アルフレッド・アドラーの言う育児とは
「課題の分離をして、
自分の課題に
自力で立ち向かっていけるように
対話すること」です。

それに対してアドラーは
以下の育児を明確に否定しています。

・賞を与える甘やかす育児
・不適切な行動も看過する放任育児
・罰を与えるスパルタ育児



【対話】とは
言葉の意味通りだと
「向かい合って話すこと」です。

これをアドラー的に解釈すると
対等な関係で話すこと、です。

立場が上の者が下の者に、
反対に下の者が上の者に、
話すのではありません。

同じ高さで話すことです。

その対話には
「ご褒美」「評価」
「威圧」「脅迫」「暴行」などは
ありません。



【課題の分離】とは、
その課題の結末の影響を
最も大きく受ける人が
その課題の所有者である、
とすることです。

「水が飲みたい」と言う人がいたら
その人が水を飲むかどうかは
その人の課題ということになります。

その人が
「誰も水を飲ませてくれない。
ひどい人たちばかりだ。」などと
言ったとしても、
水は飲めないでしょう。

自分が自力で水を得るか、
他人と適切にやりとりをして
持ってきてもらうようにするほか
ありません。

課題は
課題の所有者以外は
解決することができません。

それを曲げようとすると
競争や権力争いなどの
困難が起きることになります。

平和にことを進めるなら
課題の所有者自身が
自力で課題に向き合うことが
大切です。



一方で
【甘やかす育児】は
自分が育つことではなく
育児する人を喜ばすことが
目的になってしまいます。

自分が「やりたい」と思って
やるのではなくて
「ご褒美をもらえるからやる」と
思ってやることになります。

育児する人の
顔色うかがいが始まり、
その先には他人の顔色うかがいが
始まります。

生き延びるために
顔色うかがいをしますが、
相手が喜ぶかどうかは
相手自身の課題です。

課題の分離ができずに
苦しい状況が続いてしまいます。



【放任育児】とは
不適切な行動をしても
その支援をしない育児です。

自分の課題として
本人は課題と向き合いますが、

その結末が悲哀なものでも
誰の支援も受けないため、
その悲哀が現実のものと
なってしまいます。

例えば
親の大切なものを
そうとは知らずに触って
故意にでなくとも壊してしまったら
親が悲しませてしまうか、
親を怒らせてしまいます。

課題の結末として
そこで学びや教訓を
得られるわけですが

事前に悲哀な結末となると
十分に横からわかる状況であれば、
そこに支援が入ることで

事前に悲哀な結末を共有して
学びや教訓を得ることができます。

一度や二度の支援では
なかなかわかってもらえないかも
しれませんが、
わかってもらえるまで
粘り強く対話を続けることです。

それこそが
自力で課題に立ち向かっていく
力を育てる育児となります。



【スパルタ育児】とは
育児する人が
不適切と思う行動に対して
罰を与える育児です。

体罰はもちろん、
〇〇をしたから食事抜き、など
身体や心に痛みを与えることです。

これでは目的が
本人が「やりたい」と思うことではなく、
「痛みをいかに受けないようにするか」
になってしまいます。

主体性が下がり、
これも顔色うかがいが始まります。

罰を与える兆候を
見逃さないようにするためです。

また、
育児する人がいない時間が
最もリラックスでき、
育児する人がいる時間が
最も緊張することになります。

いつ帰ってくるのか、
いつ出かけるのか、が
わかりませんから、
常に一定の緊張状態にあります。

主体性や創造性は
高まりにくい状況です。



育児する人が
アドラーの育児を
された人であることは
少ないかもしれません。

そんな人が
アドラーの育児を
する側になるのは
困難と感じるところも
あるでしょう。

つい自分がされた育児を
自分もしてしまったりします。

そんな自分に気づくと
「自分が自分に罰を下す」を
してしまったりします。

それこそ
「スパルタ育児を
自分が自分にしている状況」です。

善い/悪い、と
裁きを下すより、
「やりたい」と思うことを
「できた」と知ることで
喜びを感じる方が
育児をする側も
育児をされる側も
楽しいです。

「やりたい」が
「できなかった」場合も、
どうしたらできるように
なるだろう?
何を変えたらうまくいくかな?と
創意工夫してくこと自体も
育児を楽しくさせてくれます。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。


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