玄倉川水難事故。一部で「DQNの川流れ(ドキュンの川流れ)」と揶揄されるこの事故は、1999年(平成11年)8月14日に神奈川県の玄倉川(くろくらがわ)で発生した水難事故です。
警告を無視してキャンプを続けた結果、増水した川に流された13人が命を落とした悲惨な事故ですが、ネットでは「被害者の言動があまりにも酷かった」として以下のような噂が飛び交っており、事故から27年が経過した現在でも非難の声があがっています。
①避難警告を無視して中州に留まり続けた。
②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。
③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。
④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。
⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。
例えばこのような動画が多く見受けられます。
⇒【実話】世界一同情できない...「玄倉川水難事故」。避難勧告を再三無視して...18人中13人が死亡。
まずはこのような動画を観ておいていただくと、この後の話を理解しやすくなると思います。
この事故はどんな事故だったのか。
ネットの噂は本当なのか。
確認してまいります。
1、事故の概要
事故のあった玄倉川は神奈川県足柄上郡山北町の玄倉地区を流れる川。
「丹沢の秘境」と呼ばれるユーシン渓谷など自然の豊かな土地であり、最近では鮮やかな青色をしている玄倉ダムの貯水が「ユーシンブルー」の名前で知名度が上がり、山北町の観光資源となってます。
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x2b/yushinblue.html
https://www.yamakita.net/sightseeing/detail.php?id=26
山間部にある玄倉川は一見穏やかであっても短時間で増水しやすく、今回の事故の5年前にも同じような状況で河川敷に取り残された女児が水死する事故が起きていました。特に中州(※)は危険な場所とされており、今回の事故はまさにそれが原因だったと言えます。
※中州:川の流れで運ばれてきた砂などが堆積してできた、川の中にある陸地。急な増水や鉄砲水の危険性が非常に高い中州は、キャンプを行う場所に選ぶのは厳禁。草木のない平坦な中州はキャンプに向いているように見えるが、それは頻繁に水没する場所であることを示唆しており、事故のあった玄倉川の中州はその典型だった。
そんな玄倉川で今回の事故が発生したのは1999年8月14日。
お盆休みを利用して前日から玄倉川の中州でキャンプをしていた方々が、増水した川の濁流に流されて子供を含めた13人が命を落とすという、あまりにも悲惨な事故に見舞われたのです。
事故に遭われた方々がキャンプをしていた付近の川幅は100m程で、岸から中州までの距離は70mほど。河川敷の反対岸は山になっていて、中州は“通常時”であれば山と繋がってました。中州自体の大きさは不明ですが、テントが5つ設置されたという記事がありましたので、それなりの大きさだったことが伺えます。
また、中州から50~60mほど下流に砂防堰堤(※)の「立間堰堤」がありました。
※堰堤(えんてい):土石流や土砂の流出を抑制して下流の地域を災害から守るコンクリートや鋼鉄製の構造物。透過型と不透過型があり、事故現場近くの「立間堰堤」は不透過型で、人工の小さな滝のような見た目。
参考画像:立山砂防事務所「砂防堰堤の役割」
実際の「立間堰堤」はこちら。
幅は37m、高さは4.7m。人工の「小さな滝」とは言っても、濁流に飲み込まれてこの高さから落ちたら、人間はどうしようもないでしょう。
参考画像:神奈川県「不透過型砂防堰堤の整備事例」
当日は熱帯低気圧の発生による悪天候が前々日の段階で予想されてました。
事故が発生した8月14日の前日、8月13日の15時くらいから降り出した雨の最終的な雨量は【349mm/29時間】。一年に1,2回起こる程度の雨で、大雨ではありますが特段珍しい程の雨量ではなかったとされてます。
とは言うものの、この日は神奈川県内だけでも玄倉川以外で複数の水難事故(※)が発生したことを踏まえると、相応の雨量であったことは伺えます。
※複数の水難事故:8月14日は神奈川県内だけでも本件以外で水難事故が複数発生している。以下は神奈川新聞1999年8月15日に記載されたもの。玄倉川の備考に「3人救出中」とあるが実際の要救助者は4名。新聞発行の時点では3名しか見つかっていなかった。
現場付近は正規のキャンプ場ではありませんでしたが、設備の整った丹沢湖のキャンプ場が近くにあるため、整備されていない自然を楽しみつつも、必要に応じてキャンプ場の設備も利用できる場所でした。
玄倉川で水難事故に遭った18名は、総勢25名の大人数のグループのメンバー。ここではこのグループを『中州グループ』と呼称することにします。この日の現場付近には数多くのキャンプ客がいましたが、中州でキャンプをしていたのは彼らだけでした。
