ザキリューのブログ

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岡山地底湖行方不明事故。または岡山地底湖行方不明事件。
検索すると事件系動画や記事などが大量にヒットするこの事故は、一言で言うと「2008年に岡山県の鍾乳洞で、地底湖を泳いでいた大学生が行方不明になった事故」。これだけ聞くとただの行方不明事故なのに、事故から15年も経った今でも何故これほどまでに言及されているのか。
それはこの事故が “闇深い事件” であると語られているからです。
そしてこの日記は “闇深くない事故” であることを解説する日記となります。

 

※長文です。大変申し訳ございません。

※日記内での個人名は全てイニシャルとさせていただいてます。


1、語られている“事件”の概要
 

2008年1月5日、岡山県新見市の阿哲台で行われていたケイビング(洞窟探検)合宿でのこと。
高知大学の学術探検部に所属する3年生のNさんは5人のパーティーで日咩坂鐘乳穴(ひめさかかなちあな)に入洞。3時間程で最奥部にある巨大な地底湖に到達した。この地底湖を訪れた者は、地底湖を泳いで反対側の壁まで横断するのがこの合宿では慣例だった。
そしてNさんは地底湖を泳ぎ、無事に反対側の壁に到達。しかし、Nさんを見守っていたパーティーメンバーが少し目を離した隙にNさんの姿は無くなっていた。パーティーメンバーは救援を要請するべく出洞。

メンバーによる救援要請を受け、機動隊や消防署員、鍾乳洞に詳しい岡山ケイビングクラブ部員などによる捜索がなされたが、Nさんを発見することは出来ず、1月10日に捜索は打ち切られた。
その後、NさんのSNS(mixi)が何者かに書き換えられたり、Nさんが所属する学術探検部のホームページから部長と副部長の名前が削除されたりなど、不穏な動きがあったことが明らかとなった。



これが事件として語られる大筋で、不可解な点が多いとされ “闇深い事件” と言われてます。
地底湖のイメージ図はこの “事件” が語られる際によく引用されるものです。

もしお時間があれば、この “事件” を取り上げた動画を見てみてください。
例えばこちら↓とか。

⇒ 【岡山県地底湖で消える学生】不可解だらけのこの事故、アナタならどう考える!?

現在「123便事故の真実を追求する」としている動画をアップし続けているワタナベケンタロウさんによる解説ですが、残念ながらネットの噂をかき集めただけの動画となってます。この “事件” が世間でどのように扱われているのか、よくわかるかと思います。不可解なのは貴方が何も調べたりしていないからだ、と言いたいです。

⇒ (実話)岡山地底湖行方不明事件で何があったのか?(マンガで分かる)

チャンネル登録者数128万人の超人気YouTuberアシタノワダイさんの動画ですが、残念なことに大嘘の詰め合わせセットになってます。

他にも「岡山 地底湖」などで検索すると同様の動画が大量に出てきます。
あとWEBでの記事もたくさんございます。例えばこの記事↓など。

⇒ 謎多き「岡山地底湖行方不明事件」の怖すぎる真相とその犯人は?

いかにこの “事件” が歪んで広まっているかがわかる記事となっております。

これらの動画や記事のうち最低でも1つくらいに目を通して頂けると、この後の話がより頭に入りやすくなるかと思います


2、不可解な点

この “事件” において不可解とされるのは以下の点です。

 

①鍾乳洞に入る際に必要な入洞届を提出してない。

②5人いたのに地底湖で泳いだのは被害者のNさんだけ。そもそも真冬に地底湖で泳ぐのは不自然。

③Nさんが溺れるところをメンバーの誰も目撃してない。

④溺れた時の状況説明がニュースソースによってコロコロ変わる。

⑤Nさんが地底湖の反対側の壁に到達した時の「タッチした」という声は聞こえたのに、姿を消す前に助けを求める声などは一切聞こえなかった。

⑥メンバー達は救助活動を行わず、現場に誰も残らないで全員帰ってきた。その際にロープなどは全て回収され、Nさんはどうやっても戻れないような状態としてからの撤退だった。

⑦このような遭難事故では隊長(部長や副部長)が記者会見するのが普通だが、記者会見は行われていない。

⑧探検部のホームページから部長と副部長の名前が削除された。

⑨探検部は女性が多く(男15:女10)、部内で恋愛やトラブルが起きやすい状況だった。

⑩いつもは行き過ぎた報道合戦を行うマスコミが今回は部員に全く取材を行わない。

⑪Nさんの知人を名乗る人物が高知大学のリモートホストから2ちゃんに削除依頼を行った。

⑫事故後、Nさんのmixiにログインしてプロフィールを改竄し、日記を全て削除した者がいる。


こうして列挙すると確かにとんでもない闇や裏がある “事件” に見えますね。1つ1つ、どう不可解とされているのか解説します。

①鍾乳洞に入る際に必要な入洞届を提出してない。
鍾乳洞に入洞する際は入洞届(記載内容はスケジュールや入洞するメンバーの情報など)の提出が必須なのに提出されていなかった。何かを隠蔽する目的があった可能性がある。

②5人いたのに地底湖で泳いだのは被害者のNさんだけ。そもそも真冬に地底湖で泳ぐのは不自然。
地底湖を泳いで横断するのが伝統とされているらしいが、5人のメンバーの中で実際に泳いだのはNさんだけだったのは不自然。
しかも真冬に地底湖で泳ぐのも不自然。これは強制的に泳がされたNさんに対するイジメ、もしくは殺意をもって水中にNさんを突き落とした殺人であった可能性がある。

③Nさんが溺れるところをメンバーの誰も目撃してない。
せいぜい30m先にいるNさんが溺れるところをメンバーが見ていないというのは不自然。何かを隠している、もしくは偽証の可能性が高い。

④溺れた時の状況説明がニュースソースによってコロコロ変わる。
口裏を合わせられていないということ。つまり実際には事故で溺れたのではなく、地底湖で何かしら “事件” が起きており、メンバーはそれを誤魔化している。

⑤Nさんが地底湖の反対側の壁に到達した時の「タッチした」という声は聞こえたのに、姿を消す前に助けを求める声などは一切聞こえなかった。
メンバーはNさんの「タッチした」という声を耳にしたというのに、Nさんが溺れて助けを求める声は聞いていないというのは不自然。

⑥メンバー達は救助活動を行わず、現場に誰も残らないで全員帰ってきた。その際にロープなどは全て回収され、Nさんはどうやっても戻れないような状態としてからの撤退だった。
地底湖からあがってくるのに必要なロープや、鍾乳洞内を移動するのに必要なロープ等を回収し、かつメンバーは誰も地底湖に残らないとなるとNさんはどうやっても地底湖からあがってこられないし、帰ってこられない。メンバーはNさんの死を確信していたのではないか。

⑦このような遭難事故では隊長(部長や副部長)が記者会見するのが普通だが、記者会見は行われていない。
このような事故では記者会見が開かれるのが普通。探検部の部長や副部長が記者会見を開かない。後ろめたいことがあるからだろう。

⑧探検部のホームページから部長と副部長の名前が削除された。
何も後ろめたいことがないのであれば、このようなことをする必要がない。名前を隠さないといけない『何か』があったと推測される。

⑨探検部は女性が多く(男15:女10)、部内で恋愛やトラブルが起きやすい状況だった。
Nさんは男女関係のトラブルによって消された可能性がある。また、部長(女性)とNさんは恋人関係にあったという噂もある。

⑩いつもは行き過ぎた報道合戦を行うマスコミが今回は部員に全く取材を行わない。
部員(副部長?)にいわゆる上級国民と呼ばれる親族がおり、マスコミへの圧力があったのでは。逆にそれはそこまでしても隠蔽したいことがあるということである。

⑪Nさんの知人を名乗る人物が高知大学のリモートホストから2ちゃんに削除依頼を行った。
何故削除する必要があるのか。後ろめたいことがあるからであろう。

⑫事故後、Nさんのmixiにログインしてプロフィールを改竄し、日記を全て削除した者がいる。
当時流行っていたSNSであるmixiにはNさんもアカウントを持っていた。行方不明となっていたNさんのmixiで改竄があったというのはただ事ではない。改竄されたのはプロフィールのハンドルネームや個人情報の諸々、そして日記の削除(非表示化)など。他人のmixiにログインして改竄を行う違法行為をしてまで隠蔽したいことがあるのか。

これほど不可解な点があるにも関わらず事故として処理されてしまい、Nさんは発見されていない状況。これは “事件” だ、とネットでは「部長が主犯に違いなく、副部長も隠蔽に加担しているに違いない」と事故当時から騒がれていて今に至ります。つまりNさんは部長によって殺害されたのだ、と。


そんな妄想に満ちた “事件” 説に対して、事実に基づいた解説および推察を行います。

 

3、時系列

この事故に関する世間一般的な超概要的時系列を振り返ってみます。

2ちゃんねる(以下、2chとする)での動きも併せて記載します。
 

≪2008/1/5≫

  • 事故発生。
  • 18時過ぎに警察へ通報。
  • 深夜に第1次捜索が開始。

≪2008/1/6≫ 

  • 事故の第一報が報じられる。
  • 第一報を受けて2chにスレが立つ。
  • 朝方に第1次捜索が終了。
  • 第2次捜索、第3次捜索を実施。

≪2008/1/7≫

  • 第4次捜索を実施。
  • 2chにて関連スレの削除依頼が行われるが却下される。
  • Nさんのご両親が警察官らに「危機管理が出来ていたのか」と詰め寄ったとする毎日新聞の記事が公開され、2chでは両親への非難が過熱。

