■男性優位社会の特徴的な女性

アルフレッド・アドラーは、

男性優位社会において

特徴的な女性は3種類ある

指摘しています。

 

その3種類とは、次の3つです。

①活動的で男性的な方へ発達する女性

②信じられないほどの従順・謙虚を示す女性

③男性優位を進んで支持する女性

 

これらは女性の

男性優位社会に対する抵抗の方法により

特徴が異なり、それが3種類ある、

ということです。

 

男性優位社会には

”女性は劣った存在”という偏見があり、

その偏見によって男性優位を

成立させています。

 

その男性優位が嫌な女性は、

男性優位社会と戦うのです。

 

そしてアドラーは、

これらの女性の教育者(主に親)についても

言及しており、

昨日は①について書きました。

 

今日は②と③についてです。

 

■教育者としての特徴的な女性

②信じられないほどの従順・謙虚を示す女性

③男性優位を進んで支持する女性

 

これらの女性は男性優位を迎合しており、

教育者としては無能である、と

アドラーは説明しています。

 

これらの女性は、

責任を男性に転嫁するため、

「相手より自分優先」な心になります。

 

これは教育についても同じで、

子どもの教育について

自分の責任を引き受けることをしません。

 

自分は無力だから、

自分だけでは教育はできないから

教育は男性(父親)のあなたがするべきで、

必要な指示を私に出すべきだ、

みたいになります

 

そのため、子どもに対しては

ためらいの態度」をとります。

 

ためらい、なので、それは、

決めない」ということです。

 

すべてを可能性のままにしておき、

男性(父親)に決めさせることで

すべての責任は男性にある、

としたいのです。

 

目的は自分が生き延びるためであり、

子どもの教育ではないので、

教育者としては無能なのだと

アドラーは指摘しているのです。

 

子どもは、

そんな自分自身にばかり関心のある母親は

すぐに信頼できないと気づき、

母親の手には負えなくなります。

 

そんな子どもに対して母親は、

「それはいけない」だとか、

「それは違う」だとかの

注意することや、

「言うことを聞かないと父親にいいつける」

と言って子どもを脅したりして、

教育していることを示す努力をします。

 

しかし、

「教育は父親がするものであり、

自分にはできないもの」

ということから出発しているため、

子どもにとっては、

こんなことをいくらされても

母親が信頼できない気持ちが

深まるばかりとなります。

 

この基礎に流れているのは、

”女性は劣った存在”が正解であり、

これが成立しないと

自分の身が守れない、という価値観です。

 

もし女性の自分が有能となれば、

男性に押し付けられていた仕事を

自分がしなければいけなくなってしまうので、

それだけは断固として避けようとするのです。

 

”女性は劣った存在”が成立しない状況になれば

有能な自分を男性たちは許さないし、

自分は袋叩きにされてしまうに違いない、

みたいな恐怖を感じているのです。

 

そのため②③の特徴的な女性は、

”女性は劣った存在”という偏見こそが

正しいことだと証明することが

人生の目的みたいになってしまうのです。

 

その成果として、

教育は有能である男性だけができるものと

男性(父親)に同意させることができ、

それと引き換えに自分は教育の責任から

解放される状況とできるわけです。

 

つまり、

子どもの教育について

有効な成果が上がらないとしても、

男性(父親)が責任を負っているのであり、

女性(母親)を責めることは「筋が違う」

とすることができるわけです。

 

■特徴的な母親を持つ少女への影響

アドラーは、

こうした教育を受けた少女について、

少女は”女性の役割”についての不満が

極端に現れることがある

と指摘しています。

 

”女性の役割”とは、

男性優位社会においての女性の役割

という意味です。

 

男性優位社会は、

男性が、

男性というだけで優位な社会です。

 

優位とは、競争して勝利することで

実現できるものなので、

敗北してくれる相手」が必要です。

 

社会には男性と女性しかいませんので、

男性は女性に敗北してもらうことで

優位になるほかありません。

 

そこで男性は、

社会の基礎に様々な仕組みを仕掛けることで

自然と男性が女性に勝利できるように

作り上げてきました。

 

その仕組みが”女性の役割”です。

 

例えば、

家を継ぐのは長男であるとか、

一家の主は父親であるとか、

自然と「そういうものだよね」と

されているようなものです。

 

家を継ぐのは性別で選ぶより

それについて有能かどうかで選ぶ方が

善いはずです。

 

一家の主は性別で決めずに

それについて有能なかどうかで選ぶ方が

善いはずです。

 

しかし、なぜか女性は

最初から除外されています。

 

男性優位社会においては

”女性は劣った存在”であり、

軽度の従属的な仕事を引き受けるもの

のように性別だけで役割を決められており、

そこにあるのが”女性の役割”です。

 

こうした役割を

引き受けたくない少女は、

その不満が極端な形で

表現されることがある、ということです。

 

 

アドラーはそれを、

修道院に入るとか、

独身でいることが肯定されるような

仕事をすることで人生から退却してしまう

と指摘しています。

 

アドラーの時代は、

女性だけで生きていくのは困難な時代であり、

生き延びるためには結婚しなければならない、

というような時代でした。

 

そのため、少女は周囲から

早く結婚しないと生きていけないぞと、

せかされてしまうのです。

 

少女からすれば

生き延びるために結婚する、とは、

”女性の役割”を引き受けることになるのです。

 

それに対し修道院に入ったり

仕事をして経済的に自立することで

現に、結婚しなくても生きていけてますよ

と証明できることとなり、

結婚、すなわち

”女性の役割”を引き受けずに済む、

となるわけです。

 

 

男性優位社会の特徴的な女性である

②③の女性は、

”女性の役割”を引き受けたから

生き延びることができているわけで、

そうした女性が母親となれば、

娘も自分と同じように

”女性の役割”を引き受けることで

生き延びることができると

信じてしまいがちですから、

娘にも”女性の役割”を引き受けるように

促していたと考えられます。

 

母親は、

男性優位社会と戦っているものの、

男性に従順な態度をとったり、

男性優位を肯定したりしているため、

少女から見れば、

戦っていると理解するのはとても困難なのです。

 

■適切な教育をするために

アドラーは、教育とは、

「他者への関心を持つように促すこと」

と言っています。

 

男性優位社会の特徴的な女性は、

自分自身にばかり関心があり、

子どもの関心を他者に向けようと

することに関心がありません。

 

つまり、前述したように、

これらの特徴的な女性は

そもそも教育をしていないので、

教育者としては無能である、と

アドラーは指摘しているのです。

 

それはすなわち、

子どもに関心を持ち、

子どもの関心を他者にも向けるよう

接することをすれば、

教育者として無能ではなくなる

ということでもあります。

 

 

 

 

お読みいただき、

ありがとうございます。

 

プロコーチ10年目、常楽でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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