仏教の開祖はもちろん、インドにお出ましになられた、お釈迦様です。
出家前の大子の時に、老い衰えた人の姿を見るにつけ、あるいは病に苦しむ人の姿を見るにつけ、また人の死するのを接するのにつけ、なぜ人として生まれて生きてゆくうえでこのような苦しみを受けなばならないのか、、普通の人なら、見過ごしてしまうことにも、その原因はどこにあるのか、それを解決する道はないのか、真剣に受け止め深く思い悩んでいました。その結果、生老病死の四つに集約される。ほかに,憎らしい人と会い。共に生きねばならない苦、愛しい人と別れなけれがならない苦、求めても得られない、望みが満たされない苦、心身の活動が盛んなるゆえにおこる、さまざまな迷いに悩まされるくるしみ、これを四苦八苦と仏教では言います。何としても、人々の為に苦の解決を刷る道は内かと、王宮から出て、一転して乞食の修行僧と化しました。 仏教の原点は、生老病死の苦の解決でした。いKなる、障害も乗り越え、ご苦労にご苦労を重ねた結果、ついに、解決する日が訪れました。 永遠にとけないであろうと、苦の解決はついに解決をみたのです。つまり、悟られた。成仏をされた。今まで経験した事のない、すがすがしい、喜びの世界を知った。 この日こそ、真実のご自分の姿を、はっきり見た。 この時の本当のご自分の姿は、時間空間を限りなく超えた広大なる生命だった。 時間的には全宇宙を包む広大な生命だった。空間的にも、全宇宙を包む、大きな生命だった。全てと溶け合って、自分と他人との区別もない、だから、俺だ、お前だはない。全てを慈悲で包み込んで、ご自分の中に収め、全てと一体になっている。 したがって、他人の喜びは、自分の喜び、他人の悲しみはご自身の悲しみ、
私たちは自他を区別してしまう。他人の悲しみにざまーみろと心地良くなったりしてしまう。こういう心がもとで恨み、妬み、争いが生じる。時間的にも始めがなく終わりもない、過去、現在、未来にわたって、永遠の生命だった。お釈迦様の、この時空を超えた生命を、【久遠実成】といいます。つまり悟られたお釈迦様は、既に、後に法華経、寿量品の説法に至って、初めて解き明かすされた、本佛だった。
元々、佛であった、久遠の本佛が、人々を救うため,人の姿でこの世界に現れた。
こういう関係です。宗祖日蓮聖人は、もともと、久遠のお釈迦様の仏弟子の上行菩薩です。今も弟子。未来も弟子です。
富士門流の日興上人の教えも守らない、日有や日寛教の大石寺信徒宗、偽書根本では、法華経誹謗の徒、宗祖の教えに背く輩。
南無妙法蓮華経
命に合掌