自分がスワローズファンになって以降、荒川監督から真中監督までを観てきたことになる。


先月、荒川元監督が逝去という報に際して、当時の僅かばかりの記憶めいたものを記してみた。その際、スワローズファンの1人として観てきた各監督に対する印象を記してみようかと思い浮かんだ。


自分は一般的なスワローズファンとは、監督に対する印象などが異なる気がする。


ここでは武上四郎監督について記してみたい。


武上監督の就任にあたり、当時のスワローズファンの多くは好感を持っていたのではないだろうか。


前任の広岡監督時代から、ヤクルト球団の松園オーナー、球団関係者などが有するスワローズ生え抜き監督への待望論がメディアで報じられており、武上監督就任は既定路線ではあった。


本来であれば、1978年に広岡監督は契約満了で退任して、武上新監督が就任となる筈だった。日本一になった翌日の報知新聞(スポーツ報知)一面トップの見出しは「広岡監督退団決意」であり、この報道の通り、広岡監督も退団するつもりだったように思う。


だが、ヤクルト球団の株主であるフジサンケイグルーブが日本一監督を退団させることに疑問を呈したことで、ヤクルト球団は広岡監督に契約延長を要請。当時は広岡監督の去就がメディアでも注目されたものである。結果的には3年契約を締結して、オーナーも全面バックアップするということで続投となったが、オーナー、ヤクルト球団は内心で生え抜き監督を望んでいた為、翌年の低迷で一気に「広岡降ろし」的な動きを見せ、広岡監督はオーナーの後ろ盾を得ているという抵抗を示し、一旦は収まったものの、再び球団がコーチ更迭を企てたことで、広岡監督がシーズン中に指揮を放棄して退団となった。


前段が長くなったのは、武上監督に関して記すにあたって松園オーナーなどヤクルト球団の考え方を記す必要があるように思うからである。


当時を知らないファンにとっては、最終順位だけを見る限り、武上監督が年々成績を落として、2年連続最下位になったにも関わらず、ヤクルト球団が5年目も続投したのが解せないように感じるのではないだろうか。


スワローズはジャイアンツOBを中心に監督をつとめていた為、生え抜き監督誕生はヤクルト球団の悲願でもあったように思う。


武上選手は現役時代、別所監督の退任にあたり、選手兼任監督就任への打診を固辞したとされる。こうした打診があったのだから、リーダーシップは評価されていたのだろう。


武上監督と言えば、現役時代にタイガースの江夏投手との争いを制して新人王を獲得。背番号2のセカンド武上選手は、スワローズ、アトムズ時代を通じて人気はあった。


広岡監督に関して記した前記事で、弱小、馴れ合い、ぬるま湯、色濃いファミリー主義といったスワローズを初優勝、日本一に導いた点を評価すると記した。


武上監督について振り返ると、個人的には弱小、馴れ合い、ぬるま湯、色濃いファミリー主義といった広岡監督以前のスワローズを体現する存在だったように思う。


オーナー、ヤクルト球団の覚えが良ければ球団内で評価されるが、広岡監督のように主義主張を貫けば、オーナー、ヤクルト球団にとっては煙たい存在となる。広岡監督時代のコーチの中には、オーナーやヤクルト球団の顔色を窺っていたようなコーチもいた印象がある。


広岡監督が記した後日談には、内定していたトレードに不満な選手がオーナーに直訴して、トレードが破談となることもあったとされる。


当時のヤクルト球団は、松園オーナーが様々な点に大きな影響を及ぼしていたが、武上監督はオーナーの評価が高かった。


武上監督は自らの現役時代の三原脩監督(ファイターズ栗山監督が影響を受けた名監督)と広岡監督を兼ね備えた監督を目指して就任。就任初年度は前年の最下位から2位に躍進させた。


武上監督時代を振り返ると、この就任初年度に2位になったことがオーナー、球団に評価されて、5年目のシーズン中までに及ぶ体制となったように思う。


最近であれば、小川監督が2010年に監督代行として4位、監督となった2011年に2位になったことで、2013年に最下位となった後も続投して、2年連続最下位となった。2014年の小川監督続投は、初年度のインパクトが多分に影響を与えたように思う。武上監督の監督晩年も比較的近いイメージである。


個人的には、武上監督就任初年度である1980年の2位は、前任の広岡監督が鍛えてきた選手の活躍によるものという印象が色濃い。前年は日本一から最下位になったものの、広岡監督はユマキャンプ中に「今開幕したら、ぶっちぎりで優勝しますよ」とコメントする程、広岡野球は浸透していたように思うからである。


「ヤクルト球団を精通する」武上監督の就任によって、広岡監督のような強権性は薄れた結果、多少は選手がプレーしやすい環境となったことも初年度の2位という結果の一因かもしれないが、この年には未だ広岡監督が培ってきた野球が残っていたように思う。


1980年のスワローズは、最近の例で言えば、落合監督退任後の2012年ドラゴンズに近いイメージだろうか。


だが、1981年は4位、1982年は最下位となり、1983年も2年連続最下位となりながら、1984年も監督続投となった。


武上監督の就任後、成績が年々下降線を辿り、底辺まで落ちながら続投となったのは、オーナー及びヤクルト球団のスワローズ生え抜き監督に対する期待感があったからかもしれない。また、2年連続最下位となったが、1982年より1983年の方が若干だが勝率を上げたことも続投という判断の一因だったかもしれない。


武上監督は開幕投手にルーキー高野投手を起用したり、先発を直ぐに下ろすといった采配をしたが、これは三原監督の奇策を真似たかのような印象を受けた。


また、選手を好き嫌いで起用している感があり、戦力の最大化を意図していた印象も乏しい。そして、選手を見る目がなかったように思う。


前任の広岡監督は主力選手にも分け隔てなく厳しく接していたものの、選手を好き嫌いで起用している印象は余りなかった。だが、武上監督は当時の主力である大杉選手が自著で好き嫌いで起用している旨を記すなど、選手からの信頼を失っていたように思う。


当時の選手は武上監督となって、広岡監督の厳しさからは逃れたものの、統率性や采配などには疑問視していたように思う。名監督の系譜である三原監督、広岡監督の下でプレーした松岡弘投手、若松選手なども、武上監督に対して「違い」を感じていたのではないだろうか。


また、武上監督の選手を見る目も疑問だった。


初優勝に貢献したヒルトン選手は、広岡監督が自らの目で見た上で、入団させて初優勝の牽引役となった。また、マニエル選手をトレードした後、獲得した新外国人選手のスコット選手も2年連続ダイヤモンドグラブ賞を受賞するなど活躍した。


他方、武上監督は、スワローズ初優勝に貢献したマニエル選手の復帰にあたって、渉外担当の反対意見を押し切り、楽観的な見通しで契約させた。その結果、散々たる結果だったことはその一例である。


武上監督の野球を観ていて、一体どんな野球がやりたかったのかが見えてこなかった。広岡監督の野球を観た後だったこともあり、ギャップは大きなものだった。


初優勝のメンバーが年齢を重ねた時期という不運もあったかもしれないが、若手への移行も進まず、武上監督が目標に掲げていた三原監督、広岡監督の野球を上手く採り入れていた印象は全く浮かばなかった。