YURIKAの囁き -4ページ目

「死刑台のエレベーター」 「鬼火」

■1957年、フランス映画、92分
■監督・脚本:ルイ・マル
■製作:ジャン・スイリエール
■原作:ノエル・カレフ
■音楽:マイルス・デイヴィス
■出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、リノ・ヴァンチュラ
     ジョルジュ・プージョリー、ヨリ・ヴェルダン
【ストーリー】
青年技師ジョリアンは社長夫人フロランスと恋人関係にあった。この二人の関係を阻む社長を殺してしまおうと、完全犯罪を計画する。そして実行の時、ジュリアンは社長殺害には成功するが、帰りのエレベーターが途中で停止。閉じ込められてしまう。すでに夜も遅く、警備員のいる気配もない。しかし、ジョリアンにとっては、そもそも殺しをしてきたので、誰かに見られたら完全犯罪は成立しないのだ。待ち合わせの場所になかなか来ないジョリアンを待つフロランスは、居ても立ってもいられずに、パリの街を彼の姿を求めさ迷うのだが・・・。
【評】
『死刑台のエレベーター』と聞くと、マイルス・デイヴィスの音楽と答える熟年の叔父様方が多いようだ。それだけ、この映画タイトルと音楽が深くシンクロしているのかと思うと、実際の映画の内容が、少しばかり霞んできてしまう気がしなくもないけれど、逆に考えてみると、ルイ・マルの音楽的センスの良さもあったわけで、見事な調和が保たれたと言ってもいいのかもしれない。
さて、映画のほうだけど、この作品、ルイ・マル若干25歳の時の処女作。25歳にして、この完成度を誇る映画を作り上げてしまうとは、お見事としか言い様がない。
物語の完全犯罪は、一見何の落ち度もなく成功したかに見えた。しかし、完全犯罪ほど、思わぬところに落とし穴が潜む。緻密に計画を立てたはずの完全犯罪が、男が帰りにエレベーターに閉じ込められた事をきっかけに、思わぬ方向へと進む。街のカフェで、男が現れるのを静かに待つ社長夫人。彼女は、男が夫を殺し、無事にカフェまでやってくることに、何ら疑念もなしに待ち続ける。しかし、時を同じくして、若い二人の男女によって、ジュリアンの車が盗まれる。この二人は、街外れのモーテルで、行き当たりバッタリの殺人をしてしまう。そして、ジュリアンの車をその場に放置して逃げていってしまう。ここまで話すと、だいたい筋が読めてきますが、面白いのは、ジュリアンのスマートさとは裏腹に、何とも滑稽といえるその無能ぶり。さらに、そんな状況を露とも知らずに、待ち続け、あげくはパリの街を彼を探して奔走する社長夫人のフロランスの滑稽。この滑稽とも言えるシチュエーションが、カメラの的確なアングルの流れと、白黒のコントラストと、そしてマイルス・デイヴィスのジャズが見事にマッチングして、何ともオシャレな映像として活き活きとしている。
社長夫人フロランスを演じているジャンヌ・モローの、悲壮感とも焦燥感とも言えない表情で、雨のパリのシャンゼリゼを足早に歩くシーンの何とも言えぬ映像美。そこに被るバックのマイルス・デイヴィスのジャズ。
物語は、朝を迎え、ジュリアンは程なくエレベーターを脱出したけど、若者たちの犯した殺人事件の現場に残された車の持ち主、ということで彼は重要参考人として警察に捕まってしまう。しかし、社長夫人のフロランスは、彼を救うべく、その殺人事件の犯人たちを探しだそうと奔走する。そして、真犯人を追い詰めることができたが・・・。
ラストも凄く味が効いている。傑作といえる作品です。
__________________________________________
1963年ヴェネチア国際映画祭、審査員特別賞、イタリア批評家賞受賞
■1963年、フランス映画、108分
■監督・脚本:ルイ・マル
■原作:ドリュ・ラ・ロシェル
■撮影:ギスラン・クロケ
■音楽:エリック・サティ
■出演:モーリス・ロネ、ベルナール・ノエル
     ジャンヌ・モロー、アレクサンドラ・スチュワルト
【ストーリー】
社交界で華やかな青春時代を送ったアラン。現在はアル中のため療養所生活を送り、死にとりつかれている。人生を締めくくるために、昔の友人に会いにパリに出かけていく。平凡な家庭を持つ友人の凡庸さも、麻薬に溺れた友人の退廃も、すべてアランには空虚にしか見えない。晩餐会で昔なじみのソランジュと再会し、彼女のやさしさに触れるのだが…。生に失望し、死を決意した男の48時間を淡々と追った傑作。
【評】
ロネ、モロー、マルの共演2作目。ルイ・マルのことを少し調べたら、彼はいいとこのボンボンだそうです。映画資金に困らないのは羨ましい(笑) 「現実の人間に手が届かない」この主人公の心情とか、「歳をかさねること、壮年を拒否」する気持ちの主人公アラン(モーリス・ロネ)は『若き日』の監督の一つの断面だったかもしれない。裕福な家庭で育って社交界で過ごし、軍歴もあるアランは、今は「アルコール依存症」のため、パリの療養施設で過ごしている。彼は初めての外出で「夫の具合を見に行くよう」頼まれたリディア(ニューヨークの妻の友人)とホテルで関係を持つが、以前と同じで女性を愛する事はできない。リディアは、妻のドロシーと別れて自分と一緒になることを望むが、アランは「ドロシーのように不幸にしたくない」と拒絶する。療養所での彼は、日記を書き新聞の「死亡記事」なんかを壁にはるという、彼の「非生産的」な性向を示す行動をとる。
療養所の院長は『もう、ずっと前から、回復している』として、退院をすすめる。彼は退院前の外出をし、かつての友人の元を尋ねる。いずれもブルジョワの友人である。最初に訪ねた友人は、『エジプト文明についての本をまとめようとしていて』、しっかりと「自分の夢と展望」をもって人生の盛りを迎えようとしていた。彼はアランに「君は青春の幻影につかっている」「壮年を拒絶している」と言い放つ。彼はもう「中年という年齢」をはさんでアランの対極にいるのである。
2番目に訪ねたのは、ジャンヌ(まんまジャンヌ・モロー)。画廊に勤めてる彼女の廻りには「創作的」な才能をもつ友人(詩人)などが集い、何もないアランをすげさむ。詩人は「薬なしでも、生と死の境に迷い込めるのさ!」と嘘ぶきアルコールに頼るアランをバカにする。次に訪ねたのは、左翼活動家のマンビル兄弟。 でも、こういう人達の連絡場所ってなんで『左翼的思想書を扱う本屋さん』なのだろうか? 世代が違う為、全く理解できませんが、新派ってことなのか。彼らはもはや、次の活動舞台の「スペイン」を口にして「ノンポリ」のアランとは「すれ違い」感をみせる。このカフェで、隣のテーブルに残された酒を口に運ぶアラン。入院生活で断っていた酒を、ほんのわずかな外出時間で口にする事になる。依存者が、アルコールを断っていて再び「酒」を呑んだ時の、「一気の酔い」が体を襲い、酩酊をしめす。
最後に訪れたのは、「版画家の」シリルである。ここには、アランが思いをよせるソランジュもいる。お客をまねいての「ディナー」では、インテリのプランションが『確信と落ち着き』を持った態度でいる事にいらだつ。極めて下賤と思われる「株屋」には、高慢な態度を示すアランも、この類いの人種は「かみあわない」のである。ここで、アランはソランジュに『物欲とか、性欲などの征服欲』を持てず、『恐れを抱く感じ』を持つ。『手を伸ばして触れる事ができない、逃げたい現実』なのである。心情をソランジュに吐露したアランは、療養所で荷物をかたづけ始める。ソランジュから朝食の誘いをうけるが、「断り」、ピストルの銃口を胸に当て、引き金を引く。自殺の前に、深いため息をつく彼は「安堵」の表情をうかべる・・・・・。
人生を「過ごして行く」という事は、ほとんどの人間にとって「凡庸なこと」の積み重ねであり、場合によっては「創造的なこと」であり、そこには『家族とかいうわずらわしいもの』・『人間関係のくだらなさ』・『生活を過ごすのに絶対に必要な、「夢」とか「展望」とかいうバックボーン』が発生してくる。アランはそのすべてを拒絶し、その世界からの隔絶をはかったのである。
またまたルイ・マルは、この映画でも音楽のセンスを活かし、ここではエリック・サティを効果的に使っている。サティのピアノの調べが、主人公アランの【鎮魂歌】のように流れ、彼の孤独さを際立たせています。

