストピアが出現するだろう。

 であるが故に、私(ZERO)は、「女性蔑視反対」も「差別反対」も、「必ず、疑ってかかる」事にしている(*1)。なればこそ、下掲朝日&毎日社説で「女性蔑視」と攻撃されている麻生氏の発言に対しても、「その評価は慎重に行う」=「"女性蔑視"と即断しない」様、心する。

 そうすることで、「見えてくる」モノもある、ってことさね。

  • <注記>
  • (*1) まあ、それを言うならば、「この世の全ての報道は、プロパガンダである(可能性がある)」と考え、疑ってかかるように心掛けているのだが。 


 

  • (1)【朝日社説】麻生氏の発言 女性進出阻む旧態依然 

麻生氏の発言 女性進出阻む旧態依然

 

 

https://www.asahi.com/articles/DA3S15852027.html?iref=pc_rensai_long_16_article

 

社説

 

2024年1月31日 5時00分

 

国政報告会で講演する自民党の麻生太郎副総裁=2024年1月28日、福岡県芦屋町、中田絢子撮影

 

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 外務大臣としての能力と外見とは何の関係もない。言及すること自体が女性への差別と受け取れる、極めて不適切な発言だ。麻生氏は過去にも問題発言を繰り返してきた。こうした人物を自民党の最高幹部に据え置き、注意すらできないなら、放置する岸田首相の責任が問われる。

 

 自民党の麻生太郎副総裁が福岡県芦屋町での講演で、上川陽子外相について「そんなに美しい方とは言わんけれども、英語できちんと話をし、外交官の手を借りずに自分でどんどん会うべき人に予約を取っちゃう」と発言した。仕事ぶりを評する際に外見に触れる必要は全くなく、一般社会でも決して許されない。

 

 麻生氏はその前に「俺たちから見てても、このおばさんやるねえと思った」とも語っていた。旧来から権力を握ってきた男性政治家が、少数派の女性政治家を優越した立場から評価する意識があらわになったように映る。対等と思っているなら、「おばさん」などやゆするように聞こえる表現を講演で使うだろうか。

 

 岸田首相も昨年9月の内閣改造で上川氏ら女性閣僚5人を起用した際に「女性ならではの感性、共感力を十分発揮していただくことを期待したい」などと発言し、問題視された。自民党から、わざわざ性別を強調する発言が連発される背景には、女性の起用や擁立が大きく遅れる党の旧態依然とした姿勢がある。

 

 昨年の改造の時点では女性の副大臣・政務官はゼロだった。自民党の衆参国会議員に占める女性の割合は1割超。直近の衆院選では、当選者中の女性の割合は1割未満で、参院選でも約2割だった。

 

 女性がほぼ半数の社会全体を反映し、代表する政党とは言いがたい。昨年、「10年で国政女性議員比率30%」を目標にしたが、こうした指導者の下では本気度が疑われる。

 

 しかも麻生氏は、これまで2人の女性の外相がいたのに、「女性が日本の外務大臣になった例は過去にないと思う」と誤認している。政治家としての基本的な認識があるかさえ疑問だ。

 

 麻生氏には、ナチスを引き合いに「あの手口に学んだらどうか」など、国際社会ではおよそ容認されない発言もある。今回も党内で問題視する動きは見えない。背景には、麻生氏が多数の国会議員を従える麻生派トップとして、政権運営に強い影響力を持ってきた派閥政治の構造がある。

 

 ゆゆしき発言をしても放任されるとしたら、自民党の自浄能力はおよそ期待できないことになる。党の体質そのものが問われている。

 

  • (2)【毎日社説】麻生氏の発言と自民 女性蔑視放置する無責任

麻生氏発言と自民 女性蔑視放置する無責任

 

 

https://mainichi.jp/articles/20240204/ddm/005/070/054000c

 

注目の連載

オピニオン

 

