ザキリューのブログ

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玄倉川水難事故。一部で「DQNの川流れ(ドキュンの川流れ)」と揶揄されるこの事故は、1999年(平成11年)8月14日に神奈川県の玄倉川(くろくらがわ)で発生した水難事故です。

 

警告を無視してキャンプを続けた結果、増水した川に流された13人が命を落とした悲惨な事故ですが、ネットでは「被害者の言動があまりにも酷かった」として以下のような噂が飛び交っており、事故から27年が経過した現在でも非難の声があがっています。

 

①避難警告を無視して中州に留まり続けた。

②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。

③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。

④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。

⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。

 

例えばこのような動画が多く見受けられます。

【実話】世界一同情できない...「玄倉川水難事故」。避難勧告を再三無視して...18人中13人が死亡。

 

まずはこのような動画を観ておいていただくと、この後の話を理解しやすくなると思います。


この事故はどんな事故だったのか。

ネットの噂は本当なのか。

確認してまいります。

 

1、事故の概要

事故のあった玄倉川は神奈川県足柄上郡山北町の玄倉地区を流れる川。

「丹沢の秘境」と呼ばれるユーシン渓谷など自然の豊かな土地であり、最近では鮮やかな青色をしている玄倉ダムの貯水が「ユーシンブルー」の名前で知名度が上がり、山北町の観光資源となってます。

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x2b/yushinblue.html

https://www.yamakita.net/sightseeing/detail.php?id=26

 

山間部にある玄倉川は一見穏やかであっても短時間で増水しやすく、今回の事故の5年前にも同じような状況で河川敷に取り残された女児が水死する事故が起きていました。特に中州(※)は危険な場所とされており、今回の事故はまさにそれが原因だったと言えます。

 

中州:川の流れで運ばれてきた砂などが堆積してできた、川の中にある陸地。急な増水や鉄砲水の危険性が非常に高い中州は、キャンプを行う場所に選ぶのは厳禁。草木のない平坦な中州はキャンプに向いているように見えるが、それは頻繁に水没する場所であることを示唆しており、事故のあった玄倉川の中州はその典型だった。

 

そんな玄倉川で今回の事故が発生したのは1999年8月14日。

お盆休みを利用して前日から玄倉川の中州でキャンプをしていた方々が、増水した川の濁流に流されて子供を含めた13人が命を落とすという、あまりにも悲惨な事故に見舞われたのです。

 

事故に遭われた方々がキャンプをしていた付近の川幅は100m程で、岸から中州までの距離は70mほど。河川敷の反対岸は山になっていて、中州は“通常時”であれば山と繋がってました。中州自体の大きさは不明ですが、テントが5つ設置されたという記事がありましたので、それなりの大きさだったことが伺えます。

また、中州から50~60mほど下流に砂防堰堤(※)の「立間堰堤」がありました。

 

堰堤(えんてい):土石流や土砂の流出を抑制して下流の地域を災害から守るコンクリートや鋼鉄製の構造物。透過型と不透過型があり、事故現場近くの「立間堰堤」は不透過型で、人工の小さな滝のような見た目。

参考画像:立山砂防事務所「砂防堰堤の役割」

 

実際の「立間堰堤」はこちら。

幅は37m、高さは4.7m。人工の「小さな滝」とは言っても、濁流に飲み込まれてこの高さから落ちたら、人間はどうしようもないでしょう。

参考画像:神奈川県「不透過型砂防堰堤の整備事例」

 

当日は熱帯低気圧の発生による悪天候が前々日の段階で予想されてました。

事故が発生した8月14日の前日、8月13日の15時くらいから降り出した雨の最終的な雨量は【349mm/29時間】。一年に1,2回起こる程度の雨で、大雨ではありますが特段珍しい程の雨量ではなかったとされてます。

とは言うものの、この日は神奈川県内だけでも玄倉川以外で複数の水難事故(※)が発生したことを踏まえると、相応の雨量であったことは伺えます。

 

複数の水難事故:8月14日は神奈川県内だけでも本件以外で水難事故が複数発生している。以下は神奈川新聞1999年8月15日に記載されたもの。玄倉川の備考に「3人救出中」とあるが実際の要救助者は4名。新聞発行の時点では3名しか見つかっていなかった。

 

現場付近は正規のキャンプ場ではありませんでしたが、設備の整った丹沢湖のキャンプ場が近くにあるため、整備されていない自然を楽しみつつも、必要に応じてキャンプ場の設備も利用できる場所でした。

玄倉川で水難事故に遭った18名は、総勢25名の大人数のグループのメンバー。ここではこのグループを『中州グループ』と呼称することにします。この日の現場付近には数多くのキャンプ客がいましたが、中州でキャンプをしていたのは彼らだけでした。

 

中州グループは横浜市の廃棄物処理会社(現存する企業のため名前は伏せます)に勤める社員とその関係者で構成されており、お盆休みにこの場所でキャンプを行うのが恒例で、この年は8月13日~8月16日がお盆休みだったとのこと。

実は事故が発生した中州では前年にもテントが流される事故が発生した場所で、加えて彼ら自身も増水した川の水がテントに流れ込んで、財布やハンドバッグなどの小物が流されるという“事故”に遭ってました。

それで増水に対して警戒心を持ってくれればよかったのですが、彼ら自身は大きな事故とならなかったことで「増水してもこの程度」と認識を持ってしまったのかもしれません。

 

「みんな、『まったくしょうがねえな』なんて、どこか笑い話のような気持ちでしたね」

(「現代」1999年10月号 前年のキャンプに参加した人物の証言)

 

それでは事故前日の8月13日からの中州グループ、およびその周辺の動きを追ってみましょう。

時刻は資料によって多少の差異がありますが、大枠としての動きは変わらないため、基本的に朝日新聞や神奈川新聞の記事を参考にすることにいたします。

 

また、中州グループとは関係なく、たまたま当日に玄倉川の河川敷でキャンプを行っていて今回の事故に関わることになった『Hさん』という方についても触れていきます。

Hさんは東京で会社経営をなされている鳶職の方で、毎年玄倉川にキャンプに訪れていました。彼は事故後に多くのメディアに取り上げられることになりますが、Hさんの行動については基本的に「現代」1999年10月号の情報を基に記載いたします。

 

≪1999年8月13日≫

 

■早朝4時半頃

Hさん一行(Hさん、妻、息子、娘、従業員の5人)が河川敷に到着してキャンプ開始。

 

■11時頃

中州グループがテントを中州に設置してキャンプ開始。まだ雨は降り始めていなかった。

Hさんの目から見た彼らのキャンプは本格的なものだった。何本ものビールサーバーやプロパンガスを持ち込んでおり、テントの上をブルーの大きなシートで覆うことで、テントとテントの間を行き来しやすいようにして、女性用のトイレテントまで用意。ペットのアライグマも連れてきていた。

 

「子供たちは水遊びをしていて、ペットのアライ熊と一緒に泳いだりしていましたね」

(「週刊新潮」1999年9月2日号 他のキャンプ客の証言)

 

■15時頃

降雨開始。まだ雨脚は強くなかったものの、玄倉ダム管理事務所の職員がハンドマイクでキャンプ客達に増水に関して1回目の警告を実施。

この時点で撤退したキャンプ客もいたが、中州グループは「ハーイ、わかりました」などと返答するも、立ち去らずにキャンプを続行。

 

■16:50

神奈川県全域に大雨雷洪水注意報が発令。

その後本格的に雨が降り出し、風も出てきた。

Hさん一行は河原の上の林道に停めていた車に避難。

 

■19時頃

中州グループで日帰り参加の予定だった4人が帰宅して、21人が残る。

 

■19:35

雨が強くなり、玄倉ダムから放流を知らせる警告のサイレンが3回ほど30分に渡って鳴り響く。

 

「その音量は、まるで耳元で鳴っているぐらい大きかった。(中略)空襲警報を連想させるような恐さでした」

(「現代」1999年10月号 Hさんの証言)

 

この時点で中州グループ以外のキャンプ客は全員避難。

 

■19:50

玄倉ダム管理事務所の職員が、再びハンドマイクなどにより2回目の警告を実施。

中州グループに直接安全な場所に移動するよう依頼するも、中州グループからの反応はなし。

危険と判断した玄倉ダム管理事務所は松田警察署に状況を通報。

 

■20:20

玄倉ダムが放流を開始。

 

玄倉ダムについて補足します。

玄倉ダムは水力発電のためのダムで規模が小さく、治水・貯水機能を持ってません。つまり「流入量≒放流量」となるこのダムでは玄倉川の増水を防ぐことは出来ません。

もし無理に玄倉ダムの放流を停止して大量の水を溜めこむと最悪ダムが決壊する可能性があり、その結果として下流の三保ダムの決壊を引き起こして小田原市などに甚大な被害をもたらしかねないという、大きすぎるリスクがありました。

 

以下は事故当日の雨量(1時間ごとの雨量と累計雨量)および玄倉ダムの流入・放流の水量のグラフです。

各データは「災害の研究」(災害科学研究会編、2000年3月発行)のものを使用してます。

前述の通り玄倉ダムは「流入量≒放流量」であることがわかります。

(流入量と放流量の線がほぼ重なっている)

 

余談になりますが、玄倉ダムは平常時においても「流入量≒放流量」で水を放出しているのに「そこから更に“放流”するとは?」と違和感を感じた方がいらっしゃるかもしれません。

簡単に説明いたしますと、玄倉ダムは流入してきた水をダムの内部で発電に利用してから放流していますが、増水して流入量が増えると発電設備で処理しきれなくなってしまいます。

そうすると水位の上昇やダム決壊の危険があるため、ゲートを開放して流入してきた水を直接放流する形に切り替えるわけです。このゲートの開放を改めて“放流”と呼んでいるのです。

 

要するに治水・貯水機能のないダムに関する“放流”を知らせる警告やサイレンというのは「ダムに貯め込んだ水を一気に下流に流します」という意味ではなく「放流ゲートを開放するくらい増水するから気を付けて」という意味になる……と私は理解しております。

(素人が調べた限りの説明なので、不備があったらすみません)

 

■20:30

ダム管理職員と松田警察署の警察官がキャンプ客にキャンプを中止するよう警告して、避難を強く勧める。

中州グループの中でも年配社員のOさん(56)を含めた3名が中州から避難したため、結果としてテントに残ったのは18人。

停めてあった車に避難してきたOさん達3人に「大丈夫ですか」と声をかけたのは、既に避難していたHさん。

OさんはHさんに「ここで番をしているんだ」と応えると、車(トラック)のヘッドライトを中州に向けて照らして、仲間がいつ戻ってもいいように足元を明るくしておいた。(「現代」1999年10月号)

 

この時点でテントに残っていた中州グループ18人が水難事故に遭うことになります。

Oさんが避難した際に「行こうよ、行こうよ」とメンバーに呼びかけたところ、再三の警告で不安になって避難準備を始めようとしたメンバーもいたそうですが「暗くて足元もよくわからない」「毎年こんなもの」など言葉があり、踏みとどまってしまったとのこと。

残ったメンバーは「寝ずに交代で川の様子を見張るから大丈夫」とOさんに返答したとのことでしたが、明け方には全員が寝込んでしまっていました。

 

テントに残ったメンバーは以下の通り。カッコは当時の年齢です。★は廃棄物処理会社の社員で、○は救助された方になります。

“Aさん兄”が重機オペレーターであり、他の方々はトラック運転手でした。

 

Aさん一家

○Aさん(31)★ ※グループのリーダー格と言われている

 Aさん妻(27)※Bさんの妹

○Aさん長女(5)

○Aさん長男(1)※長男・次女は双子

 Aさん次女(1)

 

Aさん兄(33)★

 

Bさん一家

 Bさん(31)★ ※Aさん妻の兄

 Bさん妻(30)

 Bさん長女(9)

 Bさん長男(5)

 

Cさん一家

 Cさん(48)★

 Cさん次女(9)

 

○Dさん(29)★

○Dさん兄(31)

 

Eさん(25)★

Eさん婚約者(25)※10月Eさんと結婚予定だった

 

Fさん(26)★

Fさん婚約者(27)※翌年Fさんと結婚予定だった(「週刊新潮」新潮社、1999年12月)

 

 

■22:45

警察官が中州グループに声をかけ、キャンプを中止して避難するよう再三勧めるが聞き入れられず。

 

かなり酔った状態で、注意しても“うるせえ”  “警察にそんなこと言われる筋合いはない”とか、それは酷いものでした。それでなんとか宥めたら、今度は“女と子供がいるから、今、川を渡のはかえって危険だ。夜が明けたら撤去するから”と言いはじめた。

(「週刊新潮」新潮社、1999年9月 警察官の証言)

 

「じゃあ寝ずの番を付けるように」「万が一の際は後ろの山に逃げろ」と警察官は中州グループに告げてその場を離れた。まだこの時点では中州は山と繋がっていた。

 

この時、人数を確認された中州グループは「21人」と回答したとのこと。(「災害の研究」災害科学研究会、2000年3月)

実際にテントに残っていたのは18人なので、Oさん達も含めてカウントしていたものと思われる。

 

これだけ警告されて避難しなかったのは責められても仕方ありませんが、22時頃から雨は小ぶりになり、23時頃から約3時間は雨が止んでいたことが前述の雨量グラフからわかります。それがますます中州グループを油断させてしまったのかもしれません。

しかし残念なことに、深夜から再び雨が降り出します。

 

≪1999年8月14日≫

 

■5:35

大雨洪水警報が発令。

 

■6時頃

避難していたOさんがテントの様子を見に行き、避難するよう勧めたが全員熟睡していたため反応無し。

Oさんがテントを開けるとリーダー格(Aさん)が目を覚まして「大丈夫。昨日と変わりない」と返答。それを聞いたOさんは車に引き返した。

 

■6:30

警察官が玄倉川の現場を確認。

 

■7:30

警察官2人が再度巡回に。

中州グループの様子を聞かれたOさん達は「声をかけても起きない」と返答。

テントの中で中州グループは就寝中。テントまで2mの距離に水が迫っていたが、川はさほど増水はしていない状態だったため警察官はテントに声をかけることなく他の地域に移動。

 

※7:40頃、キャンプ客から「テントの中に居る。崖崩れの心配なし」との連絡があったとの記載(「災害の研究」災害科学研究会、2000年3月)もあるが連絡目的が不明。他の情報と矛盾もある。他のキャンプ客からの連絡?

 

■8時過ぎ

玄倉川に釣りに来た(でも諦めた)地元住民が中州の様子を目撃していた。

この時点で既に中州と山の間にも川の流れが出来ていて、中州は孤立状態になりつつあった。

 

「テントから5,6人が出て立ってました。まだ、川の水はそれほど増えているわけでもなくて、彼らも慌てている様子はなかった」

(「現代」1999年10月号 釣りにきた地元住民の証言)

 

■8:30

町に雨合羽を買いに行っていたHさんが戻ってくると、中州グループが立ち往生していた。

中州グループに向かって「応援の電話をしたらどうか」と言うと「電波が通じない」と答えがあったため、HさんはOさんに「通報した方がいいよ」と伝えた。

Oさんが公衆電話で「中州に大人12人子供6人が取り残されている」と消防と警察に通報。

 

※「助けてくれ。中州に取り残されている」という切羽詰まった携帯電話での通報が消防にあったとの報道(神奈川新聞1999年8月15日)もあるが、通報者をOさんとしている多くの他の情報と矛盾がある。Oさんによる公衆電話からの通報と混乱?

 

■9:07

足柄上消防隊員(救助隊)が現場到着。

救命発索銃(※)での救助を試みるために、隊員2名が対岸に移動を開始。

既に激流となっていた川を渡るのは困難だったため、下流1km地点にある橋で川を渡り、そこから現場近くの対岸まで山肌を移動することに。ただしその移動はかなり困難なものだった。

 

地元の人によれば、よくあんなとこ行ったなー、この前現場検証してた人は、半日くらいかかったよ、とのことだった。

(「月刊消防:「現場主義」消防総合マガジン」東京法令出版株式会社、1999年11月)

 

救命発索銃:ゴム弾又は浮環弾(膨らむと浮き輪になる)を発射して、軽量で細いリードロープを遠方に飛ばしてから、リードロープを頼りに太くて強度の高いメインロープを要救助者に引き渡す救助資機材。

 

隊員2名が対岸に到着するまでの間、残った隊員はキャンプ客十数名の協力を得て、激流突破を試みた。

しかし隊員が川に入って3~4m進んだところで足をすくわれ水没。10人がかりで何とか引き戻した。

次に隊長自らが突破を試みたが、激流にもまれた瞬間、沈むことなく背面水上スキーのように水面を撥ねたほどの激流の凄まじさに突破を断念。

中州は完全に水没し、中州グループはビーチパラソルを川底に突き立てて水の流れに抗っていた。

 

Hさんは命綱を付けた状態で川に入り込んで、濁流の中で孤立してしまった中州グループに声をかけて励まし続けていた。

 

■10:01

中州の18人、膝上まで水につかる。

中州グループは濁流に耐えながら、腕を回してヘリコプターの要請を叫ぶなどしていた。

この頃メディアが現場に到着し、18人が濁流に残されている様子がTV中継された。

 

水位が膝上まで達すると通常の流れですら歩くのは困難。更には流れが速いことに加えて、中州を外れると水深が深くなることもあり、渡河は不可能。

 

■10:10

救助隊がヘリコプターを要請。

しかし横浜市消防局は天候不良により救助ヘリは航行不能と判断。

 

■10:12

対岸に向かっていた救助隊が対岸の山に到着。

しかし斜面が急のため、空き地のある上流へさらに移動。

 

■10:18

対岸の隊員が目標地点に到着したため、岸から救命発索銃を発射。

悪天候、切り立っている対岸の崖、茂っている枝などの悪条件が重なり、リードロープが枝に引っかかってしまい失敗。

 

■10:30

警察からダム管理事務所に「放流を止めて欲しい」と要請が入るが、管理事務所側は「小さいダムですから止めるわけにはいかない」と返答。

 

■10:36

ダム管理事務所にボートの搬送を要請。

しかし人員不足のため出艇できないと判断される。

ボートは事務所と現場の間に4か所もある堰堤を航行することは不可能で、そして陸地を人力で搬送することも困難だった。

 

■10:38

消防本部にボートの要請。

 

■10:42

中州の18人、腰まで水に漬かる

 

■10:44

2発目の救命発索銃発射。

対岸にロープが届くが、あまりにも強い激流に負けてリードロープが切断。

 

■11:00

警察からの再度の要請で玄倉ダムの放流が停止。

しかし規模が小さい玄倉ダムは5分で限界に達し、やむなく放流を再開。

 

■11:16

3発目の救命発索銃発射。

メインロープを救助者にかなり近づけるところまでいったが、リードロープが激流に耐えきれず切断。

 

■11:27

消防のゴムボートが到着。

 

■11:38

中州グループが濁流に耐えられなくなり、18人全員が流される。

18人はいったん対岸側の窪みに流され、対岸の岩や茂みに掴まることで4人はその場に留まれた。

窪みに留まれたのはAさんとAさん長女、Dさん兄弟。

他の14人は再び濁流に流され始めた。

神奈川新聞 1999年8月15日

 

■11:41

Aさん長男を抱いていたAさん兄が、とっさに岸の方にAさん長男を放り投げたことで、Aさん長男は岸に近づいた。

岸から3m先を流れるAさん長男に気付いたのは、流され始めた18人を追いかけていたHさんとその息子さん。Hさんはとっさに川に飛び込み、「手でも足でもいい」と伸ばした手がAさん長男のシャツに届いた。

Hさん自身も危うく流されそうになるも、息子さんがHさんのズボンの腰あたりをつかんで引き寄せることに成功。中州から約50m下流、堰堤までわずか10mの地点。

Hさんの奥さんがAさん長男を抱いて「大丈夫?よかったね」と声をかけると、Aさん長男は眠ってしまった。

 