「0:34 レイジ34フン」

 

■2004年、イギリス・ドイツ合作映画、85分
■監督・脚本:クリストファー・スミス
■製作:ジュリーメベインズ
■撮影:ダニー・コーエン
■音楽:ジ・インセクツ
■出演:フランカ・ポテンテ、ショーン・ハリス
     ヴァス・ブラックウッド、ジェレミー・シェフィールド
【ストーリー】
ロンドンの地下鉄チャリング・クロス駅。深夜0:34の最終電車に乗り遅れた上に出口から締め出され、途方に暮れたケイト(フランカ・ポテンテ)の前に無人の列車が到着した。思わず乗り込むケイト。その時、いつもの駅が無限に広がる地下迷宮へと変わる。突然列車が停車して驚いた彼女が目にしたのは、運転手の惨殺死体だった!
【評】
何を血迷ったのか、こんな映画を借りてきてしまった。所謂スプラッター・ホラーです。パッケージの解説部分をロクに読まずに、「女は地下鉄のホームで目覚めた・・・」みたいな、いかにも『CUBE』とか『SAW』を連想させる解説の冒頭。すっかり騙されてしまったよ(笑)
まあ、それでも、借りた以上は観ないともったいないので観ました。しかし、ロンドンの地下鉄ってこんなに網の目のように、街の下を縦横無尽に張り巡らされているんだと感心。もうすでに使われなくなったホームがあったり、奇妙な鉄道管理室のような部屋があったり、上野駅のエスカレーターよりも長いエスカレーター。そういった、自国の自慢の鉄道を大いに利用して、それをまるで迷路に迷い込んだ人々が、おかしな怪物から逃れんとして奔走する、という発想は、なかなか面白いと思う。そういったシチュエーションは大いに歓迎なんだけど、奈何せん、スプラッターとして作りあげたところがどうも気にいらないなあ。
そもそも、ヒロインたちを追い回す、この怪物の生い立ち、それがぼやけていて、掴みにくい。病院の設備そのままの手術室が地下にあるっていうのも納得いかないし、強制収容所みたいな施設があったり、どう考えても矛盾した設定。そして、お約束のように、妙にタフな怪物はなかなか死んでくれない。あそこでトドメを刺せば死ぬのに、ヒロインが何故か良心を覗かせてしまうために、また犠牲者が増えていく。面白いと思ったのは、ラスト、ヒロインが浮浪者と間違えられて、小銭をもらっているシーン。
まあ、『悪魔のいけにえ』とか好きな人には,少しは楽しめるかもしれません。
何だかんだ言って、これ観て楽しんでいる自分がいたりする(笑)

