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ザキリューのブログ

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慰霊登山の続きとなります。

■みかえり峠に立ち寄る

登山道口から少し下ったところに、ちょっとわかりづらいですが旧登山道から続く細い脇道に「みかえり峠」の石碑とお地蔵様がございました。ここは旧登山道が使用されていた頃、下山されるご遺族の方々が最後に振り返って御巣鷹の尾根を拝むことになった場所だったとのこと。身につまされるような名前です。

 

今は樹木が大きくなったためかこの場所から御巣鷹の尾根を望むことは出来ず、旧登山道は閉鎖されておりますので、石碑とお地蔵様のある場所のみ足を踏み入れられるようです。

 


■慰霊の園へ

車で来た道を戻っていると全部で10台程度の車とすれ違いました。その時は皆さん慰霊登山をされる方々かと思いましたが、ちょうどこの日に有志の警察官の方々による登山道の整備が行われたそうで、作業は午前中から行われたようでしたから、もしかしたらすれ違った中にはこの方々もいらっしゃったかもしれません。結果論になりますが、作業の邪魔になるわけにはいきませんので慰霊登山を早めの時間にしたのは正解でした。

そのまま上野村の中心地まで戻り「慰霊の園」へ。

 

この慰霊の園は御巣鷹の尾根にある「昇魂之碑」と同日の1986年8月1日に完成した追悼施設であり、慰霊塔や身元不明の遺骨が納められた納骨堂、そして遺品や事故の写真が展示されている展示棟があります。こちらを運営をされている財団法人は御巣鷹の尾根の管理も行われているようです。

 

慰霊塔は合掌された手のイメージで、その手は事故現場に向けられておりますが、10km先にある御巣鷹の尾根は間に山々を挟んでいることもあって直接見えるわけではございません。でも慰霊塔に手を合わせることで、私達も改めて御巣鷹の尾根に手を合わせられることになるわけですね。


慰霊塔でロウソクに火を灯してから展示棟へ。当時の新聞や写真、身元の分からない遺品などが展示されておりました。資料としては羽田にある安全啓発センターの方が揃っておりますが、映像室で観ることが出来る事故当時を振り返る村民の方々のインタビューは非常に興味深い内容で、上野村だからこその展示かと思います。


上野村の消防団や婦人会の方々の献身的なご協力があったからこそ、事故への対応が可能になったことがよくわかりました。そもそもこの慰霊の園も上野村の村民の皆さんが供出してくださった土地に建設されたものです。当時の黒澤丈夫村長が「人としての道」と仰っていたのはこう言ったことなのだと思います。

■慰霊登山を終えて

御巣鷹の尾根にて初めての慰霊登山を終えました。今まで知識としては知っていた日本航空123便墜落事故について、実際の現場を訪れたことで520人が犠牲となった未曾有の大惨事の恐ろしさを感じることが出来たように思います。


決して観光気分で訪れていい場所ではありませんが、事故を風化させないためにも事故当時を知らない若い方も含めて、多くの方々に慰霊登山を経験して頂きたいという思いから、今回このような文章を書かせて頂きました。

次回から事故原因などについて自分の考えを記したいと思います。
(いつになるかわかりませんが)

慰霊登山の続きとなります。

■「X岩」~「スゲノ沢」

更に登山道を進んだ先にあるのは救援・捜査活動に従事した群馬県警の活動拠点となった地である「X岩」と呼ばれるポイントです。関係書籍から活動の壮絶さが感じられました。

 

X岩の比較的近くに123便の機長・高濱さん、副操縦士・佐々木さん、航空機関士・福田さんの墓標がございました。操縦がままならない123便を立て直そうと墜落の直前まで力の限りを尽くされていた様子が伝わってくるボイスレコーダーの声は、聞いているだけで胸が締め付けられます。3人には民間航空に関して英雄的行為を表彰する賞の最高位に位置するポラリス賞が贈られています。
ボイスレコーダーに残された高濱さんの「どーんといこうや」という言葉が“軽口”と批判されたことがあったそうですが、これは悪質ともいえる切り取りで、高濱さんのは混乱と緊張に包まれた副操縦士の佐々木さんを鼓舞されていました。あの極限状態で他の人を励ます言葉を発せられる高濱さん。本当に強く、素晴らしい方だと思います。