中州グループは横浜市の廃棄物処理会社(現存する企業のため名前は伏せます)に勤める社員とその関係者で構成されており、お盆休みにこの場所でキャンプを行うのが恒例で、この年は8月13日~8月16日がお盆休みだったとのこと。
実は事故が発生した中州では前年にもテントが流される事故が発生した場所で、加えて彼ら自身も増水した川の水がテントに流れ込んで、財布やハンドバッグなどの小物が流されるという“事故”に遭ってました。
それで増水に対して警戒心を持ってくれればよかったのですが、彼ら自身は大きな事故とならなかったことで「増水してもこの程度」と認識を持ってしまったのかもしれません。
「みんな、『まったくしょうがねえな』なんて、どこか笑い話のような気持ちでしたね」
(「現代」1999年10月号 前年のキャンプに参加した人物の証言)
それでは事故前日の8月13日からの中州グループ、およびその周辺の動きを追ってみましょう。
時刻は資料によって多少の差異がありますが、大枠としての動きは変わらないため、基本的に朝日新聞や神奈川新聞の記事を参考にすることにいたします。
また、中州グループとは関係なく、たまたま当日に玄倉川の河川敷でキャンプを行っていて今回の事故に関わることになった『Hさん』という方についても触れていきます。
Hさんは東京で会社経営をなされている鳶職の方で、毎年玄倉川にキャンプに訪れていました。彼は事故後に多くのメディアに取り上げられることになりますが、Hさんの行動については基本的に「現代」1999年10月号の情報を基に記載いたします。
≪1999年8月13日≫
■早朝4時半頃
Hさん一行(Hさん、妻、息子、娘、従業員の5人)が河川敷に到着してキャンプ開始。
■11時頃
中州グループがテントを中州に設置してキャンプ開始。まだ雨は降り始めていなかった。
Hさんの目から見た彼らのキャンプは本格的なものだった。何本ものビールサーバーやプロパンガスを持ち込んでおり、テントの上をブルーの大きなシートで覆うことで、テントとテントの間を行き来しやすいようにして、女性用のトイレテントまで用意。ペットのアライグマも連れてきていた。
「子供たちは水遊びをしていて、ペットのアライ熊と一緒に泳いだりしていましたね」
(「週刊新潮」1999年9月2日号 他のキャンプ客の証言)
■15時頃
降雨開始。まだ雨脚は強くなかったものの、玄倉ダム管理事務所の職員がハンドマイクでキャンプ客達に増水に関して1回目の警告を実施。
この時点で撤退したキャンプ客もいたが、中州グループは「ハーイ、わかりました」などと返答するも、立ち去らずにキャンプを続行。
■16:50
神奈川県全域に大雨雷洪水注意報が発令。
その後本格的に雨が降り出し、風も出てきた。
Hさん一行は河原の上の林道に停めていた車に避難。
■19時頃
中州グループで日帰り参加の予定だった4人が帰宅して、21人が残る。
■19:35
雨が強くなり、玄倉ダムから放流を知らせる警告のサイレンが3回ほど30分に渡って鳴り響く。
「その音量は、まるで耳元で鳴っているぐらい大きかった。(中略)空襲警報を連想させるような恐さでした」
(「現代」1999年10月号 Hさんの証言)
この時点で中州グループ以外のキャンプ客は全員避難。
■19:50
玄倉ダム管理事務所の職員が、再びハンドマイクなどにより2回目の警告を実施。
中州グループに直接安全な場所に移動するよう依頼するも、中州グループからの反応はなし。
危険と判断した玄倉ダム管理事務所は松田警察署に状況を通報。
■20:20
玄倉ダムが放流を開始。
玄倉ダムについて補足します。
玄倉ダムは水力発電のためのダムで規模が小さく、治水・貯水機能を持ってません。つまり「流入量≒放流量」となるこのダムでは玄倉川の増水を防ぐことは出来ません。
もし無理に玄倉ダムの放流を停止して大量の水を溜めこむと最悪ダムが決壊する可能性があり、その結果として下流の三保ダムの決壊を引き起こして小田原市などに甚大な被害をもたらしかねないという、大きすぎるリスクがありました。
以下は事故当日の雨量(1時間ごとの雨量と累計雨量)および玄倉ダムの流入・放流の水量のグラフです。
各データは「災害の研究」(災害科学研究会編、2000年3月発行)のものを使用してます。
前述の通り玄倉ダムは「流入量≒放流量」であることがわかります。
(流入量と放流量の線がほぼ重なっている)
余談になりますが、玄倉ダムは平常時においても「流入量≒放流量」で水を放出しているのに「そこから更に“放流”するとは?」と違和感を感じた方がいらっしゃるかもしれません。
簡単に説明いたしますと、玄倉ダムは流入してきた水をダムの内部で発電に利用してから放流していますが、増水して流入量が増えると発電設備で処理しきれなくなってしまいます。
そうすると水位の上昇やダム決壊の危険があるため、ゲートを開放して流入してきた水を直接放流する形に切り替えるわけです。このゲートの開放を改めて“放流”と呼んでいるのです。
要するに治水・貯水機能のないダムに関する“放流”を知らせる警告やサイレンというのは「ダムに貯め込んだ水を一気に下流に流します」という意味ではなく「放流ゲートを開放するくらい増水するから気を付けて」という意味になる……と私は理解しております。
(素人が調べた限りの説明なので、不備があったらすみません)
■20:30