朝刊政治面

毎日新聞

2024/2/4 東京朝刊

864文字

自民党役員会に臨む麻生太郎副総裁=国会内で2024年1月29日午後4時58分、竹内幹撮影

 女性蔑視発言について、謝罪もしなければ、誰も注意しようともしない。人権感覚に乏しく、女性の社会進出に不寛容な党だと見なされても仕方ない。

 

 自民党の麻生太郎副総裁が、福岡県芦屋町での講演で、上川陽子外相について「俺たちから見てても、このおばさんやるねえ」「そんなに美しい方とは言わんけど」と述べた。外相としての手腕を評価する発言だったが、性別も年齢も容姿も仕事には関係ない。

 

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 麻生氏は5日後にようやく、撤回するとのコメントを事務所名で出した。「表現に不適切な点があったことは否めない」としているが、謝罪の言葉はない。

 

閣議のため首相官邸に入る上川陽子外相=東京都千代田区で2024年2月2日午前8時52分、竹内幹撮影

 今回の発言からは、多数派の男性政治家による女性政治家への「上から目線」が感じられる。外相は女性の仕事ではないという偏見や、女性政治家を対等な存在として扱いたくないという「男性優位」の意識が、透けて見える。

 

 

 容姿に触れた発言は、人を見た目で判断するルッキズム(外見至上主義)という差別に当たる。

 

 民間企業なら、責任を問われるケースだ。政治家だけが懲罰を受けず、社会の常識とかけ離れているように映る。会場では、笑い声が出たが、言動を許容していると受け取られかねない。

 

 上川氏は「さまざまな意見や声があることは承知しているが、どのような声もありがたく受け止めている」と問題視しない姿勢を示した。だが本来、差別発言に抗議できないような社会はおかしい。

 

 

 麻生氏はこれまでも問題発言を繰り返してきた。2019年の講演では、少子高齢化を巡り「子どもを産まなかったほうが問題だ」と語り、撤回に追い込まれた。

 

 政治家の意識改革が必要だ。

 

 日本は世界的に見て男女格差が大きい。とりわけ政治分野が深刻で、自民党の取り組みの遅れが目立つ。

 

 岸田文雄首相は、一般論として「性別や立場を問わず、年齢や容姿をやゆし、相手を不快にさせるような発言をすることを慎むべきだ」と国会で答弁しただけだ。

 

 

 問題を放置せず、党総裁として麻生氏に厳重注意し、党の体質改革につなげるべきだ。このままでは、日本の政治は世界の潮流からますます取り残されてしまう。

 

  • (3)当人は、気にして無くても、「気にしろ!」と。げに恐るべき、思考統制。

 先ず、上掲①朝日&②毎日社説から、麻生太郎副首相が何と発言したかを、拾っていこう。本当はこういうときは「発言全文」とその状況詳細もあった方が良いのだが、上掲両紙社説からだけで拾っていくと・・・

①1> 「そんなに美しい方とは言わんけれども、
①2> 英語できちんと話をし、
①3> 外交官の手を借りずに自分でどんどん会うべき人に予約を取っちゃう」

①4> 「俺たちから見てても、このおばさんやるねえと思った」

②1> 「俺たちから見てても、このおばさんやるねえ」

②2> 「そんなに美しい方とは言わんけど」


・・・何というか、「我が目を疑う」とは、この事だな。コレが、「女性蔑視発言」とされて、現職の副首相を、

①5>  ゆゆしき発言をしても放任されるとしたら、
①6> 自民党の自浄能力はおよそ期待できないことになる。
①7> 党の体質そのものが問われている。

②3> 党総裁として麻生氏に厳重注意し、党の体質改善につなげるべきだ。


と、更迭しろと言わんばかりに非難している」上、「自民党の体質改善」さえ要求されているのである。朝日&毎日両紙が、新聞社としての公式公的な意見表明である社説で、だ。

 目糞 対 鼻糞 ぐらいの低レベルの争いだが、上掲朝日社説と毎日社説を比較するならば、毎日社説の方が「麻生副首相の発言をより細分化した断片だけ取り上げている」点と、「ハッキリと、首相からの厳重注意と党の体質改善を要求している」点で、「より悪質である」と言えそうではある。まあ、比較の問題で、目糞と鼻糞の差、だけどな。「自民党の体質」は、朝日の方も疑問視している訳だし。