視界が開けた登山道を振り返ると広大な山稜が目に入り、そこに見える凹みは「U字溝」と呼ばれるものです。

123便が墜落時した時に機体がぶつかり、地面をえぐって樹木を倒壊させた跡になります。123便はU字溝の更に奥の方に微かに見える「一本カラ松」に接触した衝撃で第4エンジンを脱落し、更に右主翼の先端がU字溝に接触したことで第1・第2・第3エンジンや水平尾翼などを脱落して機体を大きく破損させ、その勢いのままに自分が立っている場に墜落したのです。38年が経とうとしている今もなお残る傷痕に事故の凄まじさを感じました。

 

そして事故の傷痕としてもう一つ目を引くのは、焼け焦げた樹木です。登山道のあちこちで見られる、123便の墜落によって発生した炎に焼かれた樹木。無残に折れて、黒く焦げた数々の樹木の生々しさが今もなお事故の恐ろしさを伝えてきます。

 
 

スゲノ沢付近に到達。写真だとわかりづらいですが、美しい涼やかな沢です。

 

ここも多くの方々が命を落とした場所でした。墜落の衝撃で機体前部と客室後部が分離し、客室後部が斜面を滑落した先がこのスゲノ沢となります。機体前部と違って火災は発生せず、滑落した斜面に植えられたカラ松が多少なりとも緩衝材となったのか、生存者の4名は全て客室後部の乗客でした。
登山道には色鮮やかな風車が並んでおり、ちょうど自分が伺った数日前にも飾り付けが行われていたようです。真新しい風車がカラカラと軽い音をたてながら回っておりました。


登山道口に戻ってくるとカウンターの数字は増えておりませんでしたので、尾根にはずっと自分一人だったようです。時刻は8:30。2時間10分ほどかかった計算です。一般的な所要時間は歩くだけであれば1時間半程度のようですが、可能な限り墓標に手を合わさせていただきましたので、このくらいの時間を要することになりました。
墓標には事故当時の年齢が書かれているものも多く、犠牲となった方々には今の自分よりも若い方々や小さな子供達も多かったことがわかりました。子供だけで飛行機に乗る「ちびっこVIP」という企画が当時のJALにはあったらしく、夏休み中であったことと併せて乗客に子供が多かった理由なのでしょう。


あえて申し上げるようなことはではございませんが、登山の途中で多くの墓標に手を合わせながらどうしても涙を抑えることが出来ませんでした。だからと言って亡くなられた方々やご遺族の方々のお気持ちがわかるなどとはとても申し上げられませんが、この地に眠る方々のご冥福と空の安全を祈らせて頂けてよかったと、そう思いました。

※登山道に熊よけの鐘が設置されていることからもわかるように、山には熊や鹿などの野生動物が住んでおります。今回は鹿の足跡があったくらいで実際に遭遇することなく慰霊登山を終えましたが、季節によってはスズメバチなどもいるようです。訪れる方は十分お気を付けください。実は早朝に1人で登山することを考慮して熊よけの鈴を持参していたんですけど、事故に遭われた方々が静かに眠る山をチリンチリンと鈴を鳴らしながら歩くのも気が引けてしまい、結局はあまり使いませんでした。

 
続きます。

慰霊登山の続きとなります。

 

■「すげの沢のささやき」~「昇魂之碑」

山深さが否応なしに感じられる光景。登山道は整備されており、歩くのに苦労するようなことはございません。途中の急な山道が苦手な方のためには緩やかな迂回路も用意されていて、休憩可能なベンチなども設置されてます。

 
 