ダム管理職員と松田警察署の警察官がキャンプ客にキャンプを中止するよう警告して、避難を強く勧める。
中州グループの中でも年配社員のOさん(56)を含めた3名が中州から避難したため、結果としてテントに残ったのは18人。
停めてあった車に避難してきたOさん達3人に「大丈夫ですか」と声をかけたのは、既に避難していたHさん。
OさんはHさんに「ここで番をしているんだ」と応えると、車(トラック)のヘッドライトを中州に向けて照らして、仲間がいつ戻ってもいいように足元を明るくしておいた。(「現代」1999年10月号)
この時点でテントに残っていた中州グループ18人が水難事故に遭うことになります。
Oさんが避難した際に「行こうよ、行こうよ」とメンバーに呼びかけたところ、再三の警告で不安になって避難準備を始めようとしたメンバーもいたそうですが「暗くて足元もよくわからない」「毎年こんなもの」など言葉があり、踏みとどまってしまったとのこと。
残ったメンバーは「寝ずに交代で川の様子を見張るから大丈夫」とOさんに返答したとのことでしたが、明け方には全員が寝込んでしまっていました。
テントに残ったメンバーは以下の通り。カッコは当時の年齢です。★は廃棄物処理会社の社員で、○は救助された方になります。
“Aさん兄”が重機オペレーターであり、他の方々はトラック運転手でした。
Aさん一家
○Aさん(31)★ ※グループのリーダー格と言われている
Aさん妻(27)※Bさんの妹
○Aさん長女(5)
○Aさん長男(1)※長男・次女は双子
Aさん次女(1)
Aさん兄(33)★
Bさん一家
Bさん(31)★ ※Aさん妻の兄
Bさん妻(30)
Bさん長女(9)
Bさん長男(5)
Cさん一家
Cさん(48)★
Cさん次女(9)
○Dさん(29)★
○Dさん兄(31)
Eさん(25)★
Eさん婚約者(25)※10月Eさんと結婚予定だった
Fさん(26)★
Fさん婚約者(27)※翌年Fさんと結婚予定だった(「週刊新潮」新潮社、1999年12月)
■22:45
警察官が中州グループに声をかけ、キャンプを中止して避難するよう再三勧めるが聞き入れられず。
かなり酔った状態で、注意しても“うるせえ” “警察にそんなこと言われる筋合いはない”とか、それは酷いものでした。それでなんとか宥めたら、今度は“女と子供がいるから、今、川を渡のはかえって危険だ。夜が明けたら撤去するから”と言いはじめた。
(「週刊新潮」新潮社、1999年9月 警察官の証言)
「じゃあ寝ずの番を付けるように」「万が一の際は後ろの山に逃げろ」と警察官は中州グループに告げてその場を離れた。まだこの時点では中州は山と繋がっていた。
この時、人数を確認された中州グループは「21人」と回答したとのこと。(「災害の研究」災害科学研究会、2000年3月)
実際にテントに残っていたのは18人なので、Oさん達も含めてカウントしていたものと思われる。
これだけ警告されて避難しなかったのは責められても仕方ありませんが、22時頃から雨は小ぶりになり、23時頃から約3時間は雨が止んでいたことが前述の雨量グラフからわかります。それがますます中州グループを油断させてしまったのかもしれません。
しかし残念なことに、深夜から再び雨が降り出します。
≪1999年8月14日≫
■5:35
大雨洪水警報が発令。
■6時頃
避難していたOさんがテントの様子を見に行き、避難するよう勧めたが全員熟睡していたため反応無し。
Oさんがテントを開けるとリーダー格(Aさん)が目を覚まして「大丈夫。昨日と変わりない」と返答。それを聞いたOさんは車に引き返した。
■6:30
警察官が玄倉川の現場を確認。
■7:30
警察官2人が再度巡回に。
中州グループの様子を聞かれたOさん達は「声をかけても起きない」と返答。
テントの中で中州グループは就寝中。テントまで2mの距離に水が迫っていたが、川はさほど増水はしていない状態だったため警察官はテントに声をかけることなく他の地域に移動。
※7:40頃、キャンプ客から「テントの中に居る。崖崩れの心配なし」との連絡があったとの記載(「災害の研究」災害科学研究会、2000年3月)もあるが連絡目的が不明。他の情報と矛盾もある。他のキャンプ客からの連絡?
■8時過ぎ
玄倉川に釣りに来た(でも諦めた)地元住民が中州の様子を目撃していた。
この時点で既に中州と山の間にも川の流れが出来ていて、中州は孤立状態になりつつあった。
「テントから5,6人が出て立ってました。まだ、川の水はそれほど増えているわけでもなくて、彼らも慌てている様子はなかった」
(「現代」1999年10月号 釣りにきた地元住民の証言)
■8:30
町に雨合羽を買いに行っていたHさんが戻ってくると、中州グループが立ち往生していた。
中州グループに向かって「応援の電話をしたらどうか」と言うと「電波が通じない」と答えがあったため、HさんはOさんに「通報した方がいいよ」と伝えた。
Oさんが公衆電話で「中州に大人12人子供6人が取り残されている」と消防と警察に通報。
※「助けてくれ。中州に取り残されている」という切羽詰まった携帯電話での通報が消防にあったとの報道(神奈川新聞1999年8月15日)もあるが、通報者をOさんとしている多くの他の情報と矛盾がある。Oさんによる公衆電話からの通報と混乱?