≪2008/1/8≫

  • 第5次捜索を実施。
  • 探検部のHPから部長と副部長の名前が削除される。

≪2008/1/9≫

  • 第6次捜索を実施。

≪2008/1/10≫

  • Nさんのご両親が高知大学を通して謝罪や御礼のコメントを発表
  • 第7次捜索を実施。以上をもって捜索活動は終了。
  • Nさんのmixiが改竄されたことが発覚。以降、2chでmixiのウォッチが始まる。
  • 現在でも「事件の不審な点」とされる一覧がほぼ固まる。

≪2008/1/11~≫

  • ご両親へ電凸した者が複数現れる。(証言に矛盾があり信用性は低い)
  • 捜索が終了して新しい事実が出てくることがなくなり、1月を過ぎるとスレは失速していく。

≪2008/7~≫

  • 7月に事故の報告書が作成。8月には学術講演で報告書に基づいた報告がなされる。
  • 2chに報告書を読んだ者の書き込みがあり、スレは更に失速する。

≪2012頃~≫

  • 2chで事故直後に「事件の不審な点」とされる一覧が再び取り上げられるスレが立ち始める。
  • 事故について途中までしか更新されていなかった(事件として扱う色が濃かった時期の)まとめサイトも取り上げられ、改めて事件として扱われ始める。
  • 時折ネタ的にスレが立つが、あまり盛り上がることはなかった。ただ事件の重要人物とされていた人物が所属する団体への電凸が行われるなど、悪質な動きがあった。
  • 2ch(5ch)での書き込みなどを基にした動画やまとめ記事が作成され、更にそれらを見た3次的な動画や記事が乱発され、知る人ぞ知る事件として広まる。

 

昨今の状況は『巨大掲示板で事故直後に盛り上がったものの鎮静化した疑惑が、時間を超えて復活して広まった状態』と私は見ています。

4、事実に基づいた解説および推察

Wikipediaにこの事故の詳しい解説が記載されてます。

⇒ Wikipedia 岡山地底湖行方不明事故

コレを読んだだけで“事件”説がいかに荒唐無稽なものかわかるのですが、Wikipediaはどこまで信用出来るのかという問題があります。「mixiを改竄するような連中なら、Wikipediaくらいいくらでも弄るだろう」とお考えになる方もいらっしゃるでしょう。
そこでWikipediaで主な参照元とされている日咩坂鐘乳穴事故報告書作成委員会により作成された2008.1.5 日咩坂鐘乳穴事故報告書を国会図書館で確認してきました。これは事故について詳細な調査結果をまとめたもので、Wikipediaの記載は報告書の通りであることが確認出来て、更にWikipediaに記載されていない事柄も知ることが出来ましたので、興味のある方はご一読をお勧めいたします。

 

【日咩坂鐘乳穴事故報告書:表紙と目次】

(上記はオークションサイトから拝借した画像ですが、こんなのもオークションに出されるんですね……)


報告書作成の中心となったのは、Nさんが所属する高知大学ではなく愛知大学です。更には第三者に考察を委託するなど、公平性を強化した上で非常に多くの団体や関係者が作成に関わる形となっており、サークル内の殺人を関係者全員でかばっていると考える方が厳しいでしょう。私はこの報告書が正確なものと判断しておりますので、これ以降は報告書をベースに解説していきたいと思います。

 

※報告書をベースとしたWikipediaは2021年6月に作成されたもので、それより前に存在した「岡山地底湖行方不明事件」と言う項目は現在の項目に移動する形で統合(削除)されたようです。以前は情報量の少ない事件としての項目しかなかったことが、不確かな情報での記事や動画が広まった原因の一つだと思います。

ではまず冒頭の事件概要にも出てきた、この“事件”について語られる際に絶対に出てくる地底湖のイメージ図ですが、いきなりこれが間違ってます。

 

【間違ったイメージ図】

 

イメージ図からは「地底湖は卵型。洞窟の道と地底湖の水面の高低差は5mもあり、地底湖には飛び込むかロープを伝って降りる形になり、戻るにはロープで登る必要がある」といった光景が伝わってくるでしょう。
しかし実際には違います。「洞窟の道と地底湖の水面の高低差が5m」と言うのは事実ですが、その間には落盤が階段状に堆積しているため昇降に支障はないとされてます。そして地底湖に入ると最初は膝下くらいの深さで、ある地点から急に深くなる構造とのこと。
つまり洞窟の道から地底湖にかけてのポイントを横から見るとこんな感じです。



階段状であることを多少デフォルメしていますが、この時点で「Nさんは突き落とされた」「地底湖にはロープが必要」と言った話が大嘘であることがわかりますね。
他にも広まっているイメージ図の誤りはあります。イメージ図では地底湖が卵型をしていて上から見ると丸い円になっているように見えますが、実際は上から見ると団扇みたいな形です。



上から見て団扇型であることは、後々大きな意味を持ってきます。

 

何故こんなにも間違ったイメージ図が広まっているのか。

これは推測ですが「鍾乳洞の奥に水面までの高低差が5mの巨大地底湖がある」という情報を入手したメディアが想像で作ったのがこのイメージ図なのだと思います。(TBSのニュースで使用された映像とする説あり)そして作られたイメージ図のインパクトが非常に強かったため、ある意味キャッチーなイメージ図として現在に至っても使用されているのでしょう。


現場となった日咩坂鐘乳穴について補足いたします。読み方は「ひめさかかなちあな」。

金田一耕助シリーズ「八つ墓村」のロケ地となり、コスプレイヤーさんの撮影に使われることもある満奇洞なども含めて、新見市にはいくつもの鍾乳洞が存在します。ただし日咩坂鐘乳穴はこの事故の前年にも洞窟内の縦穴から転落死する事故が発生するなど、入洞中の事故が多発しているため現在は入洞禁止とのこと。


日咩坂鐘乳穴は測量されているだけで総延長1800m以上とされており、未測量の分も含めると2100mを超えると見なされる非常に大きな鍾乳洞です。
途中に「神の池」と神々しい名前の付いた池があります。昔はここが最奥と見なされてましたが、冬の渇水期になると更に奥へ進めることが1971年に発見されました。「神の池」から先には10m~20mの崖や腹這いになったり水に浸からなければ通れない箇所などの危険なポイントが多く存在し、それらを抜けた先に問題の地底湖が存在しています。重要なのは冬の渇水期になると地底湖まで進めるようになるという点です。

 

【平面図】


あとこの合宿について、多くの方が勘違いしている点があります。
それはこの合宿がNさんの所属する高知大学だけではなく、中国四国の他大学の探検部やOB、さらには浜松ケイビングクラブの会員までも参加している、複数団体による合宿であるという点です。
Nさんの所属する高知大学の学術探検部からは現役生が3名+OBが1名が参加しており、現役生3名にはNさんと疑惑の目が向けられている部長Hさんも含まれてます。
そしてNさんが入洞した時のパーティーは前日の夜に決まった寄せ集めパーティーであり、メンバー内に高知大学関係者はNさんだけでした。Nさん以外のメンバーは香川大学の現役生3名+浜松ケイビングクラブの29歳男性の合計4名。「Nさんは部長Hに殺された」などと言ってる方は、部長Hさんの依頼でこの4名が殺人を実行したとでも仰るのでしょうか。
何はともあれ「行方不明になったNさんはサークルのメンバーと5人で鍾乳洞に入った」としている動画や記事は、その時点で信用度がゼロだと言えます。

また、今回の合宿で日咩坂鐘乳穴への入洞は1月2日と1月5日の2回行われていて、事故が起こったのは2回目の1月5日の入洞だった、と言うのもあまり知られていないと思います。

では前述の不可解と言われている点について検証していきます。

①鍾乳洞に入る際に必要な入洞届を提出してない。
確かに現在の新見市のホームページを見ると入洞届を提出するのは必須とされています。しかしながら事故当時は入洞届の提出は任意でした。なので別に提出していないことは不自然ではありません。


この合同合宿は事故の発生した2008年で3回目で、過去2回の合宿でも入洞届は提出されておりません。その代わり新見市教育委員会の生涯学習課への電話連絡を行ってましたが、今回は「役所が仕事納めをしている」と考えて電話連絡も行っておりません。
報告書には以下の記載がございます。

 

阿哲台の洞窟に入洞する場合、渉外先は、新見市教育委員会生涯学習課である。
合宿を行う場合は、入洞届けおよび入洞者名簿,連絡先,緊急時の連絡網,入洞日程等を記載した合宿計画書の任意提出を求められていた。
これまでの冬季阿哲台合宿では、新見市教育委員会生涯学習課へ入洞日程を電話連絡していただけだったが、電話連絡の際に計画書の提出を求められることはなかった。

(『2008.1.5 日咩坂鐘乳穴事故報告書』p.8)

 

出回っている写真で見かけることがある「必ず入洞届けを提出してください」という看板やその文字は、事故後に設置・追加されたものであることに留意してください。

 

事故後1月11日に日咩坂鐘乳穴入洞口へ向かうドリーネ上に新見市教育委員会への入洞届け提出を促す案内板が設置された。
さらに、洞口横に立つ、洞窟の概要を記した案内板にも「入洞の際は、必ず入洞届けを提出してください」という一文が追加された。

(『2008.1.5 日咩坂鐘乳穴事故報告書』p.27)

 

また、過去2回の合宿では日咩坂鐘乳穴神社の宮司への口頭報告が行われてました。今回の合宿でも1月2日の入洞の際は、過去と同様に宮司への口頭報告が行われてます。しかし事故の起こった1月5日には報告は行われておりません。そこに闇がある……ワケではなく、単に宮司が不在だったためでした。

■①結論
入洞届の提出や電話連絡、宮司への口頭報告を行わなかったことで、危機管理意識の低さを指摘されるのは仕方ない。
でもだからと言って任意である行為を行わなかっただけで「何かを隠蔽するためだ」とするのは無理がある。
入洞届の提出が必須である前提で話すのが間違い。