登山道の要所要所に設置された熊よけの鐘を鳴らしつつ、ヒグラシに似たハルゼミの鳴き声を聞きながら進んでいくと、まず「すげの沢のささやき」が見えてきました。スゲノ沢とは多くの犠牲者にとって最後の地となった沢です。

 

ご遺族の川北宇夫さんが組織した航空安全国際ラリーにより1994年に設置された場所で、事故調査に参加したNTSB(米国運輸安全委員会)の当時の委員長でアメリカ側の責任者だったジム バーネット氏の言葉が刻まれた石碑がありました。バーネット氏は1991年にこの地を実際に訪れており、このバーネット氏の御巣鷹行きを実現させたのも川北さんだったようです。

 

航空安全国際ラリーは遺族会「8・12連絡会」の技術部会が独立した、主に技術面に関する航空安全の活動を行う組織で、英語表記は【International rally of endevors to improve air safety】。つまり『IREI(慰霊) air safety』となります。
その隣のポストから御巣鷹の尾根の案内図を1枚いただいて先に進みます。

 


「すげの沢のささやき」から10分ほど歩くと見えてくる休憩所の山小屋はご遺族方だけではなく一般の慰霊登山者も利用可能で、中には山の写真(熊の写真も)や芳名帳がございました。

 

芳名帳には日付休日平日問わず、犠牲者の方々の安らかな眠りを祈る言葉が綴られていて、自分も記帳させていただきました。山小屋の先にはトイレがあり、さらに先には案内板があって、慰霊碑へと至る道とスゲノ沢へと至る道に分岐となります。


自分はまず慰霊碑を目指すことにしました。案内図で言えば左下を起点として、[ハ]の慰霊碑、[ホ]付近のX岩、そして[ニ]で右に移動してスゲノ沢の方を経由して下山する流れです。
(写真は帰宅後に撮影したものですので、折り目がございます)

 

そして撮影は控えさせていただきましたが、この登山道には多くの、本当に多くの墓標がございました。地図に記された数字とアルファベットは墓標の位置を示しているもので、これらの墓標は遺体発見場所地図を元に建てられたものです。寺にあるような立派な墓標から、手書きの墓標、生前に故人が好んだと思われるものや家族写真が供えられた墓標、クリスチャンと思われる十字架など、多くの墓標が見受けられました。真新しい花が添えられた墓標も多く、今もご遺族の方々が故人を偲び、通われているのでしょう。ご遺族のお言葉が胸に刺さります。

 


案内板から15分、登山道口から45分ほどで慰霊碑「昇魂之碑」のある広場に到着。工事のため碑の後ろにブルーシートがかかってました。

 

持参した献花を供え、静かに手を合わさせて頂く。

やっとここに来られた、と思いました。

どうか安らかにお眠りいただけますように。

 

空の安全を祈って鐘も鳴らす。

どうか二度とあのような事故が起こりませんように。

 

毎年8月12日にはご遺族の方々が慰霊登山に訪れ、昇魂之碑の前で祈りを捧げているニュースなどをよく拝見いたしますが、ここまでの登山道が整備されており、迂回路なども用意されているとはいえ、登山道までの移動も含めて決して楽な登山ではありません。ご遺族の方々の高齢化も進んでおりますので、今後の慰霊登山には課題がありそうです。

昇魂之碑の横の登山道を進むと「遭難者遺品埋設の場所」や、まさに123便が墜落した現場となった場所の碑、祭壇、観音像、亡くなられた方々のお名前が記された慰霊碑などがございます。

 
 

おびただしい数の名前が刻まれた慰霊碑の隣にある観音像の名前は『御巣鷹茜観音』。名付け親はご遺族の方です。そしてご遺族が毎年発行していた文集の名前は「茜雲」。亡くなられた方々への想いが込められた名前なのだと思います。

 