「菊豆」 「HERO-英雄-」

■1990年、中国・日本合作映画、94分
■監督:チャン・イーモウ
■製作総指揮:徳間康快、チャン・ウォンツォ、フー・チェン
■原作・脚本:リュウ・ホン
■撮影:クー・チャンウェイ、ヤン・ラン
■音楽:チャオ・チーピン
■出演:コン・リー、リー・パオティエン、リー・ウェイ
【ストーリー】
舞台は1920年代、中国の農村。年老いた不能の染物屋に嫁いだ菊豆。老人は、性的不能で子供が出来ない腹いせに、菊豆を折檻する。菊豆はそんな老夫に耐えながらも生き抜こうとする。、しかし、、老人といっしょに暮らす甥の天青に思いを寄せるようになり、二人はいつしか関係を持ってしまう。やがて老人は半身不随となり、菊豆は幸せを手に入れたかのように見えたが、天青との子供ができてしまう。鬼のような老人は自分が父親だと喜ぶが・・・。そして、運命が彼女を呑み込んでいく。
【評、ネタバレあり】
チャン・イーモウとコン・リーのコンビ作は『紅いコーリャン』から始まり、足掛け8年間もの間に渡っています。この期間、イーモウ監督は、自分の監督作の主演女優はコン・リーしかいないと豪語し、一方のコン・リーも、彼の作品に限って、その精彩を放っていたと思えます。これまでも、監督と女優というカップルが、何作にも渡り共作するということはあるけれど、このイーモウ&コン・リーのカップルほど類まれな名作を残したものもいないと思う。 
チャン・イーモウ監督の『菊豆』が、今日の日本にとって衝撃的だとすれば、それはとうに清算したはずの「封建的」性関係を観客に改めて突きつけたからでしょう。この映画は、徹頭徹尾、性を描いているけれど、その性は個と個の間の性でもなければ、単独者の性でもなく、大家族制度──宗族──によって養われ、閉じこめられた性であるといえます。

リュウ・ホンの原作は実在の山村を舞台に、抗日戦線時代から農地解放、文革にいたる20年余の歴史を背景にした年代記的な作品で、映画では舞台をいつともしれぬ時代の、どこともしれぬ染物屋に変え、登場人物も、暴君的な老いた家長、家長に扱き使われる甥、子孫を産むために金で買われた若い妻、そして若妻と甥の不倫で産まれた子供の四人に絞り、ギリシャ悲劇のようにドラマの骨格をくっきりと際立たせせている。原作では実の甥だが、映画では直接の血縁のない、下の世代の親類という意味の「甥」とされたのは、普通の農家から染物屋への改変による「家業」の強調同様、宗族という血縁空間の存在をいっそう前面に押し出すためでしょうか。

ここには、これが中国映画かと眼を見張るような官能的で洗練された性描写もあるけれど、だからといって、封建制度に反抗する若い二人の性の讃歌などといったら、この映画の魅力の大半を取りのがすことになる。この映画では、性行為だけではなく、布を染料に漬けること、ぎりぎりと絞ること、極彩色の布がたなびくこと、族譜に従って子供の命名式を行うこと、葬儀を出すこと等々のすべてが官能を刺激する性的な行為となっている。染物屋の家業の展開される閉ざれた中庭は、子孫存続のための場所であり、そのまま性的空間なのである。この性の空間は家長の子種のなさという欠落(封建社会では事実上の性的不能)によって歪み、ねじれている。老いた家長、金山は若い三度目の妻、菊豆を不毛な行為で痛めつけ、自身が不能になってからは、彼女を石胎と罵り、夫婦の床で暴力に明け暮れることになる。彼女は同じように家長にいじめられる立場の甥、天青と密通し、彼の子供を産むが、夫は自分の子供が産まれたと思いこみ、一族を招いて新たな世代の家長の誕生を祝う。しかし、見せかけの幸福は長くは続かない。金山は卒中で倒れ、動けなくなった彼に、菊豆は事実を知らせ、あからさまに天青との営みを見せつける。いじめられる側がいじめる側に回ったのだ。このように書くと、『菊豆』は救いようのない、陰々滅々たる映画のようだが、そうした印象はない。イーモウ監督はいじめたり、いじめられたりする感情の内実にはあくまで距離を置き、物語を宗族という血縁空間のゆらぎとして、構造的にとらえているからだ。


金山の葬儀の場面は秀逸である。喪服姿の天青と菊豆は「魂がえし」に選ばれ、故人に孝心を示すために、一族の運ぶ棺に「いかないでくれ」と泣き叫びながら追い縋り、蓋に爪を立て、板を力の限りたたく。感きわまって地面の上に倒れた二人の上を美々しく飾られた棺が通り過ぎていくが、その上には、次代の家長である幼い天白が跨って座っている。この「魂がえし」は一度では済まない。なんと四十九回も繰返されるが、実は、これはイーモウ監督の創作で、実際にこのような習俗があるわけではないという。やっと死んだ暴君のために、若い二人が空涙を流し、孝心を演じなければならないとは、悲惨としかいいようがないが、カメラはこの悲惨さが、また滑稽さでもあることをあますところなく捉えている。

たとえ、人物の力関係が逆転し、歪みが生じようとも、血縁空間を秩序づける宗族の序列の存在自体は揺るぎもしないのでです。それは「天白」という名前にも現れている。中国の大家族制は、同姓どうしの通婚を禁じるという禁忌とともに、世代ごとに同一の文字を共有するという名づけの制度を持っていた。生まれてきた子供は天白と名づけられ、実の父、天青と同じ「天」の字を共有し、親子でありながら兄弟、しかも正嫡として、族譜の上では父の上位に立つことになるのである。

天青は叔母と密通するという世代横断の禁忌を犯すが、後半では、わが子に弟として仕えなければならないという報いを受ける。われわれは宗族の秩序の侵犯がなんら秩序そのものを揺るがすものではないという皮肉に立ち会い、言葉の正確な意味での「悲劇」を見る。この実感は、性の豊饒の手ごたえによって社会がこのように官能的な享楽に満ちているはずはないのかもしれないが、個に矮小化されたわれわれの性とは別の輝きが、この映画には溢れている。濡れた染布は女体のようにしない、そのこってりした色彩は濃艶な媚びに輝いている。不倫の二人を沈黙の視線で裁きつづける天白の存在さえも、淫らな暗さをたたえている。


