「死刑台のエレベーター」 「鬼火」
療養所の院長は『もう、ずっと前から、回復している』として、退院をすすめる。彼は退院前の外出をし、かつての友人の元を尋ねる。いずれもブルジョワの友人である。最初に訪ねた友人は、『エジプト文明についての本をまとめようとしていて』、しっかりと「自分の夢と展望」をもって人生の盛りを迎えようとしていた。彼はアランに「君は青春の幻影につかっている」「壮年を拒絶している」と言い放つ。彼はもう「中年という年齢」をはさんでアランの対極にいるのである。
2番目に訪ねたのは、ジャンヌ(まんまジャンヌ・モロー)。画廊に勤めてる彼女の廻りには「創作的」な才能をもつ友人(詩人)などが集い、何もないアランをすげさむ。詩人は「薬なしでも、生と死の境に迷い込めるのさ!」と嘘ぶきアルコールに頼るアランをバカにする。次に訪ねたのは、左翼活動家のマンビル兄弟。 でも、こういう人達の連絡場所ってなんで『左翼的思想書を扱う本屋さん』なのだろうか? 世代が違う為、全く理解できませんが、新派ってことなのか。彼らはもはや、次の活動舞台の「スペイン」を口にして「ノンポリ」のアランとは「すれ違い」感をみせる。このカフェで、隣のテーブルに残された酒を口に運ぶアラン。入院生活で断っていた酒を、ほんのわずかな外出時間で口にする事になる。依存者が、アルコールを断っていて再び「酒」を呑んだ時の、「一気の酔い」が体を襲い、酩酊をしめす。
人生を「過ごして行く」という事は、ほとんどの人間にとって「凡庸なこと」の積み重ねであり、場合によっては「創造的なこと」であり、そこには『家族とかいうわずらわしいもの』・『人間関係のくだらなさ』・『生活を過ごすのに絶対に必要な、「夢」とか「展望」とかいうバックボーン』が発生してくる。アランはそのすべてを拒絶し、その世界からの隔絶をはかったのである。
「0:34 レイジ34フン」
「菊豆」 「HERO-英雄-」
リュウ・ホンの原作は実在の山村を舞台に、抗日戦線時代から農地解放、文革にいたる20年余の歴史を背景にした年代記的な作品で、映画では舞台をいつともしれぬ時代の、どこともしれぬ染物屋に変え、登場人物も、暴君的な老いた家長、家長に扱き使われる甥、子孫を産むために金で買われた若い妻、そして若妻と甥の不倫で産まれた子供の四人に絞り、ギリシャ悲劇のようにドラマの骨格をくっきりと際立たせせている。原作では実の甥だが、映画では直接の血縁のない、下の世代の親類という意味の「甥」とされたのは、普通の農家から染物屋への改変による「家業」の強調同様、宗族という血縁空間の存在をいっそう前面に押し出すためでしょうか。
ここには、これが中国映画かと眼を見張るような官能的で洗練された性描写もあるけれど、だからといって、封建制度に反抗する若い二人の性の讃歌などといったら、この映画の魅力の大半を取りのがすことになる。この映画では、性行為だけではなく、布を染料に漬けること、ぎりぎりと絞ること、極彩色の布がたなびくこと、族譜に従って子供の命名式を行うこと、葬儀を出すこと等々のすべてが官能を刺激する性的な行為となっている。染物屋の家業の展開される閉ざれた中庭は、子孫存続のための場所であり、そのまま性的空間なのである。この性の空間は家長の子種のなさという欠落(封建社会では事実上の性的不能)によって歪み、ねじれている。老いた家長、金山は若い三度目の妻、菊豆を不毛な行為で痛めつけ、自身が不能になってからは、彼女を石胎と罵り、夫婦の床で暴力に明け暮れることになる。彼女は同じように家長にいじめられる立場の甥、天青と密通し、彼の子供を産むが、夫は自分の子供が産まれたと思いこみ、一族を招いて新たな世代の家長の誕生を祝う。しかし、見せかけの幸福は長くは続かない。金山は卒中で倒れ、動けなくなった彼に、菊豆は事実を知らせ、あからさまに天青との営みを見せつける。いじめられる側がいじめる側に回ったのだ。このように書くと、『菊豆』は救いようのない、陰々滅々たる映画のようだが、そうした印象はない。イーモウ監督はいじめたり、いじめられたりする感情の内実にはあくまで距離を置き、物語を宗族という血縁空間のゆらぎとして、構造的にとらえているからだ。
