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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 「富士山」と聞くとどんなイメージを描きますか? おそらく、頭の中に、八の字末広がりで、上が欠けた三角形の絵を思い浮かべるでしょう。

 でも、目の見えない人が思い描く富士山は、「上が少し欠けた円錐形」なのだそうです。つまり、目の見える人が平面的にイメージするのに対し、目の見えない人は立体的にイメージするのです。

 目の見える人は、絵やイラストなどの影響を受け、どうしても二次元的に捉えてしまう傾向があります。逆に目の見えない人は、そういった文化的な束縛から自由に想像することができる、ということです。

 

 ある盲学校で、粘土で立体を作る課題に取り組んでいたときのこと。ある全盲の子どもが壺のようなものを作り、その壺の内側に細かい細工を施し始めたそうです。

 目の見える人からすれば、細工をするなら、普通、見えるおもて面にするでしょう。しかし、その子は裏面にした。その子にとっては壺の「内」と「外」は等価だったのです。目の見えない子どもは、「おもて」と同じだけの思いをもって「裏」を見ることができるのです。

 

 目が見えているけれども、見えていないことがある。

 目が見えていないのだけれども、見えていることもある。

 

 目が見えない人に、丁重にこわれものを扱うように接するのではなく、

「その感じ方、面白いね。」

「なるほど、そっちの見える世界の話もおもしろいねぇ!」

と互いの思いや感性を尊重し合える、そんな関係が理想なのかもしれません。

 

 

 威勢よく、大きな声を放つ者が勝つ。攻撃的なつぶやき、罵りあい、みなが言葉を強く発する時代に、天声人語が静かに語りかけてきました。

 

「心の底に 強い圧力をかけて/蔵(しま)ってある言葉/声に出せば/文字に記せば/たちまちに色褪せるだろう」(茨木のり子「いいたくない言葉」)。やっと口にする、消え入りそうな声だからこそ、相手に届く何かがある。

 (朝日新聞、『天声人語』(2019.9.15)より)

 

 思い浮かんだのが『さよならは小さい声で』(松浦弥太郎)。

 

 小学生のころ、松浦さんは、学童保育のT先生が大好きでした。いわゆる、初恋。

 ある日、松浦少年は友達と口喧嘩をして、遊技場のすみっこで、ふくれっ面をして、いじけて座り込んでいました。そして学童保育の時間が終わりに近づいてきた時のこと、T先生がそばに来て─。

 

「帰りたくないの?」

「・・・・・・」

「明日また遊ぼうね」

「・・・・・・」

 T先生のやさしさが自分の胸に染みいって、キュウと痛くなった。

 T先生は、「じゃあ、先生と秘密のさよならをして今日は帰ろう」と言った。「秘密のさよならってなあに?」僕はT先生の言葉にやっとの思いで答えた。

「あのね、小さい声でさよならを言うの。秘密だから誰にも聞かれないように、ちっちゃい声でさよならを言うの」

 座っていた僕を立たせたT先生は、正面にまわって、顔の高さが同じになるように膝を折って僕を抱きながら、耳元に口を近づけて「さ、よ、な、ら」と言った。声は本当に小さくてかすかだった。その声を聴いた時、僕は身体中に電気が走ったように身震いした。

 (松浦弥太郎、『さよならは小さい声で』より)

 

 心に染みこんでくるのは、物理的な音量によるのではなく、言葉のもつあたたかみや切なさ・・・。

 声の大きさに比例して、言葉の力が消えていっている気がしてなりません。

 

 『さよならは小さい声で』は、以前に一度紹介した本です。

 よろしければ、こちらもどうぞ。

 →最後のおしゃべり(8.18ブログ)

 

 

 先日、月の南極に氷が存在することを明らかにしたとのニュースが流れていました。それを水資源として使用できれば、将来人間が月探査を進めていく時の拠点となるであろうこと、さらに、将来、月に人間が移住する可能性が開けるかもしれないということも放送されていました。

 

 私たちは、科学技術の様々な恩恵を受けて生活しています。それぬきの生活はありえません。

 でも、科学とか経済とか、そういうことには一切寄与しないけれども、失ってはならないもの、失えば取り返しの付かないことはあります。

 

 吉田兼好『徒然草』から。

 

 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀に情ふかし。

 花は満開を月は明澄なのをばかり賞すべきものではあるまい。雨に対して月にあこがれたり、家に引籠もっていて気のつかぬうちに春が過ぎてしまっていたなども情趣に富んだものである。

 (『徒然草』第137段、佐藤春夫 訳)

 

 確かに“くまなき”月だけが味わい深いものではありません。でも、人間によって破壊されていく月を眺めながら、「昔の月はきれいだったなあ・・・」ともののあわれを感じる、そんな月の味わい方はいやです。

プレーの面でも、人間としても、人に愛される大谷翔平選手。

彼が高校1年生の時に立てたのが、下の「目標達成表」です。

 

(齋藤孝、『思考を鍛えるメモ力』より)

 

ど真ん中に一番大きな目標があります。

大谷選手の場合、「ドラ1(ドラフト1位) 8球団」です。

そして、それをかなえるための必要な要素が8つ、周りを囲んでいます。

さらに、その外側には、それぞれについての具体的な行動目標が書かれています。

 

これのよいところは、日々の行動の先にある、大きな夢を常に意識してとりくめるところ。

あいさつをすることも、一喜一憂しないことも、すべて、夢を叶えるための大切なプロセスなのです。

 

 

先日読了した『「すぐやる脳」のつくり方』に、3人のレンガ職人のお話が紹介されていました。

教会を建てている3人のレンガ職人に、通りがかった人が「何をしているのですか?」と尋ねたところ、

 

1人目のレンガ職人──「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだよ。ああ大変だ。」

2人目のレンガ職人──「レンガを積んで壁をつくっています。何と言ってもこの仕事は給料がいいのでやっているのです。」

3人目のレンガ職人──「私は教会をつくっているのです。この教会が完成すると多くの人が喜んで祈りを捧げることでしょう。こんな素晴らしい仕事に就けて、私はとても幸せです。

 

という答えが返ってきたそうです。

 

一番幸せなのも、きっと成功するのも、3人目です。なぜなら、行動の向こう側にある目的、夢が見えているから。

夢があれば、くじけない。

 チャンスは納得いかない、しんどい「無茶ぶり」としてあなたのものにやってきます。

 それを受け入れられるかどうか。そこにあなたの成功がかかっているのです。

 ・・・かの発明王エジソンは「チャンスは作業着を着て現れる」と言いました。つまり、幸運とは小綺麗で楽な作業で手に入るものではなく、自分自身が本気で汗をかいてこそつかむことができるということです。

 (茂木健一郎、『結果を出せる人になる! 「すぐやる脳」のつくり方』より)

 

 斎藤隆介さんの『花さき山』では、あやは、やさしいことをした時に、

「あっ! いま 花さき山で、おらの花がさいてるな」

と思います。

 

 同じように、本気で汗をかいている時には、

「あっ! いま 幸運が自分に訪れているな」

と思うことで、頑張れそうな気がします。