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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 角野栄子さんが小1の時のこと。学校では、先生から「角野さん」と呼ばれていたのですが、夏休みに先生のお宅におじゃました時、「栄子ちゃん」と呼んでくれました。先生が自分の名前を知っていてくれたことが不思議で、嬉しくて、家に駆け戻り、飛びつくようにお父さんに「先生がね、私の名前を知ってたの。栄子ちゃんって呼んでくれたの」と伝えたそうです。

 その時、お父さんが笑いながら言ったのが─

 

「お前は可愛い子だから、先生が名前を覚えているのは当たり前だ」

 

 角野さんは、その時の喜びを忘れることができないそうです。

 

 

 時は少し遡り、角野さんが4つか5つの頃のこと。砂浜でお姉ちゃんと砂のお城を作っていたそうです。お姫様が覗ける窓を作り、塔の上には旗に見立てた棒を立て、やっとの思いで完成!

 ところが、無情にも波が満ちてきて、そのお城をなめるように崩していきます。二人でお城を守ろうと抱え込んでも、波はお城を奪っていきます。一生懸命つくったのに・・・と泣きやまない二人に、お父さんが言いました。

 

「あの、お城はね、波と一緒に、とおーい向こうのとおーい海に行ってね、どこかの浜で、またお城になってるよ。心配ない」

 

 子どもの心をくすぐったり、夢を与えてくれたりする、こんな言葉に育てられ、『魔女の宅急便』のような物語が生まれたのでしょう。言葉は人の心を表すだけではなく、人の心を育てるものであると、つくづく思います。

 

 

 人が何かを願うとき、申し合わせたわけでもないのに、それはおなじ姿を持ち、繋がっていく。不思議だけど、うれしい気がする。

 (角野栄子、『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』より)

 

 角野さんの子どもの頃の話。

 お父さんに、怖い話の続きをしてもらいたいのに、お客さんがなかなか帰ってくれない。そんな時に、お姉さんが教えてくれました。

「あのね、ほうきをね、逆さまにして、手ぬぐいをかけて立てとくと、お客さんが早く帰るって」

 

 数十年後、魔女のことに興味をもち、調べるうちに、角野さんは、魔女のほうきの秘密を知ります。

 魔女は、森から薬を取り出し、ほうきにまたがって人助けに飛び回るようになった。つまり、ほうきは、災いを払うものだった、と。

 

 時を超えて、時代も超えて、人の願いは同じ姿をもちます。

 そして、この話からは、時代がどれだけ進もうとも、変わらない気持ちも見えてきます。

 それは、家族と一緒に、元気で過ごしたいという気持ち。

 

 

 角野栄子さんが子どもの頃、お父さんのあぐらの中にすっぽり入って、お話を聞いていたそうです。

 頭の上の方から、「どんぶらっこっこ すっこっこー どんぶらっこっこ すっこっこー」と声がふってきます。節のついた語りと、船のようにゆーらりゆらりと揺れるあぐらに包まれて、いつの間にか眠ってしまう。角野さんとお父さんとの懐かしい思い出です。

 

 私にもよく似た経験があります。

 私の父が本を読んでくれたのは、いつもお休み前の布団の中。気持ちよくなって目をつむっていると、父は、私が眠ったものと思って、読むのをやめてしまう。心地よい夢の世界に入りかけていた私は、その子守歌のような父の声が消えると、ふとこちらの世界に戻ってきて、「寝てないよ。」と言う。それを繰り返しながら、いつの間にか眠りに落ちていきました。

 

 角野さんの、このお話の終わりは、次の言葉で締めくくられます。

 

 本を読む子どもが少なくなったときく。それはきっと素敵に本を読んでくれる大人が少なくなったということかもしれない。

 (角野栄子、『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』より)

 

 

 また、いい本と出会いました。

 角野栄子さんの『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』です。言葉に夢がいっぱい詰まっています。こんなエッセイを書く角野さんだから、あんなに夢のある『魔女の宅急便』が生まれたのだなあと思いながら読みました。

 例えば、こんな話─。

 

 ある時、角野さんが、外国の友人に、漢字の成り立ちについて話していました。

 「山」という漢字は、山の形から生まれてきたこと。

 「峰」は同じ山でも、険しくとんがっている山をいうこと。

 

「ほら字を見ただけでもわかるでしょ」

 角野さんがそう言うと、その友人はため息をつくように言ったそうです。

「きみたちは言葉の中に絵を持っているんだね」

「そうなの、日本語はね、形を持っているのよ。絵みたいに」

 

 そして、角野さんは、子どもの頃を思い出します。

 ・・・そこで思い出したのが、まだ就学前、父がよく口にしていた「いろはにほへと・・・」だった。「ちりぬるを」とか、「おくやまけふこえて」とかを口にすると、葉っぱが散る様子や、遠くの山など、しずかな景色が見えるような気がしていた。その後、一年生になって習ったのが「あいうえお」だった。いくら読んでも、音は面白いけど、絵を想像できない。いろはの方がいいのにと思った。今でもそう思っている。

 (角野栄子、『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』から一部省略して抜粋)

 

 世の中、効率性や合理性が大切にされ、「あいうえお」のように、音に沿ってきちんと整理されているものが多いけれども、でも、そうじゃないところに、いにしえの言葉のような面白さや美しさがあるように思います。

 

 

 11月9日、今年の読書週間、最終日です。よって、この期間中、ブックレビューし続けてきた『まなの本棚』も、今日で終わりです。

 でも、今回は本からの言葉ではなく、愛菜ちゃんが、まさに今日、語った言葉から。

 

 愛菜ちゃんは、今日、「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」に出席し、お祝いのメッセージを述べました。その中で─。

 

 「新元号・令和は『万葉集』からの出典だったということを知り、昔の日本の書物から新しい時代の元号が作られるということは、なんてすてきなことなんだろうと深く感動しております。」

 

 読書をしていて、昔の書物から学ぶことはたくさんあります。そして『まなの本棚』を通して、新しい世代の愛菜ちゃんの言葉から、たくさんのことを感じ、考えされられました。

 スマホやSNSにより、読書がしだいに隅に追いやられている感がある中、励まされた一冊でした。