 しっかし、毎日社説が求める「自民党の体質改善」ってのがどんなモノかと想像すると、空恐ろしいモノがあるのも事実だ。その点、朝日が言う「自民党の自浄能力」ってのも、似たようなモノで、婉曲表現になっている、と言うだけだが。

 改めて上掲両紙社説から、麻生太郎副首相の「女性蔑視発言を再現すると、以下の通りである。

(1) 「俺たちから見てても、このおばさんやるねぇと思った」

(2) 「そんなに美しい方とは言わんけれども、英語できちんと話をし、外交官の手を借りずに自分でどんどん会うべき人に予約を取っちゃう」


 上掲朝日社説と順番を入れ替えたのは、上掲朝日社説によると、時系列としてこの前後関係はこの様であったらしいから。尤も、上記(1)と(2)の間に幾つのセンテンスが入ったのか、全く無かったのか、等は不明だ。 
 そんなことを態々書くのは、「大抵の発言は、切り取って前後の文脈や状況から切り離すことで、問題発言化し得る」から。またその一方で、チョイと検索かけたぐらいでは、今回の麻生太郎氏「女性蔑視発言の全文」が出て来なかったから。随分前の森喜郎氏の女性蔑視発言全文は出て来るんだけどな。
 
 で、上記(1)では「おばさん」と表現したことが、上記(2)では「美しい方とは言わん」と表現したことが、「女性蔑視発言」とされた根拠・論拠なのだから・・・力が抜けるったらないな。

 先ず基本的事実確認から行こう。上記(1)から(2)の麻生副首相発言は、上川外相について言及した発言である。つまり、上記(1)から(2)の発言を「女性蔑視発言」とするならば、「蔑視された女性」とは、上川外相以外の誰でもあり得ない。

 ではあるが、上記(1)から(2)の発言は、縦から見ようが横から見ようが(*1)、「上川外相を、褒めている」のである。 
 「何を当たり前のことを」と思われるかも知れないが、上掲毎日社説のように「発言の一部だけ切り出して引用した」記事では、その「当たり前のこと」すら、判らないのである。上記②1>及び上記②2>の引用だけで、「麻生副首相は、上川外相を、褒めている」とは、判りようが無い。
 
 で、頭冷やして考えていただきたいのだが、「褒めながら蔑視する」ってのは、かなりの難事だ。不可能とは言わないが、随分と面倒臭くも捻くれている。上記(1)から(2)という麻生副首相の発言を「女性蔑視発言」と断定できるヤツバラは、そんな面倒臭い事を、いとも易々とやってのけている(乃至、「やれると思っている」)、筈だ。
 
 ああ、毎日新聞が引用したような上記②1>と上記②2>の「麻生副首相発言の断片」だけで「女性蔑視発言」と断定断言してしまうような奴ぁ、論外だ。底抜けの大間抜けのオッチョコチョイで、「気違い」と呼んで差し支えないレベルで、話にならない。上掲毎日社説を社説として公開できてしまう毎日新聞が、底抜けの間抜けでオッチョコチョイで気違いである可能性も、ありそうではあるが。
 
 で、少なくとも上記(1)から(2)の麻生副首相発言を承知で、当該発言を「褒めながら蔑視している」と断定断言し、当該発言を「女性蔑視発言」と考えて居る輩には、更に続けてお尋ねしよう。

 「上川外相は、”おばさんではない”し、”美しい”のかね?」

 無論、「おばさん」って判断基準は人に依るだろうし、「美しい」って判断基準はもっと人に依る。世の中には「上川外相は絶世の美女で、理想の女性だ!」って人もあるだろう。

 だが、世の中は、そんな人ばかりでは無い。

 「冷厳冷徹な事実」って程大仰なモノでは無いが、上川外相は「おばさん」と考える人間も、「美しいとは言えない」と感じる人間も、少なくとも一定数居る。たとえその様に考え、感じる人が「圧倒的少数である」としても、それが異常とも異様とも異端とも思えなければ、況んや「女性蔑視」などとは、私(ZERO)には全く思えない。