■2002年、香港・中国合作映画、99分
■監督・脚本:チャン・イーモウ
■製作:ビル・コン
■協同脚本:リー・フェン
■撮影:クリストファー・ドイル
■衣装:ワダエミ
■音楽:タン・ドゥン
■出演:ジェット・リー、トニー・レオン、マギー・チャン
     チャン・ツィイー、ドニー・イェン、チェン・ダオミン
【ストーリー】
時代は戦国時代末期、秦の秦始皇は、敵国が差し向ける刺客におびえ、大侠・無名を雇って、始皇帝暗殺を狙う殘劍、飛雪、長空を抹殺するよう命じる。3人の刺客を仕留めた無名は、褒美として始皇帝に十歩という近距離で謁見することを許されるが、実は無名もまた始皇帝を狙う刺客の一人だった。
【評】
正直、この映画が、あのチャン・イーモウなのだと知ったのは、映画を観終わってからでした。劇場で鑑賞したんだけど、事前にほとんどリサーチせずに、香港お得意のアクション映画で、ジェット・リーならハズレもないだろうと。そして、観終わってパンフレットで確認したら、監督チャン・イーモウ。遂にイーモウもワイヤーアクション多用のカンフー物を撮るようになってしまったかと愕然とした思い出が有ります。
この作品でCGやワイヤーアクションの多用をリアルじゃないから云々と否定し始めたらきりがないし、特にアクションはこの映画の観るべき点の一つでしかないと思うのでそこにはあえて触れません。
3つの回想シーンをラストに収束させる展開は鑑賞者を惹きつけるという点では見事だと思うし、現実と仮想回想の部分の鮮やかな色彩の変化には何より目を奪われる。特筆すべき映像の美しさは近年でも際立った作品でしょう。この作品を思い起こす際にまず脳裏に浮かぶのはドラマ性以上にそのビジュアルだからだ。若干京劇みたいであざとい部分は在りますが。
しかしこれ等のビジュアル面よりも本来語られるべき点は本作のテーマである歴史の「大儀」を守るという必然性。ラストのジェット・リーの選択には勿論賛否あるでしょうけれど、映画の結末としてはあのラストしかないと思わせる説得力がある。非常に細部まで凝って作られたよく練られた脚本だと思う。
ただこういうテーマよりもどうしてもあの様式的な色分けに目が行ってしまうわけで作品自体損をしている部分もあるかもしれない。自分は中華的思想を彷彿とさせる世界観や、エピソードを色分けしちゃう構成があまり好きにはなれなかったのけど、完成度の高い作品ではあると思う。

「ペパーミント・キャンディー」

■1999年、韓国・日本合作映画、129分
■監督・脚本・原作:イ・チャンドン
■製作:ミヨン・ケナム、上田進
■撮影:キム・ヒョング
■音楽:イ・ジェジン
■出演:ソル・ギョング、キム・ヨジン、ムン・ソリ
     パク・セボム、ソ・ジュン、キム・ギョンイク
【ストーリー】
'79年から'99年までの韓国現代史を背景に、ひとりの男の数奇な運命を描いたドラマ。休日昼下がりの河川敷。20年ぶりに小さな工場労働組合のピクニックが催され、懐かしい顔ぶれが勢揃いして旧交を温めあう。かつては貧しい工場労働者だった参加者たちも、今は40歳前後という脂の乗りきった年齢。それぞれに家族を持ち、社会的な地位も得ている。そんな中に、ヨレヨレのスーツでふらりとやってくるのが主人公のヨンホ。最初から酔ったようにフラフラ状態だった彼は、少量の酒で大暴れ。さらには鉄道の高架橋によじ登って、迫りくる列車に向かって泣きながら「あの日に帰りたい!」と叫ぶ。いったいヨンホに何があったのか?
【評】
映画はここから、主人公ヨンホの人生で岐路となった事件の数々を、いくつかのエピソードにわけて紹介していく。中心になるのは、主人公ヨンホと初恋の女性スニムの関係。ヨンホが生涯でもっとも愛したスニムは、なぜ彼の元から去ってしまったのか。映画はこの謎を求めて、ヨンホの過去へ過去へと時代を遡る。映画は全部で幾つかのエピソードからできているけど、それらのエピソードを列車のレールの映像で繋いでいるところが象徴的。列車は決められたレールの上を走っていく。列車には自分で道を選ぶことはできない。主人公ヨンホの人生を過去へと辿っていく旅も、やはり決められたレールを只管後戻りしていくことしかできない。「もしあの時ああしていれば」「この時こんな選択があったのではないか」という【もしも】は、この映画の中にはまったく描かれない。すべては決定済みなのだから。
登場している役者たちは、それぞれ20年分の人生を演じなければならないわけで、これは並大抵のことではないと思う。特にヨンホ役のソル・ジョングと、ヨンホの妻ホンジャ役のキム・ヨジンは、汚れを知らない純真な若者から、世の汚れに身を浸した中年までをほぼフル出場で演じている。
韓国では『シュリ』に次ぐヒット作となった作品らしい。しかし、『シュリ』のような現実離れした物語性の誇張よりも、この『ペパーミント・キャンディー』の現実的な人間性に裏打ちされた物語のほうが断然受け入れ易いと思う。ラブストーリーとしても、ひとりの男の人生のドラマとしてもよくできているけど、この映画が韓国でヒットした理由は、映画の背景にその時々の韓国の国内事情が克明に描かれているからだと思う。韓国はこの20年で、戒厳令の曳かれた軍政国家から文民統治の民主主義国家へと大きく生まれ変わった。主人公の仕事は20年の間に、工場労働者、軍人、警察官、実業家へと変わっていく。映画のクライマックスには、1980年5月に起きた光州事件が置かれている。この映画の主人公と同時代を生きた韓国の人々なら、主人公の人生のどこかに自分自身の人生を重ね合わせることができるのだ。観客たちも「あの日に帰りたい!」と思ったのだろうか?