金山の葬儀の場面は秀逸である。喪服姿の天青と菊豆は「魂がえし」に選ばれ、故人に孝心を示すために、一族の運ぶ棺に「いかないでくれ」と泣き叫びながら追い縋り、蓋に爪を立て、板を力の限りたたく。感きわまって地面の上に倒れた二人の上を美々しく飾られた棺が通り過ぎていくが、その上には、次代の家長である幼い天白が跨って座っている。この「魂がえし」は一度では済まない。なんと四十九回も繰返されるが、実は、これはイーモウ監督の創作で、実際にこのような習俗があるわけではないという。やっと死んだ暴君のために、若い二人が空涙を流し、孝心を演じなければならないとは、悲惨としかいいようがないが、カメラはこの悲惨さが、また滑稽さでもあることをあますところなく捉えている。
たとえ、人物の力関係が逆転し、歪みが生じようとも、血縁空間を秩序づける宗族の序列の存在自体は揺るぎもしないのでです。それは「天白」という名前にも現れている。中国の大家族制は、同姓どうしの通婚を禁じるという禁忌とともに、世代ごとに同一の文字を共有するという名づけの制度を持っていた。生まれてきた子供は天白と名づけられ、実の父、天青と同じ「天」の字を共有し、親子でありながら兄弟、しかも正嫡として、族譜の上では父の上位に立つことになるのである。
天青は叔母と密通するという世代横断の禁忌を犯すが、後半では、わが子に弟として仕えなければならないという報いを受ける。われわれは宗族の秩序の侵犯がなんら秩序そのものを揺るがすものではないという皮肉に立ち会い、言葉の正確な意味での「悲劇」を見る。この実感は、性の豊饒の手ごたえによって社会がこのように官能的な享楽に満ちているはずはないのかもしれないが、個に矮小化されたわれわれの性とは別の輝きが、この映画には溢れている。濡れた染布は女体のようにしない、そのこってりした色彩は濃艶な媚びに輝いている。不倫の二人を沈黙の視線で裁きつづける天白の存在さえも、淫らな暗さをたたえている。
3つの回想シーンをラストに収束させる展開は鑑賞者を惹きつけるという点では見事だと思うし、現実と仮想回想の部分の鮮やかな色彩の変化には何より目を奪われる。特筆すべき映像の美しさは近年でも際立った作品でしょう。この作品を思い起こす際にまず脳裏に浮かぶのはドラマ性以上にそのビジュアルだからだ。若干京劇みたいであざとい部分は在りますが。
しかしこれ等のビジュアル面よりも本来語られるべき点は本作のテーマである歴史の「大儀」を守るという必然性。ラストのジェット・リーの選択には勿論賛否あるでしょうけれど、映画の結末としてはあのラストしかないと思わせる説得力がある。非常に細部まで凝って作られたよく練られた脚本だと思う。
ただこういうテーマよりもどうしてもあの様式的な色分けに目が行ってしまうわけで作品自体損をしている部分もあるかもしれない。自分は中華的思想を彷彿とさせる世界観や、エピソードを色分けしちゃう構成があまり好きにはなれなかったのけど、完成度の高い作品ではあると思う。
「ペパーミント・キャンディー」
「50回目のファーストキス」
「だれのものでもないチェレ」
「裸のランチ」
「イノセント」
「あの子を探して」
出演している子どもたちや村人たちが役にマッチングしているし、自然な演技が素晴らしい。きちんとした脚本もなさそうな自然な台詞まわしが素直に観客の心に沁みいる。このように生き生きとリアルな表情を撮れるイーモウ監督の手腕は特筆すべきものがあると思う。
「山の焚火」
「坊や」と呼ばれる耳の聞こえない少年と、彼の面倒を見る姉ベッリ。頑固な父と、喘息持ちで鬱気味の母。四人一家だけの、広大なロケーションの中の、閉鎖された世界。父親は、姉ベッリが学校に通って教師になりたいという夢をあきらめさせ、弟の面倒を見ることを強要する。彼等を見つめる山々は、沈黙の中に不思議な慈しみをたたえこの家族の行く末を、包み込んでいく。
そう・・・・時さえも止まっているような、不思議な空気。だけど、二人は大人に刻一刻と近づいていく。時は止められない。神さえも。
やがて、怒りに駆られた弟は、父親の大切な草刈機を崖から落とし、更に高い山へと逃げていく。心配で様子を見に行く姉。愛しさと慈しみが溢れ、感情は止められない。そうして2人は近親相姦へと、追いつめられていく。