 いや、それどころか、上川外相は”おばさんではない”し、”美しい”と思え!」という主張がある種の「女性礼賛」とは言い得ようが、それは同時にトンデモナイ思想統制であり、内心の自由を「侵す」どころか「粉砕している」。1984の真理省も思想警察も、裸足で逃げ出すぞ。

 そればかりではないだろう。「上川外相は”おばさんではない”し、”美しい”と思え!」という主張は、突き詰めれば如何なる女性に対しても、”おばさん”とも”美しくない”とも思うな!って主張になるだろう。ここまで来ると最早「女性礼賛」と言うより「女性独裁」と言いたくなるな。

 で、朝日新聞と毎日新聞、世に溢れかえって居るらしい「麻生副首相の"女性蔑視"発言糾弾者」共に、敢えて問おうでは無いか。諸氏らは「如何なる女性に対しても、”おばさん”とも”美しくない”とも思うな!」って主張に、賛同し、実践・実行するのか、と。

 私(ZERO)は、御免被る。

 私(ZERO)が感じる女性の美醜も、「おばさん」も、私(ZERO)が決めることだ。私(ZERO)がそう感じ、考えたとて、「女性蔑視」なんぞに、されてたまるモノか。

 況んや、私(ZERO)が感じる美醜を、他人に強制されるなんざ、真っ平だ。

①7>  仕事ぶりを評する際に外見に触れる必要は全くなく
①8> 一般社会でも決して許されない。

 
と、上掲朝日社説は断定断言しているが、「仕事ぶりを評する際に外見に触れる」事が禁じられているなんて初耳だし、「一般社会でも決して許されない。」って一体何処の「一般社会」なんだぁ?朝日新聞社内かぁ??

 私(ZERO)が承知している我が国の「一般社会」では、「仕事ぶりを評する際に外見に触れる」事が推奨されては居ないかも知れないが、許容されては居るし、「おばさん」も居れば、「おじさん」も居る。その様に評され、呼ばれて、気分を害する人もそりゃあるだろうが、差別だぁぁぁぁ!!蔑視だぁぁっ!!!」と騒ぐ奴ぁ、そうは居ない(*2)。

 従って、私(ZERO)が承知している「我が国の一般社会の通念」に従って、麻生副首相の発言は、「女性蔑視と断定断言すべきモノでも、糾弾すべきモノでも無い。」のであり、「禁じる」何ざぁ、正気の沙汰ではない。

 その様な断定断言は、表現の自由、言論の自由、ひいては内心の自由をも蹂躙しかねない、デストピアへの、少なくとも入口である。

  • <注記>
  • (*1) ああ、上掲毎日社説がやったように「ごく一部分だけ切り取る」ならば、話は別だ。 
  •  
  • (*2) 一定数は居るのだろう。辻元清美とか。 
     
  • バカバカしい。国家あっての、五輪だろう。-【毎日社説】越える'24 五輪と平和の理念 国家のくびきを脱する道を


 以前にも書いたが、所謂「戦後平和教育」の最大の弊害は、「国家意識の欠如(*1)」であり、その延長上に「国防意識の欠如」がある、と、私(ZERO)は考えて居る。そんな「戦後平和教育」の元凶は、遡れば「日本国憲法」であり、占領軍GHQの日本統治政策である、とも考えており、それ故に「アカ新聞共とは相性抜群」・・・と言うよりは、「日本国憲法」にせよ、「占領軍GHQの日本統治政策」にせよ、積極的にその手先となりお先棒を担いだのは、「戦前戦中の”過ち”を反省した」アカ新聞共であり、未だに手先・お先棒担ぎである(*2)のだから、アカ新聞共に「国家意識の欠如」や「国防意識の欠如」が見られるのは、「理の当然」と言うべきだろう。