続きます。

御巣鷹の尾根にて慰霊登山をしてきました。
“御巣鷹の尾根”と聞けば誰もが思い浮かべるのは1985年に発生した日本航空123便墜落事故。亡くなられた方は520名。単独機としては世界最多の犠牲者数を出した航空事故です。事故当時、自分は子供でしたが連日テレビで報道される事故の様子に不安を覚えた記憶があり、大人になってからもしばらく飛行機を忌避する気持ちがあったのは、この記憶が残っていたからかもしれません。
今回、御巣鷹の尾根にて初めての慰霊登山をさせて頂きました。事故の風化を少しでも防ぐためにも、軽い解説などを交えながらどのような慰霊登山となったのか、ご報告したいと思います。

■上野村に向けて出発

 

画像は上野村公式サイトより。

2023年6月17日の土曜日。朝の3時過ぎにレンタカーで都内から出発し、日の出を横目に高速道路を走行。上信越自動車道の下仁田インターチェンジを下りて、一般道で御巣鷹の尾根のある群馬県上野村を目指しました。上野村までのアクセスはJRとバスの乗り継ぎという選択肢もございますが、そこから先の公共交通機関がございませんので、御巣鷹の尾根へ向かう際は車での移動が基本となります。ただし交通事情により道路が通行止めとなることもございますので、事前に確認しておくことが必要です。
※2023年6月現在、長野県側からのアクセスに使用する299号線の十石峠付近は、2023年10月末まで工事により通行止めとなっております。

ここで上野村について補足いたしますと、群馬県南西部の長野県や埼玉県との県境に位置する村で人口は1047人(2023年5月1日時点)。利島村・御蔵島村・青ヶ島村など伊豆諸島の「島イコール村」となる村を除くと関東地方で最も人口の少ない自治体ということになりますが、関東最大級の鍾乳洞である不二洞と生犬穴(現在は閉鎖中)や、高さ90mの吊り橋・上野スカイブリッジを有するリゾートエリア「天空回廊」、他にも温泉などの観光地が存在し、2005年にはダムと発電所が建設されたこともあって、自治体としての財政は決して悪くはありません。

下の画像は2020年の政府統計で「関東地方の人口が少ない市区町村」のランキングです。南牧村と神流町は上野村と隣接している町村ですから、この付近が如何に山深い地域なのかがおわかりになられるかと思います。

江戸時代は幕府の直轄地で、将軍家に鷹狩り用の鷹を献上しており、これが「御巣鷹山」の語源とのこと。大総代を務めていた黒澤家の旧家は国指定重要文化財に指定されております。

上野村は黒澤(黒沢)性の方の比率が非常に高い地域だそうで、現在の市長は黒澤八郎氏で、日航機墜落事故当時の村長は黒澤丈夫氏。さらに言えば歴代の村長のうち黒澤性の方は7人もいらっしゃいます(2回務めた方が2人なので実質は5人)。
すいません、余談が長くなりました。



下仁田インターチェンジから御巣鷹の尾根へと向かう途中には数多くのトンネルを抜けることになり、そのことからもいかに現場が山深い場所であったのかがわかります。上野村に入ると徐々に“御巣鷹の尾根”の文字を見かけるようになってきましたが、近づくにつれて細くてカーブの多い山道になっていき、落石注意の看板が多くなります。実際そこそこの大きさの石が道に多く転がっていて、中には岩と言ってもいいものまであり、この後到着する登山道口付近にはフェンスをゆがませるくらい大きな落石も。これから台風が多くなる季節になりますし、御巣鷹の尾根を訪れる方は注意が必要です。

 

山道を進むと観音菩薩像やご遺族の更衣室、トイレなどがあるスペースがあります。ここは旧登山道の入り口で、墜落現場の御巣鷹山慰霊碑まで距離2000m、標高差500mとなる登山道の起点となる場所でした。ただし現在はもっと上に登山道が整備されたため、この旧登山道は閉鎖されております。

 
 