そもそも事故が発生して出洞した後に通報していることから、特に入洞したことを隠そうとはしていない。入洞時の届け出がないからと言って、その時点で何かを企んでいたため入洞することを隠したと考えるのは無理筋すぎる。

②5人いたのに地底湖で泳いだのは被害者のNさんだけ。そもそも真冬に地底湖で泳ぐのは不自然。
日咩坂鐘乳穴に入洞して地底湖まで到着したら、地底湖を横断するのがこの合宿の慣例となっていたそうです。2006年には10名が入洞して5名、2007年には21名が入洞して9名が地底湖を泳いで横断してました。
この数字を見てわかる通り、地底湖に辿り着いた人が全員地底湖で泳ぐわけではありません。地底湖で泳ぐのは記念のようなものであり、「さあどうする?」「誰かいく?」とメンバー内で促すようなことはあっても強制ではなく、地底湖まで来ても既に泳いだことがある人や泳ぎに自信がない人は普通に泳いでませんでした。
実際NさんがいたパーティーのチーフリーダーであったOさんは過去3回の入洞経験がありましたが一度も地底湖では泳いでませんし、1月2日に入洞したメンバーは誰も泳いでません。合宿参加メンバー全体でも複数回の入洞経験がある者の大半が1回しか泳いでおらず、逆に9回入洞して8回も泳いでいる者(合宿とは関係なく入洞経験があったと思われる)がいたりすることなどからも、地底湖で泳ぐかどうかは個人の自由意志だったことがわかります。


1月5日のNさんを含む入洞メンバー5人のうち地底湖横断の経験者は1人だけで、残り4人のうち地底湖を泳ぐことに意欲を見せたのはNさんと浜松ケイビングクラブの男性Kさんの2人だけだったそうです。でもKさんは泳ぎに自信がなく、壁伝いに2、3m進んだところで足がつかなくなったので引き返して横断を断念してます。
Nさんは「浮き輪やフィンがあればいいのにな」「ここは無理そうですね」と発言したり、他のメンバーを誘うような発言をしたりなど横断を諦めきれない様子だったとのこと。他のメンバーは反対も強制もせずNさんの意思に任せていたようですが、結局Nさんが無言のまま地底湖中央を対岸へ向かって泳ぎ始めたので、メンバー達は泳ぐNさん周辺をライトで照らしたりしながら見守ったそうです。
この流れは「強制的に泳がされたに違いない」とする説よりはるかに説得力があります。交流目的もあったので他大学や他団体のメンバーと寄せ集め状態で一緒に入洞した状況で、強制的に泳がされると考える方が不自然ですね。そして「突き落とされた」とするのも地底湖の構造上ありえないのは前述の通りです。
あと真冬に地底湖で泳ぐのは不自然という話もありますが、日咩坂鐘乳穴に関する補足で述べた通り、通常時は途中の「神の池」までしか進めず、そこを通り抜けて地底湖まで到達出来るのは冬の渇水期だけ。冬に泳ぐのは当たり前のことで、そもそもだからこそ真冬にこの合宿は開催されていたのです。

■②結論
地底湖で泳ぐ泳がないは個人の意思であり、Nさんしか泳いでいないのは他のメンバーが泳がなかっただけ。
そして『冬に地底湖で泳ぐのは不自然』ではなく『地底湖は冬しか泳げない』が正解。

③Nさんが溺れるところをメンバーの誰も目撃してない。
泳ぎだしたNさんとそれを見守るメンバーの動向について解説します。
地底湖を泳ぎ切ったNさんは左に泳いで移動したり、対岸の岩に腰を掛けて休んだりしている姿がメンバーに目撃されてます。そしてメンバー達が出洞についての話し合いでNさんから目を離した数十秒の間に、Nさんの姿は消えてました。
重要なのは地底湖の形です。地底湖は全体を一目で見渡せるような丸い形をしているわけではなく、死角の多い団扇型をしています。そしてメンバーはNさんの姿を見失ったものの、右側の壁の天井付近にNさんのライトの明かりが当たっているのを確認しており、Nさんは左側の壁に沿って移動していると推察されました。

 



ここでメンバーが「おーい」などと呼びかけると何度目かで「おーい」とNさんから声が返ってきました。その後10~15秒間隔で呼びかけ続け、3度目の「おーい」に何らかの応答があったのを最後に、Nさんの応答はなくなってしまい、メンバー達はNさんに不測の事態が発生したと考えて、出来る限りの捜索を始めることになります。
つまりNさんが何らかにトラブルに見舞われたのは、Nさんがメンバーからは死角となるゾーンにいた時なので、その姿をメンバーが見ていないのは当然なのです。

■③結論
地底湖は団扇型をしており、Nさんに何かがあったのはメンバーから死角となっているゾーン。それをメンバーが目撃出来ていないのは当然。地底湖が全体を見渡せる丸い形をしているという勘違いによる誤った指摘。

④溺れた時の状況説明がニュースソースによってコロコロ変わった。
事故直後の2chで頻繁に書き込みされていた数々の“疑惑”のうちの一つですが、ちょっと唐突に追加された感じのある項目でした。なので何をもって『コロコロ変わった』としたのかは不明瞭なのですが、追加される少し前にあった以下の書き込みからそのような印象を与えられたのだと思われます。

 

100 :名無しさん@八周年:2008/01/10(木) 13:48:47 ID:zL5eGQ6u0
最初のソース発言。
「彼は泳ぎが旨かったはず。」「一人で泳ぎに行って、気がついたらいなかった。」
2番目のソースの発言。
「装備は万全でした」と強調。「奥まで言った合図を聞いたがその後わからなくなった。」
3番目のソースかな?
地底湖を調査中に・・・に何故か変更。最初は遊泳中だった。
そして、1月8日に、部長と副部長の名前がHPから消された。
しかし他の内容はそのまま。説明も謝罪も無し。

さすが女達、無責任もいいところ。
部長の立場なら全責任とって社会的抹殺制裁をうけるべき。

【社会】 「危機管理、出来てたのか」 “大学生、洞窟の地底湖遊泳で行方不明”で、両親らが警官に詰め寄る。学生は依然不明…岡山★15

 

発言がいい加減という印象を与えるような書き込みですが、「旨かった」は「上手かった」だとしても前半には特に不自然なところはございません。報告書でもNさんの水泳能力や装備に問題はなかったとされております。「地底湖を調査中に・・・に何故か変更。最初は遊泳中だった。」と言うのも、Nさんのサークルは学術探検部ですので洞窟に入る目的は調査だと言えますし、事故にあったのは調査中に遊泳していた時とも言えますので、特に矛盾はございません。(HPの話は後述)


その他、可能な限りインターネットアーカイブを使用して現在は閲覧不可となった数十個のネット記事にも目を通しました。その結果、当初は情報が少ない中で各社が記事を書いていたことで、粒度や表現に差異が生じていたり、Nさんが入洞した時のパーティーがサークルメンバーであったかのようにも読める記事があったりもしましたが、総じて問題となるような記事間の矛盾はなかったと思います。

■④結論
ニュースソースによる違いは情報が少ない状態でのニュース会社間の表現の差に過ぎず、記事内のコメントにも問題はない。

⑤Nさんが地底湖の反対側の壁に到達した時に「タッチした」という声は聞こえたのに、姿を消す前に助けを求める声などは一切聞こえなかった。
「タッチした」というNさんの声が聞こえたする話がございますが、そんな事実はございません

 

Nは地底湖の3分の2程度まで泳いだ位置で一度止まり、待機側を振り返るような動きを見せたが、その後再び対岸に向かい泳ぎ出し、対岸まで泳ぎ着いた。対岸到着後、Nが片手を上げこちらに合図を送るような動きがあったが、声やホイッスルによるコールは確認できなかった。

(『2008.1.5 日咩坂鐘乳穴事故報告書』p.11)

 

また、 ネット記事にもそのような声があったという記載はございませんでした。では何故この「タッチした」という声がしたとされたのか。おそらくは以下のような複数の書き込みが入り混じった結果だったと推測いたします。

 

766 :名無しさん@八周年:2008/01/06(日) 18:59:12 ID:DYtTC33q0
なんとなく状況が見えてきたな。
要は泳いで一番奥の壁にタッチして「最奥部踏破!」みたいな声をだして
それで洞窟全クリみたいな流れだったんだろう。
で、泳ぎに自信があったこいつがいったと。
ところがそのあといくらまっても闇から再び彼は戻ってこなかったと。

怖すぎるな。

【岡山】鍾乳穴奧の地底湖で遊泳していた洞窟探検サークルの大学生が行方不明に★2

 

121 :名無しさん@八周年:2008/01/08(火) 19:34:41 ID:BWJakFhj0
5メートルの高さがあるうえに、
水面から上に登ることは困難らしいな。

しかも奥でタッチした「声」が聞こえたとか
いろいり不思議な供述も多いし、
あきらかに突き落としてるだろ。

【社会】 「危機管理、出来てたのか」 “大学生、洞窟の地底湖遊泳で行方不明”で、両親らが警官に詰め寄る。学生は依然不明…岡山★9

 

以上のことから「タッチした」という声が聞こえたというのはデマであると考えます。
ただそれはそれとして、Nさんが助けを求める声をメンバーが聞いていないのは不自然、という指摘は理解できます。溺れたら助けを呼ぶ声くらいあげるだろう、と。
でも実際には違うようです。この「教えて!ドクター」というサイトを参照します。
 

(元ライフガードで救助法の開発とライフガードのトレーニングの専門家であるFrank Pia博士によると)
溺れる人は水面に残ることに精一杯で、
・呼吸をすることに精一杯で、声を出したりすることができず
・手や腕を振って助けを求める余裕がなく
・上下垂直に直立し
・助けが確認できない状況では足は動かない、
と言います。
さらに、子どものほとんどは「何が起きているのかわからないだろう」といい、これらを本能的溺水反応と名付けました。
この現象は米国の沿岸警備隊(United States Coast Guards)の間では常識のようで、Frank博士もこの警備隊の雑誌(On Scene)でこの現象について説明されています。
したがって、子どもだけに当てはまる現象ではなく、大人でも同じだということです。