 そうは言っても、かかる暴論愚論は、一寸看過しかねるぞ。

  • <注記>
  • (*1) もっと言えば、「国家敵視の洗脳」である。 
  •  
  • (*2) 「日本国憲法」は未だ在るものの、GHQ何ざぁ無くなってから久しいのだから、今となっては「それ以外の要因」が在るモノと、考えるべきであろうな。 

 

  • (1)【毎日社説】越える'24 五輪と平和の理念 国家のくびきを脱する道を

  •  

     

    https://mainichi.jp/articles/20240110/ddm/005/070/086000c

     

    注目の連載 

    オピニオン

     

    朝刊政治面

    毎日新聞 2024/1/10 東京朝刊 English version 1648文字

    死亡したイスラエル選手、役員の追悼式に出席した各国の選手ら=ミュンヘンのオリンピックスタジアムで1972年9月6日、真島誠一撮影

     今夏のパリ・オリンピック開幕まで半年余りと迫った。二つの戦争が世界を分断し、「平和の祭典」に暗い影を落としている。

     

    モスクワ五輪不参加を挙手採決で決めるJOC臨時総会。

     ロシアによるウクライナ侵攻と、イスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘は、停戦への糸口が見えない。ウクライナやパレスチナ自治区ガザ地区の住民は、戦禍に苦しんでいる。

     

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    柔道混合団体に出場したジャバド・マハジョーブ(手前)ら難民選手団=日本武道館で2021年7月31日、徳野仁子撮影

     五輪開催を巡って物議を醸しているのは、ロシアと同盟国ベラルーシの選手の参加問題だ。

     

     国際オリンピック委員会(IOC)は、積極的に侵攻を支持しないなど「中立」の立場を条件に、両国選手の個人資格での参加を容認する。しかし、ウクライナは「無責任な決定を強く非難する」と反発している。

     

     イスラエルとパレスチナの選手についても、今後、国際的な議論が起きる可能性がある。

     

    異例の投票で休戦決議

     昨年11月下旬、大会中の紛争停止を呼び掛ける「五輪休戦」の決議案を、開催国フランスが国連総会に提出した。

     

     

     議場の総意で採択されるのが慣例だったが、ロシアが異を唱えたため、投票に持ち込まれた。

     

     採決に先立ち、ロシアの代表は「五輪休戦をいつも支持してきたが、ロシアの選手たちは国際競技会から不法に排除されている」と抗議し、棄権した。

     

     結局、118カ国の賛成で決議案は採択された。ガザへの攻撃を続けるイスラエルも賛成し、反対はゼロだった。

     

     

     ただ、異例の投票となったことは、五輪が追求する「平和の理念」が、国際情勢の混乱によって揺らいでいることを示している。

     

     世界の注目が集まる大舞台だけに、大国の政治に利用され、翻弄(ほんろう)されてきた歴史がある。

     

     1936年ベルリン五輪はナチスの宣伝に利用された。東西両陣営が対立した冷戦時代には、旧ソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけに、80年モスクワ、84年ロサンゼルス両五輪でボイコットの応酬となった。

     

     

     テロの標的にもされた。72年ミュンヘン五輪では、パレスチナの武装組織「黒い9月」がイスラエル選手団を襲撃し、選手・コーチ11人を含む17人もの死者が出た。

     

     スポーツは本来、個人の自由な活動だ。欧州のサッカーリーグに代表されるように、今は実力あるプロ選手が国境を超えて活躍する。グローバル化に適応して発展してきたといえる。

     

     国家の枠組みにとらわれてきた五輪も、古い時代のシステムからの変革が求められている。

     

     参考にしたいのは、2010年から始まったユース五輪の取り組みだ。現在、15~18歳を対象に世界各国の選手が集まり、若者の教育や交流を目的に夏と冬の大会が交互に行われている。

     

    国籍混合チームの試み

     多くの競技の団体種目では、国籍混合のチームを臨時に編成する方式が採用されている。国家の枠を取り払って五輪旗の下にチームを組むことで、各国選手の友好を深める狙いがある。