再び濁流に流されてしまったAさん兄を含む13名は下流の堰堤を流れ落ち、岸から姿を確認できなくなり、そのまま更に下流3~4kmにある丹沢湖まで流されていった。

 

■11:45

丹沢湖面にて流された人々の捜索が開始。

 

■12:19

山北町役場と消防組合合同の現地本部を設置。

 

■12:25

消防が対岸の山側に3人避難しているのを確認。(実際に避難していたのは4人)

警察が陸路で対岸へ降りようとするが、最終的には増水と急斜面のため救助困難と報告。

 

■17:00

神奈川県、陸上自衛隊に応援要請。

 

■21:10

玄倉ダムの放流5分停止。

30分後、水位がやや下がる時を狙って自衛隊のレスキュー隊が川に入り中州へ到達。

 

■21:45

自衛隊が中州にロープを張ることに成功。

この時点で中州の水位は腰までくらい。

 

■22:33

自衛隊が対岸の3人の生存を声で確認。

 

■23:20

水位が下がらず対岸へ行けないため、自衛隊が中州から引き揚げる

 

■23:57

県警機動隊15人が要救助者より100m上流に到着。

救命発索銃を発射して、リードロープを張る。

 

≪1999年8月15日≫

 

■1:30

対岸にメインロープ固定。

 

■3:24

水位が下がらず救助不能。中州も見えず。

 

■3:40

消防、警察、自衛隊の計6人がメインロープを張って川を渡り始める。

 

■4:00

6人が被救助者より30~40m上流の右岸に到着。しかしそれ以上近づくのは困難だった。

 

■7:15

対岸の被救助者が男性3人子供1人であることを警察官が確認。

 

■8:22

自衛隊のゴムボートが要救助者の地点に到着。

 

■8:27~9:57

対岸の4人を救助(Aさん、Aさん長女、Dさん兄弟)。

 

結局この事故で救助されたのは、流された直後に救助されたAさん長男と、8月15日に救助された4人の合計5人。
それ以外の13人は下流の丹沢湖で遺体となって発見されることになります。
捜索活動は13人全員が発見された8月29日まで続けられました。

 

≪1999年8月15日≫

Aさん妻、Bさんの遺体発見。

 

≪1999年8月17日≫

Aさん兄、Eさんの遺体発見。

中州グループのメンバーが勤めていた横浜市の廃棄物処理会社のK社長が記者会見。

 

十三日からの悪夢のような「夏休み」が明け、仕事を再開したが、事務所玄関には「救難関係者には多大の迷惑をかけ、大変申し訳なく思う」と書かれたあいさつ文が貼られた。
  (中略)
「仕事は有能だったが、大胆なところがあった。たとえ危険があっても仕事を買って出てやりこなす」
  (中略)
救助された二人の社員のうちAさん(31)は、K社長に「すいません」と頭を下げた、という。

(神奈川新聞 1999年8月18日)

 

≪1999年8月19日≫

Bさん妻、Eさん婚約者、Cさんの遺体発見。

気象庁が『弱い熱帯低気圧』の“弱い”の表現が大雨への警戒を薄れさせる問題があるとして、表記の見直しの検討を開始。(後述)

 

≪1999年8月20日≫

Cさん次女、Fさんの遺体発見。

 

≪1999年8月21日≫

Bさん長男の遺体発見。

8月21日~8月22日の両日、捜索のために丹沢湖畔で交通規制を実施。

 

≪1999年8月23日≫

Bさん長女、Fさん恋人の遺体発見。

 

≪1999年8月25日≫

FさんとFさん恋人の葬儀が合同で執り行われる。

 

≪1999年8月29日≫

Aさん次女の遺体発見。

 

以上が玄倉川水難事故の概要となります。

改めて亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 

2、事故の影響

 

この玄倉川水難事故をもたらした熱帯低気圧は、1999年当時における気象庁の分類では弱い熱帯低気圧』でした。この“弱い”という表現が大雨への警戒を薄れさせる問題があるとして、気象庁では事故から5日後の8月19日には熱帯低気圧の表記を変える検討を始めました(表記の変更には防災機関の了承やコンピューターソフトの改修などの手続きが必要なため、翌年の台風シーズンに間に合うよう決定する予定)。

 

熱帯低気圧には台風も含まれるのですが、その分類はビューフォート風力階級で風力8(風速17.2m/秒以上。小枝が折れたり、風に向かって歩けなかったりする程度の風)以上のものを『台風』として、それ以外を『弱い熱帯低気圧』としていました。つまり、この“弱い”はあくまで風に関するものであり、『弱い熱帯低気圧』でも小型の台風より多くの雨を降らせるケースがありえたのです。

 

結果として、翌年2000年6月から『弱い熱帯低気圧』は“弱い”が消されて『熱帯低気圧』となり、台風についても「弱い」「並の強さ」「ごく小さい」「小型」「中型」などの曖昧な表現は廃止されることになりました。

 

その他、以下のような影響があったとされています。

  • この事故を含めた重大な水難事故の発生を受けて、河川の利用と安全に関する議論が建設省や各自治体で行われた。
  • 事故直後、丹沢湖周辺のキャンプ場で予約キャンセルが相次ぎ、客足は前年の半分以下になった。
  • 社団法人日本オートキャンプ協会が再発防止策を提言。

 

3、ネットの噂について

 

玄倉川水難事故については悪評と言うべきイメージが広く浸透しています。それは「DQNの川流れ」いう異名に象徴される最悪なイメージです。

 

①避難警告を無視して中州に留まり続けた。

②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。

③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。

④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。

⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。

 

などなど。

まさにDQNの名に相応しい言動ですが、これらが全て事実かどうかというと疑問がありますので、確認してまいります。

 

①避難警告を無視して中州に留まり続けた。

これは公式資料や新聞などで発表されている事実です。過去の成功体験や夜になって雨が一時的に止んだことを差し引いたとしても、擁護のしようがありません。再三の警告を無視した結果、子供たちまで犠牲となってしまったことは本当にいたたまれません。

 

②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。

③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。

これらは警告・救助に来てくれた方々に対して、中州グループがとんでもない暴言を吐いた、とされているものです。

 

中州グループは避難するよう警告に来たダム職員や警察官に

「殴るぞ」

「失せろ」

などと言ったとされており、さらには決死の救助活動を行っている救助隊に対しても

「もたもたすんな」

「早く助けろ」

「お前らの仕事だろ」

「ヘリを出せ」

などと罵声を浴びせていたとされてます。

 

この中でも「ヘリを出せ」については、当時の新聞・雑誌の記事にはヘリを要求していた発言に関する記載があり、当時のニュース映像でも何かを叫んでいる様子が見て取れます。その映像ではAさんと思われる方が腕を回しながら何かを叫んでいたことからヘリを要望していたとされてますが、あの状況で救助ヘリを要求するのは当然ですし、彼らも必死でしたでしょうから“叫ぶ”のも当たり前と考えます。

 

では他の罵声はどうだったかと言うと、正直かなり怪しいです。

中州グループが警告をスルーしていたのは事実。8月13日の22:45、警告に来た警察官に向かって「うるせえ」「警察にそんなこと言われる筋合いはない」などと暴言を吐いたことは記録として残ってます。これは酔っていたとは言え、責められても仕方ないでしょう。

ただその他の「殴るぞ」「失せろ」などの罵声や、救助隊への「もたもたすんな」「早く助けろ」「お前らの仕事だろ」などの罵声は疑念があると思ってます。これらの罵声にはソースが存在しないのです。

 

まずは新聞や雑誌。

中州グループにいかに問題があったのかを掲載している数々の新聞や雑誌ですが、それらに8月13日22:45以外の罵声に関する記載はありません。

 

次に2ちゃんねる(以下、2ch)です。

1999年当時は黎明期だった2chではアーカイブ保存が行われておらず、現在当時のスレッドは残ってません。でも“ドキュンの川流れ”という言葉がスレタイで誕生したスレッドだけはログとして残されてました。

ログちゃんねる「ドキュンの川流れ」

 

ログを確認した結果、当時の2chに書かれていたのは警告を無視して中州に残り続けたことに対する非難ばかりで、「警告にきたダム職員や警察官、救助隊に対して罵声を浴びせた」とする書き込みは見当たりませんでした。実際にそんな罵声があったら2chに書かれないはずがありません。

 

「早く助けろ」「お前らの仕事だろ」などの罵声については「こんなことがあったのでは?」との想像という形で書かれていました。これが他に転載されるなどして、いつの間にか事実として扱われるようになった可能性があります。

 

次にTV中継。

救助活動の様子はTV中継されており、その中で罵声が中継されていたとしたら雑誌の記事や2chにその点に関する言及がないのはあまりにも不自然です。

現在でも「TV中継で彼らの罵声を聞いた」と仰る方が動画のコメントなどで見受けられますが、当時のニュース映像の動画では何かを叫んでいる様子の彼らの声は確認できません。「彼らの声は消されている」という反論については、濁流の音はそのまま聞こえるのでその反論はやや苦しいです。

 

当時のニュース映像(音声あり)

 

そもそもですが、中継されていた時間帯(8/15 10時~)は、特に雨が激しく土砂降りになっていたタイミングで、更に岸から中州グループまでは数十m離れており、岸と彼らの間にはゴウゴウと川が激しく流れていました。そのような状況で、TV局のマイクは中州グループの声を正確に拾えるものでしょうか。

岸からはこの距離です。

 

当時の私はTVを観ない生活をしていたので(今もですが)この事故の中継をリアルタイムでは観ておりません。超高性能マイクで中州グループの声を正確に拾えていた可能性もございますが、やはり彼らの声を正確に拾うのは厳しい気がします。

 

これは123便事故の検証の際にも書きましたが、人の記憶は容易く書き換えられてしまいます。TVで中州グループの罵声を聞いたとする記憶は尊重するべきものですが、当時観た中継映像の記憶が後になって知った情報によって改ざんされてしまうことは十分にありえます。

 

記憶の改ざんの原因としては、例えば「彼らが濁流の中で罵声を叫んでいたらしい」という情報が当時の中継映像の記憶を改ざんしてしまったり、または実際に救助された方々が最悪の態度で周囲に罵声を浴びせる“よく似た水難事故”のニュース映像と記憶が混ざってしまったりなどが考えられます。

 

実はこの事故の翌年に静岡県の葦科川で、やはり増水により中州に取り残されてしまった人達が救出された事故が発生してます。

救出されたのは中州で酒盛りをしていた17~19歳の未成年9人のグループで、救出後のインタビューで救助隊について質問を受けて「知らねーよ。勝手に来たんだろ。おれたち勝手に帰れた」と罵声をあげながら記者に暴行する姿がTVでニュースとして放送されました。まさに「DQN」にふさわしい姿です。

(ただ後になって救助隊にお礼に訪れた方もいたそうです)

Youtube「藁科川の中州から救出されたDQNがレスキュー隊に暴言」

数年後に「救助後に態度が悪かった姿」の記憶が混ざってしまった可能性もあると思います。

 

玄倉川の事故当時の新聞や雑誌記事や2chには記載がないのに、数年後からソースが無い状態でネットで語られるようになった彼らの“悪行”は疑ってみる必要があります。とは言えTVで声を確認できた可能性も完全には否定しきれません。

 

結果として、ソースの無い罵声についての噂は「ネットの海で悪意をもって誇張や捏造をされて生まれたデマの可能性が高いので、事実として扱わない方がいい」と言うのが私の結論です。

 

ただそんな中でも「うるせえ、警察に~」以外でソースが存在する話があります。避難するよう忠告してきた地元住民に暴言を吐いたという話です。

 

中州グループに対して避難するよう忠告した地元の住民に

「大丈夫だよ。俺達は馴れてるから(原文ママ)」

「放っておいてくれ。楽しんでんだよ」

「地元の人間は臆病」

「見張りを置くから平気」

「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」

などと言い放ったとされており、これも中州グループのイメージを最悪なものにしてます。この発言はソースがあるので事実かと言うと、そう一概には言えません。

 

この発言のソースは雑誌「噂の眞相」

2004年に休刊となっているこの雑誌は“タブーなき雑誌”として、他の雑誌では書けない数々のスキャンダルを暴いてきた……というと聞こえはいいのですが、それ故に裏取りのない飛ばし記事が多かったのか、名誉棄損などで多数の訴訟問題も起こっており、全てではありませんが記事の信憑性については疑問符が付くゴシップ雑誌です。

国会図書館で複写した1999年10月号の表紙。現物はカラー。

 

信憑性に疑問のある雑誌であることに加えて、この話は雑誌の記事ではなく読者の投稿欄に寄せられた寄稿文でした。具体的には「噂の真相」1999年10月号の『読者の場』における“神奈川県山北町 匿名老人”を名乗る人物による読者投稿です。

それなりに長文ですが、以下に引用いたします。

 

「玄倉川キャンプ客溺死事件」
玄倉川のキャンプ客が溺死したニュースに微苦笑した。報道では彼らが事務所員や警察官などの避難要請を何度も無視したとあったが、これは記者の取材不足で、実は地元住民の私も彼らに避難を勧めていたのだ。
避難を勧めた私に対する彼らの態度は高圧的で不愉快極まりない物であった。
「水高が増えるから中州では止めた方がいい」といった私に若い男が「大丈夫だよ。俺達は馴れてるから」と冷笑しながら反論。それでも「私は地元の者だが、川は氾濫するよ。高台に行った方がいい。子供もいるんでしょう?」と冷静に忠告したが、リーダー格が「放っておいて。楽しんでんだよ」と放言したのを皮切りに「地元の人は臆病」「見張りを置くから平気」「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などとの声が広がったので、私は呆れ果ててきたくしたのである。
我が山北町はキャンプ地としては人気が高く大勢の方が来訪するが、都会人は自然に関する知識が心もとない。「見張りを置くから平気」という暴言がその象徴で、大雨時の川の急激な増水率を考慮すれば「見張り」はほとんど役にたたない。しかも地理に詳しい地元の人間を嘲笑する様では、救いようの無いバカである。
そしてあのような結果に。テレビや新聞では「悲劇」のように取り扱っていたが、私に言わせれば単なる「バカどもの必然的結末」にすぎない。そもそも彼らがキャンプしていた場所は「キャンプ場」ではない普通の「川原」である。
(本来の「キャンプ場」はもっと高台)即ち彼らは死ぬべくして死んだのだ。
同情の余地など無い。ただ可哀相なのは子供だ(子供には大人のような判断能力が無い)「あのおじいさんのいうとおりにしようよ」と言った小さな女の子の言葉が忘れられぬ。無念だ。

(神奈川県山北町 匿名老人)

 

この内容が事実である可能性もありますが、裏取りもされない「何でも言いたい放題」な読者投稿に証拠能力はゼロです。

この地元住民に対して発せられたとされる暴言についても、事実として扱うべきではありません。当時の2chにおいてですら、この話は疑問視されてました。

 

ちなみにですが、この読者投稿に記載された「地元の人は臆病」「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などの暴言を“警察官に吐いた暴言”と扱っている動画が多く見られます。その時点でその動画は確認も検証もせずにネットの噂をかき集めただけの信用度ゼロな動画であることがよくわかります。

 

~以下、個人的な感想や推測~
個人的にこの読者投稿からは悪意のようなものが感じられ、最後の女の子の言葉なんて特に作り話のような印象しか受けません。
仮に事実だったとすると、荒天が予想されていた日に現地にいたことから、この“匿名老人”は現場に近い玄倉集落の住人、もしくは最低でも玄倉集落のある三保地区の住人だったと推測します。
1999年当時の三保地区の人口は不明ですが、公開されている2014年度以降の数字を基にChatGPTに1999年時点の人口は予測してもらったところ[620人]程度とのことでした。これに当時の神奈川県における70歳以上の男性が占める比率[3.5%]を当てはめると“匿名老人”に該当する人物は【22人】になり、玄倉集落に限定したらさらに少なくなります。
この少人数のうちの誰かが「たまたま荒天が予想される日に現場にいて」「たまたま中州グループに声をかけていて」「たまたまその人が『噂の真相』を購読していて」「たまたま読者投稿欄に寄稿するほど熱心な読者だった」と考えるのは、かなり無理があるでしょう。
仮定に推測を重ねた私の計算も無理がありますが、“老人”にしては違和感のある文章と相まって、私個人はこの読者投稿を信用してません。

 

【参考】

山北町 人口と世帯

総務省統計局 人口推計

 

いずれにせよ、8月13日の22:45に警察官に対して酔った上での暴言には根拠がありますが、それ以外の罵声については根拠がないと言えます。

 

④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。

⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。

②③と同様となりますが、「回収したらテントを返して欲しい」と言われた救助隊や、おにぎりを叩きつけられた地元住民のコメントが記載された新聞・雑誌の記事は見つからず、当時の2chにもそのような書き込みはありませんでした。

特におにぎりについては、Aさん達は救助された後すぐに病院へ搬送されたでしょうから、そもそも論として地元住民がおにぎりを渡せるようなタイミングがあったのか、という疑問があります。救助現場に数多く集まった消防、警察、自衛隊の方々の中にいる救助直後の被害者に、ノコノコと地元の人間がおにぎりを持って近づいてくる……と言う光景も違和感しかありません。朝の9時頃に、いつ終わるかもわからない救助活動を地元住民がおにぎりを持ってずっと見ていた……というのも無理があります。

 

2chには以下の書き込みがありました。

 

145 :山北町近所住人 :1999/08/21(土) 08:51
泊りがけの遺族に対し地元の家々でおにぎりの差し入れを届けたそうだ。
そしたら遺族の一人が「もっとましな物、持って来い!」と、ぬかしたそうだ。
さらに、行政を(何処の行政かは知らないが)訴える事を検討しているらしい

 

こんなのは雑誌の読者投稿以上に証拠能力はありませんし、2chのスレ内でも“匿名老人”以上に懐疑的に見る目が多かったですのですが、「救出されたリーダー格がおにぎりを「まずい!」と言って叩きつけた」という話は、この書き込みから派生して作られた話である可能性があるでしょう。

 

そして実はこの書き込みがなされた8月21日の神奈川新聞には「地元のボランティアが、作業員や行方不明者のご家族の方におにぎりを作っている」という記事が掲載されてました。あまりにもタイミングが良すぎますので、この記事を読んだ誰かが悪意を持って2chに書き込みしたのでは、と個人的には推測してます。

 

そうなると私の結論は「根拠なし」です。

 

要約すると、以下が私の結論です。

(○:事実 △:かなりグレー、もしくは一部デマ ✕:デマ)

 

○ ①警告を無視して中州に留まり続けた。

△ ②警告に来たダム職員や警察官に罵声を浴びせた。

△ ③濁流の中で立ちすくみながら、救助隊に罵声を浴びせた。

✕ ④救助後、救助隊に「回収したらテントを返して欲しい」と言った。

✕ ⑤救助後、地元の方から差し出されたおにぎりを「まずい!」と言って地面に叩きつけた。

 

4、補足

 

以下は補足というよりも蛇足になるかもしれませんが……。

 

事故から11~12年が経過した2010~2011年頃、女子高生となったAさんの長女のブログが発掘されたと話題になりました。ブログに直接玄倉川の名前は出てきませんが、書かれた内容から本人に違いないと炎上する騒ぎに。

何故炎上したのかと言うと、ブログには事故に対する自責の念や亡くなった家族への想いだけではなく、「もっと強く避難させてくれれば」「真剣に救命活動してくれたら」など他責ともとれる内容も書かれていたためです。

炎上した結果ブログは削除されてしまい今となっては確認する術は無く、魚拓と称して出回っているスクリーンショットも信用できる確証はございません。

もしそのスクリーンショットの内容が事実なら本人である可能性は高いと思いますが、間違いなく辛い思いをしてきたであろう方を今更責めることに意義はないと考えます。

 