 (「教えて!ドクター」溺水について


アニメも大ヒットした「SPY×FAMILY」でもアーニャが誰にも気付かれずにプールで沈んでいた子を助けるシーンがありましたが、あれが正にこの「溺水反応」と呼ばれるものでした。そしてこれは子供に限った話ではないと言うのです。
つまり溺れた人が「助けて!」と大声をあげながらバシャバシャと大きな水音を立てながら暴れる……なんてのは映画やドラマでの話で、実際には誰にも気付かれずに溺れて沈んでいくと言うのはよくあること。

 

さらに補足いたしますと、この地底湖は声が届きにくい環境であったようです。Nさんの捜索を行った岡山県警機動隊のコメントがございました。

 

洞内は胸まで水に浸かる個所や、高低差20メートルをロープで降りる断がいなどの難所が続き、湖への到達には約3時間を要した。ポケットのビスケットはほふく前進で砕け、ずぶ濡れの制服が体温を奪う。
機材も十分に搬入できず、地底湖に浮かべるボートは半分浸水した状態。湖面からの声はドーム状の地形に吸収され、岸の隊員へは届かない。帰りの体力を考えれば捜索は3時間が限度だったが、何度もいかりを下ろし湖底を探った。

新見の鍾乳洞高知大生捜索 「手探り」過酷な状況 県警機動隊の田村警部補振り返る


Nさんに何が起きたのかは今もわかってません。推測として「地底湖を横断中に体力が尽きた」「地底湖横断中に足が攣った」「地底湖横断中にパニックに陥った」「地底湖横断中に意識を喪失した」「地底湖横断中に死に直結する生理学的な反射を引き起こした」などが考えられる原因として挙げられています。
個人的には「3時間近くの過酷な洞窟探検の後に冷たい水で泳ぐ」などという行為を行ったことを考えると、足が攣った可能性が高いと思ってます。

■⑤結論
人は溺れた時に大きな声を出せない。助けを求める声が聞こえなかったのは不自然ではない。しかも地底湖上の声は岸に届きづらい。

⑥残ったメンバーは救助活動を行わず、現場に誰も残さないまま全員帰ってきた。しかもロープなどは全て回収してからの帰還だった。
これは全てが大嘘です。
報告書によると、まずNさんに不測の事態が発生したことに気付いたメンバー達は、その場ですぐに捜索を行ってます。地底湖に入って泳ぎながら、ライトを湖面にあてながら、もしくはホイッスルを鳴らしながらと、とにかく可能な限りNさんを捜索しました。
しかしNさんの姿は見つからず、こうなるとNさんは水中であると考えられたものの、ライフジャケット等の浮力を有する装備がないため、それ以上の捜索は断念せざるを得ない状況だったのです。


そして怪しいとされる『現場に誰も残さないまま全員帰ってきた』とされる点。誰も残らなかったのは「Nさんが死んでいる確信があった=殺した」とする説ですが、それはかなりぶっ飛んだ考え方です。彼らも当然誰かを残すことを検討していて、洞内では単独行動をしないのが原則であるため、2名を残して2名が出洞して通報するという案も出たそうです。
でも捜索のために地底湖で泳いだり、地底湖に到達するまでの水流部で水に浸かったりと、メンバー全員が全身濡れた状態だったため、その場に長時間滞在すると低体温症を引き起こす危険がありました(洞内は12~14℃程度)。全員で出洞したのは二次災害を避けるための苦渋の決断だったわけです。


かと言って彼らもただその場を離れるのではなく、Nさんが地底湖から戻ってきた時のために『N君へ、ここで待っていてください。救援が来ます』と書いたメモと、保温性の高いサバイバルシートを目立つ場所に置いておく措置をとってます。(これらは後に捜索隊が発見してます)
この時、メモの場所にライト等を点灯させて置いておいたりはしていないことを怪しいとする意見もありますが、Nさんは防水ライトを所持していたのでライトの設置は不要と考えたか、もしくはそこまで頭が回っていなかったかのいずれかでしょう。(Nさんは予備のライトを持っていた可能性も高いそうです)


あと「鍾乳洞内のロープなどは全て回収」と言うのは完全にデマです。前述の通り地底湖までは落盤が階段状に堆積しているので、地底湖からあがってくるのにロープなどは不要で、そもそも設置すらしてません。また、地底湖に至るまでの鍾乳洞内の道にはロープ等が必要となる崖が何カ所かありますが、それらのロープ等は後の捜索の際に必要となるとの判断から残したまま出洞してます。「全て撤去しながら出洞した」とする根拠は何なのかわかりませんが、名誉棄損レベルのデマと言うことになります。

■⑥結論
メンバーは捜索活動をしている。現場に誰も残らなかったのは二次災害の危険があったため。地底湖に入るためにロープは不要で回収以前の問題。道中の崖で使用したロープなどは残したまま出洞している。
行動の全てが最適であったかどうかの検討は必要だが、不可解とされている内容は完全なデマ。

⑦このような遭難事故では隊長(部長Hさんや副部長)が記者会見するのが普通だが、記者会見は行われていない。
確かに昔はそういった記者会見が行われていたかもしれません。山で高校生が10日間にも渡って遭難して、死にかけた状態からやっと救助されたと思ったらすぐに記者会見の場に引っ張り出された……なんて事例もありました(1975年の大峰山遭難事故)。でも21世紀になってからも同様かと言われると少々疑問です。
そして実はこの事故を受けて、対策本部が設置されたことはあまり知られておりません。対策本部では家族対応班・洞窟班・生活班など役割分担がなされ、その中でマスコミ対応は高知大学の学生支援部の担当でした。

 

1月6日
7:00頃からマスコミ関係者が日咩坂神社に集まり、これらに対する対応は各自の判断で行った。
午後、T(高知大学学務部学生支援課)が到着し、以後の取材はTが対応し、学生はマスコミ取材には応じない方針を周知した。

(『2008.1.5 日咩坂鐘乳穴事故報告書』p.26)


つまり学生が記者会見をするような体制ではなかった、と言うのが真実。記者会見の要望に対しても学生ではなく大学側が対応することとして、どこかの会議室で行うような形ではないものの、マスコミの取材に大学側が回答してます。また、捜索終了後時には大学側からコメントを発表してます。


これは不可解な点として挙げられている「⑩いつもは行き過ぎた報道合戦を行うマスコミが今回は部員に全く取材を行わない」にも通じます。マスコミへの対応は学生支援部の仕事であり、学生は関係ありません。それに事件性がないとされていた行方不明事故にマスコミがそこまで加熱するとは思えません。

事件だと見られていたのはあくまで2ch内での話です。事故前年の2007年は流行したインターネット関連用語の4位に「炎上」がランクインした年で、2chでも「炎上」という名の正義を執行する機運が高まっていた時期でもありました。実際この事故においても2chで「これほどネットで問題視されているのに、どうして警察は事件として扱わないのか」などという書き込みが見受けられました。視野が狭くなってしまっている、怖い事例であると言えるでしょう。

■⑦⑩結論
マスコミへの対応はマスコミ対応班となった高知大学学生支援部が行っている。部長や副部長がやることではない。

以上が事故の報告書を読んでわかる事実を基にした検証になります。
ここまで事件性は全くありません。
ここまでの話だけであれば学生1人が不運にも行方不明になってしまっただけ(と言うと語弊がありますが)の事故であり、危機管理に多少の問題があったにせよ十数年経った今でも取りざたされることはなかったでしょう。
ここから先が、この事故が“闇深い事件”として扱われる“不可解な点”になりますが、報告書では特に記載がない内容ですので、私の推測も含めて語らせて頂きます。

⑧探検部のホームページから部長と副部長の名前が削除された。
事故発生当時、2chでは発表されたニュースを基にいくつものスレが立てられておりました。その中で探検部のホームページから部長と副部長の名前が削除されたことに気付いた住人がおり、さらには⑫にある通りNさんのmixiが改竄されたことも発覚し、スレの消化スピードは一気に加速します。

 

【改変前の学術探検部のホームページ】


ただ一般論として思うのですが、何も後ろめたいことがなくても、よくない意味で注目を浴びることになった探検部のホームページから名前を消したい、と思うのは普通のことではないでしょうか。
ましてやこの探検部には後ろめたいことがなかったわけではないようで、2chの住人によって荒れた酒盛りの様子が書かれた日記など、褒められたものではない行為の数々が発見されてました。部長達はこれから卒業や就職が控えている身ですし、ホームページから名前を消そうと思う気持ちは理解できます。

■⑧推論
Nさんの事故によって探検部自体が悪い意味で注目されてしまったので、卒業や就職のことを考えてホームページから名前を消したのではないか。名前を消したからと言って即事件とするのは強引すぎる。

ここで一つ気になることがあります。
ネットでこの“事件”のことを調べると、部長Hさんや副部長の名前がすぐに出てきます。探検部のホームページから消されたのは彼女達(2人ともに女性)の名前で、当時の2chにもそう書かれているのですが、事故の報告書に記載されている学術探検部の部長と副部長とは全くの別人です。
部長と副部長は合宿には参加しておらず、事故の連絡を受けるところから報告書に登場するのですが、これが探検部のホームページから名前が消され、“事件”の実行犯とまで言われている部長Hさんと副部長とは全くの別人。これは事故の直前に探検部で代替わりが行われていたためと思われます。
一般的な大学のサークルは3年生の12月前後が代替わり時期と言われており、探検部のホームページから名前が消されたとされる部長Hさんは3年生。1月の合宿はまさに引退直後のタイミングでホームページが未更新だった、と考えると辻褄が合います。信用度はお察しですが、2chでも高知大生を名乗る書き込みにてそのようなコメントがありました。
つまり「探検部のホームページから名前が消えて、事件の実行犯と思われる」とされる『部長Hさん』は部長ではなく前部長だったと言うことになります。副部長も同様に前副部長です。であればホームページから名前を消すのはますます自然な行為と言えますね。

ただこの日記の中で「部長」は「探検部のホームページから名前が消えた前部長」であるHさんを指すことにいたします。この“事件”について語っている方々と言葉の整合性がとるためです。
ちなみに「部長Hさん」は合宿参加者ですが(「副部長」は不参加)、事故当日はNさんとは別のパーティーで別の探検に行ってます。だけどこの部長HさんがNさんを鍾乳洞内で殺害したに違いない、なんて言ってる人もネットでは散見されます。困ったものですね。

⑨探検部は女性が多く(男15:女10)、部内で恋愛やトラブルが起きやすい状況だった。
「Nさんと部長Hさんが恋人関係、もしくは元恋人関係だった」なんて話もあります。根拠は部長Hさんと思われる日記にそれらしい内容があったからだそうです。
これらはもう「だから何?」としか言えません。

■⑨推論
だから何?

