アルフレッド・アドラーの言う育児とは
「課題の分離をして、
自分の課題に
自力で立ち向かっていけるように
対話すること」です。
それに対してアドラーは
以下の育児を明確に否定しています。
・賞を与える甘やかす育児
・不適切な行動も看過する放任育児
・罰を与えるスパルタ育児
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/2e/b2/j/o0640042715032689868.jpg?caw=800)
【対話】とは
言葉の意味通りだと
「向かい合って話すこと」です。
これをアドラー的に解釈すると
対等な関係で話すこと、です。
立場が上の者が下の者に、
反対に下の者が上の者に、
話すのではありません。
同じ高さで話すことです。
その対話には
「ご褒美」「評価」
「威圧」「脅迫」「暴行」などは
ありません。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/68/76/j/o0640042615032690279.jpg?caw=800)
【課題の分離】とは、
その課題の結末の影響を
最も大きく受ける人が
その課題の所有者である、
とすることです。
「水が飲みたい」と言う人がいたら
その人が水を飲むかどうかは
その人の課題ということになります。
その人が
「誰も水を飲ませてくれない。
ひどい人たちばかりだ。」などと
言ったとしても、
水は飲めないでしょう。
自分が自力で水を得るか、
他人と適切にやりとりをして
持ってきてもらうようにするほか
ありません。
課題は
課題の所有者以外は
解決することができません。
それを曲げようとすると
競争や権力争いなどの
困難が起きることになります。
平和にことを進めるなら
課題の所有者自身が
自力で課題に向き合うことが
大切です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/5c/1d/j/o0640080015032690664.jpg?caw=800)
一方で
【甘やかす育児】は
自分が育つことではなく
育児する人を喜ばすことが
目的になってしまいます。
自分が「やりたい」と思って
やるのではなくて
「ご褒美をもらえるからやる」と
思ってやることになります。
育児する人の
顔色うかがいが始まり、
その先には他人の顔色うかがいが
始まります。
生き延びるために
顔色うかがいをしますが、
相手が喜ぶかどうかは
相手自身の課題です。
課題の分離ができずに
苦しい状況が続いてしまいます。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/90/d3/j/o0640042915032691850.jpg?caw=800)
【放任育児】とは
不適切な行動をしても
その支援をしない育児です。
自分の課題として
本人は課題と向き合いますが、
その結末が悲哀なものでも
誰の支援も受けないため、
その悲哀が現実のものと
なってしまいます。
例えば
親の大切なものを
そうとは知らずに触って
故意にでなくとも壊してしまったら
親が悲しませてしまうか、
親を怒らせてしまいます。
課題の結末として
そこで学びや教訓を
得られるわけですが
事前に悲哀な結末となると
十分に横からわかる状況であれば、
そこに支援が入ることで
事前に悲哀な結末を共有して
学びや教訓を得ることができます。
一度や二度の支援では
なかなかわかってもらえないかも
しれませんが、
わかってもらえるまで
粘り強く対話を続けることです。
それこそが
自力で課題に立ち向かっていく
力を育てる育児となります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20201218/07/yurushino/78/e6/j/o0640041614868059298.jpg?caw=800)
【スパルタ育児】とは
育児する人が
不適切と思う行動に対して
罰を与える育児です。
体罰はもちろん、
〇〇をしたから食事抜き、など
身体や心に痛みを与えることです。
これでは目的が
本人が「やりたい」と思うことではなく、
「痛みをいかに受けないようにするか」
になってしまいます。
主体性が下がり、
これも顔色うかがいが始まります。
罰を与える兆候を
見逃さないようにするためです。
また、
育児する人がいない時間が
最もリラックスでき、
育児する人がいる時間が
最も緊張することになります。
いつ帰ってくるのか、
いつ出かけるのか、が
わかりませんから、
常に一定の緊張状態にあります。
主体性や創造性は
高まりにくい状況です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20201218/07/yurushino/04/30/j/o0640042814868059330.jpg?caw=800)
育児する人が
アドラーの育児を
された人であることは
少ないかもしれません。
そんな人が
アドラーの育児を
する側になるのは
困難と感じるところも
あるでしょう。
つい自分がされた育児を
自分もしてしまったりします。
そんな自分に気づくと
「自分が自分に罰を下す」を
してしまったりします。
それこそ
「スパルタ育児を
自分が自分にしている状況」です。
善い/悪い、と
裁きを下すより、
「やりたい」と思うことを
「できた」と知ることで
喜びを感じる方が
育児をする側も
育児をされる側も
楽しいです。
「やりたい」が
「できなかった」場合も、
どうしたらできるように
なるだろう?
