インドのカルカッタ(コルカタ)でオオカミに育てられたと思われる二人の少女、カマラとアマラが発見された。二人は、昼間は暗いところにうずくまり、夜は目を輝かせて活動し、生肉を好んで食べ、オオカミと同じような叫び声をあげた。そして、シング牧師らの忍耐強い教育にもかかわらず、人間としての正常な状態に戻すことは困難であった─。
30年前、大学の心理学の講義で聞いた話です。教授は、「よって、教育にとって、環境は極めて重要な要因である」のようなことを話されたと思います。
その後、何度かカマラとアマラの話を聞くことがありましたが、どの方も「人が人としてあるためには、人の関わりが欠かせない」「とりわけ乳幼児期が大切だ」ということを伝える例として、この話は取り上げられていました。
一人だけ、違った角度からこの話を見ていた人がいました。
「オオカミは、森の中で見つけたこの二人の少女を育ててくれた。人間は、オオカミに対して同じことをしてやれただろうか」
ほとんどの人が人間の立場でこの話を解釈している中、オオカミの立場から考えていることに強く感銘を受けました。
ただ、現在では、このオオカミ少女の話自体、信憑性に欠けるものとなっています。今日のブログの題にもなっている『オオカミ少女はいなかった』は、科学的にそのことを立証しようとしており、確かにオオカミ少女の話には、多くの矛盾があります。筆者の主張に納得されられることも多いです。
それでも、私にとって「オオカミに対して同じ事をしてやれただろうか」という言葉は、色あせることはないのです。私の父が語った、あたたかな言葉です。