5、最後に

 

多くの動画などでAさんはチンピラみたいな風貌となり、金髪だったりヤンキー風だったりと、まさに「DQNの川流れ」といった揶揄にふさわしい描かれ方をしております。

繰り返しになりますが、警告を何度も無視した上に、警告してくれたダム職員や警察官に暴言を吐いたりと、自業自得と言われても仕方ない行動だったことは確かです。

しかしながら、悪意的な誇張や捏造をもって貶めることは決して許されることではないでしょう。「そう思われても仕方ない行動をしていた」というのは理由になりません。

 

濁流に耐えていた時から救助されるまでの24時間近くもの間、Aさんは5歳の長女をずっと同じ姿勢で抱きしめて守り続け、救助された時は先に救助された長女に歩み寄って、疲労にも関わらず娘を抱き上げました。

「娘なのだから当然」「そんなに大事なら避難すればよかった」と言われればそれまでですけど、廃棄物処理会社の社長に対してAさんから「本当にすみませんでした」と謝罪があったとの報道もございます。(警察、消防、ダム関係者にも謝罪は欲しいところですが)

擁護するわけではありませんが、Aさんも自分の子供を愛する1人の社会人だった、として見るとほんの少しはイメージが変わったりはしないでしょうか。

今も生活している方々や亡くなった方々を、根拠のない悪評で必要以上に責める行為は控えるようにしたいものです。

 

ただ、この事件が「DQNの川流れ」としての悪評で有名になることで「中州は危ない」などの水難事故に対する啓蒙が広がったのは確かなので、その点はちょっと複雑な気持ちです。

 

■索引

本記事を書くにあたって参考にした文献等を以下に記載いたします。

国会図書館サーチで『玄倉川』を検索してヒットした結果の中で、事故に関する記載がありそうな書籍、雑誌には一通り目を通したつもりです。

(事故とは関係ない地理などの書籍などは除外してます)

 

≪参考文献≫
「朝日新聞」1999年8月14日~1999年8月30日
「神奈川新聞」1999年8月14日~1999年8月30日
「近代消防」近代消防社、1999年10月
「月刊消防:「現場主義」消防総合マガジン」東京法令出版株式会社、1999年11月
「現代」講談社、1999年10月号
「世界」岩波書店、2000年3月
「岳人」ネイチュアエンタープライズ、2000年8月
「道徳と教育」日本道徳教育学会、2002~2003年
「Keisatsu koron」立花書房、78巻11号 2023年11月
「噂の真相」株式会社噂の真相、1999年10月号
「災害の研究」災害科学研究会、2000年3月
「週刊新潮」新潮社、1999年9月
「週刊新潮」新潮社、1999年12月
「週刊宝石」光文社、2000年1月
「週刊読売」読売新聞社、1999年9月
「サンデー毎日」毎日新聞出版株式会社、1999年09月
「週刊現代」文芸春秋、1999年9月
「釣りバカ週刊誌記者のスクープ日誌」早池峰遥 著、2019年12月
「傍聴席から一言」高橋いさを 著、2025年11月

123便墜落事故の原因は「修理ミスに起因する圧力隔壁の破壊」と公式に発表されてます。

 

しかし、これに異論を唱える方もいらっしゃいます。

その異論のうち最も有名なものが「自衛隊が誤って演習用のミサイル(もしくは標的機)を当ててしまった」とする説ですが、比較的近年になって目立つようになってきた異説に「日本の優秀なOSであるTRONの開発を止めるために、アメリカがTRONの開発者が乗っていた123便を撃墜した」とする説がございます。

ネット上で生まれ、ネット上だけで広まっている、ネットの暗黒面を煮詰めたようなトンデモ論です。

ここではこの説を『TRON開発者抹殺説』と呼称いたします。

 

現在、我々が使用しているPCのOSはWindowsが世界を席巻しております。

この『TRON開発者抹殺説』は、そのWindowsの地位を脅かしかねない強力なOSとなりうる日本製OS“TRON”の開発を止めるために、アメリカが123便を撃墜して乗っていた開発者をまとめて殺した、という話になります。

 

率直に言って、話題にするのもアホらしい説です。

この説については、123便の陰謀説を否定する活動を行っている「JAL123便 事故究明の会」も相手にしてません。

 

でもネットにはこの説を信じてる人がいるのです。信じられないことに。

 

『自衛隊誤射撃墜説』もありえない話ではありますが、根拠らしきもの(根拠になってないのはさておき)を挙げる方がいらっしゃいます。

 

しかし、この『TRON開発者抹殺説』で根拠を挙げる人はいません。何故なら根拠は無いからです。

 

閑話休題的にこのアホらしい説について言及してみます。

 

1、TRONとは?
2、誰が123便を撃墜した(ことになっている)のか
3、TRONの開発者は123便に乗っていたのか

 

1、TRONとは?

『TRON開発者抹殺説』を唱える人にとって、TRONは「日本で開発されていた、なんかすごいOS」くらいの認識しかないのではないでしょうか。わかってないからそんな陰謀論を唱えられるんでしょうから。

 

そもそもTRONとは何なのか。

 

TRONとはWindowsなどに代表されるOSの1つで、日本製のOSとして1984年に開発プロジェクトが発足いたしました。

 

ただ一口にTRONと言っても色々ございます。

主なTRONは超ザックリで以下の通りです。

 

  • ITRON
    家電や自動車など特定の機器で使用される、いわゆる「組み込みシステム」用として開発されたOS。さらに軽量化されたμITRONもある。
  • BTRON
    パソコン向けに開発されたOS。普通に“OS”と聞いて浮かんでくるのはコレ。「超漢字」などが有名。携帯端末用のBTRONとしてμBTRONもある。
  • CTRON
    メインフレーム、いわゆる「大きなサーバ」用として開発されたOS。電電公社(NTT)で使用された。

 

他にもJTRON、MTRON、IMTRONなど、40年間のTRONプロジェクトの歴史においては色々なTRONが開発されてまいりました。

OSだけじゃなく、ハードウェアなどの開発も含めた『TRONプロジェクト』が発足したのが1984年。組み込みシステム向けのITRONの開発を目的に開始したプロジェクトで、パソコン向けのBTRONの開発が始まったのは1985年。まさに123便事故が発生した年です。

 

上記は超概要です。

TRONについてはTRONフォーラムや30周年記念サイトなどが参考になりますので、詳細はそちらをご覧ください。

https://www.tron.org/ja/

https://30th.tron.org/

 

要するにTRONは1984年に開発がスタートして、2000年代以降も特に家電製品等を制御するための組み込み用OSとして、世界中で広く使われているOSになります。

 

2、誰が123便を撃墜した(ことになっている)のか

『TRON開発者抹殺説』における123便“撃墜”の黒幕はアメリカおよびマイクロソフトです。陰謀論における登場率で「世界を操る闇の秘密結社・イルミナティ」や「世界を牛耳る闇の政府・ディープステート(DS)」などと並ぶ、悪名高きビルゲイツ氏のマイクロソフトですね。

 

マイクロソフトが恐れたとしたら、それはパソコン向けOSのBTRONということになりますが、前述の通り1985年はBTRONの開発が始まった年です。「なんか日本で凄そうなOSを作ろうとしてるみたいだ! よし、殺そう!」とマイクロソフトが牙を剥いてきたってことなのでしょうか? 開発が始まっただけなのに? おちおち夢も語れない世の中ですね。

 

ちなみに1985年はマイクロソフトがWindowsの最初のバージョンをリリースした年で、まだ株式も公開されていない状態でした。映画に出てくる悪役超巨大企業のように自前の運隊を保有してるはずもなく、アメリカ軍を動かせるような超権力の持ち主というわけでもありません。

 

どうやって123便を撃墜したのでしょうか?

 


 

100兆歩ゆずってアメリカ軍が戦闘機をもって123便を撃墜したと仮定しましょう。

 

でもその場合、すぐにレーダーで見つかります。

不可能と言わざるを得ません。

 

そう言うと「ステルス機(当時存在していた機体はF-117)が使われたからレーダーに引っかからなかったんだ!」と言い出す人がいます。当時の在日米軍基地にF-117が配備された記録を提示して欲しいところですが、それは最高機密なので出せないのでしょう。だったら何で貴方はそれを知ってるんだ、って感じですが。

 

と言いますか、配備されていたかどうか以前の問題として、F-117は地上の施設を空爆するための戦闘機であって、飛行機を撃墜することなんて出来ないんですけどね。

 

はっきり言って、アメリカ軍が123便を撃墜したなんて話は夢物語以外の何物でもありません。

 


 

ミサイル攻撃が可能なステルス機F-22は1985年当時はまだ製造されていないのですが、「実はアメリカではF-22の試作機・前身となる機体を開発していたんだ」という主張(主張と言うか妄想)を見かけたことがあります。

 

だから何でそんな超極秘事項を貴方が知ってるんだ、って話ですが、確かにそんな機体が存在していたとしたら123便を撃墜することは可能だったかもしれませんね。そんな機体が基地から発進したらマニアが涎を垂れらして黙っちゃいないでしょうけど。


とにかく撃墜が可能だったとしても、そんな夢のような(夢と言うか妄想)機体を使ってまで123便を撃墜したのに、TRON開発者を抹殺出来ていないのはどういうことでしょうか。次章に続きます。

 

3、TRONの開発者は123便に乗っていたのか

結論から申し上げますと、TRONの開発者は123便に乗ってませんでした。

 

『TRON開発者抹殺説』で抹殺されたとされているのは「松下電器のTRON開発者17人」です。複数会社合同のBTRONの開発において松下電器が中心だったのはその通りで、そして123便の乗客に松下グループの社員が17人いたのも事実でした。

 

何故そんなことがわかるのかと言うと、1985年当時は今と違って個人情報保護なんて意識は皆無であり、事故翌日の夕刊には全乗客の情報が新聞に掲載されていたためです。名前、住所、勤務先、搭乗理由など、現代では考えられないような情報で紙面が埋められてます。

(今でもネットで検索すると出てきます)

 

以下は個人情報をボカしてますが、1985年8月13日の朝日新聞夕刊です。

細かい住所まで記載されてるのは、本当に時代と言うか何と言うか……。

 

また、雑誌でも松下グループ社員の乗客について特集が組まれたりもしてました。

以下は事故翌月のサンデー毎日の記事の一部ですが、部署や家族構成まで記載されてます。

 

これらによると松下電器グループの社員が17人搭乗していたことがわかりますが、その中にTRON開発者がいなかったこともわかります。

松下電器でTRON(正確にはBTRON)の開発を行っていたのは松下電器産業中央研究所の情報システム研究所ですが、17人の中にここが勤務先の方は一人もいらっしゃいません。


『TRON開発者抹殺説』を唱える人に「誰が抹殺されたTRON開発者なのか、乗客名簿から具体的に名前を挙げてください」と言っても、回答できる人は存在しないんですよね。TRON開発者は乗客にいなかったので当然ですが。

 

しかもこの17人が123便に乗っていた理由は出張や帰省、友人の結婚式などバラバラです。TRON開発者の抹殺を目論むアメリカは、この17人を123便に搭乗させるために大いなる力を使って多種多様な搭乗理由を作ったとでも言うのでしょうか?

ディズニーランド帰りの女性社員3人組もアメリカが手を回して123便に搭乗させたと?

 

バカも休み休み言ってください。

 

いや、休んでも言わないでください。

 

そもそもTRONの開発を止めたいのであれば、TRONプロジェクトの中心人物である坂村健氏が真っ先に抹消対象になるかと思いますが、坂村氏は今もなおバリバリ活躍なさってます。

 


 

『TRON開発者抹殺説』には矛盾しかありません。

 

『TRON開発者抹殺説』を信じてる人が存在していることが信じられません。

「日本すごい。アメリカ嫌い」が極まり過ぎて頭が沸いてるのでしょうか。

 

『TRON開発者抹殺説』を唱える人は、ネットの陰謀論に騙されて乗っかっているだけの大馬鹿野郎です。

 

『TRON開発者抹殺説』を唱える人を見かけたら、問答無用で軽蔑しましょう。

1985年8月12日に発生した123便墜落事故の原因は事故調査報告書にて「修理ミスに起因する圧力隔壁の破壊」とされてますが、この説を否定する『自衛隊誤射撃墜説』の根拠としてよく挙げられるものが、墜落現場である上野村の子供たちが書いた文集になります。

 

『自衛隊誤射撃墜説』とは、123便が墜落したのは「自衛隊が訓練で発射したミサイルまたは無人標的機が123便に当たってしまったため」とする説です。

この説には続きがあって、「自衛隊は自分達のミスを隠蔽するために、極秘で出動させたファントムで123便が横田基地に着陸するのを邪魔した」「隠蔽のために墜落現場で証拠を回収した」などと唱えている方々もいらっしゃいます。

 

にわかには信じがたい説ですが、公式に発表されている「123便墜落後にファントムがスクランブル発進した」よりも早く、墜落前に極秘に出動させたファントムがあった証拠として挙げられているのが、子供たちの文集です。

 

一部の界隈では重要な証拠とされているこの文集ですが、なにせ一般の書籍ではなく小中学校の文集ですので、本屋はおろか普通の図書館にもございません。

「子供の文集に○○○と書いてある!」と声高に叫んでいる方々は当然文集を熟読してらっしゃると思いますが、普通に読もうと思っても難しいのが現実です。

 

今回は文集そのもののこと、文集に記述されている内容、および文集を読む方法について触れてみたいと思います。

 

1、そもそもどんな文集なのか

2、文集に書かれている内容

3、現時点で文集はどこで読めるのか 

 

1、そもそもどんな文集なのか

日航123便墜落事故の現場となった群馬県上野村。

夏休みに起こったこの事故は村の子供たちにも大きな衝撃を与えました。このような悲劇を二度と繰り返さないよう願いを込めて、上野村の小学校と中学校のそれぞれで制作されたのが計2冊の文集です。

 

「小さな目は見た」

 出版者:上野村立上野小学校

出版年:1985年9月

ページ数:116ページ

寄稿者数:148名

  1年生:18名

  2年生:22名

  3年生:27名 

  4年生:29名

  5年生:26名

  6年生:26名

 

「かんな川 5」

出版者:上野村立上野中学校

出版年:1985年10月

ページ数:164ページ

寄稿者数:87名

  1年生:33名

  2年生:27名

  3年生:27名

 

事故が起こったのが夏休み中だったため、文集の制作は学校の2学期が始まってからでした。事故当日のこと、事故後の村の様子や報道などについて感じたことが綴られております。

その他にも消防団員だったご家族の方が事故現場で生存者の方に法被をかけてあげたという話や、学校を利用していた機動隊の方から感謝の贈り物があった話など、他の文書にはない裏話も多いです。

 

ですが文集に過度の証拠的価値を見出すのはかなり危険と考えます。

制作が2学期が始まってからで事故からそれなりに日数が経過した後であることと、子供たちが大量の情報をインプットされた状態だったことを踏まえると、曖昧な記憶や間違った記憶があることは容易に想像できるからです。

 

印象に残った事象の有無や大枠の内容ならともかく、その事象が発生した細かい状況や時刻などを完全に信用するのは難しいでしょう。「子供たちが嘘をついている」という話ではありません。「記憶は容易く書き換えられてしまう」という話です。

これはアメリカの心理学者ロフタス氏の実験などでも明らかにされてますし、心理学用語ではありませんが「マンデラ効果(※)」なんて言葉が知れ渡るくらい“記憶が書き換わる”ことは日常的に発生するもの。

※マンデラ効果:大勢の人々が事実と異なる記憶を共有している現象を指す俗語。

 

個人の記憶と言うものは尊重されるべきものではありますが、自分の記憶が完全に正しいと断言できる人はいません。むしろ断言してる人がいたら、私は逆に信用できません。何事にも検証可能かつ明確な証拠が必要なのです。

 

文集から具体的な例を挙げてみます。

 

まず事故当日の123便の動き、自衛隊の動き、およびニュース速報のざっくりとした時系列を以下に記します。

 

《8/12》

18:12 123便が羽田を離陸

18:24 123便で爆発音が発生

18:56 123便が御巣鷹の尾根に墜落 → レーダーから消失

19:01 百里基地よりファントムがスクランブル発進

19:15 米軍輸送機(C-130)が現場を確認

19:21 自衛隊ファントムが現場で炎を確認

19:26 NHKで速報(アナウンサーによる口頭)

19:30以降 民放で速報テロップ表示

 

《8/13》

4:30 航空自衛隊が上空から現場確認

5:10 陸上自衛隊が上空から現場確認

6:30 上野村消防団が出発

9:00 陸上自衛隊が陸路で現地に到着

10:30 上野村消防団が現地に到着

10:50 生存者発見

 

上記を踏まえた上で文集を確認すると、おかしな記述が相当数あることに気付きます。

 

上野村立上野小学校「小さな目は見た」

1年生 T.Sさん
げつよう日のよる、六じはんごろ、おとうさんが「ひかった。」と、いったので、そとへでてみると、「なんか、かみなりかな。」といった。そしたら、おとうさんが、「ひこうきだ。」とさけんだ。

  ⇒18:30時点では123便は駿河湾上空を飛行中。

1年生 H.Kさん
わたしは、そとではなびをしていたら、ひこうきのおおきなおとがしました。はなびがおわって、うちのなかへはいって、テレビをみたら、うえのむらへひこうきがついらくしたようだと、ニュースがありました。

  ⇒速報時点で墜落地点が上野村だとは報道されていない。

2年生 R.Kさん
(8/13の)ごぜん九時ごろ、ニュースで、四人たすかったといったので、ほっとしました。

  ⇒9時時点で生存者は未発見なので、そのことがニュースで流れることはない。

3年生 A.Sさん
八月十二日の六時ごろ、ニュースでひこうきがついらくしたと言いました。

  ⇒18時はまだ離陸前。

3年生 H.Tさん
8月12日の夜にテレビを見ていると、ニュースをかわって(※原文ママ)、ひこうきがついらくしたと言いました。五百二十人しんでしまったので、かわいそうだなと思いました。

  ⇒8/12の夜時点では正確な犠牲者数は報道されていない。

5年生 Y.Iさん
八月十七日(※原文ママ)の七時ごろ、ぼくたちの上野村に、日航機が墜落しました。それがわかったのは、ニュース速報を聞いたからです。

  ⇒速報時点では墜落地点が上野村とは判明していない。

5年生 Y.Hさん
私は、十二日六時三十分ごろニュース速報で、「日航一二三便が、長野県付近でレーダーから消えました。」と出たのでお母さんに言ったら、すぐ来てニュースを見ました。

  ⇒18:30時点では123便は駿河湾上空を飛行中。

上野村立上野中学校「かんな川 5」

1年生 T.Kさん2
八月十二日ちょうど六時三十分ごろぼくの家の前の山の上の方でゴーというものすごい大きな音がした。

  ⇒18:30時点では123便は駿河湾上空を飛行中。

2年生 S.Aさん
六時三十分すぎ、私は、弟、妹といっしょにテレビを見ていたら、画面の上の方にニュース速報が出て、日航のジャンボ機がレーダーから消えたと書いてありました。ちょうどそのニュース速報が、出るちょっと前に飛行機が通ったような、とても大きな音が聞えました(※原文ママ)。

  ⇒18:30時点では123便は駿河湾上空を飛行中。

3年生 H.Kさん
6時30分ごろ大型飛行機が、飛んでいるような音がしたから外に出て見ると、勝山の南にある琴平山の方向から飛行機の音がしていたけれども飛行機らしきものは、見当たらなかった。

  ⇒18:30時点では123便は駿河湾上空を飛行中。

 