■9:07
足柄上消防隊員(救助隊)が現場到着。
救命発索銃(※)での救助を試みるために、隊員2名が対岸に移動を開始。
既に激流となっていた川を渡るのは困難だったため、下流1km地点にある橋で川を渡り、そこから現場近くの対岸まで山肌を移動することに。ただしその移動はかなり困難なものだった。
地元の人によれば、よくあんなとこ行ったなー、この前現場検証してた人は、半日くらいかかったよ、とのことだった。
(「月刊消防:「現場主義」消防総合マガジン」東京法令出版株式会社、1999年11月)
※救命発索銃:ゴム弾又は浮環弾(膨らむと浮き輪になる)を発射して、軽量で細いリードロープを遠方に飛ばしてから、リードロープを頼りに太くて強度の高いメインロープを要救助者に引き渡す救助資機材。
隊員2名が対岸に到着するまでの間、残った隊員はキャンプ客十数名の協力を得て、激流突破を試みた。
しかし隊員が川に入って3~4m進んだところで足をすくわれ水没。10人がかりで何とか引き戻した。
次に隊長自らが突破を試みたが、激流にもまれた瞬間、沈むことなく背面水上スキーのように水面を撥ねたほどの激流の凄まじさに突破を断念。
中州は完全に水没し、中州グループはビーチパラソルを川底に突き立てて水の流れに抗っていた。
Hさんは命綱を付けた状態で川に入り込んで、濁流の中で孤立してしまった中州グループに声をかけて励まし続けていた。
■10:01
中州の18人、膝上まで水につかる。
中州グループは濁流に耐えながら、腕を回してヘリコプターの要請を叫ぶなどしていた。
この頃メディアが現場に到着し、18人が濁流に残されている様子がTV中継された。
水位が膝上まで達すると通常の流れですら歩くのは困難。更には流れが速いことに加えて、中州を外れると水深が深くなることもあり、渡河は不可能。
■10:10
救助隊がヘリコプターを要請。
しかし横浜市消防局は天候不良により救助ヘリは航行不能と判断。
■10:12
対岸に向かっていた救助隊が対岸の山に到着。
しかし斜面が急のため、空き地のある上流へさらに移動。
■10:18
対岸の隊員が目標地点に到着したため、岸から救命発索銃を発射。
悪天候、切り立っている対岸の崖、茂っている枝などの悪条件が重なり、リードロープが枝に引っかかってしまい失敗。
■10:30
警察からダム管理事務所に「放流を止めて欲しい」と要請が入るが、管理事務所側は「小さいダムですから止めるわけにはいかない」と返答。
■10:36
ダム管理事務所にボートの搬送を要請。
しかし人員不足のため出艇できないと判断される。
ボートは事務所と現場の間に4か所もある堰堤を航行することは不可能で、そして陸地を人力で搬送することも困難だった。
■10:38
消防本部にボートの要請。
■10:42
中州の18人、腰まで水に漬かる
■10:44
2発目の救命発索銃発射。
対岸にロープが届くが、あまりにも強い激流に負けてリードロープが切断。
■11:00
警察からの再度の要請で玄倉ダムの放流が停止。
しかし規模が小さい玄倉ダムは5分で限界に達し、やむなく放流を再開。
■11:16
3発目の救命発索銃発射。
メインロープを救助者にかなり近づけるところまでいったが、リードロープが激流に耐えきれず切断。
■11:27
消防のゴムボートが到着。
■11:38
中州グループが濁流に耐えられなくなり、18人全員が流される。
18人はいったん対岸側の窪みに流され、対岸の岩や茂みに掴まることで4人はその場に留まれた。
窪みに留まれたのはAさんとAさん長女、Dさん兄弟。
他の14人は再び濁流に流され始めた。
神奈川新聞 1999年8月15日
■11:41
Aさん長男を抱いていたAさん兄が、とっさに岸の方にAさん長男を放り投げたことで、Aさん長男は岸に近づいた。
岸から3m先を流れるAさん長男に気付いたのは、流され始めた18人を追いかけていたHさんとその息子さん。Hさんはとっさに川に飛び込み、「手でも足でもいい」と伸ばした手がAさん長男のシャツに届いた。
Hさん自身も危うく流されそうになるも、息子さんがHさんのズボンの腰あたりをつかんで引き寄せることに成功。中州から約50m下流、堰堤までわずか10mの地点。
Hさんの奥さんがAさん長男を抱いて「大丈夫?よかったね」と声をかけると、Aさん長男は眠ってしまった。
再び濁流に流されてしまったAさん兄を含む13名は下流の堰堤を流れ落ち、岸から姿を確認できなくなり、そのまま更に下流3~4kmにある丹沢湖まで流されていった。
■11:45
丹沢湖面にて流された人々の捜索が開始。
■12:19
山北町役場と消防組合合同の現地本部を設置。
■12:25
消防が対岸の山側に3人避難しているのを確認。(実際に避難していたのは4人)
警察が陸路で対岸へ降りようとするが、最終的には増水と急斜面のため救助困難と報告。
■17:00
神奈川県、陸上自衛隊に応援要請。
■21:10
玄倉ダムの放流5分停止。
30分後、水位がやや下がる時を狙って自衛隊のレスキュー隊が川に入り中州へ到達。
■21:45
自衛隊が中州にロープを張ることに成功。
この時点で中州の水位は腰までくらい。
■22:33
自衛隊が対岸の3人の生存を声で確認。
■23:20
水位が下がらず対岸へ行けないため、自衛隊が中州から引き揚げる
■23:57
県警機動隊15人が要救助者より100m上流に到着。
救命発索銃を発射して、リードロープを張る。
≪1999年8月15日≫
■1:30
対岸にメインロープ固定。
■3:24
水位が下がらず救助不能。中州も見えず。
■3:40
消防、警察、自衛隊の計6人がメインロープを張って川を渡り始める。
■4:00
6人が被救助者より30~40m上流の右岸に到着。しかしそれ以上近づくのは困難だった。