⑪Nさんの知人を名乗る人物が高知大学のリモートホストから2ちゃんに削除依頼を行った。
まだ捜索段階であった時に、2chに「Nさんの個人情報および関連団体の情報を含む掲示板を全て削除してください」という依頼がありました。依頼者は高知大学の学生ですが、合宿には参加しておらず、学術探検部に所属しているかどうかはわかりません。

 

【2chの削除依頼】


 

2023年現在、大学の助教(または講師)をされているこの方は2chの流儀を理解しないまま削除依頼をしてしまわれたようで、その依頼はあえなく却下されてしまいました。ただこれも⑧と同じく、不名誉な事故の拡散を危惧した知人が2chのスレを削除したくなる気持ちは十分に理解できます。
「後ろ暗いところがあるから削除依頼を出したんだ!」はあまりにも短絡的過ぎるでしょう。

■⑪推論
2chで変に騒がれるのが嫌で削除依頼を出したのではないか。

⑫Nさんのmixiに勝手にログインしてプロフィールを改竄し、日記を全て削除(非表示?)した者がいる。
この点がこの“事故”を“闇深い事件”たらしめている最も大きな要因でしょう。むしろこの点がなかったら、大きな話題にはならなかったかもしれません。
このことが発覚してから2chでは行方不明事故としてではなく、行方不明者のmixiを何者かが不正アクセスして改竄している、と言う点が大きくクローズアップされたスレが次々に立てられていくことになりました。この炎上した勢いが今に続く流れを作ったのです。
実際にどのような改竄が行われたのかを見てみましょう。赤い箇所が変更された箇所になります。

※Nさんの名前は私の方で消してます。

 

【Nさんのアカウント:Before】

 

【Nさんのアカウント:After】



変更点

  • ユーザー名が「クラ」から「ホワイト」に変更。
  • 名前、性別、現住所、年齢、誕生日、職業、所属が非公開に。
  • 日記が全て削除(もしくは非公開)。
  • 「中四ケイバー連合」というコミュニティから退会。(名前から中国・四国のケイバー関連と思われる。今回の合宿も中国・四国の学生が中心だった)
  • マイミクから「はく」が消える。(マイミク数が34→33に)


さらにNさんのマイミク(Facebookのフレンドみたいなもの)から消えた「はく」という人物のプロフィールも変更されていたことが発覚。


【Nさんマイミク:Before】

※画像では既に名前が「はく」から「うすた」になっちゃってますが。

 

【Nさんマイミク:After】


変更点

  • ユーザー名が「はく」から「うすた」に変更。
  • 日記が全て削除(もしくは非公開)。
  • 紹介文が削除。
  • 趣味から「お酒・アウトドア」が削除。


これがどう言う意味なのか。
まず「はく(うすた)」氏についてですが、これは部長Hさんのアカウントで確定かと。消されてしまった紹介文に記載された呼び名が「アグレッシバー○○○○」と部長Hさんの珍しい苗字そのままでした。
このアカウントの各変更は探検部のホームぺージから名前を消したのと同様、卒業や就職のことを考えて痕跡を消したかったのでしょう。

次にNさんのアカウントについてですが、事件性がないという前提で考えてみると、Nさんのアカウントが拡散されて、あまりよろしくない酒盛りの様子なども含めて悪評判が広まって更なる炎上をしてしまうのを防ぐために、Nさんだとわかるプロフィールや日記を見られないようにした……と考えるのが自然。

そして改竄を行ったのは部長Hさんだと思われます。そう思える理由は改竄後の名前「ホワイト」にあり、これが部長Hさんの苗字を彷彿とさせる名前なんですよね。行方不明であるNさんのmixiが変更されたら驚く人がいると考え、見る人が見たら部長Hさんが変更したのだと伝わるようにしておいたのでしょう。わざわざ自分の苗字と繋がるような名前にしてるあたり、逆に事件性はないと考えることもできます。

でもここで部長HさんはどうやってNさんのmixiを更新したのか、と言う疑問が浮かびます。ログインには当然パスワードが要求されますが、いくらサークル仲間でもパスワードまで共有していたとは思えません。
この疑問を解くカギは「Nさんのアカウントは削除されず、改竄されるに留まっている」ことにあると考えます。つまりNさんの情報を消したければ、アカウントごと削除すればよかったのに、何故細かい変更をするだけに留まったのか。それはNさんの携帯電話から作業を行ったためではないでしょうか。


2008年1月当時の携帯電話はガラケーの時代。完全なる推測ですが、鍾乳洞に入る前にNさんは携帯電話を置いていったのではないかと。鍾乳洞の中は当然圏外ですし、激しいケイビングの中で濡らしたり壊したりするリスクを考えると、入洞前に携帯電話を合宿所や神社に置いていった可能性は高いと思います。報告書にNさんの携帯電話に関する記載はございませんでしたが、別のパーティーも含めて出洞後の連絡が出洞直後ではなく神社や宿所に到着してから行われていたことからも、入洞する者は携帯電話を置いていくことになっていたのではないかと推測できます。
そしてNさんが行方不明となった後、その携帯を同じ大学から合宿に参加していた部長Hさんが預かることになるのは自然な流れです。
部長Hさんはその後Nさんのmixiについて対処が必要であると思い立ち、預かっていたNさんの携帯電話からmixiにログイン。携帯電話にロックがかかっていなかったか、かかっていたとしても数桁であれば誕生日など思い当たるパスワードでログイン出来たと考えるのは無理な話ではありません。
携帯電話のmixiは「かんたんアクセス」という機能によりパスワード無しでログイン出来る仕様です。

 

【ガラケーのmixiログイン画面】

 

これにより部長HさんはNさんのアカウントにログイン。まずはアカウントの削除を考えたと思いますが、mixiは退会する時にパスワードを要求されるのです。しかもそこは手動入力が必須。
なのでアカウントのプロフィール変更や日記の削除(非公開化)までしか出来なかった……と言うのが私の推論です。


※部室に共用PCがあった場合、そちらからログインした可能性もあります。パスワードのオートコンプリート機能でログインしたとする説です。それだと普段から他人のアカウントで自由にログイン可能な状態だったことになるので携帯電話説を採用しましたが、部長Hさんを含めて合宿参加者はmixi改竄が発覚した1/10の前日である1/9に現地から撤収しているため、部室の共用PC説も可能性はあるかと思います。

■⑫推論
部長HさんがNさんの携帯電話を使ってmixiにログインし、事態の鎮静化のためNさんのアカウントでプロフィール変更や日記削除(非公開化)を行った結果、裏目に出て更に炎上してしまった。
不正アクセスではあるものの、それ以上の犯罪性は無いと思われる。ただ悪手ではあったと思う。

 

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あとよく言われる疑問点について補足いたします。

・Nさんが亡くなっている場合、ご遺体が見つからないのは何故か。
ご遺体は水に浮かぶので発見できないのはおかしいとの指摘もありますが、ご遺体は水に浮かぶとは限りません。法医学ブログさんの「死体は水に浮くか?沈むか?」によると、以下のようになります。

  • 空気を吸い込んだ状態であれば浮くことが多いが、溺死の場合は肺に空気を含んでいないため比重が水よりも重くなって沈む。
  • 沈んでいても腐敗によるガスで浮力が生じるため、時間の経過によって浮かんでくる。浮かんでくるのに要する時間は夏で数日、冬で数カ月と言われている。
  • ただし水深が深いと水圧が高くなり、ガスによる浮力でも浮かんでこない。“浮上しない条件”の目安は以下の通り。
  1. 水深10mなら水温11℃以下
  2. 水深20mなら水温13℃以下
  3. 水深30mなら水温14℃以下
  4. 水深40mなら通常の水温では浮上しない

地底湖の水深は30~35mで水温は12℃~14℃程度。ご遺体は浮上しない可能性が高いと思われます。

 

また、地底湖は水面に流動が見られることから、他に繋がる吐き出し口が存在すると言われており、既に地底湖から他へ水流によって運ばれている可能性もあります。

 