上記は明らかな時系列の矛盾や、後から知った情報による記憶の改ざんと思われる記述の一部です。中には誤記もあるかもしれませんが、いずれにせよ文集の内容を絶対のものとして扱うことがいかに危険かは、ご理解いただけたかと思います。

「具体的に書かれているから、記憶はしっかりしている」などと思い込んではいけません。

 

もちろん証言というものは重要な証拠の一つではありますが、文集の記述を何かしらの主張の根拠とするのであれば、その内容についての裏取りや他の情報と矛盾がないことの確認が必要です。

この文集に限らず、人の記憶の証拠能力がこの程度であることは認識しておくべきでしょう。

 

2、文集に書かれている内容

2冊の文集の中でも、事故の原因が『自衛隊誤射撃墜説』である根拠として挙げられるのが、小学5年生のH.Hさんと中学3年生のY.Kさんの記述です。

 

『自衛隊誤射撃墜説』を強く主張なされている青山透子氏の著書からの引用を以下に記します。

 

(「日航123便 墜落の新事実: 目撃証言から真相に迫る」(発売日:2020/6/8))

注意すべき点は、墜落前の大きい飛行機と小さな二機のジェット機という記述である。この子どもは具体的に目撃した時刻を書いている。これが一体何なのか、非番の自衛隊員が見た時刻から割り出すと大きい飛行機が日航機、二機のファントム機とすると筋が通る。それを見たのは小学校五年生のH・H君である。
『八月十二日の夕方、六時四十五分ごろ南の空の方からジェット機二機ともう一機大きい飛行機が飛んで来たから、あわてて外へ出て見た。そうしたら神社のある山の上を何回もまわっているからおじさんと「どうしたんだんべ。」と言って見ていた。おじさんは「きっとあの飛行機が降りられなくなったからガソリンを減らしているんだんべ。」と言った。ぼくは「そうかなあ。」と思った。それからまた見ていたら、ジェット機二機は埼玉県の方へ行ってしまいました。』(原文ママ、以下略)
六時四十五分という時間が具体的である。
その後しばらくテレビを見ていたらニュースで墜落の報道があったということである。時間的に見ると、墜落前であることからやはり大きい飛行機は日航機、小型ジェット機二機は公には発表されていないファントム機だと考えると他の目撃情報と辻褄が合う。いずれもくるくると何回もまわって見えていた、ということだ。

 

青山氏はH.Hさんが目撃した飛行機を「墜落前の日航機と、公には発表されていないファントム2機」としておりますが、果たしてそうなのでしょうか。

 

まず、具体的に時刻が書いてあっても、それが正しいとは限らないのは前述の通りです。

そして青山氏の著書では何故か省略されてますが、H.Hさんの記述には以下のような続きがあります。

 

それから、おれんちのお客が出てきて、「飛行機がレーダーから消えたんだって」と言った。おじさんが「これは飛行機が落ちたぞ」といいました。

 

H.Hさんが飛行機を目撃してすぐに、ニュース速報を見た“おれんちのお客”の発言があったのです。ニュース速報は早くてもNHKの19:26ですので、「六時四十五分ごろ~」という記述と明らかに矛盾します。

 

私は『H.Hさんが飛行機を見たのはニュース速報が出た19時半頃』と考えます。

 

そう考える根拠の1つ目は、『時刻の誤認』と『発言の有無の誤認』であれば前者の方が可能性が高いであろうこと。存在しなかった発言を記憶だけで作り出す(しかも複数の人間による複数の発言)より、時刻の勘違いの方がありえる話だろう、と。

 

そしてもう1つの根拠は、H.Hさんの『3機の飛行機が山の上をくるくると何回も回っていた』という目撃証言と同じような証言を、ニュース速報後として記述している子供が複数人存在することです。

 

上野村立上野小学校「小さな目は見た」

1年生 M.Sさん
8月12日のよる、うえのむらのおすたか山へひこうきがおちました。みんなでテレビをみていたら、ひこうきが、まいごになったとニュースでいいました。そしたら、おかあさんが、ひこうきのおとがしたのでそとへでてみたら、へんなひかりがいるといったので、みんなでそとへでてみました。
ピカンピカンとひかりながら、三つ山のうえをぐるぐるまわっていました。まいごのひこうきをさがしていました。

3年生 M.Hさん
(テレビで墜落に関するニュースを見た後)
ごはんをたべてるとき、おとうさんが、「○○、みてこい。」といったから、ぼくがみたら、ひこうきが、ぐるぐるまわっていました。ぼくは、やだなと思いました。

5年生 M.Oさん
ぼくの家では、テレビを見ていました。そのとき、画面の上の方に、ニュース速報で、日航機がレーダーから消えたとでました。もうそのときには、ぼくの家の上の方では、飛行機が3機ぐらい飛んでいました。お父さんは「それで、飛んでさがしているのだろう。」と言っていました。

上野村立上野中学校「かんな川 5」

1年生 T.Iさん
おれは、午後七時のときは学校の夏休みの宿題をやりはじめてから二分か三分くらいたってから自衛隊のジェット機の音がしたので外に出て見ていたらジェット機は何回も同じコースを飛びつづけていたのでお父さんに聞いたら日航の飛行機が墜落したらしいなと言っていました。

⇒『午後七時』とありますが、飛行機を目撃したのはお父さんがニュースを見た後。H.Hさんと同じ理由で、早くとも19時半頃の話と推測できます。

 

以上のように、H.Hさんと同じようなものが目撃されたのは、いずれもニュース速報のタイミングです。

H.Hさんを含めて、子供たちが目撃したのは『墜落前の123便とそれを追いかける自衛隊機』ではなく『墜落した123便を捜索している飛行機』だ、というのが私の見解になります。

 


 

青山氏の著書からもう一か所、引用させていただきます。

 

(「日航123便 墜落の新事実: 目撃証言から真相に迫る」(発売日:2020/6/8))

墜落前に見たものとして小学校でも記述があったが、大きい飛行機と二機のジェット機が目撃されている。中学校三年生のY・K君である。
『その日は、やたら飛行機の音がしていた。父ちゃんがおかしく思って外に出ていって、「おい、Y、飛行機が飛んでいるぞ。来てみろ。」と言ったので行ってみた。飛行機は大きいような飛行機と小型のジェット機が2機飛んでいた。五分以上もたっているのに、さっきから、ぐるぐる回ってばかりいた。外にいると蚊にさされるので家の中にはいった。そしてテレビを見ていたら「キロリン、キロリン」と音がして、なおいっそうテレビに注目した。ニュース速報で、大阪行き日航ジャンボジェット機123便が、レーダーから消えました。と書いてあった』とある。
これも大きい飛行機と二機のジェット機である。二機はファントム機に間違いないが、大きい飛行機はアントヌッチ氏が後ほど手記を書いたように、墜落地点を探しにきたC-130輸送機ではないだろうか、という説もあるが、アントヌッチ氏は自衛隊の飛行機は見なかった、ということである。二機のファントムと日航機による追いかけっこ状態だと推定される。

 

Y.KさんもH.Hさんと同じような挙動の飛行機を目撃した、という話ですね。

Y.Kさんの話の流れは以下のような感じです。

 

①やたらと飛行機の音がした。 

②ぐるぐる回っている3機の飛行機を目撃。

③家の中に入る。

④ニュース速報を見る。

 

これだけだと目撃した3機の飛行機が『墜落前の123便とそれを追いかける自衛隊機』なのか、『墜落した123便を捜索している飛行機』なのか判断できません。③と④の間にどのくらいの時間経過があったのかがポイントです。

 

青山氏が仰るように目撃された飛行機が「墜落前の123便」であれば、目撃したのは18:50頃で、ニュース速報が流れたのは早くても19:30頃です。

つまり③と④の間で30分以上が経過していることになりますが、これもまた私の見解とは異なります。

 

実はこのY.Kさんの記述にも、青山氏の著書では省略されている続きがあります。ニュース速報を見た後、Y.Kさんはお母さんと以下の会話しておりました。

 

「じゃあ、今、飛んでいる飛行機がさがしているんだ。」と言ったら、母ちゃんが、「どこへ落ったんかさ。」と言った。(※原文ママ)

 

目撃した飛行機を『今、飛んでいる飛行機』と称してます。

つまりニュース速報を見たのは飛行機を目撃した直後で、③と④の間の時間経過は極めて短かったことがわかります。

 

以上のことから、Y.Kさんが目撃した飛行機も『墜落前の123便とそれを追いかける自衛隊機』ではなく『墜落した123便を捜索している飛行機』と言えます。

 

ちなみに青山氏は『Y.Kさんが目撃した飛行機≠C-130輸送機』とする根拠として「自衛隊の飛行機は見なかった」と言うアントヌッチ氏の証言(※)を挙げてます。

アントヌッチ氏の証言は事実の誤認が散見されるため、完全に信じ切るのは危ないとは思いますが……それはそれとして、とりあえず航法士だったアントヌッチ氏の座席はコックピットの奥になるので、アントヌッチ氏は周囲の様子を視認できていなかったのではないかと個人的には思ってます。

確かなのは、C-130が現場に到着した直後に“墜落後に発進した”自衛隊機が現場に到着した、という事実です。

 

※アントヌッチ証言:日航機墜落事故の10年後の1995年に「サクラメント・ビー」紙上にて発表された、マイケル・アントヌッチ元米空軍中尉(当時)による証言。事故当時、アントヌッチ氏は米軍のC-130輸送機に航法士として搭乗していた。日本側に先んじて墜落した123便を発見し、救助を行おうとしたら基地への帰還命令が出たため救助を断念。このことについて緘口令が出た、などと手記で発表して話題になった。ただし、証言内容には事実と異なる記述も多い。

 


書かれていることが裏取り出来ることであれば、文集も事故が子供の目にはどう映っていたのかがわかる有用な資料です。

ただ、あくまでも“文集”ですので、公的なレポートのように誤解されない書き方がなされているわけではなく、読み手によっては解釈が色々可能だったりします。

 

例を挙げると、「真っ赤な飛行機」を見たと聞いた、と記述している子供がいました。

これに関して夕日を反射している123便とするか、123便のアンチコリジョンライト(衝突防止灯)の印象が強かったとするか、『真っ赤な飛行機=ミサイル』とするかなど、この言葉だけでは何通りもの解釈が出来ます。だから他の証拠との矛盾が無いことの確認や裏取りが必要になります。

(『真っ赤な飛行機=ミサイル』については「いつ誰がどこから撃ったのは全くわからない」「撃たれた瞬間に目撃される」「飛んでる間にすぐレーダーに発見される」など矛盾しか存在しないため、その可能性はゼロと考えてます)

 


文集の内容に関する結論は以下の通りです。

  • 『自衛隊誤射撃墜説』の根拠とされる子供たちの記述は根拠になっていない

 


文集の内容について、ちょっとした補足です。

文集に“書かれていること”ではなく“書かれていないこと”について。

 

事故当日の夜に「救助に向かおうとした自衛隊員2名が射殺された」というニュース速報があった……という話があります。

事故から数十年が経過した後、そのニュース速報を見たとする方が複数人現れるようになったのですが、証拠となる録画テープなどは一切出てきておりません。出てくるのは悪質なコラだけと言うのが現状です。

 

そもそもの話として「自衛隊員が射殺された」なんてニュースが流れることはありえないのですが(自衛隊が事故の隠蔽のために内部で殺人を犯したのに、自ら警察に即通報したんですか? それに『射殺された』なんてニュースが流れるには、撃たれた人が病院に運ばれて医師により死亡が正式に確認されて、検死で拳銃で撃たれたことが死因であると確定して、更にそれが公式に発表された後…‥とかなり時間がかかります。「撃たれて病院に運ばれた」も何もなしにいきなり『射殺』なんて報道されるわけないでしょう。その他、ありえない理由多数)、そんなニュースは存在しなかったとする根拠の1つとして、子供たちの文集が挙げられると思います。

 

文集には夜までTVにかじりついてニュースを見ていた子供の記述が多数ございます。身近に飛行機が墜落したかもしれないという異常な状況ですから、ニュースが気になって仕方なかったことでしょう。ネットなんて無い時代。情報ソースはTV、そしてニュースです。

 

でも文集には1人たりとも「自衛隊の人が射殺されたというニュースがありました」なんて書いてる子供はおりません。

これほどインパクトの強いニュースに誰一人として触れないなんてありえないと思いませんか?

射殺ニュースの後に訂正ニュースが流れたとしても「間違いだったみたいでよかったです」くらいは書きますよね?

 

文集のことだけをもって『ニュースは100%無かった』とは言いません。でも他の証拠と併せて、ニュースが無かったことの証拠の1つにはなり、結論として射殺ニュースなんて無かったと思ってます。

私は『事故から数十年経過してからの「ニュースを見た記憶がある」という証言』よりも『事故翌月に書かれた、誰もニュースに触れていない文集』を重要視します。

 

それにしても文集を絶対の証拠として自衛隊誤射撃墜説を支持してる人の中に、文集をもって射殺ニュースを否定する人を見たことないのは何故なんでしょう?

 

3、文集はどこで読めるのか

これらの文集の内容は青山氏の著書などで断片的な抜粋を読むことができますが、「ちゃんと読んでみたい」という方も多いでしょう。前述の通り裏話のようなものも多く、当該事故に興味のある方(というと語弊がございますが)は一読の価値があると思います。

 

この章ではどうすればこれらの文集を読めるかをご紹介いたします。

 

●図書館の利用

~どこの図書館にあるか~

珍しい本を探す際、蔵書にある可能性の高さから真っ先に浮かんでくるのは国会図書館ですが、残念ながらこれらの文集は国会図書館にはございません。蔵書数ランキングで国内上位の図書館も軒並み全滅です。

 

全国の図書館の所蔵検索を行った結果、ヒットするのは群馬県前橋市にある群馬県立図書館のみとなります。
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I10111101511108

 

群馬県立図書館には他にも123便墜落事故に関する本や遺族会の冊子、事故調査報告書などもございます。事故の現場である群馬県ならではと言えますね。

 

~どうしたら読めるか~

群馬県立図書館のこれらの文集は複数冊ずつ蔵書があり、「図書館内での閲覧用」と「貸出用」の蔵書がございます。

 

図書館で読む場合は、2階の群馬資料コーナーに文集が所蔵されてますので、そこで手に取ることができます。ただこちらの資料は閲覧専用で持ち出すことはできません。2階の机を利用して読む形となります。

 

貸出用の蔵書を借り受けたい場合は、カウンターにその旨を伝えてください。

その際は群馬県立図書館の資料検索結果で出てくる蔵書の中でも『書庫(BF)』が所蔵場所となっている蔵書を指定します。

 

もっとじっくり読みたい場合、考えられるのは『複写』でしょう。つまりコピー。

群馬県立図書館に限らず、図書館の蔵書の多くは「調査研究の目的」であれば複写が可能です。ただし著作権の制限により、複写は最大で書籍の半分までとなります。半分とは言え有効な手段……のように思えますが、これが一般的な書籍ではなく文集となると話は難しくなります。

 

1人の著者による書籍であれば「最初のページから半分のページまで複写が可能」などと話は簡単ですが、数多くの著者(今回は子供たち)がいる文集の場合だと「“1人1人の文章”の半分までしか複写できない=1人1人の文章それぞれの半分を紙などで隠しながら複写」となります。これはちょっと現実的な方法ではありませんので、複写は諦めた方がよろしいでしょう。

 

~遠方にお住まいの方の場合~

何度も足を運んで図書館内で読むにしても、借りて読んでから返すにしても、近くにお住まいの方であれば問題ございませんが、遠方の人間だとそうもいきません。そんな時に有効なのが“相互貸借”という制度の利用です。

 

相互貸借とは『近所のA図書館にはないけど、遠くのB図書館にはある蔵書』を借りたい場合、A図書館にB図書館から対象の蔵書を取り寄せてもらうよう申請し、その蔵書をA図書館で借りる制度です。

この制度を利用することで遠方にお住まいの方でも、お近くの図書館に群馬県立図書館から文集を取り寄せてもらうことにより、文集を借りることができます。

実は私もこの制度を利用して、都内の図書館に群馬県立図書館から文集を取り寄せてもらいましたし、おそらく青山氏もこの方法で文集を確認なされてます。

 

ただこの相互貸借という制度は、A図書館とB図書館が同一都道府県内の図書館であることを前提としている場合があり、群馬県外の図書館では申し込みが却下される可能性があることにご注意ください。群馬県立図書館は他県からの相互貸借も受け付けているので、ご近所の図書館が他県への相互貸借に関する申請を受け付けているかどうかは要確認です。

 

あと40年にわたって多くの方々が手に取ってきただけあって、「小さな目は見た」の貸出用の蔵書はかなり傷んでます。取り扱いには注意しましょう。
(製本されている「かんな川 5」は結構しっかりしてます)

 

~補足~

「小さな目は見た」のみではありますが、上野村図書館にも蔵書があるようです。
https://www.lib-eye.net/uenomura/book_detail_auth?authcode=jm4LxMGpKxPvvkd1ekf66w%3D%3D

 

ただこちらは私の方で実物を確認出来ておりません。上野村図書館まで足を運んでみたものの、開館しているはずの時間だったのに閉まってたんですよね……。

 

●日本航空安全啓発センターの見学

JALの安全啓発センターはJALグループ社員向けの研修・教育のための施設で、123便の機体の一部などが展示されてます。一般にも公開されていて、完全予約制ではありますが見学が可能です。

 

センター内には図書室があり、見学時間内であれば蔵書に目を通すことが出来ます。そして私が2023年9月にセンターを見学で訪れた際、図書室で「小さな目は見た」を見かけました(「かんな川 5」は不明)。

 

ただ1時間半の見学時間の大半が社員の方による案内・説明の時間となりますので、見学者が自由に動ける時間は15分あるかどうかと言ったところです。しっかり目を通すには少々時間が足りませんし、センターに行ったらセンターでしか見ることのできない展示や資料に時間を使われた方がいいでしょう。

 

●その他

個人的に文集をお持ちの方として考えられるのは、文集の実物が配布されたであろう当時の子供たちでしょうか。ただ40年経った今でもお持ちであるかどうかは厳しいですし、個人に文集を読ませていただくよう頼み込むのも非現実的です。

 


 

結論として、文集を読む方法は以下の2択になります。

  • 群馬県立図書館まで足を運んで、館内で読む or 借りる。
  • 近所の図書館に群馬県立図書館への相互貸借を申請して借りる。

 

以上、日本航空123便墜落事故に関する、上野村の子供たちの文集についての考察でした。

 

    今回は小ネタです。

     

    青山透子氏の著書「日航123便 墜落の新事実: 目撃証言から真相に迫る」(発売日:2020/6/8)に『123便事故発生直後に、テレビや新幹線内で123便事故に関するニューステロップが流れた』という記載がございました。

     

    (「日航123便 墜落の新事実: 目撃証言から真相に迫る」)

    緊急放送が続々と流れ、テレビや新幹線内のニューステロップで事故が報道された。その中には多くの人々が驚いた緊急報道があった。それは『自衛隊員二名が射殺された模様』というものだったが、その数分後『先ほどのニュースは誤報でした』という内容だった。具体的には二十時頃、『ただ今現地救助に向かった自衛隊員数名が何者かに銃撃され、死者負傷者が多数出た模様です。情報が入り次第お伝えします』であったと記憶する。なおこのニュースは二〇一〇年まで動画投稿サイトで流れていたが、今は削除されている。

     

    この内容について青山さんのWikipediaに誤記である旨が記載されたため、そのことに反論する記事をブログに投稿なされました。

     

    (青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相
      2023-11-15「偽情報にご注意を! 青山透子」

