自分を引き立ててくれた竹御所を亡くし、
鎌倉に出てきた比企能本。
その頃、鎌倉には新仏教が興隆し始めていました。
「探訪 比企一族」(まつやま書房)には、
「そして能本は鎌倉で日蓮に出会うのである」
「もし建長六年に二人が逢っていれば日蓮は三十二歳、比企能本は二十歳上の五十二歳である」
と書かれています。
能本は若き日蓮に深く帰依し「比企一族の菩提を弔ってくれるのはこの聖人しかいない」
と、比企ヶ谷に自分が建立した寺をまるごと日蓮に寄進したのです。
それが今も残る、妙本寺なのです。
北条家は建長4年には鎌倉大仏、建長5年には建長寺を建立しているので、
もしかしたら、比企能本には、かつての
同朋北条に対する抵抗の気持ちもあったのかもしれない、
と思いますが、どうでしょうか。
日蓮は、やがて書きあげた「立正安国論」を真っ先に能本に示した、ともいわれています。
比企一族の無念と、能本の心をよく分かっていたのだと思います。
その後の、能本のことは筆者には不勉強でよく分からない。
分かっていることは、能本は弘安9年(1286年)85歳まで生きた(日蓮より長生き)ということ。
そして、絶対的権力者だった北条は、能本の死からわずか47年後の正慶2年/元弘3年(1333年)に滅亡したということ。
最後は、妙本寺の隣(のように思いますが、違うのでしょうか)東勝寺に北条一族800人あまりがたてこもったと。
あまりにも「比企一族の最後」に似ていて、怖かったのです。
「因果応報」という言葉が浮かびました。