ここに来るまでの沢で釣りをしている方を見かけることもありましたが、この旧登山道から先は「鎮魂の川」として禁漁区間となっているそうです。上野村の方々の御巣鷹の尾根に対するお気持ちが感じられました。

 

■御巣鷹の尾根にて慰霊登山開始

旧登山道口から更に進むこと10分程度で、現在の登山道口の駐車場に到着。下仁田インターチェンジを下りてから1時間半程度で、時刻は6:20。晴天。最高気温は30度近くまで上がる予報でしたが、まだこの時間では肌寒いくらいの気候です。時間が時間のため、駐車場には工事用車両を除いて他の車は見当たりません。

 

登山道口には入山者の人数確認のためのカウンターが設置されてました。

 

カシャ、とカウンターを押すと数字は【456】に。今年の4/29に開山してからの数字かと思います。毎年の正確な入山者数は不明ですが、過去に慰霊登山をされた方の日記などを拝見すると、1カ月半でこの人数は多いように思います。コロナ禍や台風被害による入山制限が今年から解除された影響でしょうか。

 

カウンターの隣には登山者用の杖が設置されてましたので、1本お借りして慰霊登山を開始いたしました。

 
 

続きます。


 

10月のまたの名は神無月。島根県の出雲に神様が集まって出雲以外から神様がいなくなってしまうから神無月。逆に出雲では神在月と言います……と言うのは後付けの理由で実際の語源は不明、なんて話もあります。でもこの説は面白くて好きです。
9月も終わりですね。あっと言う間にも程があります。この調子でいったらドラえもんに会える日もすぐですね。あと90年。
最近は仕事がバタバタしてて、不参加のイベントもチラホラ。この状況はしばらく続きそうです。仕事が増えた上に人が減るとかマジで勘弁して欲しいなぁ。
個人的に「参加できない」と言う表現は好きじゃなかったりします。仕事があったとしても“後は野となれ山となれ”の精神で放り出せば参加は出来るワケですし、遠方のイベントでも仕事を休めばいいし、移動費が高いのであれば何日かけてでも歩けばいい。要するに体調不良などを除けば「都合で参加できない」ではなく「都合をどうにかしてまで参加しようとは思わない」だというのが自分の考えです。
まぁそんなのは単なる極論で言葉遊び。社会人として生きている以上は仕事を優先させて当然ですし、むしろその後もイベントに参加するためにも仕事を放りだすワケにはいきませんから、どうにもならない時はいくらでもあります。ただ気持ちの問題として「参加できません」と言うのが好きじゃないので「不参加です」という言い方をしてる自分です。めんどくさい男でゴメンなさい。

そんなこんなで1カ月の連続ブログ更新も本日で〆。と言ってもアメブロは更新日付を指定出来るので、翌日に前日の日付を指定するタイムマシン更新を多用しましたが、結局そればっかりやってれば毎日更新してることには変わりないんですけどね(笑)
毎日更新は今日までですが、これからも気が向いたらちょいちょい更新することもあると思います。

しかし10年かぁ……と今更ながら考えてしまいますね。正直あっと言う間でした。無我夢中と言いますか、五里霧中と言いますか←
「10年も応援してるなんてスゴいですね!」と言ってくださる方も多いのですが、自分では全然スゴいとか思ってなくて、スゴいのは10年も応援させ続けてる百花さんだと思ってます。自分はそれだけの魅力を持った百花さんに釣られてるだけですので。(言い方よ)
ちなみに自分は2012/10/2のステージデビューのライブには不参加でした。雀荘では既に会っていて、あの頃にはそれなりに話すようになっていたんですけど、何故かデビューの話は聞いてなかったんだと思います。聞いてたら自分なら「じゃあ見に行くよ」となるはずですし、実際に「実はライブに出てる」という話を聞いてすぐに見に行ってますからね。その初めて自分が百花さんのライブを見に行ったのは2012/10/30で、そのことを当時の百花さんがブログに書いてました。

 

ライブにでた日のこと 2012-11-01 01:21:00

この日はなんと私が勤めている麻雀店MJPSあきばにたびたび出現する『遊びの神』がはるばる六本木までかけつけてくれたのです!
まさか来てくれるなんて思ってもみなかったから本当に嬉しかったです!