    デマその2
    新幹線内の電光掲示板という当時存在しない事が証明されている明らかな誤記
    ➡これも無知による書き込み。最近の新聞報道を添付する。
    「車内ニューステロップは1985年に始まった。JR東海が新聞社などと契約して流している。朝日新聞や読売新聞といった全国紙だけではなく、JR東海の本社が名古屋にあるためか、中日新聞のニュースも流れている。」
    従って、10985年年から、すでに電光掲示板があったのである。

    ※ “10985年年”と言うのは原文ママです。内容云々の前に、こんな誤記を1年半放置してるのは意味がわかりません。

     

    この反論を受けて、その後Wikipediaから青山さんがデマと断定した記述は削除されました。

    ただ結論から言うと、青山さんの方が明らかな誤記なんですよね。

     

    当初から鉄道ファンから「123便事故発生時、まだ新幹線にニューステロップは流れてなかった」と猛烈に突っ込みを受けてましたが、青山さんはWEB記事を引き合いに自らの正しさを主張されてました。

    東洋経済ONLINE「東海道新幹線「車内ニュース」終了は残念だ スマホ使えぬ満員の通勤電車では現在も重宝」

     

    ニューステロップが日本で初めて流れたのは東海道新幹線の100系車両でした。

    確かにこの100系車両が登場したのは123便事故の5カ月前である1985年3月。ただし3月時点では試作車であり、営業運転は同年10月から。これが好評だったので翌1986年6月から量産に入り、同年11月から量産車が投入……という時系列になってます。上記のWEB記事は“1985年”と年のみを記載してますが、営業運転は10月からだったことに注意が必要です。

     

    (「旅鉄BOOKS 014 新幹線で知る日本 なるほど地理・歴史・社会」池亨著(発売日:2019/1/17))

    100系は、1985年3月に試作車(9000番台)が登場。同年10月から営業運転に入り、翌86年11月ダイヤ改正で量産車が投入された。

     

    (「東海道新幹線三〇年」須田寛著(発売日:1994/11/1))

    また、情報化社会を反映して、車両出入口上の情報ボード設置(運行情報、ニュースなどを流す)、電話サービスの拡充が行われた。
    (中略)
    とりあえず五十九年第三十六次車として先行製作一編成が発注され、六十年三月から入線した。この結果、好評を得たので、六十一年六月から新会社移行の直前の六十二年三月まで、六編成が量産され、以後の標準形式となった。

     

    つまり123便事故が発生した8月時点では試作車段階だったわけです。試作車でニューステロップが流れるのか……という話になりますが、実はそれ以前の問題でして、1985年に100系車両が登場したのは間違いないのですが、ニューステロップが流されるようになったのは1989年3月からでした。

     

    1989年当時の新聞記事が以下となります。

     

     

     

    100系車両にはドアの上部に情報ボードが設置されてましたけど、1985年当初は運行情報等が表示されるのみで、新聞社と提携してニュースが流れるようになったのは1989年です。これは当時の様々な雑誌や新聞で確認できることですので、青山さんが引用した記事が明らかに誤ってます。

     

    青山さんはこのことをずっと指摘されてますが、絶対に自らの誤りを認めようとしません。こうなると青山さん主張全てが信用できなくなります。誤りを訂正出来ない人の情報をどうして信用できるでしょうか。

    真実を追求しようという立場において、この態度は全くもっていただけません。非常に残念です。

     


    ちなみに青山さんが流れたとしていた『自衛隊員二名が射殺された模様』というニューステロップですが、普通に考えればありえません。ありえない理由はたくさんあるので、それを語る機会は別にしたいと思います。

     

    ただ、最近とある関係者の方が、このニューステロップが実際にテレビで流れたとするような発言を動画内でされており、今後の動向が気になるところです。

    123便墜落事故に関して、事故調査委員会(現在の運輸安全委員会)の調査結果に懐疑的な方がよく仰られるのが
    「ボイスレコーダーを公開しろ!」
    「公開しないのは後ろめたいことが録音されているからだ!」
    という主張。

     

    正確にはコックピットボイスレコーダー (CVR)。
    コックピット内の音声、および管制等との交信を録音したものです。


    CVRのデータは文字起こししたものが事故調査報告書に記載されており、全世界に向けて公開されてます。
    なので「もう公開されてますよ?」で話は終了なのですが、懐疑派の方々は「報告書は信用できない」として、生データの公開を求めているわけです。

     

    「でもコックピットの音声ってYoutubeとかで聞けなかったっけ?」
    という方も多いかと思いますが、これは2000年に流出した音声がテレビで放送されたものです。
    誰が流出したのかはわかっていないものの、一応音声データを聞ける状態にはなっているわけですが、流出した音声データは「複数のデータを統合している」と言う意味で明らかに“編集”されており、さらにそれを受け取ったテレビ局などでも放送にあたって手を加えているでしょう。
    なので今拡散されている音声データについて、改ざんとか編集とかを論じることに意味はありませんし、そもそも非公式なものなに対して改ざんがどうのこうのと文句を言う人はいないでしょう。

     

    と言うことで報告書懐疑派の方々が「CVRは改ざんされている!」と仰っているのは、『報告書に記載されたCVRの文字書き起こしデータは改ざんされている』という主張であると考えます。

     

    今回は2つの観点で深堀します。

     

    1. CVRの生データは公開可能か?
    2. 報告書のCVRのデータは改ざんされているのか?

     


    1、CVRの生データは公開可能か?

     

    結論から言うと公開は不可能です

     

    理由は国際民間航空条約(通称:シカゴ条約)でCVR等の生データの公開を禁止しているためです。

     

    日本を含めて世界中の多くの国が「国際民間航空機関(略称:ICAO)」に加盟しており、シカゴ条約に批准してます。

    https://www.icao.int/Pages/default.aspx

     

    ICAOの目的は『国際民間航空に関する原則と技術を開発・制定。その健全な発達』。各国がシカゴ条約を遵守することで、航空技術や事故の情報を世界で共有できるわけですね。

     

    そのシカゴ条約の中で航空機事故の調査の基準や手順が定められているのが第13付属書です。
    この第13付属書の中でCVR等の生データの公開が禁止されてます。

     

    第13付属書はICAOのサイトで閲覧可能ですが(アカウントの登録が必要です)、残念ながら日本語版はございません。
    ただ日本航空機操縦士協会の昔のサイトに古いバージョン(第8版)の日本語版があります。
    http://www.japa-shibu.jp/japa/
    http://www.japa-shibu.jp/japa/japa_com/houmu/pdf/houritsu/icao13.pdf

     

    大意は変わっていないのでこちらを見てもいいのですが、せっかくなのでICAOにある最新バージョン(第13版)を見てみましょう。
    『Google翻訳+私の日本語手直し』でお送りいたしますので、不安な方はICAOのサイトで原文をご参照ください。

     

    第13付属書の【第5章 調査】に以下の記載があります。

     

    事故・事件調査記録の保護

     

    5.12  事故または事件の調査を実施する国は、当該国が指定した権限のある当局が国内法に従い、付録2および5.12.5に従って、当該記録の開示または使用が当該調査または将来の調査に及ぼす可能性のある国内的および国際的な悪影響を上回ると判断しない限り、事故または事件の調査以外の目的で以下の記録を公開してはならない。

    a) コックピットボイスレコーダーと航空機に搭載された記録の録音、およびそれらの録音の複製

    b) 事故調査機関が保管または管理している以下の記録
     1) 事故調査当局が調査の過程で関係者から得たすべての供述
     2) 航空機の運航に関与した人々の間のすべての通信
     3) 事故または事件に関与した人物に関する医療情報または個人情報
     4) 航空管制機関の録音および録音の複製
     5) 事故調査機関および認定代理人が事故またはインシデントに関連して行ったフライトレコーダー情報を含む情報の分析および意見
     6) 事故またはインシデントの調査の最終報告書の草案

     

    5.12.5 各国は、コックピットボイスレコーダーの音声並びに航空機に搭載された記録の画像及び音声が、一般に公開されないよう措置を講じなければならない。

     

    このように諸々のデータを一般に公開することは出来ないと明記されてます。


    「公開することで得られるメリットが悪影響より大きいと判断出来ない限り」という条件がありますけど、既に専門家によって調査分析が完了している元データを公開することで得られるメリットと言うと、失礼な表現になりますが『聞きたい人の気持ちを満足させる』以外にないと思うんですよね。

     

    では何故ここまでデータが非公開とされているのか。
    理由が以下の注釈に記載されてます。

     

    注記 5.12 に記載されている記録には、事故または事件に関連する情報が含まれる。安全上不要な目的でそのような情報が開示または使用されると、将来その情報が調査員に対して公開されなくなるかもしれない。こうした情報にアクセスできないと、調査プロセスが妨げられ、航空の安全に重大な影響が及ぶことになる。

     

    つまり「情報が広く公開されるようなことがあると、今後情報を得られなくなる可能性があるから」ということです。
    内容にもよりますが、情報が拡散されることで当人が裁判等で不利になったり、バッシングなどの私刑に結びついたりする可能性があります。であれば当事者が「余計なことを言わずに黙っておこう」となりかねないことは容易に想像できます。


    事故調査の目的は再発防止です。

    その目的を妨げる可能性があるなら、非公開となるのも致し方ないでしょう。

     


    ただ、CVRの生データの公開を求める方には以下のようなことを仰る方もいらっしゃいます。

     

    「シカゴ条約は破っても問題ない」
    「過去にCVRの音声データが公開された事故があるから、123便事故でも公開するべき」

     

    本当でしょうか?

     

    まずシカゴ条約を破って問題ないわけがありません
    それは他国と航空の安全に関して情報を共有できなくなることを意味します。
    国際条約を破ることは他国の信頼を失うことに繋がるのです。
    つまり国益を損ねるということです。

     

    日本国憲法でも国際条約を遵守するよう定められてます。

     

    (日本国憲法)

    第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
    2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

     

    シカゴ条約は破ってもいいとする方は、憲法を無視していいと仰ってるのと同義。そんな言い分が通じるはずもありません。

    憲法に基づいて『知る権利』を主張されるのであれば、国益に通ずる憲法を守ることも忘れないでください。

     

    そして『過去にCVRの音声データが公開された事故がある』という点についてですが、これを主張なされる方は以下の航空事故を例に出されることが多いです。

    • 1972年 日本航空ニューデリー墜落事故
    • 2009年 USエアウェイズ1549便不時着水事故

    まず日本航空ニューデリー墜落事故

    1972年当時の日本航空471便が、インドのニューデリーで墜落して乗員乗客90名が亡くなった事故です。
    この事故で日本航空がCVRのデータを公開していたことを受けて「だったら123便事故でもCVRを公開出来るはず。公開しないのはおかしい」という論法になります。

     

    まず事実として、この事故のCVRは公開されました。
    ただし、これは事故の現場であるインドが『裁判形式で行う独特の方式』という調査方法を取っているためであり、CVRの音声が流されたのは公判の中での話です。そのデータをメディア(NHK)が入手して保管しているそうですが、こんなのは特別な事例。

     

    柳田邦男氏の著作「続 マッハの恐怖」(発売日:1986/11/1)にも以下の記載がございます。

     

    (「続 マッハの恐怖」P.288)

    つづいて七月二十日、第三回法廷で、いよいよボイス・レコーダーが公開された。事故調査のための法廷は第一回公判以来すべて公開であり、後半資料もすべて公表することが、すでに報道機関に伝えられていたが、日本の特派員にとってとくにこの日の法廷は傍聴を欠かすわけにはいかなかった。
    (中略)
    だが、ともかく証拠資料の公開というわけで、ボイス・レコーダーのテープは録音機にかけられたのである。ボイス・レコーダーのように事故調査上最も重要な物的証拠がナマのままで公開されるということは、世界でも異例のことであった。

     

    この事故を引き合いにして「CVRは公開されるべき」と主張するのは「赤信号でも救急車はそのまま通れるのだから、自分も赤信号を無視して問題はない!」と言ってるのと同じではないでしょうか。

     

    そしてUSエアウェイズ1549便不時着水事故について。
    これは2009年にUSエアウェイズ(現:アメリカン航空)1549便が両エンジンが停止した状態でハドソン川に不時着したものの、なんと死者数がゼロと言うことで「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、映画化までした事故となります(トム・ハンクス、カッコよかったですね)。


    この事故の公聴会でCVRが公開されたため「アメリカではCVRを公開するのが当たり前だから、日本で公開しないのはおかしい」という論法になります。

     

    確かに映画「ハドソン川の奇跡」ではCVRが公聴会で流されるシーンがありました。
    でも現実の公聴会ではどうだったのかと言うと、実際のCVRは流されていないようです。

     

    公聴会は議事録が公開されてます。

    https://data.ntsb.gov/Docket/Document/docBLOB?FileExtension=.PDF&FileName=Transcript+-+Public+Hearing+Day+1+%2806%2F09%2F09%29-Master.PDF&ID=40315650

     

    議事録によると、実際の公聴会では事故時の航跡をアニメーション化したものが流されて、CVRについては文字書き起こされたものが表示されていたとのこと。

     

    (USエアウェイズ1549便不時着水事故 公聴会第1日目(2009年6月9日)議事録)

    In closing, I'd like to show an animation we put
    together. It's of the ground track of the accident flight
    beginning shortly before the time of the bird strikes. On the
    screen, you'll see an aerial photograph of the Hudson River area,
    a moving yellow line that will represent the aircraft ground
    track, and you'll also see selected quotations from the cockpit
    voice recorder and that's from the transcript.
    We're not allowed, by law, to play that over the air.

    最後に私たちが作成したアニメーションをお見せします。これは鳥が衝突する直前の事故機の地上航跡です。
    画面にはハドソン川周辺の航空写真と、航空機の地上航跡を表す動く黄色の線が表示されます。また、コックピットボイスレコーダーの抜粋を文字起こしした記録もご覧いただけます。
    法律によりこれを放送することは許可されていません。

     

    法律でコックピットボイスレコーダーは放送できない、と。
    アメリカでもシカゴ条約は遵守されているのです。

     

    と言うことで、他の事例をもとに123便事故でのCVR公開を求めるのは厳しいかと存じます。

     


    以上、CVRの生データは公開不可という話でした。


    どうしても公開するのであれば、ICAOからの脱退か、シカゴ条約の改定が必要ですが、いずれもハードルは限りなく高いと言えるでしょう。

    しかも、仮にそこまでやってCVRを公開したとしても、結果としては後述の通り「報告書のCVR書き起こしに改ざんは無かった」となる可能性が高いです。

     

    そしてCVRの公開については日本航空を訴えても意味はありません

    何故なら日本航空は生データを所持・保管してますが、それを公開する権限を持っていないのですから。

     


    あとこれは完全に個人的な見解になりますが、もし仮にCVRの生データが公開されたとしても、そこに何の問題も無かったら(実際無いでしょうけど)、「CVRの生データは改ざんされてるに違いない」と言い出す人が現れる気がしてなりません。

     


    実のところ、私個人としてはCVRの生データを公開できるなら公開した方がいいと思ってます。たとえ解析の結果として新たな発見が無かったとしても、『事故当時より向上した技術で改めてCVRを解析した』という事実によってご遺族の方々の気持ちが少しでも晴れるのであれば、そのことに意味はあるんじゃないかと。

    (ただ人が亡くなる直前の様子を一般公開することの是非はあるかと思います)

     

    しかし、残念ながら “公開は不可” が現実なのです。

     


    2、報告書のCVRのデータは改ざんされているのか?

     

    報告書にはCVRのデータが記載されてますが、これが改ざんされているという指摘があります。
    正確に言うと「都合の悪い箇所が削除されているに違いない」という指摘です。

     

    結論から申し上げると、これは完全に無理筋です。
    改ざんは限りなく不可能と言っていいと思います。

     

    CVRの概要について説明させていただくと、まずCVRは1本のマイクで全てを録音しているわけではなく、4つのマイク・チャンネルで録音されてます。

    • エリアマイク
       操縦室内の固定マイク。会話以外の環境音も録音。
    • 機長用マイク
    • 副操縦士用マイク
    • 機関士用マイク
       各自の交信内容を録音。

    各自のマイクでの交信相手は以下となります。

    • 東京管制区管制所(東京ACC)
    • 東京進入管制所(羽田APC)
    • 横田進入管制所
    • 日本航空社用無線

    各自はそれぞれのチャンネルで交信相手を変えることが出来ました。
    報告書に記載されているCVRの文字起こしは、これらの録音データを元に書き起こされてます。

    (2000年に流出した音声データはこの4チャンネルの音声データに加えて、管制側の音声データを統合して作成されたものと推察されます)

     

    そして当然ながら交信相手側にも録音された音声データがあります。

    つまり改ざんと行うのだとしたら、その交信相手も改ざん工作に加担してもらう必要があるのです。
    大勢の関係者に改ざん工作という犯罪行為への協力を求め、データ間での矛盾がないよう厳密に辻褄合わせをしてもらって、それを記録に残さず口外することもなく40年間も隠し通してもらう。ちょっと考えればそれがどれだけ無理なことか想像できるでしょう。

     

    それだけではありません。
    航空機の通信は暗号化されていないため誰でも傍受が可能でしたので、123便の通信を傍受していた他の航空機や多数のエアバンドリスナー(航空無線の傍受が趣味の人)にも、都合の悪いことに関して緘口令を敷く必要があります。
    大勢の航空機関係者はもとより、どこにどれだけいるか全くわからないエアバンドリスナー全員の口を封じることは不可能です。
    実際、一般人が傍受した123便の交信内容が当時の無線雑誌に早々に記載されてたりします。

     

    それに各自の音声は各自のマイクだけではなく、操縦室内の音声・音を拾うエリアマイクにも録音されてます。
    そのデータから特定の音声が流れる箇所を削除したら、エリアマイクに拾われたその他の環境音が不自然な途切れ方をしたりすることは明白です。当時の技術でどこまで精巧な編集が可能だったのでしょうか。

     

    結論として、改ざんは限りなく不可能であると考えます。

    それでも改ざんの可能性を主張なされるのであれば、具体的にその方法を提示しない限り理不尽なイチャモンにしかなりません。

     


    ただし、事故調査報告書にはCVRの音声全てが書き起こされているわけではなく、一部の音声はある意味隠されてると言えなくもありません

     

    それは乗員同士の事故とは関係ない会話や、乗員への配慮であえて公開しなかった発言などがそれにあたります。最低限のプライバシー保護は考慮して当然でしょう。

     

    シカゴ条約の第13付属書でも以下が規定されてます。

     

    5.12.2 5.12に列挙された記録は、事故またはインシデントの分析に関連する場合にのみ、最終報告書またはその付録に含まれるものとする。分析に関連しない記録の一部は開示されないものとする

     

    報告書に記載された機長の「どーんといこうや」という言葉が不謹慎だとバッシングされたことがありました。実際には副操縦士への激励の言葉であって全く非難される理由はなく、むしろ極限状態における機長の胆力は称賛に値するくらいなのですが、言葉は曲解・拡大解釈して受け取られることがままあるのです。

     

    他にも機長の言葉の一部が報告書に記載されていないことが、流出したCVRの音声データから判明してますが、事故の分析に関係ない音声が一定の配慮によって報告書に記載されてないことをもって「データは改ざんされている!」などと言う人はいないと信じてます。

     


    今回の結論は以下となります。

    • CVRの生データの公開は無理。
    • ただしCVRの改ざんも無理。

     

    CVRの内容を知りたければ素直に事故調査報告書を読みましょう、という話でした。

     


    123便事故に関する話になると「CVRを公開しろ」「CVRを公開しないのはおかしい」というコメントが必ず出てきます。
    ICAOやシカゴ条約の存在を知らず、CVRがどのように録音されているのかも調べず、誰かがそう言ってたからそう思ってるだけの人達が大半でしょう。

     

    「CVRは公開されてないのか!? 

     CVRが公開されれば真実が明らかになるのか!? 