■7:15
対岸の被救助者が男性3人子供1人であることを警察官が確認。
■8:22
自衛隊のゴムボートが要救助者の地点に到着。
■8:27~9:57
対岸の4人を救助(Aさん、Aさん長女、Dさん兄弟)。
結局この事故で救助されたのは、流された直後に救助されたAさん長男と、8月15日に救助された4人の合計5人。
それ以外の13人は下流の丹沢湖で遺体となって発見されることになります。
捜索活動は13人全員が発見された8月29日まで続けられました。
≪1999年8月15日≫
Aさん妻、Bさんの遺体発見。
≪1999年8月17日≫
Aさん兄、Eさんの遺体発見。
中州グループのメンバーが勤めていた横浜市の廃棄物処理会社のK社長が記者会見。
十三日からの悪夢のような「夏休み」が明け、仕事を再開したが、事務所玄関には「救難関係者には多大の迷惑をかけ、大変申し訳なく思う」と書かれたあいさつ文が貼られた。
(中略)
「仕事は有能だったが、大胆なところがあった。たとえ危険があっても仕事を買って出てやりこなす」
(中略)
救助された二人の社員のうちAさん(31)は、K社長に「すいません」と頭を下げた、という。
(神奈川新聞 1999年8月18日)
≪1999年8月19日≫
Bさん妻、Eさん婚約者、Cさんの遺体発見。
気象庁が『弱い熱帯低気圧』の“弱い”の表現が大雨への警戒を薄れさせる問題があるとして、表記の見直しの検討を開始。(後述)
≪1999年8月20日≫
Cさん次女、Fさんの遺体発見。
≪1999年8月21日≫
Bさん長男の遺体発見。
8月21日~8月22日の両日、捜索のために丹沢湖畔で交通規制を実施。
≪1999年8月23日≫
Bさん長女、Fさん恋人の遺体発見。
≪1999年8月25日≫
FさんとFさん恋人の葬儀が合同で執り行われる。
≪1999年8月29日≫
Aさん次女の遺体発見。
以上が玄倉川水難事故の概要となります。
改めて亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
2、事故の影響
この玄倉川水難事故をもたらした熱帯低気圧は、1999年当時における気象庁の分類では『弱い熱帯低気圧』でした。この“弱い”という表現が大雨への警戒を薄れさせる問題があるとして、気象庁では事故から5日後の8月19日には熱帯低気圧の表記を変える検討を始めました(表記の変更には防災機関の了承やコンピューターソフトの改修などの手続きが必要なため、翌年の台風シーズンに間に合うよう決定する予定)。
熱帯低気圧には台風も含まれるのですが、その分類はビューフォート風力階級で風力8(風速17.2m/秒以上。小枝が折れたり、風に向かって歩けなかったりする程度の風)以上のものを『台風』として、それ以外を『弱い熱帯低気圧』としていました。つまり、この“弱い”はあくまで風に関するものであり、『弱い熱帯低気圧』でも小型の台風より多くの雨を降らせるケースがありえたのです。
結果として、翌年2000年6月から『弱い熱帯低気圧』は“弱い”が消されて『熱帯低気圧』となり、台風についても「弱い」「並の強さ」「ごく小さい」「小型」「中型」などの曖昧な表現は廃止されることになりました。
その他、以下のような影響があったとされています。
- この事故を含めた重大な水難事故の発生を受けて、河川の利用と安全に関する議論が建設省や各自治体で行われた。
- 事故直後、丹沢湖周辺のキャンプ場で予約キャンセルが相次ぎ、客足は前年の半分以下になった。
- 社団法人日本オートキャンプ協会が再発防止策を提言。
3、ネットの噂について
玄倉川水難事故については悪評と言うべきイメージが広く浸透しています。それは「DQNの川流れ」いう異名に象徴される最悪なイメージです。
①避難警告を無視して中州に留まり続けた。
②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。
③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。
④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。
⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。
などなど。
まさにDQNの名に相応しい言動ですが、これらが全て事実かどうかというと疑問がありますので、確認してまいります。
①避難警告を無視して中州に留まり続けた。
これは公式資料や新聞などで発表されている事実です。過去の成功体験や夜になって雨が一時的に止んだことを差し引いたとしても、擁護のしようがありません。再三の警告を無視した結果、子供たちまで犠牲となってしまったことは本当にいたたまれません。
②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。
③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。
これらは警告・救助に来てくれた方々に対して、中州グループがとんでもない暴言を吐いた、とされているものです。
中州グループは避難するよう警告に来たダム職員や警察官に
「殴るぞ」
「失せろ」
などと言ったとされており、さらには決死の救助活動を行っている救助隊に対しても
「もたもたすんな」
「早く助けろ」
「お前らの仕事だろ」
「ヘリを出せ」
などと罵声を浴びせていたとされてます。