・服を着たまま泳ぐのはおかしいのではないか。
鍾乳洞内で泳ぐのはケイブスイミングと呼ばれるスポーツ・レジャーの1つで、着衣のままが一般的です。ですので今回の事故で着衣のままNさんが泳いだこと自体は不自然なことではありません。
そもそも日咩坂鐘乳穴には胸元まで水に浸かるような箇所もあり、地底湖に到達した時点で全身が濡れた状態でしたので、地底湖でわざわざ服を脱ぐ方が不自然でしょう。ただし着衣のままが普通と言っても、当然それはケイブスイミングに適した服装である必要があります。
報告書ではNさんの服装はオーバーウェア(つなぎ)にアンダーウェア(下着上下、ジャージ上下)だったとされており、ケイビングを行うことに関しては問題ないようでした。ただし、ウェットスーツなどの装備が望ましいとされるケイブスイミングに適した服装かどうかと言われると疑問があります。
これは推測ですが、Nさんは高知県の滝つぼで今回と同様の服装での着衣水泳の経験があったため、今回も問題ないと判断したのではないでしょうか。
また、過去に地底湖を泳いで横断した方々が今回のNさんのような服装であったとすると、周囲も問題ないと考えていた可能性があるのではないかと思います。

5、最後に

以上がこの事故は本当に“事故”であったとする解説です。全てが正しいとは断言いたしませんが、事件説に固執して「報告書には嘘が書かれている」と主張される場合、何故嘘であると言い切れるのかを明確に指摘しないと、そんな主張は単なる戯言に過ぎません。


パーティーメンバーや部長Hさんの行動が全て正しかったわけではないと思います。

この事故では入洞届けが提出されておりませんが、実は全体としての計画書は作成されておりました。しかし「阿哲台合宿計画書」というお題目の下に小さく「というより単なる名簿」と書かれていたり、目的が「正月番組なんてつまんねえ」とされていたりするなど、公式かつ厳密なものではなく内々の名簿程度のものでした。(個別に詳細な計画書を作成していた大学もあった)
地底湖の横断経験者が感じていた危険性の共有がなされていなかったことも含めて、全体として計画性や危機対策への意識が低かったことは否めませんが、そうだとしてもこの事故を事件として、関係者をその犯人であるかのように扱うのは不当だと考えます。

前述の通り報告書の内容がWikipediaに反映されたのは2021年。報告書の取り寄せは少々ハードルが高いので、2021年より以前であればネットの噂に踊らされてしまうのは仕方ないのかもしれません。しかし今はお手軽にWikipediaを読めますし、何なら誰でも国会図書館で報告書を手に取ることもできます。それらを読んだことで、または僭越ながらこの日記を読んだことで、関係者を貶めるような過去の動画や記事の誤りを認め、訂正や削除をしてくださる方が一人でもいらっしゃることを願います。

語られているのが都市伝説と言ってしまえばそれまでです。人が1人行方不明になっているとは言え、ある種のエンタメとなっているのも残念ながら理解できます。
でも実名で関係者を誹謗中傷したり、いつまでも事件だと騒ぐ人達は、Nさんやご家族の方々に対してもこの上なく失礼なことをしているのだと自覚していただきたいと思います。
しまいには部長Hさんの名前がホームページに記載されていた劇団に凸した愚か者までいるそうです。やっていいことと悪いことの区別くらいはつけましょう。

少しでも冷静になって物事を判断できる人が増えること、そして行方不明となったNさんがご家族のもとに帰る日がくることをお祈りいたします。

 

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事故であることを解説してくれている動画をご紹介します。こんな長ったらしい文章よりもオススメです。

 

【本当に闇?】岡山地底湖行方不明事故?事件?を考察【ゆっくり解説】

 

岡山地底湖行方不明事件2 総括編【ミステリーアワー】未解決事件の謎を追う

慰霊登山の続きとなります。

■みかえり峠に立ち寄る

登山道口から少し下ったところに、ちょっとわかりづらいですが旧登山道から続く細い脇道に「みかえり峠」の石碑とお地蔵様がございました。ここは旧登山道が使用されていた頃、下山されるご遺族の方々が最後に振り返って御巣鷹の尾根を拝むことになった場所だったとのこと。身につまされるような名前です。

 

今は樹木が大きくなったためかこの場所から御巣鷹の尾根を望むことは出来ず、旧登山道は閉鎖されておりますので、石碑とお地蔵様のある場所のみ足を踏み入れられるようです。

 


■慰霊の園へ

車で来た道を戻っていると全部で10台程度の車とすれ違いました。その時は皆さん慰霊登山をされる方々かと思いましたが、ちょうどこの日に有志の警察官の方々による登山道の整備が行われたそうで、作業は午前中から行われたようでしたから、もしかしたらすれ違った中にはこの方々もいらっしゃったかもしれません。結果論になりますが、作業の邪魔になるわけにはいきませんので慰霊登山を早めの時間にしたのは正解でした。

そのまま上野村の中心地まで戻り「慰霊の園」へ。

 

この慰霊の園は御巣鷹の尾根にある「昇魂之碑」と同日の1986年8月1日に完成した追悼施設であり、慰霊塔や身元不明の遺骨が納められた納骨堂、そして遺品や事故の写真が展示されている展示棟があります。こちらを運営をされている財団法人は御巣鷹の尾根の管理も行われているようです。

 

慰霊塔は合掌された手のイメージで、その手は事故現場に向けられておりますが、10km先にある御巣鷹の尾根は間に山々を挟んでいることもあって直接見えるわけではございません。でも慰霊塔に手を合わせることで、私達も改めて御巣鷹の尾根に手を合わせられることになるわけですね。


慰霊塔でロウソクに火を灯してから展示棟へ。当時の新聞や写真、身元の分からない遺品などが展示されておりました。資料としては羽田にある安全啓発センターの方が揃っておりますが、映像室で観ることが出来る事故当時を振り返る村民の方々のインタビューは非常に興味深い内容で、上野村だからこその展示かと思います。


上野村の消防団や婦人会の方々の献身的なご協力があったからこそ、事故への対応が可能になったことがよくわかりました。そもそもこの慰霊の園も上野村の村民の皆さんが供出してくださった土地に建設されたものです。当時の黒澤丈夫村長が「人としての道」と仰っていたのはこう言ったことなのだと思います。

■慰霊登山を終えて

御巣鷹の尾根にて初めての慰霊登山を終えました。今まで知識としては知っていた日本航空123便墜落事故について、実際の現場を訪れたことで520人が犠牲となった未曾有の大惨事の恐ろしさを感じることが出来たように思います。


決して観光気分で訪れていい場所ではありませんが、事故を風化させないためにも事故当時を知らない若い方も含めて、多くの方々に慰霊登山を経験して頂きたいという思いから、今回このような文章を書かせて頂きました。

次回から事故原因などについて自分の考えを記したいと思います。
(いつになるかわかりませんが)

慰霊登山の続きとなります。

■「X岩」~「スゲノ沢」

更に登山道を進んだ先にあるのは救援・捜査活動に従事した群馬県警の活動拠点となった地である「X岩」と呼ばれるポイントです。関係書籍から活動の壮絶さが感じられました。

 

X岩の比較的近くに123便の機長・高濱さん、副操縦士・佐々木さん、航空機関士・福田さんの墓標がございました。操縦がままならない123便を立て直そうと墜落の直前まで力の限りを尽くされていた様子が伝わってくるボイスレコーダーの声は、聞いているだけで胸が締め付けられます。3人には民間航空に関して英雄的行為を表彰する賞の最高位に位置するポラリス賞が贈られています。
ボイスレコーダーに残された高濱さんの「どーんといこうや」という言葉が“軽口”と批判されたことがあったそうですが、これは悪質ともいえる切り取りで、高濱さんのは混乱と緊張に包まれた副操縦士の佐々木さんを鼓舞されていました。あの極限状態で他の人を励ます言葉を発せられる高濱さん。本当に強く、素晴らしい方だと思います。

視界が開けた登山道を振り返ると広大な山稜が目に入り、そこに見える凹みは「U字溝」と呼ばれるものです。

123便が墜落時した時に機体がぶつかり、地面をえぐって樹木を倒壊させた跡になります。123便はU字溝の更に奥の方に微かに見える「一本カラ松」に接触した衝撃で第4エンジンを脱落し、更に右主翼の先端がU字溝に接触したことで第1・第2・第3エンジンや水平尾翼などを脱落して機体を大きく破損させ、その勢いのままに自分が立っている場に墜落したのです。38年が経とうとしている今もなお残る傷痕に事故の凄まじさを感じました。

 

そして事故の傷痕としてもう一つ目を引くのは、焼け焦げた樹木です。登山道のあちこちで見られる、123便の墜落によって発生した炎に焼かれた樹木。無残に折れて、黒く焦げた数々の樹木の生々しさが今もなお事故の恐ろしさを伝えてきます。

 
 

スゲノ沢付近に到達。写真だとわかりづらいですが、美しい涼やかな沢です。

 

ここも多くの方々が命を落とした場所でした。墜落の衝撃で機体前部と客室後部が分離し、客室後部が斜面を滑落した先がこのスゲノ沢となります。機体前部と違って火災は発生せず、滑落した斜面に植えられたカラ松が多少なりとも緩衝材となったのか、生存者の4名は全て客室後部の乗客でした。
登山道には色鮮やかな風車が並んでおり、ちょうど自分が伺った数日前にも飾り付けが行われていたようです。真新しい風車がカラカラと軽い音をたてながら回っておりました。


登山道口に戻ってくるとカウンターの数字は増えておりませんでしたので、尾根にはずっと自分一人だったようです。時刻は8:30。2時間10分ほどかかった計算です。一般的な所要時間は歩くだけであれば1時間半程度のようですが、可能な限り墓標に手を合わさせていただきましたので、このくらいの時間を要することになりました。
墓標には事故当時の年齢が書かれているものも多く、犠牲となった方々には今の自分よりも若い方々や小さな子供達も多かったことがわかりました。子供だけで飛行機に乗る「ちびっこVIP」という企画が当時のJALにはあったらしく、夏休み中であったことと併せて乗客に子供が多かった理由なのでしょう。