     だったら公開しないのはおかしいよな!」
     

    ……くらいの感覚で。

    事実と現実をベースに、冷静な判断を下せる人が増えることを祈るばかりです。

     


    補足

     

    123便事故について再調査を求める声もありますが、その点についてもシカゴ条約の第13付属書に記載があります。

     

    5.13 調査が終了した後、新たな重要な証拠が入手可能となった場合、調査を実施した国は調査を再開するものとする。ただし、調査を行った国が調査をしなかったときは、その国は、まず調査を行った国の同意を得なければならない。

     

    注記 公式捜索後に行方不明とみなされた航空機がその後発見された場合、捜査の再開が検討される可能性がある。

     

    「新たな重要な証拠が入手可能となった場合」は再調査もありえる、としてます。
    ただし、どんな “新たな重要な証拠” が発見されたら再調査がありえるのかと言うと、『行方不明とみなされた航空機』が発見されたとしても「捜査の再開が検討される可能性がある」レベルの話です。

     

    2015年に123便のAPUの残骸の可能性があるものが相模湾で発見された、という報道がございました。
    先日も2025/4/2の衆議院国土交通委員会で、立憲民主党の津村啓介議員が残骸の引き上げを主張なされてました。
    ただ、そもそも123便の残骸であると断定されたわけでもありませんし、仮に残骸だとしても数十年間も海底で腐食が進んだ残骸に捜査を再開させるような証拠能力は無いでしょうし、仮に奇跡的に残骸が当時のままであったとしても航空機のほんの一部が発見されたくらいでは再調査には至らないでしょうし……運輸安全委員会が引き上げを実施しないのも当然と言えるかと思います。

     

    ただ「引き上げて調査するべきだ」という気持ちも理解できます。
    なのでそれを主張なされる方はクラファン等で資金を集めてみてはいかがでしょうか。
    それで万が一、報告書の内容をひっくり返すような何かしらの証拠となりうる確たる痕跡が見つかったら、再調査の検討が始まる可能性くらいはあるかもしれません。

    2025/5/5。
    今年も御巣鷹の尾根へ行ってまいりました。
    去年の慰霊登山もGW中だったので、ちょうど1年ぶりになります。

     

    「御巣鷹の尾根」や上野村の概要、道のりや登山については一昨年のブログを参照ください。

    日本航空123便墜落事故について 【慰霊登山①】
    日本航空123便墜落事故について 【慰霊登山②】
    日本航空123便墜落事故について 【慰霊登山③】
    日本航空123便墜落事故について 【慰霊登山④】

     


    今年は6時前に御巣鷹の尾根登山口の駐車場に到着。
    気温は5℃。Tシャツに薄い上着2枚という服装では肌寒さを感じましたが、昇魂之碑に着いた頃には軽く汗ばむくらいになっていたので、ちょうどいい服装だったかと思います。

     

    入山者カウンターは自分で【268】。
    4月末に開山してからの入山者数になりますが、去年2024/5/4で【136】だったので、今年は慰霊登山に訪れる方が多いのかも?
    これが昨今の陰謀論に関する議論の盛り上がりに起因するのだとしたら、ちょっと複雑な気持ちです。

     

    6時に入山。途中の小屋で芳名帳に記帳するなどややゆっくりめに登山して、昇魂之碑に着いたのは6:35頃でした。
    鐘を鳴らし、碑に手を合わせて、520名の御霊が安らかに眠れるよう祈らせていただく。

     

    昇魂之碑の先にある御巣鷹茜観音。
    事故に遭われた方々を見守っていただくよう合掌。

     

    山頂近くにあるX岩。
    当時の警察の方々の尽力と労苦を思うと頭が上がりません。

     

    そしてやや急ぎ足ではありましたが、登山道にある墓標に手を合わせながら下山。

    駐車場に戻ってきたのは7時半過ぎで、約1時間半の慰霊登山となりました。

     

    入山者カウンターは3名分増えて【271】に。
    あまりにも早すぎる時間なのは考えものかもしれませんが、静かに思いを馳せたい方にはこのくらいの時間を個人的にはお勧めいたします。登山開始から下山の最後にお一人とすれ違うまで、完全に自分一人でした。

     

    自分が慰霊登山をしたからと言って何がどうなるわけでもないのですが、「この事故を風化させてはいけない」「亡くなった方々のご冥福を祈りたい」という気持ちがございますので、来年以降も出来る限りまた足を運びたいと思います。

     


    ここまでの公共交通機関がないため車での移動が基本になりますが、道路が整備されたとは言え奥深い山であることには変わりはありません。道路には拳大の石(と言うか岩)がよく落ちてますし、崖崩れで倒れた木が道路に転がってるのもしばしば。訪れる方は運転にお気を付けください。

     

    また、山に入るとスマホやポケットWi-Fiの電波は完全に入らなくなります(少なくとも自分のは)。

     


    下山後は「慰霊の園」へ。

     

    合掌している手をイメージした慰霊碑に私も合掌。
    この合掌している手の約10km先が墜落現場だそうです。

     

     

    映像室では当時の捜索に参加された猟友会の方や消防団の方、あと炊き出しなどで協力なされた役場の方などのインタビュー映像が見られるのですが、残念ながら機械が故障中とのこと。

    行くたびに毎回見るようにしていたので残念。

     


    佐藤正久議員が取り上げたことで青山さんも言及なされていた『慰霊碑』について。

    4月のシンポジウムでは岡部さんも写真付きで取り上げられてました。

     

    慰霊登山をした後はとりあげる気持ちにはならなかったのですが、登山中どうしても目に入ってきましたので軽く触れておきます。

    産経ニュース『日航機事故 「御巣鷹の尾根」への登山道に「自衛隊撃墜説」を伝える慰霊碑は本当にあった』

     

    件の『慰霊碑』は2023年にご遺族の小田さんが建てられたそうで、去年の慰霊登山の際に目にして私も気になっていた物です。

    場所は案内板の少し手前あたり。


    去年見かけた時の印象では(言葉は悪いですが)張りぼてのようなイメージだったのですが、今年改めて確認すると御影石のしっかりとしたものだったようでした。

     

    ただ佐藤議員が仰るような『慰霊碑』ではなく、縦横40cm程度の小さな『墓標』なんですよね。


    墓標には「N総理・自衛隊が 意図的に 殺害した乗客・犠牲者」とのキャプションが付いた、事故で亡くなられた方々の写真が。そして事故原因の「仮説」も。


    ---------------------------------------------------------- 

    ※加害者  N総理・自衛隊幕僚長 

    ※事故原因 自衛隊 曳航標的機・衝突 

     (墜落)  N総理 撃墜殺害 指示

           自衛隊 横田基地・着陸禁止

           自衛隊 ミサイル撃墜・墜落 

    ----------------------------------------------------------

     

    正直な話、書いてある内容はどうかと思います。

    何を仰ってるんだと思います。

    ありえない酷い誹謗中傷だと思います。

    撤去なされるべきだと思います。

     

    ただ、ご家族を亡くされたご遺族のやりきれない気持ちを思うと、個々人の範疇である小さな『墓標』を「撤去してください」と頭ごなしに言うだけなのも違うかなとも思うのです。

     

    かと言って求められているCVR・DFDRの公開は不可能ですし(これについては別途説明の予定)、"もし" "仮に" "万が一" 公開出来たとしても声を上げている方々に納得していただけるとは思えません。

    これは小田さんに限らず、吉備さんや青山さんについても同じです。

     

    でも青山さんの「謝罪してください」という主張も違うと思います。

    ご自身も確たる証拠もなしに誹謗中傷となる「仮説」を唱えてらっしゃるわけですから。

    それにその「仮説」も全く科学的ではありませんし、「仮説」なら何を言ってもいいわけではありませんし。

     

    やはり一度と言わず何度でも、"冷静に" 持ちうる証拠を互いに突き合わせて、話し合うしかないのではないかと。

    裁判や証人喚問の方がはっきりするかもしれませんが、それはそれで「公権力の乱用」とか言われそうですし……難しいですね。

     

    そして個人的にはこの『墓標』よりも、登山途中にある小屋に設置された芳名帳の隣に置かれていた小田さんの本のフライヤーの方がもやもやしました。

    あくまでご遺族個々人の範疇である『墓標』ではなく、小屋は一般の方も含めて共有の空間ですから。

    昨今の123便墜落事故の議論で話題となっている『異常外力着力点』。この話の発端は、1987年に作成された事故調査報告書の付録(別冊)P.116に記載された以下の図です。
    https://jtsb.mlit.go.jp/aircraft/download/62-2-JA8119-huroku.pdf

     

    「異常外力の着力点」とは何なのか。
    そして何が問題なのか。

    私の見解を書かせていただきます。

     

    ※123便墜落事故に関する解説をなさっている醇さんの動画を参考とさせていただきました。非常にわかりやすい解説には、いつも勉強させていただいております。

     

    1、123便墜落事故の原因と異論

     

    1985年に発生した、乗員乗客524人のうち生存者が4名という未曽有の大惨事。
    123便墜落事故の原因は、航空事故調査委員会(現在の運輸安全委員会)が公開した事故調査報告書によると「修理の不手際による想定外の金属疲労で圧力隔壁が破壊され、結果として操縦不能に陥った」とされてます。

    • 事故機は1978年に尻もち事故を起こしており、その修理に不手際があった。
    • その不手際により後部圧力隔壁の一部に強度が低い箇所が出来てしまい、尻もち事故から7年後の1985年に金属疲労による破壊が発生した。
    • 圧力隔壁に穴が開き、気圧の高い客室側から気圧の低い後部へと空気が一気に流入した。
    • 一気に吹き込んだ空気により、APU(補助動力装置)や垂直尾翼が吹き飛ぶように破損し、油圧操縦系統が損傷した。
    • 操縦システムに必要な作動油が全て流出し、エンジンと電気系統以外のコントロールが不可能になった。
    • 32分間、何とか飛行を続けるも、群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。

    しかしこの説明には多数の異論が存在し、その中でも有名なものが「123便は、無人標的機もしくは試験用ミサイルによる自衛隊の誤射で撃墜されてしまった」とする説です。
    そして今回の話題である『異常外力着力点』が「無人標的機、もしくはミサイルが着弾した箇所」と見なされており、そのことを記載した報告書の付録が長年隠蔽されていた……と言われているようです。

     

    2、『異常外力着力点』に関する言及

     

    『異常外力着力点』に関する言及は青山透子さんの著書に詳しい記載があり、ご自身のブログでも何度も取り上げられてます。

    • 「日航123便墜落:圧力隔壁説をくつがえす」発行日:2020年7月21日(以後「圧力隔壁説をくつがえす」)
    • 「日航123便墜落事件 JAL裁判」発行日:2022年12月2日(以後「JAL裁判」)

    (「圧力隔壁説をくつがえす」P.70)

    実はこれも、昨年から今も続いているボイスレコーダーなどの情報開示請求の裁判準備の過程で、私が書類を精査し、三十五年間を遡ってもう一度チェックしていた際に、偶然発見したものである。今までの過程で見落としていたとも思えないが、見た記憶がないページが含まれていたのである。

     

    (「圧力隔壁説をくつがえす」P.73)

    この『別冊』について運輸安全委員会に直接問い合わせたところ、次のような返答を得た。
    運輸安全委員会は二○○八年(平成二十年)十月に、航空・鉄道事故調査委員会と海難審判庁の事故原因究明機能を統合させ国土交通省の外局をして発足した組織だが、この時に国土交通省からこれらの報告書が移管されたという。さらに『別冊』として付録類がホームページにアップされたのは二○十三年二月とのことである。その際、追加や書き込みはないはずで、一回でアップされたという。ただ、二○○八年以前がどういう状態だったのか、なぜ二○十三年までアップされなかったのかは不明、とのことであった。

     

    (「圧力隔壁説をくつがえす」P.74)

    さて、この『別冊』に話を戻すと、これが最初に出された一九八七年時の報告書とともに同時に公開されていれば、事件の原因が明瞭になったはずであり、圧力隔壁破壊は、誰もがおかしいと納得できていたはずである。逆にいえば、意図的に隠された公文書となる。

     

    (「JAL裁判」P.32)

    異常な外力が当たって、垂直尾翼が吹き飛ばされた、一一トンもの異常な外力の着力によって、垂直尾翼が破損して吹き飛ばされた、これは付録に書かれている試験研究資料から読み解いても明らかです。

     

    (青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相
      2023-01-15「裁判の原告をターゲットとした妨害行為 JALが仕掛けたのか?」

    日航123便の垂直尾翼の「異常外力着力点」(事故調査報告書付録の116ページに記載)に、オレンジ色の物体を着弾させた軍関係者は、自衛隊だろうが、米軍だろうが、いまこそ懺悔をすべきです。そこから、初めて信頼し合える平和が生まれます。

     

    (青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相
      2023-07-31「38年目の真実-異常外力着力点」

    話を戻すと、2013年に公表された事故調査報告書の研究資料・別冊によれば、その着力と同時に11トンの力が垂直尾翼に前向外力(95ページ)で加わり、同時に爆発音、とある。その記録もフライトレーダーに記されており、すべてが合致する。(該当記述掲載95ページ、101ページ・事故調査報告書(本体)にも79ページに書いてある)

     

    『異常外力の着力点』に関する主張を要約すると、以下のようになります。

    • 123便墜落事故は「異常外力」であるオレンジ色の飛翔体(自衛隊の演習用ミサイル、もしくは訓練用の無人標的機)が123便に衝突したことが原因である。
    • 『異常外力の着力点=飛翔体の着弾点』が記載された報告書の付録は、2013年に運輸安全委員会のホームページで公開されるまで隠蔽されていた。

    本当だとしたら大変なことです。123便事故の“真の原因”が隠されていたというのですから。

     

    3、報告書付録の記載は隠蔽されていたのか?

     

    123便の事故調査報告書は事故から2年後の1987年に作成されました。当時は紙媒体でしたが、現在はPDFの形式でネット公開されてます。

    ※2011年には事故報告書をわかりやすく説明するために、解説書が作成されてます。
    https://www.mlit.go.jp/jtsb/kaisetsu/nikkou123.html

     

    そして「付録は『異常外力着力点』に関する記載を隠蔽するために、付録は2013年まで非公開となっていた」とされてます。
    そこで確認のためにネットのタイムマシンであるウェイバックマシンで時代をさかのぼってみました。
    (ウェイバックマシンはインターネットのウェブページを保存しておいてくれるサービスです)

     

    現在の「運輸安全委員会」の前身の前身である「航空事故調査委員会」のホームページに関する一番古いアーカイブが2000年8月でした。トップページには「試験運用中」とあるので、この頃に開設されたのでしょう。
    https://web.archive.org/web/20000823210006/http://www.motnet.go.jp/aaic/index.html

    この時点で事故調査報告書がPDFで公開されておりますが、公開されていたのは本編の報告書のみ
    https://web.archive.org/web/20000823074546/http://www.motnet.go.jp/AAIC/download/index.html

     

    2001年に「航空事故調査委員会」は「航空・鉄道事故調査委員会」となりました。ホームページも刷新されましたが、付録は公開されてません。2008年までこの状態が続きます。
    https://web.archive.org/web/20041224090808/http://araic.assistmicro.co.jp/aircraft/download/bunkatsu.html

     

    2008年に「航空・鉄道事故調査委員会」は現在の「運輸安全委員会」となりました。確認可能な一番古いアーカイブの2009年7月時点で、付録が公開されていたことが確認できます
    https://web.archive.org/web/20090711143527/http://araic.assistmicro.co.jp/aircraft/download/bunkatsu.html

     

    時系列からすると、運輸安全委員会の発足のタイミングで付録もネットにアップされたものと推測されます。

     

    以上のことから付録は遅くとも2009年にはネットで公開されており、「付録は2013年に公開されて、それまでは隠蔽されていた」は明らかに誤りと考えます。

    青山さんの質問に対する運輸安全委員会の回答「『別冊』として付録類がホームページにアップされたのは二○十三年二月」が間違っていたのか、青山さんの何らかの勘違いなのかはわかりません。

    ただ、この「付録は2013年に公開された」は青山さん達が起こした裁判の資料にも記載されており(「JAL裁判」より)、主張の根拠にこんな簡単に確認できる間違いがあっては、他の資料の信用性も著しく低下してしまうのは否めません。

     

    とは言うものの、これ結果からすると「『異常外力着力点』の記載が隠蔽されていたのは2013年までではなく2009年までだっただけで、隠蔽そのものはあった」となるかもしれません。

    本当に『異常外力着力点』の記載は隠蔽されていたのか。報告書と付録について、もう少し掘り下げてみます。

     


    報告書と付録はどのように公開されたのか。

    ネットで報告書が公開されたのは遅くとも2000年で、付録については遅くとも2009年。でも元々はネットなんて無かった時代に紙媒体で作成されて頒布されてます。それが事故の2年後である1987年の6月19日です。その翌日の6月20日、新聞各紙は報告書の話題で持ちきりでした。

    一面トップは当たり前。数ページに渡って報告書の内容についての詳細や解説を記載し、専門家のコメントなども多数掲載。このことからも報告書がメディアや関係者など多方面に頒布されたことがわかります。

     

    そして各新聞の記事には、付録の存在も記載されてました

    • 日本経済新聞
      「報告書は本文(三百四十三ページ)と試験研究結果を盛った付録(二百十三ページ)の二分冊。」
    • 読売新聞
      「こうしてまとめられた報告書は実験データなどを主とした付録と合わせて二冊で合計五百五十六ページ。」

    このページ数は現在ネットで公開されている報告書と付録と完全に合致します。1987年時点で報告書と付録がセットで公開されたことは疑いようがございません。

    それに報告書には付録を参照している記述があり、そもそも報告書そのものにも『異常外力』に関する記載がございます。このことから報告書と付録は2冊で1つの“報告書”であること、および『異常外力』を隠蔽する意図は全くないことがわかります。

     

    1987年に作成された報告書と付録は、現在でも千代田区にある防災専門図書館へ行けば閲覧可能です。
    https://city-net.or.jp/products/library/

    そこで足を運んで実際に実物を確認してまいりました。

    紙媒体の報告書および付録には『異常外力着力点』について、記載がありました。現在公開されているPDFの記載そのままです。報告書と付録共に、頒布された3日後の1987年(昭和62年)6月23日に受贈された印も確認できました。

    こちらに所蔵されている報告書と付録も含め、多方面に頒布された報告書と付録に関して「『異常外力着力点』を記載しないバージョンの冊子を頒布して、その後こっそり全ての冊子を『異常外力着力点』の記載があるバージョンにすり替えた」なんてことはありえないので、間違いなく報告書と付録には最初から『異常外力着力点』が記載されていたと言えます。

     

    以上を踏まえ、「異常外力の着力点」の情報公開に関する私の見解は以下となります。

    • 『異常外力着力点』は1987年の報告書作成時点から、報告書および付録に記載されていて、報告書と付録は同時に多方面に頒布された。
    • ネットで付録が公開されたのは2013年ではなく、遅くとも2009年。
    • 紙媒体とウェブ公開版PDFに差異(改竄)は無い。
    • 付録および『異常外力着力点』の記載について、隠蔽は行われていない。

    付録のネットでの公開は報告書より遅かったけど、『異常外力着力点』を隠そうとはされていません。後になってから『異常外力着力点』に関する記述に気付いた、と言うのは単に見落とされていただけかと思われます。

     

    4、『異常外力着力点』とは?