何を変えたらうまくいくかな?と
創意工夫してくこと自体も
育児を楽しくさせてくれます。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/09/yurushino/61/97/j/o0640042715032692728.jpg?caw=800)
お読みいただき、
ありがとうございます。
プロコーチ8年目、常楽でした。
《関連記事》
・子育て・教育の目標
・相手が、自ら進んで課題に向かうために
・教育とは、うまくいった事例の共有
・相手を育てるなら、失敗するとしても任せる
・自発性を育てるのは賞罰ではなく信頼
・相手への接し方「介入」と「支援」は違う
・権力争いには「闘い」よりも「対話」
「課題の分離をして、
自分の課題に
自力で立ち向かっていけるように
対話すること」です。
それに対してアドラーは
以下の育児を明確に否定しています。
・賞を与える甘やかす育児
・不適切な行動も看過する放任育児
・罰を与えるスパルタ育児
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/2e/b2/j/o0640042715032689868.jpg?caw=800)
【対話】とは
言葉の意味通りだと
「向かい合って話すこと」です。
これをアドラー的に解釈すると
対等な関係で話すこと、です。
立場が上の者が下の者に、
反対に下の者が上の者に、
話すのではありません。
同じ高さで話すことです。
その対話には
「ご褒美」「評価」
「威圧」「脅迫」「暴行」などは
ありません。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/68/76/j/o0640042615032690279.jpg?caw=800)
【課題の分離】とは、
その課題の結末の影響を
最も大きく受ける人が
その課題の所有者である、
とすることです。
「水が飲みたい」と言う人がいたら
その人が水を飲むかどうかは
その人の課題ということになります。
その人が
「誰も水を飲ませてくれない。
ひどい人たちばかりだ。」などと
言ったとしても、
水は飲めないでしょう。
自分が自力で水を得るか、
他人と適切にやりとりをして
持ってきてもらうようにするほか
ありません。
課題は
課題の所有者以外は
解決することができません。
それを曲げようとすると
競争や権力争いなどの
困難が起きることになります。
平和にことを進めるなら
課題の所有者自身が
自力で課題に向き合うことが
大切です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/5c/1d/j/o0640080015032690664.jpg?caw=800)
一方で
【甘やかす育児】は
自分が育つことではなく
育児する人を喜ばすことが
目的になってしまいます。
自分が「やりたい」と思って
やるのではなくて
「ご褒美をもらえるからやる」と
思ってやることになります。
育児する人の
顔色うかがいが始まり、
その先には他人の顔色うかがいが
始まります。
生き延びるために
顔色うかがいをしますが、
相手が喜ぶかどうかは
相手自身の課題です。
課題の分離ができずに
苦しい状況が続いてしまいます。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/08/yurushino/90/d3/j/o0640042915032691850.jpg?caw=800)
【放任育児】とは
不適切な行動をしても
その支援をしない育児です。
自分の課題として
本人は課題と向き合いますが、
その結末が悲哀なものでも
誰の支援も受けないため、
その悲哀が現実のものと
なってしまいます。
例えば
親の大切なものを
そうとは知らずに触って
故意にでなくとも壊してしまったら
親が悲しませてしまうか、
親を怒らせてしまいます。
課題の結末として
そこで学びや教訓を
得られるわけですが
事前に悲哀な結末となると
十分に横からわかる状況であれば、
そこに支援が入ることで
事前に悲哀な結末を共有して
学びや教訓を得ることができます。
一度や二度の支援では
なかなかわかってもらえないかも
しれませんが、
わかってもらえるまで
粘り強く対話を続けることです。
それこそが
自力で課題に立ち向かっていく
力を育てる育児となります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20201218/07/yurushino/78/e6/j/o0640041614868059298.jpg?caw=800)
【スパルタ育児】とは
育児する人が
不適切と思う行動に対して
罰を与える育児です。
体罰はもちろん、
〇〇をしたから食事抜き、など
身体や心に痛みを与えることです。
これでは目的が
本人が「やりたい」と思うことではなく、
「痛みをいかに受けないようにするか」
になってしまいます。
主体性が下がり、
これも顔色うかがいが始まります。
罰を与える兆候を
見逃さないようにするためです。
また、
育児する人がいない時間が
最もリラックスでき、
育児する人がいる時間が
最も緊張することになります。
いつ帰ってくるのか、
いつ出かけるのか、が
わかりませんから、
常に一定の緊張状態にあります。
主体性や創造性は
高まりにくい状況です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20201218/07/yurushino/04/30/j/o0640042814868059330.jpg?caw=800)
育児する人が
アドラーの育児を
された人であることは
少ないかもしれません。
そんな人が
アドラーの育児を
する側になるのは
困難と感じるところも
あるでしょう。
つい自分がされた育児を
自分もしてしまったりします。
そんな自分に気づくと
「自分が自分に罰を下す」を
してしまったりします。
それこそ
「スパルタ育児を
自分が自分にしている状況」です。
善い/悪い、と
裁きを下すより、
「やりたい」と思うことを
「できた」と知ることで
喜びを感じる方が
育児をする側も
育児をされる側も
楽しいです。
「やりたい」が
「できなかった」場合も、
どうしたらできるように
なるだろう?
何を変えたらうまくいくかな?と
創意工夫してくこと自体も
育児を楽しくさせてくれます。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211117/09/yurushino/61/97/j/o0640042715032692728.jpg?caw=800)
お読みいただき、
ありがとうございます。
プロコーチ8年目、常楽でした。
《関連記事》
・子育て・教育の目標
・相手が、自ら進んで課題に向かうために
・教育とは、うまくいった事例の共有
・相手を育てるなら、失敗するとしても任せる
・自発性を育てるのは賞罰ではなく信頼
・相手への接し方「介入」と「支援」は違う
・権力争いには「闘い」よりも「対話」