あえて申し上げるようなことはではございませんが、登山の途中で多くの墓標に手を合わせながらどうしても涙を抑えることが出来ませんでした。だからと言って亡くなられた方々やご遺族の方々のお気持ちがわかるなどとはとても申し上げられませんが、この地に眠る方々のご冥福と空の安全を祈らせて頂けてよかったと、そう思いました。

※登山道に熊よけの鐘が設置されていることからもわかるように、山には熊や鹿などの野生動物が住んでおります。今回は鹿の足跡があったくらいで実際に遭遇することなく慰霊登山を終えましたが、季節によってはスズメバチなどもいるようです。訪れる方は十分お気を付けください。実は早朝に1人で登山することを考慮して熊よけの鈴を持参していたんですけど、事故に遭われた方々が静かに眠る山をチリンチリンと鈴を鳴らしながら歩くのも気が引けてしまい、結局はあまり使いませんでした。

 
続きます。

慰霊登山の続きとなります。

 

■「すげの沢のささやき」~「昇魂之碑」

山深さが否応なしに感じられる光景。登山道は整備されており、歩くのに苦労するようなことはございません。途中の急な山道が苦手な方のためには緩やかな迂回路も用意されていて、休憩可能なベンチなども設置されてます。

 
 

登山道の要所要所に設置された熊よけの鐘を鳴らしつつ、ヒグラシに似たハルゼミの鳴き声を聞きながら進んでいくと、まず「すげの沢のささやき」が見えてきました。スゲノ沢とは多くの犠牲者にとって最後の地となった沢です。

 

ご遺族の川北宇夫さんが組織した航空安全国際ラリーにより1994年に設置された場所で、事故調査に参加したNTSB(米国運輸安全委員会)の当時の委員長でアメリカ側の責任者だったジム バーネット氏の言葉が刻まれた石碑がありました。バーネット氏は1991年にこの地を実際に訪れており、このバーネット氏の御巣鷹行きを実現させたのも川北さんだったようです。

 

航空安全国際ラリーは遺族会「8・12連絡会」の技術部会が独立した、主に技術面に関する航空安全の活動を行う組織で、英語表記は【International rally of endevors to improve air safety】。つまり『IREI(慰霊) air safety』となります。
その隣のポストから御巣鷹の尾根の案内図を1枚いただいて先に進みます。

 


「すげの沢のささやき」から10分ほど歩くと見えてくる休憩所の山小屋はご遺族方だけではなく一般の慰霊登山者も利用可能で、中には山の写真(熊の写真も)や芳名帳がございました。

 

芳名帳には日付休日平日問わず、犠牲者の方々の安らかな眠りを祈る言葉が綴られていて、自分も記帳させていただきました。山小屋の先にはトイレがあり、さらに先には案内板があって、慰霊碑へと至る道とスゲノ沢へと至る道に分岐となります。


自分はまず慰霊碑を目指すことにしました。案内図で言えば左下を起点として、[ハ]の慰霊碑、[ホ]付近のX岩、そして[ニ]で右に移動してスゲノ沢の方を経由して下山する流れです。
(写真は帰宅後に撮影したものですので、折り目がございます)

 

そして撮影は控えさせていただきましたが、この登山道には多くの、本当に多くの墓標がございました。地図に記された数字とアルファベットは墓標の位置を示しているもので、これらの墓標は遺体発見場所地図を元に建てられたものです。寺にあるような立派な墓標から、手書きの墓標、生前に故人が好んだと思われるものや家族写真が供えられた墓標、クリスチャンと思われる十字架など、多くの墓標が見受けられました。真新しい花が添えられた墓標も多く、今もご遺族の方々が故人を偲び、通われているのでしょう。ご遺族のお言葉が胸に刺さります。

 


案内板から15分、登山道口から45分ほどで慰霊碑「昇魂之碑」のある広場に到着。工事のため碑の後ろにブルーシートがかかってました。

 

持参した献花を供え、静かに手を合わさせて頂く。

やっとここに来られた、と思いました。

どうか安らかにお眠りいただけますように。

 

空の安全を祈って鐘も鳴らす。

どうか二度とあのような事故が起こりませんように。

 

毎年8月12日にはご遺族の方々が慰霊登山に訪れ、昇魂之碑の前で祈りを捧げているニュースなどをよく拝見いたしますが、ここまでの登山道が整備されており、迂回路なども用意されているとはいえ、登山道までの移動も含めて決して楽な登山ではありません。ご遺族の方々の高齢化も進んでおりますので、今後の慰霊登山には課題がありそうです。

昇魂之碑の横の登山道を進むと「遭難者遺品埋設の場所」や、まさに123便が墜落した現場となった場所の碑、祭壇、観音像、亡くなられた方々のお名前が記された慰霊碑などがございます。

 
 

おびただしい数の名前が刻まれた慰霊碑の隣にある観音像の名前は『御巣鷹茜観音』。名付け親はご遺族の方です。そしてご遺族が毎年発行していた文集の名前は「茜雲」。亡くなられた方々への想いが込められた名前なのだと思います。

 

続きます。

御巣鷹の尾根にて慰霊登山をしてきました。
“御巣鷹の尾根”と聞けば誰もが思い浮かべるのは1985年に発生した日本航空123便墜落事故。亡くなられた方は520名。単独機としては世界最多の犠牲者数を出した航空事故です。事故当時、自分は子供でしたが連日テレビで報道される事故の様子に不安を覚えた記憶があり、大人になってからもしばらく飛行機を忌避する気持ちがあったのは、この記憶が残っていたからかもしれません。
今回、御巣鷹の尾根にて初めての慰霊登山をさせて頂きました。事故の風化を少しでも防ぐためにも、軽い解説などを交えながらどのような慰霊登山となったのか、ご報告したいと思います。

■上野村に向けて出発

 

画像は上野村公式サイトより。

2023年6月17日の土曜日。朝の3時過ぎにレンタカーで都内から出発し、日の出を横目に高速道路を走行。上信越自動車道の下仁田インターチェンジを下りて、一般道で御巣鷹の尾根のある群馬県上野村を目指しました。上野村までのアクセスはJRとバスの乗り継ぎという選択肢もございますが、そこから先の公共交通機関がございませんので、御巣鷹の尾根へ向かう際は車での移動が基本となります。ただし交通事情により道路が通行止めとなることもございますので、事前に確認しておくことが必要です。
※2023年6月現在、長野県側からのアクセスに使用する299号線の十石峠付近は、2023年10月末まで工事により通行止めとなっております。

ここで上野村について補足いたしますと、群馬県南西部の長野県や埼玉県との県境に位置する村で人口は1047人(2023年5月1日時点)。利島村・御蔵島村・青ヶ島村など伊豆諸島の「島イコール村」となる村を除くと関東地方で最も人口の少ない自治体ということになりますが、関東最大級の鍾乳洞である不二洞と生犬穴(現在は閉鎖中)や、高さ90mの吊り橋・上野スカイブリッジを有するリゾートエリア「天空回廊」、他にも温泉などの観光地が存在し、2005年にはダムと発電所が建設されたこともあって、自治体としての財政は決して悪くはありません。

下の画像は2020年の政府統計で「関東地方の人口が少ない市区町村」のランキングです。南牧村と神流町は上野村と隣接している町村ですから、この付近が如何に山深い地域なのかがおわかりになられるかと思います。

江戸時代は幕府の直轄地で、将軍家に鷹狩り用の鷹を献上しており、これが「御巣鷹山」の語源とのこと。大総代を務めていた黒澤家の旧家は国指定重要文化財に指定されております。

上野村は黒澤(黒沢)性の方の比率が非常に高い地域だそうで、現在の市長は黒澤八郎氏で、日航機墜落事故当時の村長は黒澤丈夫氏。さらに言えば歴代の村長のうち黒澤性の方は7人もいらっしゃいます(2回務めた方が2人なので実質は5人)。
すいません、余談が長くなりました。



下仁田インターチェンジから御巣鷹の尾根へと向かう途中には数多くのトンネルを抜けることになり、そのことからもいかに現場が山深い場所であったのかがわかります。上野村に入ると徐々に“御巣鷹の尾根”の文字を見かけるようになってきましたが、近づくにつれて細くてカーブの多い山道になっていき、落石注意の看板が多くなります。実際そこそこの大きさの石が道に多く転がっていて、中には岩と言ってもいいものまであり、この後到着する登山道口付近にはフェンスをゆがませるくらい大きな落石も。これから台風が多くなる季節になりますし、御巣鷹の尾根を訪れる方は注意が必要です。

 

山道を進むと観音菩薩像やご遺族の更衣室、トイレなどがあるスペースがあります。ここは旧登山道の入り口で、墜落現場の御巣鷹山慰霊碑まで距離2000m、標高差500mとなる登山道の起点となる場所でした。ただし現在はもっと上に登山道が整備されたため、この旧登山道は閉鎖されております。

 
 

ここに来るまでの沢で釣りをしている方を見かけることもありましたが、この旧登山道から先は「鎮魂の川」として禁漁区間となっているそうです。上野村の方々の御巣鷹の尾根に対するお気持ちが感じられました。

 

■御巣鷹の尾根にて慰霊登山開始

旧登山道口から更に進むこと10分程度で、現在の登山道口の駐車場に到着。下仁田インターチェンジを下りてから1時間半程度で、時刻は6:20。晴天。最高気温は30度近くまで上がる予報でしたが、まだこの時間では肌寒いくらいの気候です。時間が時間のため、駐車場には工事用車両を除いて他の車は見当たりません。

 

登山道口には入山者の人数確認のためのカウンターが設置されてました。

 

カシャ、とカウンターを押すと数字は【456】に。今年の4/29に開山してからの数字かと思います。毎年の正確な入山者数は不明ですが、過去に慰霊登山をされた方の日記などを拝見すると、1カ月半でこの人数は多いように思います。コロナ禍や台風被害による入山制限が今年から解除された影響でしょうか。

 