     

    では付録のP.116の図に記載された『異常外力の着力点』とはそもそも何だったのか。

     

    自衛隊の演習用ミサイル、もしくは訓練用の無人標的機が123便に衝突した箇所であると主張されていますが、前述の通り『異常外力着力点』の記載は全く隠されておりません。本当にそんな意味なのでしょうか。

     

    結論から申し上げるとそんな意味はございません

     

    青山さんは著書の中で以下のように述べてます。

    (「圧力隔壁説をくつがえす」P.73)

    異常―正常のフライトでは考えられない突発的異常事態の力
    外力―外部から加わる力。外部とは大気。つまり空を飛行中に加わった力
    着力―その場所にやってきて着いた力、その着地点

     

    これは「123便に何らかの飛翔体が衝突してきた」ということを前提とした、強引な解釈のように感じます。

    なぜなら「外力」や「着力点」に上記のような意味はなく、これらは物理学・力学の用語だからです。

     

    この辺についてザックリとご説明します。

    私が高校時代に使っていた物理の教科書には以下の記載がございました。

    (新興出版社啓林館「高等学校物理」)

    物体のグループ(物体系)の中で、互いに及ぼしあっている力を内力といい、物体系の外の物体から及ぼされる力を外力という。

     

    「外の物体から及ぼされる力……これこそ外部(大気)から加わった力なのでは!?」 と思うのは早計です。 “物体系の外の物体から” とありますよね。この物体系(または系)とは 複数の物体を1つのグループ としてみなす考え方です。

     

    例えば机に箱が置いてあり、箱の上にボールが乗っているとします。

     

    この時、ボールは重力によって箱を押してます。

    ※実際には同じ大きさで箱がボールを押し返す力もあるのですが、説明を簡略化するためにボールが箱を押す力のみを記載してます。

     

    この力が働いてる箇所が「着力点」です。一般的には「作用点」の名前の方が知られているかと思います。

     

    この「ボールが箱を押している力」について考えます。

     

    【机・箱・ボール】を1つのグループ(物体系)とみなすと、「ボールが箱を押す力」はグループの中にいるボールから働く力で、これは「内力」となります。

     

    【机・箱】を1つのグループとみなすと、「ボールが箱を押す力」はグループの外にいるボールから働く力なので「外力」となります。

     

    これが「外力」「着力点」です。

     

    では報告書と付録の記載を改めて確認します。

    報告書によると、異常が発生したタイミングで前方への加速度について、約0.047Gの増加が計測されたとのこと。その時、前向きの外力が発生したと推測されました。

    (報告書 P.77)

    当時の重量を考慮すると、約11トンの前向き外力が作用したものと推定され、胴体後端部の破壊がこの時刻付近で生じたものと推定される。

    ※力の単位は「トン重」なので、正確に言えば「約11トン重の前向き外力」。

     

    そしてこの前向きの外力は、胴体後端の分離によって発生したものとされてます。

    (報告書 P.95)

    18時24分35.70秒において、その前後に比べて約0.047Gの突出が記録されている。機体重量約520キロ・ポンドを用いれば、約24キロ・ポンド(約11トン)の前向き外力が作用したことになる。
    BS2658における胴体断面積を5,800平方インチとすれば、約4.2psiの圧力差がBS2658以後の胴体部分を分離させ、前向き外力を発生させたと考えられる。

    ※「BS2658」はAPU防火壁の取付部の座標で、要するにここから後ろが分離したということ。

     

    つまり以下のように推定されたワケです。

    • 胴体後端部(斜線部分)が破壊されて分離した。
    • それにより、残った機体の大部分に対して、前向きに約11トン重の外力が発生した。

     

    「胴体後端の分離によって、前向きの外力が発生した」というのは、自転車の二人乗りをイメージするとわかりやすいかと思います。

    二人乗りをしている状態から後ろの人間が後方に飛び降りると、自転車は一瞬加速しますよね。それと同じ現象が123便にも起こった、と事故調査委員会は推定したわけです。

     

    この推定の解析を報告書P.79で行っています。「胴体後端部以外の機体」を1つのグループ(物理系)とみなし、斜線部分の胴体後端部が分離したことにより前方向に約11トン重の外力が発生したとして、その外力が発生した箇所(作用点=着力点)を垂直尾翼の中心に設定している図が、付録P.116の図です。

     

    『異常外力着力点』の字面にとらわれて「着力点!? これは着弾点に違いない!」となってしまうと、報告書と付録の記載を読み解くことは出来ません。

    また、「着力点=着弾点」派の方々は「異常外力の着力が事故原因であるとの検証は全くなされていません(「JAL裁判」P.33)」と主張なされてます。しかし、上記の通り「着力点」に関する記載は、外力が発生したことの検証のために設定されたものなので、「検証されてない」の主張には違和感がございます。

     

    『着力点』という言葉がよくなかったのでしょう。作用点よりも聞き慣れない単語で、かつ「いかにも何かが着弾したかのような語感」ですので。

    報告書は『異常外力の着力点』ではなく『異常外力の作用点』としておけばよかったのに、と思わずにはいられません。

     


    長くなりましたが、以上が私の見解です。要約すると以下となります。

    • 『異常外力着力点』は飛翔体が着弾した箇所ではなく、検証に使用している単なる物理学・力学の用語。
       
    • 『異常外力着力点』の記載は全く隠蔽されていない。
      (検証時の図や用語なのだから、当然と言えば当然)

     


    123便事故の真実を求めるのであれば『異常外力着力点=飛翔体の着弾点』にこだわることは全くの無意味かと存じます。

    123便墜落事故について、事故原因を「自衛隊の誤射(更には証拠隠滅のためにファントムによる撃墜)」とする説があり、墜落後は「墜落直後は大勢いた生存者を、自衛隊が火炎放射器で大量に焼き殺した」とする説があります。

    想像するのもおぞましい説ではありますが、こちらの説の根拠として以下が挙げられているようです。

     

    ①現場でガソリンとタールの臭いがしたという証言があった
    ガソリンとタールの臭いがしたと証言する消防団員がいた。123便の燃料はガソリン系ではなく灯油系であるため、ガソリンとタールの臭いがするはずがない。
    ガソリンとタールが使用されているものと言えば火炎放射器の燃料である。

     

    ②焼けた遺体の近くに焼けてない人形があった
    激しく燃焼された跡があった遺体の近くに、全く焼けていない人形があった。123便の燃料で燃えたとしたら、こんな状況はありえない。

     

    ③炭化した遺体があった
    遺体の中には炭化しているものまであったが、123便の燃料で炭化することはない。

     

    ④二度焼きされた跡があった
    遺体について検死をされた方から「遺体は二度焼きされていた」という発言があった。つまり123便の燃料で燃えた後に、火炎放射器で焼かれたということ。

     

    これらを根拠に「自衛隊の火炎放射器で焼き払われた」とされてます。

    ではこれらをもって本当に「自衛隊の火炎放射器で焼き払われた」と言えるのでしょうか。

     

    ①現場でガソリンとタールの臭いがしたという証言があった

     

    「ガソリンとタールの臭いがした」という消防団員の証言があった、とは青山さんの著書「日航123便墜落の新事実」など語られてます。(消防団員の実名は不明)


    ガソリンとタールの臭いがしたら火炎放射器の燃料と言えるのでしょうか。

     

    これについては岡部俊哉氏(第35代陸上幕僚長でJAL123便事故派遣隊員)の説明がわかりやすいです。
    http://nadesiko-action.org/?p=19212

     

    まず自衛隊の携帯放射器(または携行放射器。火炎放射器とは呼ばない)の燃料であるゲル化油にタールは含まれていない、とのこと。ぶっちゃけここでこの話は終了なのですが、「そんなのは岡部さんが言ってるだけ」となるのは避けたいので、出来る範囲で調べてみました。

    • 自衛隊の携帯放射器の燃料はゲル化油(または普通油)が使用されている。
      (自衛隊装備年鑑、陸上自衛隊広報 等の複数資料で確認)
    • 日本の火炎放射器の燃料の成分にタールが使用されていた、と明確に記載があるのは戦時中のみ。
      (軍事雑誌「丸」昭和55年11月1日発行 等の複数資料で確認)
    • 携帯放射器の原型であり、第二次世界大戦中にアメリカが使用したM2火炎放射器の燃料にはタールが含まれていた。

    ここまでは確認できましたが、自衛隊の携帯放射器の燃料にタールが使用されていたとする文献は見つかりません。そうなると岡部さんが仰る通り携帯放射器の燃料にタールは含まれていないのだろうと思えてきますが、「自衛隊の火炎放射器の燃料にはタールが含まれている」とした青山さんの意見と真っ向からぶつかってしまいます。

     

    青山さんの著書を改めて読み返してみました。

     

    青山さんは元自衛隊関係者、軍事評論家、大学の研究者などの有識者に質問をぶつけてらっしゃいます。

    「ガソリンとタールの臭いがして長時間燃える物質は何か」

    という質問に

    「ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料である」

    との回答を得て、それが燃焼することで人間の体を炭化しうると確認した上で

    「どこで手に入るのか」

    と重ねて質問して、回答が以下です。

     

    (「日航123便 墜落の新事実: 目撃証言から真相に迫る」)

    答え
    一般にはない。軍用の武器である。その武器は、燃料タンクを背負い、射程距離は約三十三メートルで歩兵が用いるものである。第二次世界大戦中は米軍で使用された。M1、M2の二種類がある。
    昔の武器というイメージがあるが戦後は米軍から自衛隊に供与されていた。現在も陸上自衛隊の普通科に携帯放射器として配備されている。これはM2型火炎放射器の改良型である。

     

    前半は「ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料」が使用されていたM2火炎放射器の話で、後半はM2火炎放射器の改良型が自衛隊に配備されている話。


    自衛隊で使用している“改良型”の燃料にタールが含まれているとは一言も言ってませんでした。


    むしろタールを含有した燃焼が使用されていたのは第二次世界大戦中のみ、というニュアンスすら感じるのは私の先入観故かもしれませんが、少なくとも自衛隊の携帯放射器の燃料にタールが含まれている確証はありません。
    自衛隊の携帯放射器の燃料にタールが含まれているというのであれば、明確な資料を提示する必要があるでしょう。

     

    青山さんは123便事故に関する質問と言うことを伏せてらっしゃったようですが、ここまで聞き出せたのなら最後の最後にもう少し踏み込んで「では123便事故の現場を、自衛隊が火炎放射器で焼き払うことは可能か」とズバリ質問していただきたかったですね。
    質問が中途半端になってしまったのは先入観や忖度などがないよう配慮なされた結果かと思いますが、非常に残念です。

     

    繰り返しになりますが、岡部さんの説明では具体的な成分を挙げられた上で「自衛隊の携帯放射器の燃料にタールは含まれていない」とされており、青山さんの聞き取り調査でも自衛隊の携帯放射器の燃料にタールは含まれている確証はございません。
    このことから「タールの臭いがした」イコール「火炎放射器が使用された」は成立しないと考えます。

     


     

    岡部さんはタール云々以前に、そもそも自衛隊が携帯放射器を使用して現場を焼き払うこと自体を不可能と断じてます。
    それは燃料の作成の問題、携帯放射器の所有数の問題、燃料の運搬・持込の問題など様々です。

    • 事故現場を焼き払うのには要する燃料を計算すると、ドラム缶16~17本分。
      →それだけのガソリン・ゲル化剤の入手、およびゲル化油の作成を行う時間は無い。
    • 燃料を全て充填するのに必要な携帯放射器は220セット。
      →陸自保有の総数に相当。
    • 燃料を充填した携帯放射器の重量は約31kg。プラス大量の燃料や諸々の機材もあり。
      →これらの機材や燃料を漆黒の山中で、しかも背の高い草にまみれた急斜面で運搬する必要あり。

    これはもう完全に不可能と言っていいでしょう。
    岡部さんは「これらの大掛かりな作業を部外や他部隊等に知られず、隠密に実施することは不可能」とも仰ってますが、それすら否定する人は「自衛隊全部隊の全面協力で大量虐殺を行えば可能」とでも言うのでしょうか。

     


     

    もう少し細かく考えてみます。

     

    大量のゲル化油を急遽用意するだけでも不可能のようですが、奇跡の力で何とか用意出来たとしましょう。携帯放射器に燃料を充填するだけでも相当な時間がかかりそうですが、それも奇跡の力で用意が出来たとしましょう。 

     

    それでも運搬の問題があります。

    多数の携行放射器と大量のゲル化油を山のふもとまでは車等で運べたとしても、山中では人力で搬入しなければなりません。
    ちなみにヘリコプターは使用不可です。以前「ヘリコプターで運ぶことが出来る」「ピナクル・ランディング(尖った山頂などに機体の一部のみを接地させるように近づく技術)は可能だった」とかたくなに主張する人がいましたが、夜間山中のヘリコプターがどれだけ危険かわかってませんし、そもそも事故時の御巣鷹の尾根にヘリコプターを着地させられるような開けた場所はありません。ピナクル・ランディングでも、周囲に広くて開けた場所が必要です。そんな場所があったら翌日以降にヘリポートの作成なんてしてません。

     

    時間的な問題もあります。
    「日航ジャンボ機墜落: 朝日新聞の24時」(朝日新聞出版 発売日:1990/8/1)によりますと、朝日新聞のヘリコプター「ちよどり」が事故当日の夜に現場へ2回急行してます。1回目は21時過ぎに現場到着して、燃え盛る山の写真を撮影後に羽田へ帰投。2回目は23:35に現場到着して、24:15に引き返しを決意したとのこと。

     

    事故翌日は地上の捜索隊が朝5~6時から登山を開始してますので、それまでに山から撤退しなければならないとすると、「ちよどり」および捜索隊から目撃されずに行動出来たのは6時間あるかないか程度だったことになります。


    現場までは日が昇っている時でも片道2~3時間かかります。夜間の現場への往復だけで時間が足りなそうですが、現場での諸々の作業まで考えたら不可能以外の結論はありません

    『出来る』と主張するのであれば、具体的な手段を明示する必要があります。「自衛隊なら出来る」とか謎の精神論に意味はありません。

     

    それに上記の通り、事故当夜はメディア関係者もヘリコプターで現場上空を訪れてます。火炎放射器説を支持する方は、そんないつ誰に目撃されるかわからない状態で「ド派手に火炎放射器で焼き払おう!」と自衛隊が判断したと本気で考えているのでしょうか。

    これは夜間の機器運搬にヘリコプターを使用したとする暴論についても同じことが言えます。

     

    もう結論が出てしまいましたが、自衛隊が火炎放射器(携帯放射器)で123便事故現場を焼き払ったなんて事実はありえません。

    ②焼けた遺体の近くに焼けてない人形があった

    何故焼けた遺体の近くに焼けてない人形があったのか。


    事故現場は深い山林地帯のため地表には腐葉土が堆積してました。山林火災では樹木以外にも堆積している腐葉土が燃焼しますが、腐葉土は長時間燃え続ける性質を持っています。これは123便に限らず、一般的な山火事でも言えることです。
    その燃焼する腐葉土に長時間熱せられたことが、遺体が炭化していた原因と考えられます。この場合、人形が直接腐葉土に触れていなかったので焼けていなかった、という可能性があるでしょう。

     

    あとは可能性として考えられるのは、火が収まった後に転がってきたとかでしょうか。

    いずれにしても『焼けてない人形があった』は火炎放射器が使用された根拠にはなりません。

    ③炭化した遺体があった

    よく言われるのが「123便事故では遺体がありえない程に炭化(いわゆる完全炭化)していた。これは火炎放射器で焼かれた証拠」という話です。


    こちらについては②に書いた通り、遺体の炭化は燃料による直接燃焼以外にも、腐葉土による長時間の燃焼が遺体の炭化原因と考えられます。

     

    生々しい話になりますが、人体は約60%以上が水分です。なので皮膚や筋肉を炭化させるだけならともかく、骨まで炭化させるとなると『短時間の高熱』ではなく『長時間の燃焼』が必要です。火炎放射器はゲル化油を燃料としてますので、燃料が燃え尽きるまで付着した箇所で燃焼しますが長時間というわけではありません。

     

    青山さんが「ガソリンとタールの臭いがして長時間燃える物質は何か」と有識者に質問した際、「人間の体が炭のようになる状態(完全炭化)のものは何か」との条件も付けて質問をされてました。
    その回答が「ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料である」だったわけですが、青山さんは追加でこのような質問をしてます。

     

    (「圧力隔壁説をくつがえす」)

    質問2
    なぜそれが人間の体を炭にするのか。
    答え
    化学薬品によってゲル状になったガソリンであるため、これが服や皮膚に噴射されて付着するとそのすべてが燃え尽き、結果的に炭状になる。

     

    「服や皮膚に噴射されて付着するとそのすべてが燃え尽き」るまで燃焼する、というのは素直に読むと「ゲル化剤が付着した服や皮膚」が灰になるまで、です。これは読んで字のごとくかと思います。

     

    あと「普通の航空事故で遺体が炭化することはない123便だけで遺体の炭化が起こったのは火炎放射器が使われた証拠」という方がいらっしゃいました。


    でも1994年に発生した中華航空140便墜落事故でも炭化した遺体は見つかってます。
    https://www.isad.or.jp/pdf/information_provision/information_provision/no38/53p.pdf
     

    この事故の現場は名古屋空港内だったため迅速に消火活動が行われ、墜落から1時間半ほどで火災は鎮火してますが、それでも遺体は炭化するのです。燃料による直接的な火災のみならず、腐葉土による火災までもが長時間に及んだ123便事故で遺体が炭化していても、何ら不思議はありません。

     

    また、「証拠隠滅のために火炎放射器で焼き払った」と思っている方は、遺体の大半が黒焦げになっている様子をイメージされてるかもしれません。

     

    しかし、「日航123便事故と医師会の活動」(群馬県医師会著 1986.10)によると、身体状況が「炭化又は火傷」とされている遺体数は【22】しかなく、証拠隠滅のために遺体を火炎放射器で焼き払ったにしては少なすぎる印象です。

    ④二度焼きされた跡があった

    遺体について検死をされた方から「二度焼き」という発言があったことから、123便事故では遺体が燃料で燃えた後に、更に火炎放射器で焼かれたとする見解です。

     

    この「二度焼き」発言の基となっているのは検死を行われた医学部教授の発言です。

     

    123便は尾根に激突して前部と後部に割れてしまい、前部は燃料タンクがあったため激しい火災に見舞われたのに対し、後部は山の斜面を滑り落ちて火災を免れてました。
    医学部教授は123便の前部と後部の遺体の比較して、以下のように発言されてます。

     

    (「日航123便事故と医師会の活動」(群馬県医師会著 1986.10)P.37)

    前部の遺体には損壊や燃損が目立ち、衝撃のすさまじさと主翼の燃料タンクの火災の影響を受け、燃損遺体の中には部位も判然としないものがあり、通常の家屋火災遺体現場の焼死体をもう一度焼損したように見えた
    後部の遺体は損壊は比較的少ないが、頭部の打撲による頭蓋骨や脳挫滅乃至散逸が目立ち、生存者は頭部の確保が生死を分けたものと考えられる。

     

    前部の遺体は『“通常の家屋火災の焼死体”をもう一度焼いたように見える』くらい激しく燃損していた」と激しく燃焼していたご遺体の様子を比喩で表現しているだけで「二度焼きされた跡があった」とは一言も言ってません。

     

    何故これで「遺体はジェット機の燃料で燃えた後、更に火炎放射器で焼かれたんだ!」と思えるのでしょうか。

    医学部教授がわざわざ『通常の家屋火災の焼死体を』と書いてるのを無視しないでください。
    『もう一度焼損』に飛びついているだけになっていないか、もう一度冷静に考えてみて欲しいです。

     


     

    改めて申し上げますが、「生存者を自衛隊が火炎放射器で大量に焼き殺した」は最悪のデマであるというのが私の結論です。

    検証するのもおぞましいようなデマでした。

     


     

    「じゃあガソリンやタールの臭いは何だったんだ?」となる方もいらっしゃるでしょう。

     

