ある調査研究発表会に参加した。
その時、聴衆の質問に対して、尊敬するある研究家が「北条は滅びる運命にあった」と答えた。
ある「現象」があれば、その現象が起こる「要因」は必ずあるのではないか。
歴史というのは「現象」の連続である。
「滅亡」というマイナスな現象があったのなら、その要因を考察し検証することが、
歴史研究に対する社会の要請ではないだろうか。
そうした社会の要請を考えない研究は、小中学生がやっている「調べ学習」と大して変わらない。
「トリビア」的な「新発見」がもてはやされているように思えるが、
そんなことは、正直どうでもいいのでは。
それまで、関東を制圧しようとしていた大北条が「滅びた」ことは事実。
(いや、狭山藩として続いた、という考え方もあるが、 わずか1万石という規模)
(それを言っていいなら、劣勢だった太田道灌の後裔は幕閣となり、完全に北条を逆転している)
「北条は滅びる運命にあった」
社会の要請に応える研究のためにも、「史料の保存」は大切だ。
これをやってくださったことに敬意を表する。
しかし、私たちはとても貧しい。
帰り際、石灰で真っ白になっているあの山を見た。
朝、南こうせつ氏と石川さゆり氏の「二人のビッグショー」
なんとなく朝見ていた。
そして、「神田川」。
銭湯からからいつも「あなた」よりはやく出ていた「私」。
「私」は、「あなた」が冷たくならないように、
本当はいつも、少し早めに、と出ていたのだろうか。
そして、「祭りのあと」と、
そして、デビューの時の
エンジェルハットのさゆり。
さゆりが勝ったね。
太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」
すごくいい歌だと思っていた。
「恋人よ」で始まるけれど、「僕は旅立つ」
彼は、「東」おそらく東京へ行ってしまったのだ。
華やいだ街で、「君への贈り物を探すつもり」と。
愛する彼女への贈り物もぱっと見つからないほどに、
東京は華やかだったのだろうか。
彼女は気づいたのか。
「いいえ、欲しいものなどない」
と答えた。う~ん。
ネットなどない時代。
彼は手紙を書いて来た。
手紙には、スーツを着た自分の写真を入れて。
「恋人よ」と。「スーツ着た僕の写真を見てくれ」と。
けれども彼女は、またもや「いいえ」と。
そして「木枯らしのビル街、体に気をつけてね」と。
若いころの私は「都会とはなんと味気なく厳しいところなのだろう、
そんなところにいずに、彼女と田舎で暮らせばいいのに」
と無邪気に考えていた。
そうじゃあないのだ。
都会は本当に楽しい。
たかが池袋(に勤めています)であっても、本当に楽しいのだ。
今日は昼、どこかの新入社員が「先輩俺アイス買っちゃった」と、
騒いでいた。
(そういう楽しさじゃないかもしれないが)
彼は、「すごいね」と、言ってもほしかっただろう。
彼女の田舎に何があるのか。親とか学校の友達とか。
だけどそんなのより、「彼」の方が大事じゃないのか。
「やっぱ東京来ちゃった」
でよかったのではないか。
彼のお部屋に飛び込んでよかったのではないか。
「つもり」が気にはなるけれども…。
やらなければならない、なんてことは無いのかも。
そうではなくて、やりたいのです。
失敗もあり、
人望もないなか、
あるのは、
「アイディア」。
輝くような、
「アイディア」。
みんなに惜しみなく、
与えてきたつもりです。
けれども無くなったりしない。
それは、無限に出てくるから。
生きていく中で。
ここは国際問題に発展するかもしれないので、
イニシャルでお話しさせていただきます…。
不倫略奪婚で世界的ヒールだったC夫人。
「皇太子妃にはならないし、将来も王妃ではなく国王夫人で」
ということでした。
あまりよく知らないし、私もあまり好きな人ではなかったのですが、
(D皇太子妃も好きではない)
現国王Cと結婚されてから、
TVなどで観る限り、
現国王Cの表情がとても明るくなり、
ほっぺが真っ赤で、太り、
「やはり結婚によって幸せになったのではないか」
と感じるようにもなりました。
慈善活動なども熱心にしているということです。
しかし、それだけでは、彼女は「王妃」にはなれなかったかもしれません。
ところが突然、彼女以上の「ヒール」「嫌われ者」が登場したのです。
前皇太子妃の息子H王子夫妻です。
王室を自ら去ろうとする彼らに対して、
現国王夫妻は「ジーンズ」をはいた写真を発表。
それは夫妻が彼らの「海外移住」を支持しているという意味なのだ、
と解説では語られていました。
……
そして、女王が崩御され、
現国王の治世がやってきました。
その前に女王は、今年の2月に
「C夫人が王妃と呼ばれることを望んでいる」
と発表していました。
それからわずか、7か月。
ちむどんどん。
色々ありましたが、時々見ていました。
イタリア料理のフォンターナで修業したのに、
沖縄料理の店を開業、
しかも妊娠しているのに、
とか、
変な展開は感じていました。
しかしフォンターナの主人は、無邪気な主人公に寛容です。
妊娠中に、新しくお店をやるのは無理だと
開業を伸ばして、フォンターナの経理をやることをすすめてもくれます。