カウンターの隣には登山者用の杖が設置されてましたので、1本お借りして慰霊登山を開始いたしました。

 
 

続きます。


 

10月のまたの名は神無月。島根県の出雲に神様が集まって出雲以外から神様がいなくなってしまうから神無月。逆に出雲では神在月と言います……と言うのは後付けの理由で実際の語源は不明、なんて話もあります。でもこの説は面白くて好きです。
9月も終わりですね。あっと言う間にも程があります。この調子でいったらドラえもんに会える日もすぐですね。あと90年。
最近は仕事がバタバタしてて、不参加のイベントもチラホラ。この状況はしばらく続きそうです。仕事が増えた上に人が減るとかマジで勘弁して欲しいなぁ。
個人的に「参加できない」と言う表現は好きじゃなかったりします。仕事があったとしても“後は野となれ山となれ”の精神で放り出せば参加は出来るワケですし、遠方のイベントでも仕事を休めばいいし、移動費が高いのであれば何日かけてでも歩けばいい。要するに体調不良などを除けば「都合で参加できない」ではなく「都合をどうにかしてまで参加しようとは思わない」だというのが自分の考えです。
まぁそんなのは単なる極論で言葉遊び。社会人として生きている以上は仕事を優先させて当然ですし、むしろその後もイベントに参加するためにも仕事を放りだすワケにはいきませんから、どうにもならない時はいくらでもあります。ただ気持ちの問題として「参加できません」と言うのが好きじゃないので「不参加です」という言い方をしてる自分です。めんどくさい男でゴメンなさい。

そんなこんなで1カ月の連続ブログ更新も本日で〆。と言ってもアメブロは更新日付を指定出来るので、翌日に前日の日付を指定するタイムマシン更新を多用しましたが、結局そればっかりやってれば毎日更新してることには変わりないんですけどね(笑)
毎日更新は今日までですが、これからも気が向いたらちょいちょい更新することもあると思います。

しかし10年かぁ……と今更ながら考えてしまいますね。正直あっと言う間でした。無我夢中と言いますか、五里霧中と言いますか←
「10年も応援してるなんてスゴいですね!」と言ってくださる方も多いのですが、自分では全然スゴいとか思ってなくて、スゴいのは10年も応援させ続けてる百花さんだと思ってます。自分はそれだけの魅力を持った百花さんに釣られてるだけですので。(言い方よ)
ちなみに自分は2012/10/2のステージデビューのライブには不参加でした。雀荘では既に会っていて、あの頃にはそれなりに話すようになっていたんですけど、何故かデビューの話は聞いてなかったんだと思います。聞いてたら自分なら「じゃあ見に行くよ」となるはずですし、実際に「実はライブに出てる」という話を聞いてすぐに見に行ってますからね。その初めて自分が百花さんのライブを見に行ったのは2012/10/30で、そのことを当時の百花さんがブログに書いてました。

 

ライブにでた日のこと 2012-11-01 01:21:00

この日はなんと私が勤めている麻雀店MJPSあきばにたびたび出現する『遊びの神』がはるばる六本木までかけつけてくれたのです!
まさか来てくれるなんて思ってもみなかったから本当に嬉しかったです!

たびたび出現も何も、ほぼ毎日通ってました。にしても『遊びの神様』って何でしょう(笑) まぁ今となっては百花さんの方が女神なんですけどね。
私は知り合いがライブや舞台に出演する、となったらとりあえず1回は顔を出すようにしているので、百花さんのライブに参加したのもそんな気持ちからでした。でもその1回に限らずその後もライブに足を運ぶようになったのは、きっと何か感じるものがあったからなんでしょうね。正直その辺はあまり覚えてません。
あの頃は仕事で日本中へ出張していたのでライブに毎回参加出来ていたワケでもなく、そこまでの熱意があったワケでもなかったように思います。それが「真面目に牧野さんを応援するか!」と気持ちが吹っ切れたのは2013/2/11に開催された「ももちよまる。」の初ワンマンライブに“○○一同より”とか書いておきながら自分一人でフラワースタンドを出した時でした。あ、ちなみに当時は百花さんのことを「牧野さん」と呼んでたんですよ。その後2015/10/25の活動3周年ライブで『咲桜百花』に改名した時に「もう牧野さんじゃないし、咲桜さんじゃ呼びづらいし」と「百花さん」と呼ぶようになって、いつしか普段話す時は「もーさん」と呼ぶようになってました。
言ってみれば“義理とちょっとした興味で”と参加したライブから始まって、それが今でも通い続けることになっているのはやっぱり運命の出会いだったのかなー、なんてネタでも何でもなく思ったりします。

 

ユニットも含めてこれまで百花さんが出演してきたライブは全部で683回にもなりますが、自分が参加したのはその内665回。上記の初ワンマン以降で言えば不参加だったライブは10回になります。不参加の内訳は結婚式に主席するためが2回と調整できなかった仕事が2回、あとは高校剣道の恩師の退職祝いと実家の都合が1回ずつ、シークレット出演のライブが1回と出演を知った時にはチケットが完売していたアニサマが1回。そして前日になって「明日(平日)の15時過ぎからのライブに出ることになった」と突然前日の物販で言われてどうにもならなかったのが1回と、理由不明が1回って感じ。
百花さんのライブには毎回「参加したい」と言う気持ちで参加してるので、多少の無茶はやってますが無理はしてません。「全部に参加したい」ではなく、1回1回のライブで毎回「参加したい」と思う。これは全く違います。ライブは義務感で参加し始めたら終わりです。これは真理。楽しみたいから参加するのであって、気付いたら10年間楽しんできてた。ただそれだけの話です。
(なのでよくアイドルオタクさんの「一生推します!」とかのコメントを見ると違和感があるんですよね。「一生」は誇張表現だとしても、長年ずっと推し続けるのは決意することでも宣言することでもなく、単なる楽しみ続けてきた結果でしかないと思ってるので。もちろん応援する気持ちの表明なので悪いこととは思ってませんよ。なので言われたアイドルさんは「一生とか無理だろ」とか言わずに、それだけの熱意があるんだと素直に喜んで頂きたいと思います)

そんなこんなで百花さんのライブ活動10周年まであと3日。その記念日である10/2当日は瀬戸さんの生誕祭です。百花さんのソロもあります。思い切り瀬戸さんをお祝いして、思い切りライブを楽しみたいと思います。

 

http://momoka10yrs.html.xdomain.jp/
 

昨日公開した『ライブ活動10周年に際して百花さんの歴史を振り返ろう』のサイトは思ったよりも好評をいただいておりホッとしてます。いや、ホント突貫すぎて自分で見返しても凹むレベルでショボショボでしたので(笑)
今はデザインのいいホームページをちょいちょいと作るサービスもあちこちで充実してますし、これでも一応昔はサイト運営者をやっていたので、それなりにノウハウはあるつもりなんですよ。ただどうしてもやりたいこと(百花さんの足跡を辿ったり、イベント一覧を載せたりなど)をやるのにちょうどいいデザインが見つからなかったんですよね。何より時間が足りない、と超焦ってました。
そこで使ったのがExcel。わかる人が見たら一発だったと思いますけど、Excelで作成したデータをHTMLで保存してホームページを作りました。タブもそのままリンクとしてくれるし、なかなか便利なんです。ただデザインがショボいのと、画像が荒くなるのと、他にも色々納得いかないところがあるのとで、これでいいのか最後まで悩みました。
最終的には10周年の日の数日前に公開したかったので「これが落としどころか」と納得して公開したんですが、ご覧になられた方にはデザイン的にも問題はなかったようで一安心。


内容的にも本当はもっと色々やりたかったんですけどね。例えばイベント以外のデータベースや、10周年を迎える百花さんに贈る言葉の募集とか。でも前者には無駄に詳しいWikipediaがありますし、後者については来年の生誕が10周年を兼ねて盛大なものとなることを信じて温めておくことにしてますので、その時は皆さんご協力をお願いいたします!

2012年10月2日。
百花さんが六本木のライブハウスでステージに立った日。
それから10年が経ちました。
「山あり谷あり森あり獣道あり」な波乱万丈な10年間。
そのすべてが今の百花さんを作り上げた要素であり、
たくさんの方々との出会いによって今の百花さんがあるのだと思います。

そんな10年間の軌跡を振り返るために、
そして願わくば多くの方に百花さんをもっと知って頂くために、
活動に関する手持ちのデータを公開してみました。

http://momoka10yrs.html.xdomain.jp/

一言で「活動10周年」と言っても簡単なことではありません。
中学校の新入生も10年後にはニートじゃなければ就職してます。
10年とはそんな時間です。
継続は力なり。でも物事を継続するには力が必要です。
「力をもって継続し、継続をもって力とする」
そんなことを言っている人がいました。
「麻雀は人類が生んだ最高のゲーム」
そんなことも言ってました。両方俺ですが。

楽しいことも、
嬉しいことも、
苦しいことも、
つらいことも、
数えきれないくらいあったでしょう。
それを全部抱えてまだまだ“継続”し続ける百花さん。
大好きです。尊敬してます。
出会ってから10年が経ちました。
楽しい10年でした。
これからの10年も本当に楽しみです。

……と長々とご挨拶させて頂きましたが、
実際はそこまで大層なページではございません。
4日間くらいで空いた時間を使って作った突貫サイトなので
全体的に、そして要所要所が荒いのはご容赦ください。
でもいいのです。
「百花さんはライブ活動10周年なんですよ!」
と皆に知ってもらうのが一番の目的なのです。

でも気付いたら対話どころか口から一切の言葉を発してなかった月曜日。
まぁ在宅とはいえ仕事してるのでチャットとかメールは使ってますけど、発声という行為を行ってなかった。寝る前に無意味な声を出してみた。なんだか寂しくなったので。でももっと寂しくなった。