この中でも「ヘリを出せ」については、当時の新聞・雑誌の記事にはヘリを要求していた発言に関する記載があり、当時のニュース映像でも何かを叫んでいる様子が見て取れます。その映像ではAさんと思われる方が腕を回しながら何かを叫んでいたことからヘリを要望していたとされてますが、あの状況で救助ヘリを要求するのは当然ですし、彼らも必死でしたでしょうから“叫ぶ”のも当たり前と考えます。
では他の罵声はどうだったかと言うと、正直かなり怪しいです。
中州グループが警告をスルーしていたのは事実。8月13日の22:45、警告に来た警察官に向かって「うるせえ」「警察にそんなこと言われる筋合いはない」などと暴言を吐いたことは記録として残ってます。これは酔っていたとは言え、責められても仕方ないでしょう。
ただその他の「殴るぞ」「失せろ」などの罵声や、救助隊への「もたもたすんな」「早く助けろ」「お前らの仕事だろ」などの罵声は疑念があると思ってます。これらの罵声にはソースが存在しないのです。
まずは新聞や雑誌。
中州グループにいかに問題があったのかを掲載している数々の新聞や雑誌ですが、それらに8月13日22:45以外の罵声に関する記載はありません。
次に2ちゃんねる(以下、2ch)です。
1999年当時は黎明期だった2chではアーカイブ保存が行われておらず、現在当時のスレッドは残ってません。でも“ドキュンの川流れ”という言葉がスレタイで誕生したスレッドだけはログとして残されてました。
ログを確認した結果、当時の2chに書かれていたのは警告を無視して中州に残り続けたことに対する非難ばかりで、「警告にきたダム職員や警察官、救助隊に対して罵声を浴びせた」とする書き込みは見当たりませんでした。実際にそんな罵声があったら2chに書かれないはずがありません。
「早く助けろ」「お前らの仕事だろ」などの罵声については「こんなことがあったのでは?」との想像という形で書かれていました。これが他に転載されるなどして、いつの間にか事実として扱われるようになった可能性があります。
次にTV中継。
救助活動の様子はTV中継されており、その中で罵声が中継されていたとしたら雑誌の記事や2chにその点に関する言及がないのはあまりにも不自然です。
現在でも「TV中継で彼らの罵声を聞いた」と仰る方が動画のコメントなどで見受けられますが、当時のニュース映像の動画では何かを叫んでいる様子の彼らの声は確認できません。「彼らの声は消されている」という反論については、濁流の音はそのまま聞こえるのでその反論はやや苦しいです。
当時のニュース映像(音声あり)
そもそもですが、中継されていた時間帯(8/15 10時~)は、特に雨が激しく土砂降りになっていたタイミングで、更に岸から中州グループまでは数十m離れており、岸と彼らの間にはゴウゴウと川が激しく流れていました。そのような状況で、TV局のマイクは中州グループの声を正確に拾えるものでしょうか。
岸からはこの距離です。
当時の私はTVを観ない生活をしていたので(今もですが)この事故の中継をリアルタイムでは観ておりません。超高性能マイクで中州グループの声を正確に拾えていた可能性もございますが、やはり彼らの声を正確に拾うのは厳しい気がします。
これは123便事故の検証の際にも書きましたが、人の記憶は容易く書き換えられてしまいます。TVで中州グループの罵声を聞いたとする記憶は尊重するべきものですが、当時観た中継映像の記憶が後になって知った情報によって改ざんされてしまうことは十分にありえます。
記憶の改ざんの原因としては、例えば「彼らが濁流の中で罵声を叫んでいたらしい」という情報が当時の中継映像の記憶を改ざんしてしまったり、または実際に救助された方々が最悪の態度で周囲に罵声を浴びせる“よく似た水難事故”のニュース映像と記憶が混ざってしまったりなどが考えられます。
実はこの事故の翌年に静岡県の葦科川で、やはり増水により中州に取り残されてしまった人達が救出された事故が発生してます。
救出されたのは中州で酒盛りをしていた17~19歳の未成年9人のグループで、救出後のインタビューで救助隊について質問を受けて「知らねーよ。勝手に来たんだろ。おれたち勝手に帰れた」と罵声をあげながら記者に暴行する姿がTVでニュースとして放送されました。まさに「DQN」にふさわしい姿です。
(ただ後になって救助隊にお礼に訪れた方もいたそうです)
⇒Youtube「藁科川の中州から救出されたDQNがレスキュー隊に暴言」
数年後に「救助後に態度が悪かった姿」の記憶が混ざってしまった可能性もあると思います。
玄倉川の事故当時の新聞や雑誌記事や2chには記載がないのに、数年後からソースが無い状態でネットで語られるようになった彼らの“悪行”は疑ってみる必要があります。とは言えTVで声を確認できた可能性も完全には否定しきれません。
結果として、ソースの無い罵声についての噂は「ネットの海で悪意をもって誇張や捏造をされて生まれたデマの可能性が高いので、事実として扱わない方がいい」と言うのが私の結論です。
ただそんな中でも「うるせえ、警察に~」以外でソースが存在する話があります。避難するよう忠告してきた地元住民に暴言を吐いたという話です。
中州グループに対して避難するよう忠告した地元の住民に
「大丈夫だよ。俺達は馴れてるから(原文ママ)」
「放っておいてくれ。楽しんでんだよ」
「地元の人間は臆病」
「見張りを置くから平気」
「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」
などと言い放ったとされており、これも中州グループのイメージを最悪なものにしてます。この発言はソースがあるので事実かと言うと、そう一概には言えません。
この発言のソースは雑誌「噂の眞相」。
