出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -25ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 インドのカルカッタ(コルカタ)でオオカミに育てられたと思われる二人の少女、カマラとアマラが発見された。二人は、昼間は暗いところにうずくまり、夜は目を輝かせて活動し、生肉を好んで食べ、オオカミと同じような叫び声をあげた。そして、シング牧師らの忍耐強い教育にもかかわらず、人間としての正常な状態に戻すことは困難であった─。

 

 30年前、大学の心理学の講義で聞いた話です。教授は、「よって、教育にとって、環境は極めて重要な要因である」のようなことを話されたと思います。

 その後、何度かカマラとアマラの話を聞くことがありましたが、どの方も「人が人としてあるためには、人の関わりが欠かせない」「とりわけ乳幼児期が大切だ」ということを伝える例として、この話は取り上げられていました。

 

 一人だけ、違った角度からこの話を見ていた人がいました。

「オオカミは、森の中で見つけたこの二人の少女を育ててくれた。人間は、オオカミに対して同じことをしてやれただろうか」

 ほとんどの人が人間の立場でこの話を解釈している中、オオカミの立場から考えていることに強く感銘を受けました。

 

 ただ、現在では、このオオカミ少女の話自体、信憑性に欠けるものとなっています。今日のブログの題にもなっている『オオカミ少女はいなかった』は、科学的にそのことを立証しようとしており、確かにオオカミ少女の話には、多くの矛盾があります。筆者の主張に納得されられることも多いです。

 

 それでも、私にとって「オオカミに対して同じ事をしてやれただろうか」という言葉は、色あせることはないのです。私の父が語った、あたたかな言葉です。

 もう一つ、自分の部屋に本棚を。

 その積年の願いがかないました。

 

【Befere】

 本棚がほぼいっぱいになったので、右面の本棚を大きな本棚に替えたかったのです。

 

【After】

 念願の本棚、完成!

 今日は、この本たちを眺めながら、一人、悦に入っていました。

 

 リボンを解くと私はすぐに読書休憩室の本棚に並べた。新しい本を1冊、棚の奥にすっと滑り込ませる感触が私は好きだった。それを読むのと同じくらいの胸の高鳴りを覚えた。1冊分の厚みだけ自分の世界が広がったようで、なぜかしら誰にともなく自慢したい気分になった。

 (小川洋子『最果てアーケード』より)

 

 また、しばらくは、読み終えた本を、1冊、1冊、本棚に並べていく喜びを味わえそうです。

 私は、何でも「本」から始めます。

 また、子どもが小さかった頃、縁日で金魚をすくってきたときも、早速本屋で「金魚の飼い方」の本を買ってきました。すると、即、妻から「そんなの、天日干しした水に入れといたら育つんやがな」と言われてしまいました。

 他にも、老化を予防するために「ストレッチの本」、おしゃれなお店に行く前には「カクテルの飲み方」、紐の結び方が分からないときには「紐の結び方」、・・・と挙げてみればきりがありません。

 でも、心のどこかに「本」を信頼するという気持ちが離れることなくあるのです。

 

 ある種の正確性が担保されているようなものを主体的に読み込んだ経験がないまま、いきなり真偽入り混じったネットの情報の渦に飛びこむのは、極めて危険なことです。せめて子どもたちにはネットやテレビと出会う前に、十分に紙の本にふれてほしいのです。

 (肥田美代子、『「本」と生きる』より)

 

 今の時代、ネットやテレビに触れることなく生活することは不可能です。でも、その前に、子どもたちに「言葉を信じる」という経験を「本」を通してもたせたいものです。ただ、私ほど極端にならない程度に。

 

「本」と生きる 「本」と生きる
842円
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「吾もまた紅なりとひそやかに」(高浜虚子)

 ─私も、吾亦紅(われもこう)といっしょです。

  人並みにあなたへの想いで、この胸をあかく染めているのです。

  (小川糸、『キラキラ共和国』より)

 

【吾亦紅】(画像はお借りしました)

 

 『キラキラ共和国』は、代書を営む「ツバキ文具店」を舞台に描かれる、同名の本の第2弾です。言葉の美しさを、手紙が引き立てます。昔から伝わる言葉の奥ゆかしさ、手書きの味わいが伝わってきます。

 

 「吾もまた・・・」の句を入れた、こんなお手紙をもらったら、いっぺんにその人を好きになってしまいそうです。

 大勢の人を相手に話すときには、その中のある一人を思い浮かべながら、その人に語るように話せばいい。文章を書くときにも、ある一人を想定して書くとよい。それが具体的な、伝わる文章の書き方である─。

 以前、そのような話を聞き、感銘を受けた覚えがあります。そして、私はそれを、話すことと書くことの極意と思ってきました。

 

 ところが、この本では、それと正反対のことが書かれていました。次のようなエピソードを取り上げて。

 

 ・・・あるビール会社の宣伝担当が、特定のターゲットに売れそうなビールとして『女の夜の風呂上がりの生ビール』という商品名を考える。すると上司に「君な、『女』で人口の半分、『夜』で1日の半分、『風呂上がり』で夜のそのまた数十分間に顧客が限定されるやないか。商品名は『みんなのビール』にしろ」と叱責される。

 (田中泰延、『読みたいことを、書けばいい。』より)

 

 さらにトドメは、

「(一人を相手に話す/書くのなら)LINEしてください。」

とピシャリ。

 

 きっと、「こうすれば必ずいい話・いい文章になる」というものはないのでしょうが、それでも、この本を読んで、自分の中の今までの常識が心地よく揺さぶられました。