「50回目のファーストキス」

 

■2004年、アメリカ映画、99分
■監督:ピーター・シーガル
■製作:ジャック・ジャラプト、スティーブ・ゴリン、ナンシー・ジュヴォネン
■脚本:ジャージ・ウィング
■撮影:ジャック・N・グリーン
■出演:アダム・サンドラー、ドリュー・バリモア
     ロブ・シュナイダー、ダン・エイクロイド
【ストーリー】
ハワイ、オアフ島のカフェで、朝食を摂るためにやってきた水族館専門獣医のヘンリーは、一人で食事をしている可愛いブロンド美女に人目惚れしてしまう。彼女の名前はルーシー。それまで、数々の浮名を流してきたヘンリー。ここでもルーシーを上手くナンパできた。しかし、翌朝、再びルーシーとレストランで対面するが、彼女はすっかりヘンリーのことを忘れていた。一年前の自動車事故によって小脳を傷つけ、その後遺症で一日だけしか記憶を残せないという障害を負ったルーシー。つまり、毎朝、ヘンリーとは初対面というわけだ。レストランのオーナーから、そのことを聞かされたヘンリーは、それでもルーシーを忘れることができず、毎日初対面でもいいから、毎日ルーシーと恋をすることを決心する。
【解説】
映画界は、どうも記憶喪失がブームなんでしょうか(笑)というわけで、ヴィスコンティみたいな疲れる芸術作品を観たあとの、このかる~いノリが癖になりそうです(笑)主人公が惚れるルーシーの患っている病は、ゴールド・フィールド症候群、通称GFSと言うそうですが、この障害は、実際には存在しない障害で、フィクションということになってます。だけど、記憶が薄れていくという障害は事実あるそうで、若年性健忘症などがそうですが、今公開中の韓国映画『わたしの頭の中の消しゴム』の主人公がそういう病気ですね。
で、映画のほうですが、ヘンリーが彼女の障害を自分自信(ルーシー)が納得いくように一本のビデオテープに、事故から現在までの過程を編集して、毎朝起きたらテープを見るようにと枕元に置く。こういう涙ぐましい努力に泣けてきます。つまり、朝一発目から、彼女は事の事実と向き合わされる。そして、ひとしきり落ち込み、泣き疲れてから、その日をスタートさせるという毎日を送ることになるわけです。
以前、テレビの報道番組で、若年性健忘症の青年のドキュメントがあって見たのですが、次第に自分自信の名前も、親の名前も忘れていくんですよね。この辛さは筆舌に尽くし難いものがあって、しかし、不思議なことに、毎日行っていた習慣的なこと、毎朝新聞を広げて読むという習慣だけは、障害が進行しても続けているということ。字そのものも忘れかけているので、実際は読んではいないのだけれど、新聞を広げて読む行為が、息子さんを見守る母親の心を思うと、痛々しく感じました。
この映画も、つい出演者たちを見ると、ラブストーリーとして見てしまいがちだけど、こういった障害を持って生きていく人たちと、それを支えていく人たちの深く結びついた絆を、第三者的立場ではあるけれど、理解していくことが大切なのではないかと痛切に思ったわけです。

「だれのものでもないチェレ」

■1976年、ハンガリー映画、90分
■監督・脚本:ラースロー・ラノーディ
■原作:ジグモンド・モーリツ
■撮影:シャーンドル・シャーラ
■音楽:ルドルフ・マロシュ
■出演:ジュジャ・ツィノコッツィ、シャンドル・ホルヴァート
     アンナ・ナゾ、マリアン・モール
【ストーリー】
チェレと名づけられた一人の少女が、草原を牛を追いながら歩いてくる。彼女は一糸纏わぬ裸である。孤児だった彼女は、とある農村に、牛追いなどの仕事の働き手として貰われてきたのだ。だが、そこでは、チェレを人間扱いしていない。着る物も与えられず、いつも裸のチェレ。そして、近くの農夫に強姦されてしまう。8歳くらいのチェレが男の餌食となってしまう。しかし、強姦されようが何をされようが、育ての親たちは平然としている。やっと手に入れたボロ服さえも取り上げられ、「おまえは裸でいいんだ」と罵られる。ある日、チェレは再び貰われていくことになった。お金で売られてしまったのだ。貰われていった家でも辛い日々が待っていた。そこで下男として働く老人に、つかの間の人の優しさに触れたチェレだったが、老人が死んで、再びひとりぼっちのチェレ。赤ちゃんを殺されそうになったと誤解した養母に折檻されるチェレ。
チェレは、ひとり牛小屋で、クリスマスを愛する両親と過ごす、という夢を抱きながら暖まるつもりだったのか、小さな火を灯す。そして、それが大きく引火してしまい、チェレは・・・。
【解説】
【いたいけな美しさ】
広い広い一直線の草原を、横に一本影を引いて牛を追いながら、子供が歩いてくる。男の子かと思うぐらい痩せて小さな身体。そして、それが女の子であると気がついたとき、自分の目の錯覚かなと思ってしまった。それほど、女の子らしくない体つきだったから。それがチェレだった。
草原に住む野生の裸の男の子。トリュフォーの『野生の少年』を思い出した。牛を追いながら歩くシルエットは、一見、男のこと見まちがえる。そして、女の子だと確信したとき、とても悲しくなってしまった。
けれど、その裸のチェレは、他の大人たちに入って、一生懸命に働いている。入れてもらえない学校の側に行ってみる。スイカも苦心して割って食べる。賢く勇気の在る子だとわかった時、いじらしくなった。スイカで作った帽子とボロの服とを交換する知恵ももっているチェレ。そして、それを養母に取り上げられ、「お前の物は何ひとつないんだよ。その身体だけがお前の物だ」と言われてしまう。チェレが身に纏う一枚の布切れも、持ってはいけないのか。悲しさを通り越し、憤りのようなものに変わるのは、ウチが何不自由なく育ってきたからだろうか。この国の大人たちは、いったい何をしているのか。何て酷い人たちなのか。
しかし、その答えはすぐに解る。それぞれの大人たちも、生きることにやっとの貧しい人々なのだと。絶えられない悲しさの中にいるのだということを。チェレ。そんな中で震え、慄きながら、なお懸命に生きていこうとする子。優しい心を持っている人をちゃんと知っている女の子。貧しいお爺さんに連れて行ってもらった教会の2階の1番前で、チェレは美しく着飾った人々を見て、そして、人々の去った後、十字架についたイエスの胸の、深い傷を見つける。そっと近づき手で触ってみるチェレ。
自分の心に深い傷を持つチェレ。その小さな手が、その十字架の人の傷を優しく、優しく撫でてあげているとき、「この方は、着飾った人々の祈りよりも喜んでくださった」と信じた。
そして牛小屋のラストシーン。小さなチェレの持つ灯りが、全てを燃え尽す。小さな心優しいチェレは、天使になった。

