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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。そうして、それが所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思ったのです。

 (太宰治、『斜陽』より)

 

 正しく、自分らしく生きようと思えば息苦しい。かといって、友達の輪に入ろうと思えば、自分を演技する必要が生じます。道化たり、必死に友達の相づちをうったり・・・。

 

 昭和22年に発表された『斜陽』。しかし、描かれている人間の本質は変わらないのかも知れません。

 

 

 

 東京の繁華街では、スカウトの男性たちが、一人でいる少女を見つけては「ごはん食べた?」「今日寝るところある?」と声をかけ、「食べてない」「寝るところがない」というと、すぐに用意してくれるそうです。かゆいところにすぐ手が届く対応。役所や警察のようにあれこれ事情を聞いたりしない。「君のような子を探してたんだ」と、普段かけられたことのないやさしい言葉をかけてくれる。お金が、手に入る。

 でも、その先にある悲劇が、少女たちには見えていないのです。

 

「日本の公的支援はすべての面でJKビジネスや性風俗に負けている」

 (村木厚子、『日本型組織の病を考える』より)

 

 手軽さや、その場しのぎの誘いに負けてしまう。長い目で見たときに、本当に大事なものが、そうじゃないところにあるはずなのに、刹那的な生き方が広く蔓延しているように感じます。

 

 例えば、ゲームやテレビに押されて、本が読まれなくなっていく。ハウツーやマニュアルが重宝され、本当に大切なことを考えなくなる。答えがすぐに分からないものは、必要のないものと遠ざける。これも、根っこのところでは、「刹那的」の表れと言えるのではないかと思います。

 

 長い時間をかけて自分の血肉になるものこそ大切なはずなのに、それをどうやって伝えていけばいいのでしょうか。

 

 

 「結果の平等」は必要か、否か。

 

 元厚生労働事務次官・村木厚子さんは、「結果の平等」を問える法律を強く求めていました。他国は、女性の活躍について、結果まで見届ける法律を定めているところが多くありまが、日本では、なかなかその機運が高まりませんでした。

 しかし、とうとう2015年、「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律」(女性活躍推進法)ができ、その一歩を踏み出しました。

 

 女性にただ機会を与えればいい、差別しなければいいというだけではなく、きちんと長く勤められているか、管理職になれているかなど、結果を問い、問題があれば改善計画を立て、それを実施することを義務づける法律ができたのです。

 (村木厚子、『日本型組織の病を考える』より)

 

 「機会の平等」をきちんと保障する。その後どうなるか、結果については、本人の努力しだいである。

 私は、これが平等な社会だと、ずっと思ってきました。でも、そうとは言い切れないところも多々ある。

 自分の視野の狭さをこの本から教えられ、少しだけ世界を広く見ることができるようになった気がします。

 

 

 不祥事を起こしては、それを隠そうとする。過ちを認めず、突き進む。

 なぜそんなことになるのか。郵便不正事件で犯罪者扱いされ、冤罪で苦しみながら見えてきた日本型組織の病を村木厚子さんが綴った本です。

 

 村木さんは、「一つの組織にどっぷりとつかっていると、その過ちをとめることが難しい」と言います。だから、「二本目、三本目の杭」をもつべきだと。

 

 仕事だけという生活はすごく危なくて、一本の杭に両足を乗せて立っているようなものです。そこだけが自分の全世界だと思ってやっている。でも、杭にしがみついている限りは見えないかもしれないけれど、視点を変えて、あたりを見回してみたら、二本目の杭、三本目の杭が見つかるかもしれません。

 (村木厚子、『日本型組織の病を考える』より)

 

 一本の杭だけを、自分の世界のすべてだと思っていると、そこが駄目になったときに沈んでしまいます。二本目の杭に足をかけると、思いのほか落ち着くかもしれません。思い切って杭から降りてみたら、もっと自由に動ける地面があるかもしれません。一所懸命を重んじてきた日本人。時には「一所」を離れ、大らかに眺めてみることも大切なのかもしれません。

 

 

犬を飼う。

「しつけは初めが肝心」と思っていながら、あまりのかわいさに、ついつい甘くなってしまう。

多くの人が経験しているのではないでしょうか。

角野栄子さんもそのひとりです。

 

「ビスケット? いいわ、ちょびっとなら」

「同じベッド? いいわ、はじっこなら」

「枕? いいわ、はじっこなら、ちょびっとね」

そのうち、犬は自分が主人と思い込み、行動はしだいにエスカレートしていきます。

 

角野さんの愛犬ムムも然り。

ちょびっとがどっさりになり、角野さんの頭は、枕のはじっこに追いやられます。そしてムムは、ゴーゴー、ガーガーと高いびき。時々寝言も、悲鳴に近いなき声も混じります。ムムのねむりの世界はドラマチック。

 

ねえ、ムム。枕のまんなか譲ったんだから、あんたの夢のはじっこ見せてよ。

 (角野栄子、『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』より)

 

 

今日で、この本の紹介も5回目、今回で最終回にします。

随所に名言がある本でしたが、角野さんのムムへのこの言葉がなぜか心に残りました。

「私の中に大きな存在を占めるようになったあなたの、ほんの一端だけでも知りたいの」

そんな恋心を感じさせる言葉だからでしょうか。