出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -38ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

「日本人は市井(しせい)のひとびとがえらい」と言われます。

多くを語らず、不器用だけれど、人を大事にする、そんなイメージがあります。

 

先週84歳で亡くなった映画監督の降旗康男さんは、企業の創業者を主人公にした映画作りの依頼が来たときに、きっぱりと断ったそうです。

 

「偉い人、立派な人は撮りたくない。世の中からはじき出された人の中にある美しさ、尊さを描いてこそ映画だと思う。」

(朝日新聞「天声人語」(2019.5.30))

 

 「駅 STATION」「鉄道員(ぽっぽや)」…弱く、はかなく、寂しい人たちを大切にした監督でした。

 

 思い出す歌があります。

目立たぬように はしゃがぬように

似合わぬことは 無理をせず

人の心をみつめつづける

時代おくれの男になりたい

     (河島英五「時代おくれ」)

詩人・谷川俊太郎さんの詩に『ことこ』という詩があります。

この詩と出会って、最初は不思議そうな顔をする子どもも、この詩を声に出して読み、その意味に気付いたとき、本当に嬉しそうな顔をします。なぞを自分で解決した喜びです。

そして、それは大人でも同じです。解読できたとき、やり遂げた表情を見せてくれます。

みなさんも挑戦してみてください。

 

ことこ


       谷川俊太郎


このこのこのこ

どこのここのこ

このこのこののこ

たけのこきれぬ

 

そのこのそのそ

そこのけそのこ

そのこのそのおの

きのこもきれぬ

 

 

さて今日、ご紹介するのは、『日本語大好き』という本。

キンダイチ先生が、言葉の13人の言葉の達人と対談をしていますが、

その中で谷川俊太郎さんはこう言っています。

 

僕は、「どうやったら詩がうまく書けますか?」と聞かれたら、「真っ正直に生きればいいんじゃないですか」と答えます。

 

自分の感じたことを、自分の素直な言葉で表すということ。

谷川俊太郎さんの詩が、子どもにも大人にも親しまれる理由は、こういうところにあるのでしょう。

 囲碁・将棋が強くなりたいと願う小学5年生の男の子が、小遣いを全部はたいて、囲碁・将棋の本を何冊も買ってきました。大人向けの本も混じっていたのですが、男の子は寝る間も惜しんで読みひたり、とうとう全部読み終えてしまいました。

 「まったく、その時は実に生き生きとしていて、目の輝きまで違うのです。勉強もあんなふうにしてくれればいいのですけれど…」とお母さん。

 

 その子が中学校3年生に成長しました。囲碁・将棋はかなり上達し、大人をかたっぱしから負かすそうです。そしてさらに、彼は野仏に興味をもち始め、地図とガイドブックを片手に、東京近郊の山野を歩き回っているそうです。

 お母さんは、「ちっとも受験勉強をせずに、本ばかり読んでいます。私には分からないようなこむずかしい本を…」と苦笑しながら、まんざらでもなさそうです。

 

 この男の子は、囲碁・将棋が強くなりたいという思いを、本から学ぶことで現実のものにしました。本が自分を変えてくれるということに味をしめた経験は、他のことにも波及していきます。男の子は、きっとこれから先もずっと本とつきあい続けていくことでしょう。

 

 この男の子のような大きな変化でなくても、本を読んで心が洗われた、新しいことを一つだけ知った、またもう一冊本が読みたくなった・・・など、自分の小さな変化に気付くことができれば、きっと自分から本に手を伸ばす人に育っていくのでしょう。

 

 近所の行きつけの本屋が、また一つ閉店しました。紙の本は、もう時代遅れなのでしょうか。本屋さんはやっていけない時代なのでしょうか。

 この男の子のような子どもが、その救世主なのになあと思ってしまいます。

 

 ※この男の子のエピソードは、『国語教室の実際』(倉沢栄吉 他 編著、教育出版、1982年)に掲載されていたものです。

休日のお散歩コースを歩いてきました。いつもの道なのですが、季節によりちがった顔を見せてくれます。
今日、気付いたのは、ウグイスの鳴き声。
今年の鳴き始めの頃は、ぎこちなく、「ホーホケキョ!」と鳴ききることもできないぐらいだったのに、今は、余裕の歌声です。リズムを変え、音程を変え、仲間たちと掛け合いながら、「ウグイス変奏曲」を奏でているようです。

スマホでとってきました。
この茂みの中に、たくさんのウグイスが隠れています。
音量が小さいので聞こえづらいのですが、よろしければお聴きください。



 おとな日和さんと愛用自転車の心が通う物語。

 おとな日和さんと自転車の関係は、私と車の関係のようです。

 といっても、私の車も「カッコイイ車」ではありません。ごく普通の普通車です。走行距離17万キロ。納車して15年目。この間には、(まるで夫婦の仲のように)危機もありました。エンジンが不穏な音を出し、買い換えた方がよいのではと思ったこともありました。それでも今は、倦怠期(?)を乗り越え、買い換える気持ちは全くありません。道を走っていて、エンコして路上で立ち往生するまで乗り続けようと思っています。

 

 まだ小さかった息子が、「目(ライト)が怖くない車がいい」と言って決めたのが、この車。

 買ったばかりのころに、家族で高知へドライブに行ったのも、この車。 

 雪の日の朝早く、娘を部活の試合に連れて行き、山道でどうにも進めなくなったのも、この車。

 

 もし、買い換えたら、思い出が遠ざかっていきそうです。

 新しさは、日が経つごとに失われていきます。でも古さは失われません。思い出と一緒にどんどん積もっていきます。

 おとな日和さんが、愛用自転車にいっそう愛着をもったように、私も、愛車をいたわりながら、末永く付き合っていこうと思います。