「裸のランチ」

 

■1991年、イギリス・カナダ合作映画、117分
■監督・脚本:デヴィット・クローネンバーグ
■原作:ウィリアム・バロウズ
■製作:ジェレミー・トーマス
■音楽:ハワード・ショア
■撮影:ピーター・サシスキー
■出演:ピーター・ウェラー、ジュディ・デイヴィス
     イアン・ホルム、ジュリアン・サンズ、ロイ・シャイダー
【ストーリー】
1953年、ニュー・ヨーク。麻薬を使用した害虫駆除で生計を立てる小説家ウィリアム・リー。ある時麻薬で酩酊状態にあった彼は、妻の頭上のグラスを銃で撃ち落とす「ウィリアム・テルごっこ」で、誤ってその妻を射殺してしまう。パニックに陥ったウィリアムは、麻薬に導かれるまま、暗黒都市「インターゾーン」へ逃亡、現実と妄想の区別が曖昧な世界で、醜悪な虫に姿を変えた愛用のタイプライターに囁かれながら、「報告書」を書き始める。やがて彼は射殺したはずの妻に瓜二つの謎の女性に出会い、快楽の渦に巻き込まれていく・・・。
【評】
一言で言ってしまうと、奇妙な映画です。ウィリアム・バロウズという作家の小説(?)を原作にした映画ということだけど、確かに文学的な映画だ。でも、理解の領域を越えて、これは難解な作品です。SFXを適度に用いた、クローネンバーグのそれまでの作品と同様に、この作品でも見せる物はある。暗鬱としたカラーと異型的な世界はクローネンバーグの得意としたところだと思う。だけど、ストーリーを追って観ようとすると、理解できない。ほとんど麻薬的な幻覚的な世界だから、普通に理解しようとしても無駄なことだ。むしろ、開き直って観てみるほうがいいかもしれない。
ストーリーとしてよりも、全体を通して意味を掴むべき映画なのか。しかし、難解なストーリーとは裏腹、映像的には明解な映画でも在る。『戦慄の絆』に引き続き、文学的なエッセンスと悪夢のようなイメージの世界が同居していて、それは、フィリップ・K・ディックの小説を彷彿とさせる。原作のバロウズとディックは麻薬経験者であるらしいから、さも在りなんだ。なので、この『裸のランチ』もそんな幻覚症状の中で書かれた物だとすれば、少しは納得もいく。
主人公ビル・リーは、ゴキブリなどの害虫を駆除する仕事をしている。ある日、仕事で使用している害虫駆除剤が減っていることに気がつく。妻のジョーンが麻薬の代わりに駆除剤を使用していたのである。妻に勧められ、その誘惑に負けて、ビルもいつしか駆除剤を自らの身体に注射してしまう。ここから、彼の幻覚と幻想の世界が始まっていく。
そして、タイプライターの畸形なクリーチャーなどに導かれ、インターゾーンなる異次元的世界をさまよい・・・。
フィリップ・K・ディックの小説が、不安定で次元の歪のような現実の揺らぎみたいな物を描くのに対し、この映画の主人公は奇怪な世界にも何ら驚くことなく順応していく。タイプライターがゴキブリの姿に変わっても、マグワンプなるクリーチャーが出てきても、何ら臆することもなく平然としている。タイプライターが化け物に変容するというのは、作家という職業から見て、強迫観念の現れだと思う。そして、ラストで別の異世界へ入っていくシーンは、作家への第一歩を象徴しているとも言える。

「イノセント」

 