たびたび出現も何も、ほぼ毎日通ってました。にしても『遊びの神様』って何でしょう(笑) まぁ今となっては百花さんの方が女神なんですけどね。
私は知り合いがライブや舞台に出演する、となったらとりあえず1回は顔を出すようにしているので、百花さんのライブに参加したのもそんな気持ちからでした。でもその1回に限らずその後もライブに足を運ぶようになったのは、きっと何か感じるものがあったからなんでしょうね。正直その辺はあまり覚えてません。
あの頃は仕事で日本中へ出張していたのでライブに毎回参加出来ていたワケでもなく、そこまでの熱意があったワケでもなかったように思います。それが「真面目に牧野さんを応援するか!」と気持ちが吹っ切れたのは2013/2/11に開催された「ももちよまる。」の初ワンマンライブに“○○一同より”とか書いておきながら自分一人でフラワースタンドを出した時でした。あ、ちなみに当時は百花さんのことを「牧野さん」と呼んでたんですよ。その後2015/10/25の活動3周年ライブで『咲桜百花』に改名した時に「もう牧野さんじゃないし、咲桜さんじゃ呼びづらいし」と「百花さん」と呼ぶようになって、いつしか普段話す時は「もーさん」と呼ぶようになってました。
言ってみれば“義理とちょっとした興味で”と参加したライブから始まって、それが今でも通い続けることになっているのはやっぱり運命の出会いだったのかなー、なんてネタでも何でもなく思ったりします。

 

ユニットも含めてこれまで百花さんが出演してきたライブは全部で683回にもなりますが、自分が参加したのはその内665回。上記の初ワンマン以降で言えば不参加だったライブは10回になります。不参加の内訳は結婚式に主席するためが2回と調整できなかった仕事が2回、あとは高校剣道の恩師の退職祝いと実家の都合が1回ずつ、シークレット出演のライブが1回と出演を知った時にはチケットが完売していたアニサマが1回。そして前日になって「明日(平日)の15時過ぎからのライブに出ることになった」と突然前日の物販で言われてどうにもならなかったのが1回と、理由不明が1回って感じ。
百花さんのライブには毎回「参加したい」と言う気持ちで参加してるので、多少の無茶はやってますが無理はしてません。「全部に参加したい」ではなく、1回1回のライブで毎回「参加したい」と思う。これは全く違います。ライブは義務感で参加し始めたら終わりです。これは真理。楽しみたいから参加するのであって、気付いたら10年間楽しんできてた。ただそれだけの話です。
(なのでよくアイドルオタクさんの「一生推します!」とかのコメントを見ると違和感があるんですよね。「一生」は誇張表現だとしても、長年ずっと推し続けるのは決意することでも宣言することでもなく、単なる楽しみ続けてきた結果でしかないと思ってるので。もちろん応援する気持ちの表明なので悪いこととは思ってませんよ。なので言われたアイドルさんは「一生とか無理だろ」とか言わずに、それだけの熱意があるんだと素直に喜んで頂きたいと思います)

そんなこんなで百花さんのライブ活動10周年まであと3日。その記念日である10/2当日は瀬戸さんの生誕祭です。百花さんのソロもあります。思い切り瀬戸さんをお祝いして、思い切りライブを楽しみたいと思います。