    どなたの発言なのか明確ではないのこの“証言”にはそもそも証拠能力が無いのですが、それはいったん置いておくことにします。


    冒頭で申し上げました通り、123便の燃料はガソリン系ではなく灯油系であるため、ガソリンとタールの痕跡があるはずがないと言われております。確かに123便では灯油系である『JET A』が燃料として使用されてました。

     

    (事故調査報告書 P.19)

    使用燃料は航空用燃料JET-A/40、エンジン潤滑油はモービルJET OIL-2で、いずれも規格品であった。

     

    『JET A』に帯電防止剤や凍結防止剤を追加しただけで成分はほぼ同じである『JET A-1』の成分表を見てみます。

     

    (「出光興産株式会社 安全データシート」改訂日:2024年3月1日)


    https://www.idemitsu.com/jp/sds/oil/JETA-1.pdf

     

    この通り123便の燃料は灯油系ではありますが、火炎放射器の燃料(ガソリン)が使用されたとする根拠であるベンゼンだけでなく、ガソリン臭がするノナンまで含まれてます。

    ノナンの概要は以下の通りです。

     

    (「昭和化学株式会社 安全データシート」改訂日:2024年2月27日)

    http://www.st.rim.or.jp/~shw/MSDS/14251132.pdf

     

    そしてタールは木材の不完全燃焼で発生するもので、森林火災では普通に検出されるものです。

     

    結論として、123便の事故現場でガソリンとタールの臭いがしたとしても何の不思議もないと考えられます。

    1985年の日航123便墜落事故から40年が経過し、1987年には事故調査報告書にて事故原因が発表されてますが、今でも事故についての議論が行われております。
    それが「事実をベースとした見解の違いについて」といった議論であればいいのですが、中には荒唐無稽で根拠のない誹謗中傷でしかない異論も多々見受けられるのが現状です。

     

    事故の再発防止のためにも、ご遺族の方々のためにも、正しい情報を基にした正しい議論が行われることを願ってやみません。

     

    ちなみに私個人は「事故調査報告書が真実に一番近い」と考えてますが、報告書よりも説得力のある論説があればそちらを支持するつもり……というスタンスです。

     


    そんな日航123便墜落事故の"真実"を求める2つの団体がございます。
    この2つの団体の主張は真反対と言えますので、どちらの団体のスタンスを支持するにしても、ごっちゃにならないよう気を付けましょう。

     

      ①日航123便墜落の真相を明らかにする会

     

      ②JAL123便 事故究明の会

     

    2つの団体の概要を簡単にご紹介いたします。

     

    ①日航123便墜落の真相を明らかにする会

    • 2020年に発足。
    • 会長はご遺族の吉備素子氏。事務局はノンフィクション作家の青山透子氏。
    • 123便事故(会としては「事件」と呼称)の真相を明らかにするべく、日航123便の機体残骸を引き上げを求めて発足。公式サイトの「発足の目的」に記載はございませんが、FDR(フライトデータレコーダー)やCVR(コックピットボイスレコーダー)の公開も求めてらっしゃるようです。
    • 青山さんの著書の内容を「陰謀説」とする佐藤正久議員に対する抗議文を団体サイト上に掲載していることから、団体の方針は青山さんの著書の内容をベースとしてらっしゃるのでしょう。
      (事故の原因は自衛隊の誤射で、当日の捜索活動は意図的に遅らされて、証拠隠滅のために火炎放射器で生存者を焼き払った可能性がある。 etc)
    • 吉備さんを原告としたFDRやCVRの公開を求める裁判に関する情報発信も行っているので、この裁判も会としての活動の1つのようです。
    • 公式サイトはこちら。
      https://jalflight123.wixsite.com/mysite

     

    ブログに事故の再調査を求める署名活動に関する投稿がございましたので(と言うかブログはこの投稿の1件のみ)この署名活動も団体の活動の一環かとも思いましたが、署名ページには団体名の記載がありませんでした。それにこの署名活動は小田周二氏の論説による部分が大きいように見受けられますので、再調査を求める活動を支持とまでは言わないにしても応援はしている……くらいのスタンスなのかもしれませんね。

     

    ■団体ブログ

    https://jalflight123.wixsite.com/mysite/post/%E5%86%8D%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%82%92%E9%A1%98%E3%81%86%E7%BD%B2%E5%90%8D%E6%B4%BB%E5%8B%95-%EF%BC%95%E5%8D%83%E4%BA%BA%E7%AA%81%E7%A0%B4%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%EF%BC%81

     

    ■署名サイト

    https://www.change.org/p/%E6%97%A5%E8%88%AA%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9C%E6%A9%9F%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%82%92%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8F%E5%86%8D%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%A6%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%81%84

     

    ②JAL123便 事故究明の会

    • 2024年に発足。
    • 会長は第35代陸上幕僚長でJAL123便事故派遣隊員だった岡部俊哉氏。事務局は「なでしこアクション」代表の山本優美子氏。
    • 「真実の記録と資料を纏めて事故とその教訓を後世に正しく伝え、いわゆる陰謀書籍によって拡散されているデマに対し事実をもって打ち消して損なわれた自衛隊の名誉回復を目的」として活動をなされてます。
    • これまで関係各所へ公開質問状を送付したり、関係者の証言を基にしたシンポジウムを開催したりなどの活動を展開。
    • 公式サイトと呼べるものはございませんでしたが、つい先日(4/21)「なでしこアクション」のサイトに【123便】のカテゴリが作成されたようです。こちらを「JAL123便 事故究明の会」からの情報発信元となされる模様。
      http://nadesiko-action.org/?cat=38

     

    何故「なでしこアクション」で、と思いましたが、事務局の山本さんの父君でらっしゃる藪口幸男氏は事故当時、入間基地の副司令かつ現地指揮官でらっしゃったとのこと。山本さんは先日のシンポジウムでも司会を務めてらっしゃいました。
    http://nadesiko-action.org/?p=19282

     

    今後も「なでしこアクション」のサイトから情報を発信していかれると思いますが、「なでしこアクション」は元々慰安婦問題に関する活動を行ってらっしゃる団体。間違った歴史認識を正すという意味では近い活動と言えますが、個人的にはわかりやすい情報発信のためにも123便に関する問題は別に切り離して扱われた方がよろしいのではないかと思います。

     


    「日航123便墜落の真相を明らかにする会」が事故調査報告書は不服だとして再調査を求めているのに対して、「JAL123便 事故究明の会」は『誤った陰謀説』が拡散している状況に対するカウンター活動を主としている、と言った感じです。

     

    どちらの会を支持するべきか、わかりやすく言うと……

    • 123便事故を『悲しい事故だった』と思う。
       →「JAL123便 事故究明の会」を支持
    • 123便事故を『自衛隊の誤射に端を発した、恐ろしい大量殺人事件だった』と思う。
       →「日航123便墜落の真相を明らかにする会」を支持

    となります。

     


    ちなみに私は「JAL123便 事故究明の会」を支持します。
     

    前述の通り事故調査報告書の説明が一番説得力があると思ってますし、そもそもの話として、国民を守ってくれている自衛隊の方々が「火炎放射器で民間人を焼き払って大量殺人を行った」なんて想像することすらおぞましいです。
     

    それでも自衛隊がやったと判断せざると得ない証拠が出てきたら考えを改めますが、事故から40年が経過した今でもそんな証拠は何一つ出てきていない認識です。

     


    「JAL123便 事故究明の会」から青山さんに著書の内容について公開質問状を送ったところ、代理人弁護士から「青山氏著作から読み取れるものであり、よって加えて回答することはない」との返答があったとのこと。著書の内容に関する質問なのに、返答が嚙み合ってない気がしますね。
    http://nadesiko-action.org/?p=19263

     

    故・森永卓郎氏にも公開質問状を送ったところ、原稿料支払いの上との返答があったそうですが、原稿料を含めて対応を検討中に森永さんがお亡くなりになられたとのこと。議論が進んだ可能性があっただけに非常に残念です。
    改めてご冥福をお祈りいたします。
    http://nadesiko-action.org/?p=19247

     


    有名な123便事故の陰謀論には「優秀な日本製OSのTRONが世界に広がることを恐れたアメリカが、TRON開発者が乗った123便を撃墜した」なんてのもありますが、これはあまりにも問題外のためどちらの団体も相手にしていないご様子
     

    そんな荒唐無稽の極みのような陰謀論であっても不思議なことに世の中には固執する方がいらっしゃるので、そのうち何か書こうと思ってます。

     


    主張は真反対な2つの団体ですが、建設的な議論が行われることに期待してます。

    日本に生息している熊は北海道のエゾヒグマと本州以南のツキノワグマの2種で、特にヒグマは日本に生息する陸棲動物としては最大。その圧倒的なフィジカルに加えて、知能もかなり高い。ウサイン・ボルトよりも足が速いので人間が走って逃げるのは不可能。

     

    そんなヒグマはツキノワグマより恐ろしいイメージがありますが、人身事故件数はツキノワグマの方が多く、令和5年の統計では熊による被害者数はツキノワグマが210人(うち死亡者4人)、ヒグマが9人(うち死亡者2人)となってます。つまりどんな熊でも本当に怖い、ということです。

     

    日本における熊の事故で有名なのは三毛別羆事件福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件でしょう。Wikipediaの記事を読むだけで戦慄する恐ろしさです。4名もの死者を出した十和利山熊襲撃事件や、数十頭の牛が殺されたOSO18の事件なども記憶に新しく、近年では人間の生活圏内に熊が出没するケースが増えて問題となってます。


    私は恐ろしいが故に知っておく必要があると考え、ネットで調べるだけでなく熊に関する本を何冊も運入し、札幌からレンタカーで3時間かけて三毛別羆事件の跡地を訪れたこともあります。訪れた同日に目と鼻の先でヒグマが捕獲されたというニュースを後日になって目にした時はゾッとしましたね。

     

    そんな熊ですが、前述の通り近年では目撃件数が増加しているというニュースが世間を騒がせてます。つい先日には要請を受けて熊の駆除を行った猟友会のメンバーが、公安委員会によって猟銃所持許可を取り消されたことが大きな話題になりました。警察や関係者は問題なかったと証言してるのに、執拗に猟銃所持許可の取り消し処分にこだわる公安委員会が何をしたいのか、個人的には理解できません。

     


     

    前置きが長くなりましたがここからが本題。

     

    猟友会の方々によって熊の駆除(射殺)が行われると、その猟友会および要請元である自治体に「何故熊を殺した!」とクレームが寄せられることが多々ございます。OSO18を駆除したハンターにも酷いクレームの電話が相次いだとのこと。数十頭の牛を殺したOSO18を駆除してクレームがくるとか……これも理解不能です。

     

    気持ちはわかりますが、話はそんな簡単ではありません。熊は非常に頭がいい動物で、楽な餌場(人間の環境)を学習すると人間と問題を起こす可能性も高くなってしまいます。クレームに対して「私なら『お前にクマを送るから住所を送れ』と言う」と発言した秋田県の佐竹知事が一部から絶賛されてましたけど、私もそのくらい毅然とした態度を取るべきだと思ってます。

     

    それでも「殺すな」の声は根強く、その中でも多いのが「麻酔銃で眠らせて捕獲すればいい」というもの。

     

    これに対してある程度の知識がある方から「麻酔銃を扱うには所持許可、狩猟免許、獣医師免許が必要で、その全てを兼ね備えた人は非常に希少なので無理である」という反論がなされているのをよく見かけます。


    私自身も同じ意見だったのですが、改めて調べてみるとこの反論も完全には正しいとは言えなさそうでした。素人が調べた範囲での話ですので、齟齬がございまいしたらご指摘いただけると幸いです。

     


     

    参考にさせていただいたのは以下の通りです。

     

    「住居集合地域等における麻酔銃の取扱いについて」環境省

    「クマ類による人身被害について [速報値]」環境省

    「法改正で期待される麻酔銃捕獲の成果と課題 〜アーバンワイルドライフ問題解決に向けて〜」
    兵庫県立大学自然・環境科学研究所兵庫県森林動物研究センター 森光由樹

    「ケタミンの麻薬指定の動きと麻薬製剤取扱いの対応について」
    社団法人 日本獣医師会 会長 山根義久

    「ツキノワグマの保護管理に関する調査 - 人里への出没対策を中心として - 結果報告書」
    東北管区行政評価局

    「≪平成26年度 麻薬研究者講習会≫麻薬研究者免許の手続き」
    東京都 福祉保健局 健康安全部 薬務課 薬事免許係

    「麻薬及び向精神薬取締法」
    「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」
    「都道府県データランキング『獣医師数』」

     

    環境省の「住居集合地域等における麻酔銃の取扱いについて」

     


     

     

    まず麻酔銃の所持許可について。麻酔銃と言えど銃砲であることには変わりませんので、銃刀法に基づいた審査を受けて許可を得ないと所持・使用は出来ません。

    でも麻酔銃は産業銃なので狩猟免許は不要です。産業銃と言うのは、救助の時にロープを離れた場所へ発射する索発射銃や、リベット(金属製の留め具)を打ち出すネイルガンとも呼ばれる鋲打機など『武器として以外の用途に使う銃器』のことで、そんな産業銃の一つである麻酔銃を取り扱うのには狩猟免許は不要ということです。

    そして麻酔銃の使用に「獣医師免許が必要」とはどこにも記載がなく、必要とされるのは麻薬研究者免許でした。ここが結構複雑(?)です。

    麻酔銃で使用する麻酔薬は多くの場合“ケタミン”です。ただこのケタミンは2007年に麻薬指定されてしまったため、使用するためのハードルが上がってしまったという経緯があります。代替品の開発も進んではいますが、ケタミン以上の麻酔薬は見つかっていないと言うのが現状です。
    そんなケタミンを扱うために必要な免許には「麻薬研究者免許」「麻薬施用者免許」「麻薬管理者免許」などがあり、これらは『麻薬及び向精神薬取締法』に則って都道府県知事が与えるものになります。

     

    • 麻薬施用者免許

     治療目的で業務上麻薬の施用するための免許

    • 麻薬管理者免許

     麻薬を施用する上で管理するための免許

    • 麻薬研究者免許

     学術研究のため、麻薬原料植物を栽培したり麻薬を製造・使用するための免許

    これらの免許は医師、歯科医師、獣医師(麻薬管理者の場合は薬剤師も)などの資格が前提となっており、獣医師さんが病院で治療を行う際に必要となるのは「麻薬施用者」で、1つの病院に二人以上の麻薬施用者をおく場合には「麻薬管理者」も必要(麻薬施用者と兼任可)。麻薬研究者免許は上記2つとはちょっと毛色が違い、麻薬研究のために必要な免許となります。

    実際に研究者免許を所持している獣医師さんはどのくらいいらっしゃるのか。ちょっと前のデータになりますが2014年の東京における獣医師さんと麻薬研究者さんの数は以下の通りとなります。

    • 獣医師:4,025人
    • 麻薬研究者:328人

    麻薬研究者数は獣医師数の1割未満。獣医師以外にも研究者がいらっしゃるので、都道府県による差異があるとしても麻薬研究者兼獣医師という方は非常に少ないと思われます。この辺は想像も含んでますが、いずれにせよ「獣医師免許が麻酔銃の使用に必要」という話ではないのはわかります。

     

    さらに言えば、研究者免許があれば熊に麻酔薬を使えるというワケでもありません。熊の体格や状況などの条件を見極めて、体に悪影響を与えない上で確実に麻酔を効かせる……ちょっと考えただけでも容易ではないのは想像に難くありません。実際に熊に対して麻薬を使用した経験がある獣医師さんの方が少ないでしょう。

    実際の話、令和3年に東北6県に対して『野生のツキノワグマに麻酔を使用できる人材の整備状況』を調査したところ、多くても数人、少ない県は1人、もしくは把握出来ていないという結果になってました。
    これは単なる麻薬研究者免許所持者の数ではなく、その上で麻酔を使用できるくらい熊に精通した人材という意味であると理解してますが、非常に厳しい状況と言わざるを得ません。
     

     


     


    長くなってきたのでここまでを要約します。

     

    ■麻酔銃で動物に使用する際に必要となるのは以下の2つ。

    • 麻酔銃の所持許可
    • 麻薬研究者免許

    ■獣医師さんのうち、麻酔銃に使用する麻酔薬を取り扱える麻薬研究者免許を持った獣医師さんはごく一部。

    「麻酔銃には獣医師免許が必要」説は2007年にケタミンが麻薬指定される前の状況の認識がゴッチャになってしまったものなのかな、と思ってます。それまで麻薬指定されていなかったケタミンは、現在より多くの獣医師さんが使用可能だったと思いますので。

     


     

    さて、麻酔銃の使用に必要なのが獣医師免許ではなく麻薬研究者免許となると、麻酔銃を使用するための条件はますます厳しいということになりますが、その辺も色々とやり方があるようです。

    例えば麻酔薬としてのケタミンを扱うのは麻薬研究者の方、もしくは麻薬研究者免許を所持する獣医師さんである必要があります。でも麻酔銃の所持・使用については銃刀法に基づく審査を受ける必要があるものの、麻薬研究者免許は必須ではありません。
    つまり「麻薬研究者または麻薬研究者免許を有した獣医師によって麻酔薬が管理された状態」において、彼らの管理のもとで麻酔銃の所持許可を有した者が麻酔銃を使用することは可能ということになります。


    簡単に言えば「麻酔薬を扱う者」と「麻酔銃を撃つ者」で担当を分担できるってことです。

     

    とはいえ「麻酔薬を扱える者」も「麻酔銃を撃てる者」も決して潤沢ではありません。こういった状況の中で日々奮闘なされてる関係者の方々には本当に頭が下がります。

     


     

    麻酔銃は産業銃ですので、猟銃の所持に必要とされる筆記試験や実技試験は課せられず、所持許可の更新手続きすら不要だったりします。さらに猟銃は「一銃一許可制」のところ、麻酔銃の場合は1つの麻酔銃を複数の人間が使用することが認められています。

    こう聞くと「麻酔銃の所持許可はあまりハードルが高くなくていいじゃないか」と思われそうですけど、逆に知識や技量が個人の力量に寄るところが大きくなってしまうという問題が発生してしまうのが難しいところですね。

     


     

    麻酔銃の取り扱いについてグダグダと書いてきましたが……実はそもそもの話として環境省は「基本的に熊に対して麻酔銃は使用されることはない」としてます。

    熊や鹿といった大型の獣に対して麻酔薬を使用しても効果が出るまでには時間を要するので、撃たれたことで興奮した獣が反撃してきたり暴れたりする可能性が高いのです。なので麻酔銃を使用する対象は原則としてニホンザルのみとなってます。

    だったらここまで書いてきたことが全部無駄じゃん……となりそうですがここも複雑なところで、熊に対する麻酔銃の使用を許可している自治体もあります。前述のニホンザルのみと言うのもあくまで原則としてと環境省が言ってるだけで「法律でそう定められているわけではない」と判断したようで、実際ニホンザル以外に麻酔銃を使用しても罰則があるわけでもありません。


    現場に近い自治体による判断の方が重いのは理解できますが、判断基準がバラバラなままの運用をヨシとするのも問題があります。法的な基準の再検討が必要と考えます。

    法律が改正されたら色々な事情や対応も変わってくるかと思いますが、捕獲した熊を放獣するとまた人間の生活圏内に戻ってきてしまう可能性がある、ということに変わりはありません。電気ショックを与えて近づかせないよう熊に学習させる電気柵の設置などの対策を進めている自治体もありますが、手間や費用などの現実的な問題は山積みです。

     


     

    今回色々と調べてみて、現場では出来る範囲で出来るだけのことを全力で対応しているということが見えてきました。そんな現場に対して何も考えずに脊髄反射でクレームを入れる人達には軽蔑の念すら覚えますね。

    以上、結論としては「熊には麻酔銃を使えばいい、なんて簡単な問題じゃないんだよ」という素人の戯言でした。