■1975年、イタリア映画、124分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ
■原作:ガブリエレ・ダヌンツィオ
■脚本:スーゾ・チャッキ・ダミーコ
■撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
■音楽:フランコ・マンニーノ
■出演:ジャンカルロ・ジャンニーニ、ラウラ・アントネッリ
     ジェニファー・オニール、マルク・ボレル
【ストーリー】
【評】【ネタバレあり】
「存在の啓示」
自らの日記を辿るかのようにヴィスコンティの手がダヌンツィオの本を開いていく(このオープニングシーンで登場する「手」は、学校の講師の話によると、ヴィスコンティの手だそうです)、その時、剣を打ち合う音が映画の始まりを告げる。
19世紀、象徴化の時代。「象徴、それは真の光景を脳裏に留めた者が語ってみせる唯一の言葉だ。象徴における世代の開放は、大芸術家の前提だ」とニーチェは説いている時代。象徴化できぬものは存在しないとも言っている。それ故、以後の現代人は、【死】の核心と本質を根底に置いて否認し、【神】の存在の否定に至る。
【神】の存在の否定者であるが故に、【神】に対しては『罪なき者』(原題)である主人公トゥリオは興味と関心を自分の内部にのみ向け、外部に対する判断力を失ってしまうという絶対者であるニーチェと同じ過ちを犯す。
【性】の直接に感覚的な経験(快楽と表現してもいいもの)を相愛の男女の結合にのみ求める。しかし、自らの限界を設けることを知らず、自己の立場の確保のためならば全て受け入れる。【善、悪、生、死、愛、憎】など対極にあるものさえも。故に容易に宗教的になり得るジュリアーナと、テレーザを外的判断力を失ったトゥリオに理解出来得るはずはないわけで、そうしたトゥリオは、【快楽】を追い求めながら、真に快楽を得られもせず、敗北者であることに気がつき、死を選んでしまう。
ジュリアーナは憎しみと愛と罪の中に沈んでいく。【生】の悲惨な断面をヴィスコンティは美しい映像の中で描いている。なぜなら悲惨こそは祝祭の中にあってこそ、際立つものだと思うから。悲惨を悲惨な状況の中で描くのは、浅薄な感傷を呼び起こし易く、事実を見る目を曇らせ易いからです。人間が生きていくには、自分がどこから来て、どこへ行くのかという根源的な問いに対して、答えうる知恵と、外界に対する知恵を必要とする。そのために必要とされる真の勇気は唯一、世界をあるがままに見ることだと思う。
好むと好まざるとに関わらず、トゥリオの死により、テレーザはそこに追いこまれるわけだけど、別れに及んでも、トゥリオを彼女ほど必要とした人はいない。だからこそ、彼に救済の糸口を暗示している(「貴方の罪はない・・・」「それでも貴方は生きる・・・」などの台詞)。しかし彼は、自分ために死を選ぶ。驚愕のあまり、その場を立ち去るテレーザには哀しみはない。苦悩をあるがままに受けとめ、生の虚しさを感じ取った者の姿がそこにはあった。
ここに至り、そうした現世の移ろい易さを理解し、尚且つ【生】をも【死】をも乗り越えんと、創造へ向かうヴィスコンティの姿を垣間見れた気がする。
だからこそ『イノセント』は精神に呼びかける以上に、生命に呼びかけているように感じた。ともあれ、ファウストの誤ちに陥ることなく、自らの【死】あるいは【生】に赴いたヴィスコンティのこの作品は、いぶし銀の精彩を放っていると言えます。

「あの子を探して」

1999年、ヴェネチア国際映画祭、金獅子賞受賞
■1999年、中国映画、106分
■監督:チャン・イーモウ
■製作:ツァオ・ユー
■脚本:シー・シャンシェン
■撮影:ホウ・ヨン
■音楽:サン・バオ
【ストーリー】
村で唯一の学校のラオ先生が、1か月村を離れることに。その間、「28人の生徒を一人も減らすことなく代わりを務めることができたら、60元もらえる」という約束で、13歳のミンジは先生の代理を務めることになった。その日からミンジの悪戦苦闘の日々が始まる。そしてある朝、クラス一のわんぱく少年ホエクーが、出稼ぎのため街へと消えてしまう。ホエクーを探して、ミンジも街へ出るが…。
【評】
中国、香港の映画監督として、チェン・カイコーと共に好きなのが、チャン・イーモウ。1987年に中国の映画監督として、ベルリン映画祭で初めてのグランプリを勝ち取った『紅いコーリャン』。その独特の映像美は、他国の映画では真似のできないほどの個性があって、映像だけでなく、優れた脚本と相俟って、観るものを魅了して止まない。彼の作品は、いずれも中国の貧困民や農村を舞台にして造られたものが多く、それらの作品群は有数な映画祭において、拍手を持って迎えられている。しかし、彼の作品が、海外において評判は良いけれど、自国ではどうかと言うと、決してヒットしてきたものではないようです。その原因は、現在の中国の社会的繁栄から程遠い、男尊女卑で封建制度の色濃い時代背景を好んで土台とし、そこには、現在の中国との社会的隔たりが見てとれるからだと思う。日本映画が、未だに時代劇が海外で高く評価されるのと似て、中国映画の海外での下地は、チャン・イーモウが描く、こういった時代錯誤な中国像なんだと思う。
しかし、チャン・イーモウが描こうとした中国の人間たちの生活性は、こういった時代が基礎として成り立っていた時代、圧制による貧富の差が色濃かった時代があって、初めて現在が成立してきたという歴史的実情を露に映し出したものなのだと思う。
中国映画が、チャン・イーモウの成功によって齎された自信は計り知れないと思うけれど、イーモウのような伝統的な中国映画の歴史は残念ながら終焉を迎え、時代の流れと共に、グローバル化へと突き進んだことは否定できない。
そして、昔のような思想啓蒙に偏重した映画は段々と観衆の嗜好に迎合する娯楽映画に取って代わり、ウォン・カーウァイのような現代の若者を主人公に、若者主張の映画が広く受け入れられるようになってきたと言える。
チャン・イーモウ監督の『あの子を探して』は、殆どの配役は素人らしい。素人の演技は、時に俳優でも演じきれない鋭い視線や、形に嵌らない自然な台詞を表現する。中国では、行政の無策をあざ笑うかのようにマスコミ(TV)の力が大きなものをいう。教師に半年給料を払えない村が、マスコミの作り上げた美談に乗っかって新しい校舎を建ててしまう。ここには政府に対する皮肉とマスコミの「権力性」が描かれている。そして、構築された物語がその虚構性を超えて真実を作り上げてしまう様も描かれている。ミンジの涙、ホエクーの涙は本物だった。そして見る者の心を打つ。
出演している子どもたちや村人たちが役にマッチングしているし、自然な演技が素晴らしい。きちんとした脚本もなさそうな自然な台詞まわしが素直に観客の心に沁みいる。このように生き生きとリアルな表情を撮れるイーモウ監督の手腕は特筆すべきものがあると思う。

「山の焚火」

 