けれども「ちむどんどん」と、
フォンターナの主人が悪いようなことを言って開店します。
つわり一つなく、
いつの間にか沖縄の妹が来て、
(沖縄の人は、なぜかすぐ来て助けてくれる)
夫も寛容で、開店します。
おめでとうございます。
そして主人公と夫は、子供を連れて沖縄移住へ。
一人息子が沖縄に行くことになって、
「さようなら」と言う、義理の母、重子さん。
そして最終回。
重い病気になった妹。
主人公とお兄さんが海に叫びます。
それから、40年後、
いきなり白髪になった妹が登場し、
「あれから、風邪一つひいてない」と。
海に叫んだことで奇跡が起こって病気が治り、
それから「風邪一つひいていない」と。
そういうことなのでしょうか。
そういう幸運に、主人公兄弟たちは恵まれている。
このドラマの沖縄の人たちは、仲間と親族に囲まれ、
謎の幸運に輝いている。
うらやましい世界。
けれど、東京にいる重子さんはどうなのだろう。
一人ぽっちで、孫にもほとんど会えないけど、
誰も気にもしていない。
中原中也が好きだという、繊細な重子さん。
大切なオルゴールをお兄さんに壊されても、怒ったりはしなかった。
「さようなら」っていう言葉を聞いた時、
胸が締め付けられ、苦しかった。どうしてこの人は、脇役なのか、と。
だけど、重子さんには腹心のお手伝いさんもいる。
うるさい親戚はいなくても、どんなときにも、詩の一節が重子さんを助けるだろう。
すごーくいい職場に転勤したのです。
4月からなんですけどね。
何十年かぶりに電車通勤。
頑張って通っていて、少し長い夏休み。
なので、どこからか、全く分からないのですが、
とうとうコロナになってしまいました。
38度熱が出て、のどが痛く。
漢方薬ももらいました。
3日目くらいから熱も下がり、少し元気に。
けれど、やっぱりまだふらふら。
気づくと寝ていました。
一週間の自宅療養が終わって。
とっても寝てました。
寝るって、すばらしい。
自分を引き立ててくれた竹御所を亡くし、
鎌倉に出てきた比企能本。
その頃、鎌倉には新仏教が興隆し始めていました。
「探訪 比企一族」(まつやま書房)には、
「そして能本は鎌倉で日蓮に出会うのである」
「もし建長六年に二人が逢っていれば日蓮は三十二歳、比企能本は二十歳上の五十二歳である」
と書かれています。
能本は若き日蓮に深く帰依し「比企一族の菩提を弔ってくれるのはこの聖人しかいない」
と、比企ヶ谷に自分が建立した寺をまるごと日蓮に寄進したのです。
それが今も残る、妙本寺なのです。
北条家は建長4年には鎌倉大仏、建長5年には建長寺を建立しているので、
もしかしたら、比企能本には、かつての
同朋北条に対する抵抗の気持ちもあったのかもしれない、
と思いますが、どうでしょうか。
日蓮は、やがて書きあげた「立正安国論」を真っ先に能本に示した、ともいわれています。
比企一族の無念と、能本の心をよく分かっていたのだと思います。
その後の、能本のことは筆者には不勉強でよく分からない。
分かっていることは、能本は弘安9年(1286年)85歳まで生きた(日蓮より長生き)ということ。
そして、絶対的権力者だった北条は、能本の死からわずか47年後の正慶2年/元弘3年(1333年)に滅亡したということ。
最後は、妙本寺の隣(のように思いますが、違うのでしょうか)東勝寺に北条一族800人あまりがたてこもったと。
あまりにも「比企一族の最後」に似ていて、怖かったのです。
「因果応報」という言葉が浮かびました。
突然ですが。
皆様、「鎌倉殿の13人」は見ておられますか?
草笛光子さんの「比企尼」。
おそらくずっと筆者の心に残ると思います。
先週の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、
比企能員が殺害され、二代将軍頼家の子一幡君も殺害され、
比企一族が滅亡しました。
「吾妻鑑」では建仁3年(1203年)9月2日のことと言われているそうです。
(たった一日で??)と私も思うものの、
ここでは「吾妻鑑」の記述に従ってみようと思います。
しかし、この時、能員の2歳の男の子と頼家の娘竹御所が助かったとされています。
この男の子こそが、比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)。
「探訪比企一族」(まつやま書房)によると、
この能本は、房総の安房(和田義盛の領地)か四国の安房かで育ち、
一度は出家したものの、還俗して儒者となったということです。
しかし、29歳の時、竹御所が4代将軍頼経の妻になることになり、比企郡の郡司となります。
比企の家は郡司として復活するのです。
けれども、竹御所は婚姻してわずか4年で亡くなってしまいます。
「役人である限り、北条氏の下で働かざるを得ない」
「それを快く思わなかった比企能本は、比企の郡司をやめて鎌倉に戻り、元の儒者として生活していた」(「探訪比企一族」p157より)
とありますが、
北条からすれば、自ら滅ぼした比企氏の復活がうれしいはずがありません。
竹御所亡き後、圧迫もあったのでしょう。
そして、鎌倉に出た能本は、日蓮に出会うのです。