出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -22ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

手習ヒ始メハ音ノ大ナルモノナリ。習練ヲ遂ゲテ音ノ小サクナルモノナリ。

 (明治期の雅楽奏者の言葉、朝日新聞『折々のことば』(2019.9.27)より)

 

 演奏は、習い始めは必死に鳴らそうとするから、余分な力が入り、音が大きくなりがちです。でも熟練するにしたがって、繊細な音を聴かせることができるようになります。

 

 野球では、「名選手はファインプレーをしない」という言葉があります。飛びついたり、無理なプレーをしなくても、すばやく球をよみ、楽にさばけるのが名選手だから、との謂でしょう

 

 この『折々のことば』の最後は、「人の語りにも同じことがいえよう」と締めくくられています。

 大声で連呼されると、その時には、強く迫ってくるような気がするのですが、後から振り返ると、大したことではなかった、ということが多々あります。いい話は、訥々と語られても、やっぱりいい話です。

 

 そして、最も静かに語りかけてくるのが、文字。何と言っても0dbですから。

 それでも良い言葉はしっかりと心に届いてきます。

 落語家・立川談志は言います。

「落語とは、人間の業(ごう)の肯定である」と。

 落語は、貧乏も博打も、酒飲みも女たらしも、すべて笑いに変えて届けてくれます。そのユーモアが、笑って生きる素晴らしさを教えてくれます。

 

 ことの是非は置いておいて、その発想は、常人では思いつきません。

 例えば、「裏口入学」について。

 

 ・・・むしろ問題は、金を貰っておいて裏から入れることのほうじゃないか。それは失礼じゃないか。

 あんた方、どう思う? 金ェ払ったのに、“裏の路地から入ってこい”なんて言われたら。

 金を払った奴だけを堂々と表から入れて、いい席を用意して、払った金額を書いて貼っておいたらいい。

 誰それ一千万、誰それ五百万、四百万、三百万、二百万、十万、五万。最後なると清酒二本なんていうのがあったりなんかして、祭りの屋台だね、こりゃ。

 それじゃあ、本当に頭がよくて、勉強したいけど金がねえ奴はどうしたらいい?

 そいつこそ裏から、そっと入れてやりゃあいいじゃないか。そっとネ。

「お金は払わなくてもいいから、こそっと裏から入れ。その代わり、一生懸命に学問をせェよ」とネ。

 (立川談志、『談志最後の落語論』より)

 

 理不尽で、いけないことなのに、落語になると、笑いと江戸っ子の「粋」を感じてしまう。自分には到底似つかわしくないのに、そんなことを言ってみたいなと思う。

 自分とは違う世界に連れて行ってくれる、物語のような気分を味わいながら読みました。

 

 小栗旬主演『人間失格 太宰治と3人の女たち』を観てきました。

 この映画は、太宰の小説『人間失格』を映画化したものではなく、作家・太宰の人生を描いたものです。しかし、小説『人間失格』は、太宰の自画像とも言われる作品であるゆえ、どうしても、二つを重ねながら観てしまいました。

 

 小説『人間失格』の主人公・葉蔵は、奇妙な人物として描かれていますが、読み進めているうちに、同情の念が起こってきます。人知れぬ苦悩の中に、人間の正しさを秘めているようにさえ、感じます。

 (→小説『人間失格』のブログはこちら)

 一方、映画の中の太宰は、狂気の人というイメージが迫ってきて、どうも共感できなかった・・・。

 

 そのことを、知人に伝えると、その方、曰く。

「太宰は天才作家だから、常人には及びも付かないところがあるのよ。『走れメロス』だって、私たちは友情の物語として教えられてきたけど、太宰はメロスを愚か者の象徴として描いているらしいよ。」

「え? でもほら、最後はメロスが賛美されて終わるじゃない?」

「そう、それもね、太宰の仕掛けらしいの。『ほら、お前たち(読み手)は騙されただろう? メロスの愚かさに気付かなかっただろう?』的な・・・」

 

 ・・・そんな。私は太宰に騙され続けていたのか?

 ということは、もしかしたら、私の気づかない太宰の凄さが、この映画にもあるのかもしれません。

 映画『人間失格』の、ただのエンターテイメントではない奥深さを見つけた方は、どうか教えて下さい。

 

 茂木健一郎さんが、小林秀雄さんの文章を取り上げています。

 

「美しい『花』がある、『花』の美しさというようなものはない。」

 (小林秀雄、『モオツァルト・無常という事』より)

 

 茂木さんは、小林さんのこの文章が何を言っているのか分からかったそうです。でも、ずっと「こういうことかな? ああいうことかな?」と考え続けているのだそうです。

 そして、こう言います。

 

 どんな形になって誰に届くのか、どこに届くのか、いろいろな可能性がある生まれたての卵のような文章。この世のたいていの文章は“大人になった文章”で、「世の中のことは何でも知っている。それを教えてあげよう」というような、したり顔をしています。

「これがどう育つかわからない」生命そのものが表現されたような書──やはり小林秀雄は芸術家だ、と思うのです。

 (茂木健一郎、『頭は「本の読み方」で磨かれる』より)

 

 「音楽は、聴衆がいて、聴かれることにより完成する」と言われます。

 文章も同様。書き手によって生み出され、読み手によって育てられ、両者の共同作業で完成されていくのでしょう。そして、自分だけが感じたその読み方は、自分の宝物になります。

「どんな本にでも、いいところが見つけられるものだよね。たとえつまらない本であっても。だから選ばずに読む。ぼくは本が好きなんだ」

 (茂木健一郎、『頭は「本の読み方」で磨かれる』より)

 

 茂木健一郎さんの友人デービッド・チャーマーズさんの言葉です。

 どんな本にも、自分の知らない情報があり、自分とは違う意見がある。選り好みをしていたら、その幅が狭まってしまうかもしれません。

 ある人は、本を買うときに、文庫本の棚の前に立ち、目をつむり、手を伸ばして触れた本を買うそうです。これも、自分の予期しない偶然の出会いを求めているからでしょう。

 

 茂木さんは、「知性というのは『どれだけたくさんの人の立場で考えられるか』ということ」だと言います。だから、読書が大切なのだと。

 

 こう考えていると、本の出会いも、人との出会いもよく似ていることに気付かされます。

 本当の本好きは本を選ばない。本当の人間好きは、付き合う相手を選ばない。

 たくさん本を読めばたくさんの立場をうかがい知ることができる。たくさんの人と出会うとたくさんの人生に触れることができる。

 偶然であった本や人が、自分に大きな影響を与えることがある。

 そして、どちらも自分の幅を広げ、生き方を豊かにしてくれる。

 

 新しい出会いはそうそうないけれども、旧知の人であっても、その人の立場にもう一度立つことで、新しい発見があるかもしれません。それも「新しい出会い」と言えるでしょう。

 どんな人と接するときも全身全霊をかけてその人のことを考える。

 そう言い聞かせながら、また明日から、少しずつ世界を広げていきます。