2004年に休刊となっているこの雑誌は“タブーなき雑誌”として、他の雑誌では書けない数々のスキャンダルを暴いてきた……というと聞こえはいいのですが、それ故に裏取りのない飛ばし記事が多かったのか、名誉棄損などで多数の訴訟問題も起こっており、全てではありませんが記事の信憑性については疑問符が付くゴシップ雑誌です。
国会図書館で複写した1999年10月号の表紙。現物はカラー。
信憑性に疑問のある雑誌であることに加えて、この話は雑誌の記事ではなく読者の投稿欄に寄せられた寄稿文でした。具体的には「噂の真相」1999年10月号の『読者の場』における“神奈川県山北町 匿名老人”を名乗る人物による読者投稿です。
それなりに長文ですが、以下に引用いたします。
「玄倉川キャンプ客溺死事件」
玄倉川のキャンプ客が溺死したニュースに微苦笑した。報道では彼らが事務所員や警察官などの避難要請を何度も無視したとあったが、これは記者の取材不足で、実は地元住民の私も彼らに避難を勧めていたのだ。
避難を勧めた私に対する彼らの態度は高圧的で不愉快極まりない物であった。
「水高が増えるから中州では止めた方がいい」といった私に若い男が「大丈夫だよ。俺達は馴れてるから」と冷笑しながら反論。それでも「私は地元の者だが、川は氾濫するよ。高台に行った方がいい。子供もいるんでしょう?」と冷静に忠告したが、リーダー格が「放っておいて。楽しんでんだよ」と放言したのを皮切りに「地元の人は臆病」「見張りを置くから平気」「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などとの声が広がったので、私は呆れ果ててきたくしたのである。
我が山北町はキャンプ地としては人気が高く大勢の方が来訪するが、都会人は自然に関する知識が心もとない。「見張りを置くから平気」という暴言がその象徴で、大雨時の川の急激な増水率を考慮すれば「見張り」はほとんど役にたたない。しかも地理に詳しい地元の人間を嘲笑する様では、救いようの無いバカである。
そしてあのような結果に。テレビや新聞では「悲劇」のように取り扱っていたが、私に言わせれば単なる「バカどもの必然的結末」にすぎない。そもそも彼らがキャンプしていた場所は「キャンプ場」ではない普通の「川原」である。
(本来の「キャンプ場」はもっと高台)即ち彼らは死ぬべくして死んだのだ。
同情の余地など無い。ただ可哀相なのは子供だ(子供には大人のような判断能力が無い)「あのおじいさんのいうとおりにしようよ」と言った小さな女の子の言葉が忘れられぬ。無念だ。
(神奈川県山北町 匿名老人)
この内容が事実である可能性もありますが、裏取りもされない「何でも言いたい放題」な読者投稿に証拠能力はゼロです。
この地元住民に対して発せられたとされる暴言についても、事実として扱うべきではありません。当時の2chにおいてですら、この話は疑問視されてました。
ちなみにですが、この読者投稿に記載された「地元の人は臆病」「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などの暴言を“警察官に吐いた暴言”と扱っている動画が多く見られます。その時点でその動画は確認も検証もせずにネットの噂をかき集めただけの信用度ゼロな動画であることがよくわかります。
~以下、個人的な感想や推測~
個人的にこの読者投稿からは悪意のようなものが感じられ、最後の女の子の言葉なんて特に作り話のような印象しか受けません。
仮に事実だったとすると、荒天が予想されていた日に現地にいたことから、この“匿名老人”は現場に近い玄倉集落の住人、もしくは最低でも玄倉集落のある三保地区の住人だったと推測します。
1999年当時の三保地区の人口は不明ですが、公開されている2014年度以降の数字を基にChatGPTに1999年時点の人口は予測してもらったところ[620人]程度とのことでした。これに当時の神奈川県における70歳以上の男性が占める比率[3.5%]を当てはめると“匿名老人”に該当する人物は【22人】になり、玄倉集落に限定したらさらに少なくなります。
この少人数のうちの誰かが「たまたま荒天が予想される日に現場にいて」「たまたま中州グループに声をかけていて」「たまたまその人が『噂の真相』を購読していて」「たまたま読者投稿欄に寄稿するほど熱心な読者だった」と考えるのは、かなり無理があるでしょう。
仮定に推測を重ねた私の計算も無理がありますが、“老人”にしては違和感のある文章と相まって、私個人はこの読者投稿を信用してません。
【参考】
いずれにせよ、8月13日の22:45に警察官に対して酔った上での暴言には根拠がありますが、それ以外の罵声については根拠がないと言えます。
④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。
⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。
②③と同様となりますが、「回収したらテントを返して欲しい」と言われた救助隊や、おにぎりを叩きつけられた地元住民のコメントが記載された新聞・雑誌の記事は見つからず、当時の2chにもそのような書き込みはありませんでした。
特におにぎりについては、Aさん達は救助された後すぐに病院へ搬送されたでしょうから、そもそも論として地元住民がおにぎりを渡せるようなタイミングがあったのか、という疑問があります。救助現場に数多く集まった消防、警察、自衛隊の方々の中にいる救助直後の被害者に、ノコノコと地元の人間がおにぎりを持って近づいてくる……と言う光景も違和感しかありません。朝の9時頃に、いつ終わるかもわからない救助活動を地元住民がおにぎりを持ってずっと見ていた……というのも無理があります。
2chには以下の書き込みがありました。