 

http://momoka10yrs.html.xdomain.jp/
 

昨日公開した『ライブ活動10周年に際して百花さんの歴史を振り返ろう』のサイトは思ったよりも好評をいただいておりホッとしてます。いや、ホント突貫すぎて自分で見返しても凹むレベルでショボショボでしたので(笑)
今はデザインのいいホームページをちょいちょいと作るサービスもあちこちで充実してますし、これでも一応昔はサイト運営者をやっていたので、それなりにノウハウはあるつもりなんですよ。ただどうしてもやりたいこと(百花さんの足跡を辿ったり、イベント一覧を載せたりなど)をやるのにちょうどいいデザインが見つからなかったんですよね。何より時間が足りない、と超焦ってました。
そこで使ったのがExcel。わかる人が見たら一発だったと思いますけど、Excelで作成したデータをHTMLで保存してホームページを作りました。タブもそのままリンクとしてくれるし、なかなか便利なんです。ただデザインがショボいのと、画像が荒くなるのと、他にも色々納得いかないところがあるのとで、これでいいのか最後まで悩みました。
最終的には10周年の日の数日前に公開したかったので「これが落としどころか」と納得して公開したんですが、ご覧になられた方にはデザイン的にも問題はなかったようで一安心。


内容的にも本当はもっと色々やりたかったんですけどね。例えばイベント以外のデータベースや、10周年を迎える百花さんに贈る言葉の募集とか。でも前者には無駄に詳しいWikipediaがありますし、後者については来年の生誕が10周年を兼ねて盛大なものとなることを信じて温めておくことにしてますので、その時は皆さんご協力をお願いいたします!

2012年10月2日。
百花さんが六本木のライブハウスでステージに立った日。
それから10年が経ちました。
「山あり谷あり森あり獣道あり」な波乱万丈な10年間。
そのすべてが今の百花さんを作り上げた要素であり、
たくさんの方々との出会いによって今の百花さんがあるのだと思います。

そんな10年間の軌跡を振り返るために、
そして願わくば多くの方に百花さんをもっと知って頂くために、
活動に関する手持ちのデータを公開してみました。

http://momoka10yrs.html.xdomain.jp/

一言で「活動10周年」と言っても簡単なことではありません。
中学校の新入生も10年後にはニートじゃなければ就職してます。
10年とはそんな時間です。
継続は力なり。でも物事を継続するには力が必要です。
「力をもって継続し、継続をもって力とする」
そんなことを言っている人がいました。
「麻雀は人類が生んだ最高のゲーム」
そんなことも言ってました。両方俺ですが。

楽しいことも、
嬉しいことも、
苦しいことも、
つらいことも、
数えきれないくらいあったでしょう。
それを全部抱えてまだまだ“継続”し続ける百花さん。
大好きです。尊敬してます。
出会ってから10年が経ちました。
楽しい10年でした。
これからの10年も本当に楽しみです。

……と長々とご挨拶させて頂きましたが、
実際はそこまで大層なページではございません。
4日間くらいで空いた時間を使って作った突貫サイトなので
全体的に、そして要所要所が荒いのはご容赦ください。
でもいいのです。
「百花さんはライブ活動10周年なんですよ!」
と皆に知ってもらうのが一番の目的なのです。

でも気付いたら対話どころか口から一切の言葉を発してなかった月曜日。
まぁ在宅とはいえ仕事してるのでチャットとかメールは使ってますけど、発声という行為を行ってなかった。寝る前に無意味な声を出してみた。なんだか寂しくなったので。でももっと寂しくなった。

「ダイの大冒険」のアニメが96話を放送されてましたが、もう毎回クライマックスで目が離せません。今回の話「閃光のように」は完全にポップ回なワケですが、もう気付いたら涙がポロポロポロポロ……やはりダイの大冒険の主人公はポップと言っても過言ではないですね。
100話で完結することが発表されてるので、残りは4話。原作は何回読み返したかわからないくらい読んでるので、もう完全にこの先の展開はわかってますけど、それでもやっぱり楽しみにで仕方ない。
しかもジャンプで連載が完結したのが26年前。連載開始なんて33年前ですからね。本当に面白いものは今でも昔でも面白いってことです。きっちり2年かけて丁寧にストーリーをおってくれて、クオリティを保ってくださったスタッフの皆さんに感謝です。