見えないから見えること ─『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗)─ | 出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 「富士山」と聞くとどんなイメージを描きますか? おそらく、頭の中に、八の字末広がりで、上が欠けた三角形の絵を思い浮かべるでしょう。

 でも、目の見えない人が思い描く富士山は、「上が少し欠けた円錐形」なのだそうです。つまり、目の見える人が平面的にイメージするのに対し、目の見えない人は立体的にイメージするのです。

 目の見える人は、絵やイラストなどの影響を受け、どうしても二次元的に捉えてしまう傾向があります。逆に目の見えない人は、そういった文化的な束縛から自由に想像することができる、ということです。

 

 ある盲学校で、粘土で立体を作る課題に取り組んでいたときのこと。ある全盲の子どもが壺のようなものを作り、その壺の内側に細かい細工を施し始めたそうです。

 目の見える人からすれば、細工をするなら、普通、見えるおもて面にするでしょう。しかし、その子は裏面にした。その子にとっては壺の「内」と「外」は等価だったのです。目の見えない子どもは、「おもて」と同じだけの思いをもって「裏」を見ることができるのです。

 

 目が見えているけれども、見えていないことがある。

 目が見えていないのだけれども、見えていることもある。

 

 目が見えない人に、丁重にこわれものを扱うように接するのではなく、

「その感じ方、面白いね。」

「なるほど、そっちの見える世界の話もおもしろいねぇ!」

と互いの思いや感性を尊重し合える、そんな関係が理想なのかもしれません。