出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -24ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 暑くて、蒸し蒸しして、何をするにもなかなかギアが入らない。そんな日が続くと、負のスパイラルに入って、いっそうだらけてしまう。そんな時に出会った言葉が、これです。

 

 「タイガー・ジェット・シン方式」

 

 「タイガー・ジェット・シン」は、私が子どものころ、悪役レスラーとして名を馳せ、サーベルを手に暴れ、「インドの狂える虎」と異名をもつレスラーでした。

 彼の何を見習うのか。

 ここです。

 

 タイガー・ジェット・シンは試合のリングに入るやいなや、花束贈呈のセレモニーを待たず、いきなり相手につかみかかり戦闘を開始、一瞬にして会場の熱気を最高潮へと持っていきます。

 この「瞬間トップスピード」が、行動力強化のために必要なのです。

 (茂木健一郎、『結果を出せる人になる! 「すぐやる脳」のつくり方』より)

 

 そのシーンは脳裏に刻まれています。

 それをイメージしながら、私は、昨日、今日と、職場に着くやいなや、瞬間トップスピードで仕事に取りかかりました。

 効果てきめん。

 始まりよければすべてよし。

 一日を溌剌と過ごすことができました。

 

 さて、このやる気をいつまで持続できるでしょうか。

 とりあえず明日も、(オレはタイガー・ジェット・シンだ。花束なんていらねえよ。)と暗示をかけて戦闘開始です。

 

 

 

昨日から、都内に出張。

予約していたホテルが、あまりに綺麗だったので、写真に撮って家族にラインしました。

ところが、なかなか既読が付かない・・・。

返信も来ない・・・。

 

しばらくして、やってきたのが、

な、なんと・・・。

これは、勝手にホテルの人がこの部屋をあてがったわけで・・・

不可抗力であって・・・

なのに、この壁の陰に、女の人が隠れているとでも想像しているのか?

 

必死でラインに返信。

 

5分後に分かったことは・・・。

 

娘のいたずら。

妻の携帯からラインをうったらしい。

まったく、ろくなことをせん。

 

でも、よかった。

浮気がばれなくて。

 

↑冗談ですよ。念のため。

 歌人・穂村弘さんが、日常の中で感じている違和感、ぞくっとする出来事を、独特の感性で綴ったエッセイです。例えば…

 私は小さな子供と大きな犬が遊んでいるのを見るのがこわい。これはTさんにも通じなかった。和気藹々とした光景のどこがこわいの、と怪訝そうだ。
 こわいのは、次の瞬間に犬が子供に噛みつく可能性、だ。いくら穏やかな性格の犬でも、絶対ってことはないだろう。何もわからないような小さな子供が、いきなりその目に思いっきり指を突っ込むかもしれない。そうしたら、反射的にガブッ…と考えてしまうのだ。
(穂村弘、『鳥肌が』より)

 これには思い当たることがあります。
 娘が幼稚園の頃、犬の大好きな娘は、お正月に親戚の家に遊びに行った時に、そこの飼い犬と遊んでいました。
 私たち大人は、家の中でこたつに入ってのんびりとしていたところ、娘が泣きながら部屋に帰って来ました。左手を押さえ、しかも、袖口は血で染まっています。
(ま、ま、まさか、指を噛み切られた?)
 私は、「ど、ど、どしたん!」と言ったまま、オロオロしていたのですが、妻は、「ちょっと見せて」と言って、血を拭き、傷口を確かめていました。
 どうも、犬に手渡しでえさをやろうとしたところ、犬はえさを取られると思って、ガブッといってしまったようで、でも、幸いにも、傷は大したことはありませんでした。

 確かにこわい出来事でしたが、もっと“鳥肌が”たったのは、妻の度胸。なぜ、平気で血を見れるのか…。
母は、やっぱり、強い。同時に、(この人には、かなわない)と悟りました。
 以来、尻に敷かれっぱなしです。

 瀬戸内海に浮かぶ女木島(めぎじま)に、1984年から走っているバスがあります。車体にはさびが目立ち、車内も壁紙がはがれ、網棚も壊れたまま。それでも、訪れる人を引きつけます。バス会社の社長も、「おんぼろなだけのバスなのに。不思議でしょうがなかった」と言います。

 

 どうも、どんな高級な豪華バスにも出せない味わいが、このバスにはあるようです。

 頑張って走ってきた時間、これまで運んだたくさんの人の思いが、このバスに染みついているのでしょう。そこに、日本人が大切にしてきた、「わび・さび」を感じます。

 

 人の手で作った庭園でも、木が成長し、大地に根を張り、苔が付き、石は風化して、まるで自然そっくりになることを「庭さび」と言います。・・・(中略)・・・さびとは、モノの本質が表に出るまでの長い時間の経過がもたらす「時間の美」ということです。

 (進士五十八氏のインタビューから(『初等教育資料2019年9月号』収録))

 

 昨日の朝日新聞地方版には、このおんぼろバスを見た女性(23歳)の声が取り上げられていました。

「このバスができた時には生まれてないのに、なぜか懐かしい」

 

 隙もなく完璧な機能を誇らなくても、安心して親しみを感じられる、それが懐かしさかもしれません。

 先ばかりを追い求めずに、過去を見つめ、過ぎし時間を思う。そんな生き方が、もっと重宝されてもよいと思うのですが。

 「サブリミナル効果」をご存知でしょうか。

 1956年のアメリカで、映画の中に、「ポップコーンを食べろ」とか「コカコーラを飲め」というメッセージの書かれた1/3000秒の画面を、5秒おきに映したそうです。観客には知らせませんでしたし、そのことに気付いた観客もいませんでした。ところが、売店でのコカコーラの売り上げは20%近く、さらにポップコーンの売り上げは60%近く増したそうです。

 つまり、見えていなくても、本人の行動や欲求に影響を及ぼすというものです。

 

 『オオカミ少女はいなかった』の著者・鈴木光太郎さんは、これに待ったをかけます。

 まず、その時代に1/3000秒のコマ割りをすることなど、不可能であること。上映されている映画の内容や、その時の気候など、比較実験の条件が整っていないことなど、実験として疑わしいことが多々あるからです。

 

 そして、ズバリ。

 

 押し売り的に、ただ見せられただけのメッセージが(いや、自覚的には、見せられてもいないメッセージが)、強い影響をおよぼして欲求を生じさせ、それが、メッセージの指示する購買行動を引き起こすというのだ。そんなことがあるわけがない! ちゃんとメッセージが見えていたって、ふつうはほとんど効果がないからだ。これがどれだけバカなことを言っているかは、これを逆方向に言い換えてみるとよく分かる。すなわち、「はっきり見せられたものほど、そして意識されたものほど、効果がない。見えないものこそ、つまり無意識であるものこそ、効果がある」。

 

 心理学が「心理テスト」や「血液型による性格分類」に成り下がらないように。面白さや話題性にひかれないように。人の心は、先入観なく、しっかりと見て、自分の目で判断しなければ。