出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -20ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

「応(まさ)に恨みは有るべからずに 何事ぞ 長(とこしえ)に別事に向いて円(まど)かなる」

 別れの歌だ。

 ─月が人に恨み心などあるはずもなかろうに、どうしていつも人が別離に悲しんでいる時に限って満月なのだ。

 (宮部みゆき、『桜ほうさら』より)

 

 自分がこんな気持ちで満月を眺めたことはないけれど、でもこの気持ち、分かる気がします。

 

 昨日の朝日新聞「折々のことば」には、いせひでこさんの、次の言葉が紹介されていました。

 

 青空に、修復の可能性を残さないほどにまっすぐな飛行機雲を見ると、悲しくなる。

 (いせひでこ、『旅する絵描き タブローの向こうへ』より)

 

 いずれ欠けていく満月。いずれくずれていく飛行機雲。

 宮部みゆきさんや、いせひでこさんの言葉に惹かれるのは、はかないものへの切なさがそこにあるからでしょうか。

 同じ満月を歌った「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」という藤原道長の歌もありますが、その力強さよりも、私は切ない方が好きです。

 俳優・菅原文太さんは、知らないことに興味をもつ、聞きたがりの人でした。

 

 高橋源一郎さんの小説に対し、

「あんたの小説は面白いが、難しいねえ。説明してくれるかい?」。

 

 俳人・金子兜太さんへの最初の一言は、

「俳句はまったくの門外漢でありまして。残念ながら金子さんの俳句も・・・」。

 

 憲法学者の樋口陽一さんには、

「オレは早大法学部中退なんだけど、実は日本国憲法をよくよく読んだのは今回が初めてなんだ(笑)」。

 

 かといって、菅原文太さんは、決して不勉強だったわけではありませんでした。常に問題意識をもって、物事と向き合っていたそうです。

 

 「無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け入れることができなくなった状態を言う」(ロラン・バルト)

 逆にいうなら、「知性」とは、未知のものを受け入れることが可能である状態のことだ。菅原のように、である。

 (高橋源一郎、『ぼくらの民主主義なんだぜ』より)

 

 菅原さんとは違って、本当に知らないことだらけの自分なのですが、菅原さんのこういう姿勢に勇気づけられます。

 

 

 例えば子供を叱っているときに、この子がどういう叱り方をする人になってほしいか、と考えたら、叱り方に気を付けるし、こういう場面で別の子に優しくするようになってほしいと思ったら、私がそういう場面でその子に優しさを渡さなければいけないわけです。

 (『初等教育資料』(2019年10月号)、昭和大学准教授・副島賢和氏へのインタビュー記事から)

 

 怒りや苛立ちに任せて子供を叱っていたら、きっとその子供は人にそのように接するようになります。体罰を加えられて育てられた子供は、大人になったら自分の子供にも同じようにすると聞いたこともあります。また、「人に優しくしないと駄目でしょ!」ときつく言われたからといって、優しい子に育つとも思えません。

 大人はややもすると「その子のため」を免罪符に、時に不要に厳しく当たってしまいがちです。でも、そんな時は、3回深呼吸をして、冒頭の言葉を思い出したいと思います。

 私の弱いところ=足の裏。人の指が近寄ってきただけで、こらえきれなくなって笑い出してしまいます。 今日の朝日新聞「天声人語」がそのことを取り上げていました。

 

 他人に触られてるとくすぐったい足の裏やわきの下が、自分の指で触れるとくすぐったくない。なぜなのかと真剣に探究したのは古代ギリシャのアリストテレスである。到達した答えは「自分の指では動きが予測できるため」

 (2019年10月5日、朝日新聞「天声人語」より)

 

 なかなk面白いコラムだったので、お父さんをやっつけようとするときには一番に足の裏を狙ってくる娘をつかまえ、

「四コマ漫画ばっかり読まずに、こういうところを読めば?」

と言うと、めずらしく素直に読んだようです。

 そして、疑問を持ったらしい。

「そしたら、人の指を持って、自分の足の裏をこそばしたら、こそばくないんかなあ。」

 ということで、試しに、娘の指を使って、自分の足の裏をくすぐってみました。

 すると・・・。やっぱりこそばい。

 

 しっかりしろ。アリストテレス。

 過去の出来事を、当時の視点でなく、現代の視点で批判したり否定したりするのは無意味なことです。原始の時代から19世紀までの人類社会を、人間の平等すらなかったひどい時代だと否定してみても、何も生まれないのと同様です。

 ・・・人間はその時代のルールで精一杯生きるしかなく、未来のルールで生きる訳にはいきません。

 (藤原正彦、『日本人の誇り』より)

 

 歴史についての考え方は、いろいろな方が、それぞれの立場でおっしゃっていますので、私は言及しません。

 ただ、そのような難しい問題ではなく、自分のこれまでを振り返っても、例えば、

「子どもの頃は、つまらないことで泣いたり落ち込んだりしていたものだ。」

「あの頃自分を悩ませていたことなんて、今の自分からすれば、取るに足らないことだ。」

などと考えたりしますが、あの頃は、あの頃なりに必死であり、自分が抱えていた出来事も、当時の感覚で言えば、重大事件なのでした。そして、そのような昔の自分を否定してしまうと、自分のこれまでの人生の重みがなくなってしまうようにも感じます。

 先の読めない時代に生きる私たち。未来社会がどうなっているかを予測しながら生きることも大切ですが、まずは、今のルールの中で精一杯生きること。これまでの自分を大事にしながら。