145 :山北町近所住人 :1999/08/21(土) 08:51
泊りがけの遺族に対し地元の家々でおにぎりの差し入れを届けたそうだ。
そしたら遺族の一人が「もっとましな物、持って来い!」と、ぬかしたそうだ。
さらに、行政を(何処の行政かは知らないが)訴える事を検討しているらしい
こんなのは雑誌の読者投稿以上に証拠能力はありませんし、2chのスレ内でも“匿名老人”以上に懐疑的に見る目が多かったですのですが、「救出されたリーダー格がおにぎりを「まずい!」と言って叩きつけた」という話は、この書き込みから派生して作られた話である可能性があるでしょう。
そして実はこの書き込みがなされた8月21日の神奈川新聞には「地元のボランティアが、作業員や行方不明者のご家族の方におにぎりを作っている」という記事が掲載されてました。あまりにもタイミングが良すぎますので、この記事を読んだ誰かが悪意を持って2chに書き込みしたのでは、と個人的には推測してます。
そうなると私の結論は「根拠なし」です。
要約すると、以下が私の結論です。
(○:事実 △:かなりグレー、もしくは一部デマ ✕:デマ)
○ ①警告を無視して中州に留まり続けた。
△ ②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。
△ ③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。
✕ ④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。
✕ ⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。
4、補足
以下は補足というよりも蛇足になるかもしれませんが……。
事故から11~12年が経過した2010~2011年頃、女子高生となったAさんの長女のブログが発掘されたと話題になりました。ブログに直接玄倉川の名前は出てきませんが、書かれた内容から本人に違いないと炎上する騒ぎに。
何故炎上したのかと言うと、ブログには事故に対する自責の念や亡くなった家族への想いだけではなく、「もっと強く避難させてくれれば」「真剣に救命活動してくれたら」など他責ともとれる内容も書かれていたためです。
炎上した結果ブログは削除されてしまい今となっては確認する術は無く、魚拓と称して出回っているスクリーンショットも信用できる確証はございません。
もしそのスクリーンショットの内容が事実なら本人である可能性は高いと思いますが、間違いなく辛い思いをしてきたであろう方を今更責めることに意義はないと考えます。
5、最後に
多くの動画などでAさんはチンピラみたいな風貌となり、金髪だったりヤンキー風だったりと、まさに「DQNの川流れ」といった揶揄にふさわしい描かれ方をしております。
繰り返しになりますが、警告を何度も無視した上に、警告してくれたダム職員や警察官に暴言を吐いたりと、自業自得と言われても仕方ない行動だったことは確かです。
しかしながら、悪意的な誇張や捏造をもって貶めることは決して許されることではないでしょう。「そう思われても仕方ない行動をしていた」というのは理由になりません。
濁流に耐えていた時から救助されるまでの24時間近くもの間、Aさんは5歳の長女をずっと同じ姿勢で抱きしめて守り続け、救助された時は先に救助された長女に歩み寄って、疲労にも関わらず娘を抱き上げました。
「娘なのだから当然」「そんなに大事なら避難すればよかった」と言われればそれまでですけど、廃棄物処理会社の社長に対してAさんから「本当にすみませんでした」と謝罪があったとの報道もございます。(警察、消防、ダム関係者にも謝罪は欲しいところですが)
擁護するわけではありませんが、Aさんも自分の子供を愛する1人の社会人だった、として見るとほんの少しはイメージが変わったりはしないでしょうか。
今も生活している方々や亡くなった方々を、根拠のない悪評で必要以上に責める行為は控えるようにしたいものです。
ただ、この事件が「DQNの川流れ」としての悪評で有名になることで「中州は危ない」などの水難事故に対する啓蒙が広がったのは確かなので、その点はちょっと複雑な気持ちです。
■索引
本記事を書くにあたって参考にした文献等を以下に記載いたします。
国会図書館サーチで『玄倉川』を検索してヒットした結果の中で、事故に関する記載がありそうな書籍、雑誌には一通り目を通したつもりです。
(事故とは関係ない地理などの書籍などは除外してます)
≪参考文献≫
「朝日新聞」1999年8月14日~1999年8月30日
「神奈川新聞」1999年8月14日~1999年8月30日
「近代消防」近代消防社、1999年10月
「月刊消防:「現場主義」消防総合マガジン」東京法令出版株式会社、1999年11月
「現代」講談社、1999年10月号
「世界」岩波書店、2000年3月
「岳人」ネイチュアエンタープライズ、2000年8月
「道徳と教育」日本道徳教育学会、2002~2003年
「Keisatsu koron」立花書房、78巻11号 2023年11月
「噂の真相」株式会社噂の真相、1999年10月号
「災害の研究」災害科学研究会、2000年3月
「週刊新潮」新潮社、1999年9月
「週刊新潮」新潮社、1999年12月
「週刊宝石」光文社、2000年1月
「週刊読売」読売新聞社、1999年9月
「サンデー毎日」毎日新聞出版株式会社、1999年09月
「週刊現代」文芸春秋、1999年9月
「釣りバカ週刊誌記者のスクープ日誌」早池峰遥 著、2019年12月
「傍聴席から一言」高橋いさを 著、2025年11月







