     

     五輪でも3年前の東京大会では、紛争などで母国を逃れた選手たちが「難民選手団」として柔道の団体戦にも出場した。

     

     政治と距離を置き、平和の理念を掲げ続けるには、こうした試みを広げていくべきだ。「国家」のくびきを脱する努力と知恵が必要である。

     

     スポーツには国境を超えて人々をつなぐ力がある。選手同士の触れ合いが国際関係の緊張を和らげることもあるだろう。それこそが五輪のあるべき姿ではないか。

     

     パリでの開催は100年ぶり3度目となる。近代オリンピックの創始者、ピエール・ド・クーベルタンの故郷であり、IOCが設立された場所でもある。

     

     「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍などさまざまな差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」

     

     クーベルタンの提唱したオリンピズム(五輪精神)である。五輪憲章にも「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明示されている。

     

     対立が深まり、戦火の絶えない時代である。だからこそ、五輪の理念を実現する取り組みが求められる。参加するアスリートだけでなく、その活躍を目にする世界の人々が平和の尊さを考える機会にしなければならない。

 

  • (2)一言で言えば「国家の否定」であり、「寝言」。

 ああ、そうか。何か思い出させるモノがあると思ったら、ジョン・レノンの「イマジン」だ。各個人のみがあり、国家が無くなれば、戦争もなくなって、平和になる。って「発想」というか「妄想」。ある種の「無政府主義」でもあれば、またある種の「世界市民(コスモポリタン)思想」でもある。アカ新聞とは相性抜群だな。

 まあ、「アカ新聞共と相性抜群」であることも含めて、「殆ど生まれながらの右翼」たる私(ZERO)に言わせれば、「胡散臭さ全開」なんだが。
 上掲毎日社説では、五輪の「平和主義的理念/理想」を強調しているが、五輪のもう一つの理念/理想として「アマチュアリズム」・・・と言うより「反商業主義」がある/あった、筈だ。五輪自体がその放映権などを巡って「商業主義の権化」のような利権の塊と化した今日ではあるが、元々/本来の近代五輪は「プロスポーツに対するアンチテーゼ」として発足している。
 

 で、「アマチュアリズム」ってだけならば、上掲毎日社説の様な個人同士の、国家に関係の無い、スポーツの祭典」ってある種の「理想」につながりそうであるが、そうは行かない。五輪は「世界的行事」であり、前回ならば東京、今回ならばパリまで、五輪選手は往復し、宿泊し、飲み食いしなければならない。無論「アマチュアの選手でもそれぐらいの財力はある」事も多かろうが(特に富裕な先進国では。)、そうでない国は幾らもある。


 言い替えようか。五輪が「世界五輪」であり、且つ「アマチュアスポーツの祭典」であろうとする限り、「国家による五輪選手支援」がなければ成立しない。そうした国の五輪選手は当然、祖国という国家/国旗を背負って五輪に出場する。
 であるならば、少なくとも「世界五輪且つアマチュアスポーツの祭典たる五輪は、国家及び国家間の争いと、無縁な訳がない。」何故ならば、その様な五輪は「国家による五輪選手支援」を必要不可欠としているからであり、且つ「国家(少なくとも近代国家)にとっては、国家間の争いの方が五輪より優先するから」だ。

 逆に言えば、「国家観の争いと無縁な五輪」は「先進国の富裕層を中心とした五輪」ならば、未だ成立のしようがあるだろう。実際、近代五輪の初期の頃は、未だ西欧列強の植民地支配華やかなりし時代であり、半ば(以上)「貴族の趣味としての五輪」的傾向があり、「国家観の争い」との相関は「第2次大戦後の近代五輪」とは少々異なって居たろう。

 それでも、第1次世界大戦という「主として西欧列強同士の戦争」は、近代五輪開催を中止させた史実/事実を忘れるべきではない。

 ま、早い話が、章題にもした通り、「国家観の争いと無縁な五輪」と言うのは、「平和を愛する諸国民」並みの「寝言」と言うことだ。