■1985年、スイス映画、120分
■監督・脚本:フレディ・M・ムーラー
■製作:ベルナール・ラング
■撮影:ピオ・コラッディ
■出演:ヨハンナ・リーナ、トーマス・ノック
     ロルフ・イリック、ドロテア・モリッツ
【ストーリー】
舞台はスイスアルプスの中腹。世界から隔絶された、神の領域に近い高山に
「坊や」と呼ばれる耳の聞こえない少年と、彼の面倒を見る姉ベッリ。頑固な父と、喘息持ちで鬱気味の母。四人一家だけの、広大なロケーションの中の、閉鎖された世界。父親は、姉ベッリが学校に通って教師になりたいという夢をあきらめさせ、弟の面倒を見ることを強要する。彼等を見つめる山々は、沈黙の中に不思議な慈しみをたたえこの家族の行く末を、包み込んでいく。
そう・・・・時さえも止まっているような、不思議な空気。だけど、二人は大人に刻一刻と近づいていく。時は止められない。神さえも。
やがて、怒りに駆られた弟は、父親の大切な草刈機を崖から落とし、更に高い山へと逃げていく。心配で様子を見に行く姉。愛しさと慈しみが溢れ、感情は止められない。そうして2人は近親相姦へと、追いつめられていく。
【評
【自然と不安】
まずはスクリーンにせり上がってくる自然の映像の美しさに感激した。峻険な峰も、至るところに露出した骨のような岩も、滴る緑の草も、美しさが極まって、呪わしい景観を呈している。この美から不吉さへの転換点が『山の焚火』のテーマだと言える。
土を耕し、岩を砕いて、一家は山中に暮らしている。1984年という設定ながら、アルプスの山奥には車の入ってくる道路も無く、一軒づつ孤立して生活の糸を紡いでいる家の佇まいは、まるで中世の雰囲気を漂わせている。交通路は一歩一歩足で歩かねばならない踏み分け道があるきり。しかも道はこの一家専用。この孤絶した環境が寓話を保証している。食卓での会話にしか出てこない市場のある村は、この一家にとっては他界であり、一家が存続するための交易としての他界は、スクリーンには登場せず、地上の物語ではないという形でドラマは進行していく。ここでは、何が起きても不思議ではない世界。
自然の中で慎ましく調和して生きてきた農民一家の子供、耳が聞こえず、声を持たない少年が、思春期になって性に目覚めることから、少年が身の内に抱え込んだのは自然なのだと思う。カメラは時折少年の目になるけど、そこに映し出される景色は不安に満ちている。
少年の抱え込んだ自然は、日々大きくなり、それにつれて不安も濃くなる。一人前の働き手らしく山の斜面で草刈をしていた少年が、草刈り機が壊れたことに短絡的に腹を立てて崖から投げ捨てたところで、荒神が誕生してしまう。荒神は父親の逆鱗に触れ、山の上の小屋へと逃れていく。この山の上ももう一つの他界だと言える。
このあたりの描写は、山川草木全てに霊魂が宿るという、懐かしいアニミズムの世界にでもいるかのように感じる。これは父と子の葛藤ではなく、子は父になろうとするのでもなく、自然そのものに帰ろうとしているのか。子は身の内に溜まった力に対して無自覚で、その力をどこに持っていっていいのか解らないで、当惑するばかり。不安な子の表情を、この少年の俳優は見事に演じている。
山の上の小屋で、一人暮しを始めた子は、溢れてくる力を蕩尽するために、石を割って積みケルンを造る。蕩尽するしか生きる道が無い。そしてスクリーンに立ち現れてくるのは、まるで三途の川のようである。子供一人の手によって造られた不気味な光景は、彼の内部の風景の投影だとも言える。この石積みの小山と、霧の中から少年を覗いてくる黒々とした岩の峰々が、呼応している。
この一家にもう一人生々とした自然を抱えこんで苦しんでいる人物が、少年の姉です。耳が聞こえず、声を持たないことで自然と直接に感応する少年と違い、姉は風景を媒介とせず、性と真っ直ぐに結びついている。この少女の変化は都会にいればあからさまに見えるのだけど、この大自然の中では、少女の内部の自然は見え難い。
少女はリュックに食料を詰めて一人で山の上の小屋に向かう。自然と自然とが呼び合う形で二人は結びつき、このあたりからドラマは破滅の予定調和というべき旋律を奏で始める。ドラマは決められた週末に向かってまっしぐらに突き進んでいきます。
【近親相姦とアニミズム】
近親相姦により荒神としての弟は鎮魂されるけれど、姉は妊娠することにより、狂暴な自然そのものを身の内に宿してしまう。一方、これを病気という自然と近い距離にいた母親は、この二人に感応する形で理解を示す。しかし、自然と闘うことによってしか存在しえない父親にとっては、自然を過剰に抱え込んでしまった娘と息子を発作的に抹殺しようとする。
父なるものと自然とは永遠に闘い続けなければならないのか。それぞれが対極にあり、妥協する余地はないのか。父なるものが成し遂げているのは、山という自然を壊すことによって農耕をすることである。父が造ろうとしているのは文化だと言える。父は自然を収奪し、人間の側に蓄積する。父にしてみれば、自然はあくまで闘う対象であり、自然と一体化するものは、自分と敵対してくるものとしか見えない。
物語は既に定型の中に入っていて、破滅の予定調和が進行いく。どちらかが死ぬことが、物語が調和する唯一絶対の方法なのかもしれない。
この『山の焚火』を、ウチはアニミズムの世界を克明に描いた作品のように見た。それほどに描写が鋭く、草木の一本にまで人間を超えたものが宿っているというアニミズムの雰囲気がよく表現されている。自然は征服するものではなく、同化すべきものだと、ヨーロッパの映画では珍しいテーマを打ち出し、描ききったと言える。こんな異色の映画が、映画にとっては辺境のスイスから生まれてきたことも面白いと思った。