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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 大森貝塚を発見したアメリカ人モースは、明治初期に日本を訪れ、「貧乏人は存在するが、貧困は存在しない」と言いました。欧米では「幸福=裕福」なのに、日本ではそうではない。貧しい市井の人々が、子どもから人足、車夫に至るまで冗談を言い合っては笑い興じていたことに驚かされたそうです。

 

 翻って今は・・・。

 お金やブランド物を持っていると幸せ。有名企業に勤めていることがステイタス。携帯は最新のものを追い求める・・・。少なからず、私の中にもそういう思いがあります。自分自身の中からも、大事なものが抜けていっていると感じます。

 

 

 私の好きな作家・浅田次郎さんの言葉から。

 

 ・・・僕は美しいものを見た。

 打算と自己主張と、自分勝手な愛憎と社会批判とでごてごてに身を鎧った僕らが、それでも繁栄へとせり上がっていく醜い世の中で、僕はこの目でたしかに、滅びざる美しいものを見た。

 (浅田次郎、『活動寫眞の女』より)

 

 「美しいもの」・・・あなたは、何を想像しましたか。

 

 

 今日から消費税10%に。

 でも、飲食品と新聞の定期購読は8%に据え置きだとか、酒類は10%だとか、仕組みが複雑。「なんとかならないの?」と新聞を読んでいたら、こんな記事に出会いました。

 

 「知識に課税しない」という考えが定着する欧州各国では、新聞、書籍、雑誌の税率を軽減またはゼロにしています。(2019年10月1日、朝日新聞より)

 

 この考え方によって、新聞も8%に据え置いたのだとしたら、

  やるじゃん、日本。

 そして、もっと軽減されるように、さらに、書籍もその対象になるように、

  がんばれ、日本。

 先ず食事に一家の者が一所に集まる。食事をしながらの雑談もする。食事を終える。また雑談をする。これだけのことが出来れば家庭は何時までも平和に、何処までも愉快であるのである。

 (正岡子規、『病床六尺』より)

 

 そう言えば、幸せな家族を描いたアニメは、『サザエさん』にしろ『ちびまるこちゃん』にしろ、必ず家族がそろって食卓を囲んでいます。

 『サザエさん』は、1969年の放映開始から50年。時代は変わっても、電話は黒電話。携帯もスマホも登場しない。その分、叱ったり叱られたり、笑ったり落ち込んだり、家族の会話はずっと健在です。

 友蔵じいさんを始め、友達のような家族を描いたところが現代的だと思っていた『ちびまる子ちゃん』も、放映開始からもう30年です。

 

 『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』を見ながら、「そういえば、昭和の家族ってこんなだったよねえ」と思い出話にならないよう、ましてや、「今時、こんな家族はいないようねえ」なんてことがないように、何十年経っても、大切な家族との団らんが残るといいなと思います。

 かく言う私も、平日はほとんど家族と一緒の食事は出来ていないんですけれど。

 

 

 『海苔と卵と朝めし』。向田邦子さんの、食いしん坊エッセイ。取り上げられている料理は、この題名が表すとおり、ごく日常的なものがほとんどです。

 

例えば、こんな話。

 

 17、8年前のクリスマスイブのこと、向田さんは、会社も、自分自身も、家族もうまくいっていませんでした。それでも、家族のために、小さなクリスマス・ケーキを買い、電車に乗り、帰途についていました。疲れた向田さんは、そのまま眠り込んでしまいました。

 目を覚ますと、終点に近いせいか、乗客は酔っ払って眠っている2、3人だけ。ふと向かいの網棚を見ると、向田さんの手にしているケーキの5倍はありそうな、大きなクリスマス・ケーキの箱が。しかも、同じ店の包み紙。近くには誰もいません。明らかに置き忘れです。

 一瞬、「取り替えようか・・・」と思ったときに、電車は駅に着き、向田さんは、網棚のケーキをそのままに降車しました。そして、人気のない暗いホームに立った向田さんは、遠ざかっていく電車を見送りながら、声を立てて笑ってしまいました。

 

 サンタ・クロースだかキリスト様だか知らないが、神様も味なことをなさる。仕事も恋も家庭も、どれを取っても八方塞がりのオールドミスの、小さいクリスマス・ケーキを哀れんで、ちょっとした余興をしてみせて下すったのかも知れない。

 ビールの酔いも手伝って、私は笑いながら、

「メリイ・クリスマス」

といってみた。不意に涙が溢れた。

 (向田邦子、『海苔と卵と朝めし』より)

 

 人に自慢できる料理でもなく、行列のできるお店のレポでもない、小さなクリスマス・ケーキの話。それでもここには向田さんの笑ってしまうような、そしてほろりとくるような思い出が込められています。何を食べたか、ではなく、誰との、どんな思い出を添えられているかが大事なんだと気付かされます。

 

 さて、私の思い出の食卓は、こちら。

 

 私の県のB級グルメ・「骨付鶏(ほねつきどり)」。

 我が家の息子、娘の誕生日は、いつもこのB級グルメでお祝いをします。高級ディナーを食べに行くのでもなく、人を招くのでもない。毎年の、家族だけのささやかなお祝いです。

 

 明日、9月30日は、娘の18回目の誕生日。

 私とアメブロのつき合いも、この日をもって満1歳。

 豪華なお祝いじゃないけれど、たいした記事でもないけれど、1年1年に、1日1日に、大切な思いが込められています。

冤罪により、ショーシャンク刑務所に投獄されたアンディが、理不尽な扱いにも屈せず、希望を信じ、生きていく物語。

 

印象的な場面が二つありました。

 

一つは、殺伐とした刑務所に、アンディが音楽を流す場面。

囚人たちは、空を見上げ、ショーシャンクの空に流れるモーツァルトのアリアに聴き入ります。

 

もう一つは、ラストシーン。

アンディが太平洋の砂浜で親友と再会する場面です。

メキシコ人は、太平洋を「記憶のない海」と呼ぶそうです。

身に覚えのない罪も、忌まわしい出来事も、すべて流してくれる。それを予感させるエンディングでした。

 

空と海との間で、音楽に包まれ、友人に支えられて生き抜いていくアンディ。

ショーシャンク刑務所の中は理不尽なことだらけだったけれども、その空は広い希望へとつながっている。だから、どんな苦難があっても、決して希望を捨てないこと。題名『ショーシャンクの空に』に込められた思いは、そういうことなのでしょうか。

 

音楽を聴いてた。頭の中でさ。心でも。

音楽は決して人から奪えない。そう思わないか。

(『ショーシャンクの空に』より、懲罰房から出されたアンディが語った言葉)