出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -26ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 おけら長屋の人たちは、こんな感じです。

 

みんなが揃うと騒ぎが起こって、笑って泣いて、それで最後には笑ってる。

 (畠山健二、『本所おけら長屋(十三)』より)

 

 昨日の新聞のこの記事、なんだかおけら長屋の生き方に似ています。

 

 泣くはシクシクで4×9=36、笑うはハッハッハッで8×8=64。足してちょうど100。泣いて笑って、でも、笑いの方が少し多かったら、いい人生─。

 (2019年8月25日、東京新聞・社説より)

 

 江戸時代も令和も、大事にしたいことは同じ。

 つらくて泣くこともあるけれど、その分、笑うことも多ければいい。

 そして、泣くことも笑うことも、みんなと一緒にできれば、もっと、いい。

「どちらを選んでも辛いということだな」

「でも、どっちかを選ばなきゃならねえとしたら・・・。島田さんなら、どっちを選ぶんですかい」

「それは・・・。明日がある方だ」

 (畠山健二、『本所おけら長屋(十三)』より)

 

 この言葉に続けて、島田鉄斎は、「いつまでも昔のことにこだわっていると、明日が見えなくなる」と言います。いつか「辛い」が「幸せ」になる明日のための道を選べというメッセージととりました。

 

 「プライドは、未来の自分にもて」

 私の好きな、この言葉を思い出しました。

 過去の失敗を言い訳したり、隠したりするための道は、過去のプライドを保てるかも知れませんが、自分の未来にとっていいことはありません。そうではなくて、未来の自分に恥じない生き方をしているか。  

 きっと根元のところで、冒頭の言葉とつながっているのでしょう。

「夕陽ってえのは、どうして赤いか知ってるかい。お天道様が、今日あった辛えことや悲しいことを、燃やしてくれてんだってよ。だから明日になりゃ、そんなことは忘れて頑張れるってことらしいや・・・

・・・だけどよ、あんなに広え空が真っ赤になるんだからよ、世の中にゃ、辛えことや悲しいことが、たくさんあるんだろうなあ」

(畠山健二、『本所おけら長屋』より)

 

星の王子さまも、悲しいときは入り日をながめていました。

いろいろな人の辛いことや悲しいことに思いを馳せながら、夕陽の中に身をまかせてみたくなりました。

 数日前にリブログした葉菜さんの記事に、『さよならは小さい声で』(松浦弥太郎)が紹介されていました(葉菜さんのブログはこちら)。即注文し、読了しました。

 

 この本の中に、「母との最後のおしゃべり」というエッセイが載せられていました。

 喉頭がんの宣告を受けた母との、手術前の1日の最後のおしゃべり。

 

 亡くなった祖母が若い頃、とてもきれいで男にもて過ぎて困ったこと、父と初めて会った日のこと、子供が生まれる前に飼っていた犬のこと、ぼくら子どもを預けて夫婦で出かけた旅行のことなど、ひとしきり話した後、母は─

 

 「もう遅いから帰っていいよ」と言って、自分勝手におしゃべりを終えた。

 

 

 もう声を聞くことができなくなるのが分かっていて、それでも過ぎていく時を止めることのできない最後の瞬間って、どんな気持ちなんだろう。もう息子に声を届けてやれない、最後の言葉を発する時の母の気持ちって、どんな気持ちなんだろう。

 

 1日の様子が淡々と描かれているだけなのに、たくさんの思いが呼び起こされました。

 

 『さよならは小さい声で』は、郷愁を誘うような、やっぱりきれいな本でした。

『長いお別れ』

かつて中学校の校長を勤めていた東昇平は、認知症と診断されます。

しだいに症状は進み、20年間住んだ家の住所も、妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまいますが、「たしかに存在した何か」が、家族をつなぎます。

そして、昇平は亡くなる直前まで、さかさまにしたまま、お気に入りの本を読み、最後は家族に見送られながら旅立っていきます。

 

「『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」

 (中島京子、『長いお別れ』より)

 

 

この本を購入したきっかけは、この表紙の絵が、私の父にそっくりだから。

しかも、父も元校長先生。

まだしっかりしているとはいえ、80歳を超えています。

 

昇平の「長いお別れ」は10年間でした。

もしかしたら、父との間に残されている時間は、そんなに長くないのかもしれません。