YURIKAの囁き -3ページ目

「さよなら、クロ」

■2003年、日本映画、100分
■監督・脚本:松岡錠司
■製作:李鳳字、遠谷信幸、石川富康
■原作:藤岡改造
■脚本:平松恵美子、石川勝己
■撮影:笠松則道
■出演:妻夫木聡、伊藤歩、新井浩文、金井勇太
     佐藤隆太、近藤公園、三輪明日香、りりィ
     柄本明、田辺誠一、渡辺美佐子
【ストーリー】
1960年代。長野の高校生・亮介は、登校途中に見かけた黒い犬に弁当を分けてやる。その日から、犬のクロは用務員室に居つき、学校の人気者となる。亮介の親友は、同じクラスの孝二。2人とも仲間の雪子に想いを寄せているが、ある日、孝二がバイク事故で死んでしまう。ショックを受ける雪子に、クロは優しく顔を寄せるのだった。10年後、東京で獣医となった亮介が久々に帰省した。クロに会いに出かけた亮介は、クロの体に、老いとは別の異変を感じる…。
                                                                                                                                                                                                                                          
【『さよなら、クロ』の評】
まず、古きよき時代、と言ったらいいんでしょうか、かなり地味目の学生服が、どことなく時代の古さを感じさせ、時代考証としても、当時の学生服はこういうものだったのでしょう。映像のカラーも、くっきりとした鮮明さではなく、セピアカラーというか、ややくすんだ色調なのが古さをよく出していますね。と思ったら、そうではないことに気がついた。この町の色の乏しさが、そのままフィルムカラーに反映されているに違いない。この町は、なんというか、色が全体的に薄い感じ。
映画はというと、クロが最初の飼い主家族に見捨てられる時代から、ある高校で飼われ、そこで死ぬ迎えるおよそ10年間を描いている。10年ひと昔とは言うけれど、まさにその区切りよく生きた犬の物語。でも、この映画の良さは、決してクロという犬の死を哀しむ映画ではなかったという処にある。青春映画としての要素をふんだんに取り入れ、むしろ、視点は若者たちの側に在り、クロは、その若者たちを見つめる視線の役割に徹していると言える。クロという犬を、まったくそのまま演じたクロという犬の持つ仕草表情は、どんな上手い役者をも凌駕してしまうほどの自然さがあり、特に歩く時の歩調の悠然さは素晴らしい。ときに役者の後を、ときに役者と並び、ときに役者を追い抜く。ただ、そうやれと命じられて出来る犬はいっぱいいるんだろうけれど、クロのその動きにはまったく無駄の無い自然な動きを醸し出す。
学校の用務員のおじさんとの関係も素晴らしい。どことなく頑固で孤独なおじさん。クロに対しても、可愛がるというよりも、なんとなくできた連れ合い的存在であり、夜の構内巡回などに同伴したり、クロとおじさんの関係は見ているだけでほのぼのとしてくる。
10年間この学校にいて職員と同じ扱いだったクロの死に、りっぱなお葬式がとり行われる。これは確かに、ただ事実だけを“犬のお葬式”というだけを見たら、確かに滑稽なことなのだろうと思うけれど、これだけ大切にされたクロだけに、お葬式の盛大さは当然かもしれない。クロがこの学校に現れた当初の男子生徒のお嫁さんになった女の子が、その子はクロを知らないんだけど、こんなお葬式とかあげて傍から見たらバカバカしいよね、喪服まで着ちゃって、と言うダンナに「バカバカしくったって、いいじゃない。私クロのことは全然知らないけれど、今日来て良かった」と言う。犬好きなら当然の言葉です。
美しい山々に囲まれ、立ち去っていく青年たちの後姿を捕らえたラストのショットも素晴らしい。
                                                            
【愛犬ジョンとの思いで】
実は、動物がメインキャストになる映画は嫌いなんです。なぜ嫌いか、動物はどうしても、人間より先に死んでしまう。それと、もうひとつの理由は、むかし高知に住んでいた小学3年生だった頃に飼っていた犬が、どうしても、神奈川の引越し先には連れていけないということで、知人の家で飼ってもらうために高知に置いてきた。
しかし、私たちが引っ越した翌日から、ジョン(犬の名)は体調を崩してしまった。知らせを聞いても、引っ越してきたばかりなので見舞いには行って上げられない。詳しく聞いてみると、口の中に腫瘍ができていて、その細胞を調べてもらっているとのこと。父はそれを聞いて、当面の治療費として10万円を知人に送った。5日ほど後に、検査の結果が知らされ、腫瘍は悪性のガンだと聞いた。転校などのこともあり、精神的にもキツイ日々なのに、それに追い討ちをかけるようなジョンの病気。すっかり家族は元気をなくし、暗い気持ちの中で、ジョンの快復を祈る毎日だった。
このジョンのケースは、非常に難しいらしい。何故なら、腫瘍が口の中だから、結局、手術するのにも全身麻酔をしなければならないとのことだった。手術後、とりあえず1番大きな腫瘍は取り除かれたものの、ごく小さなガン細胞の転移が口のあちこちにあると言われた。しかし、家族と一緒に暮らしていた頃に、何で気がついてあげられなかったのか、もっと早くガンが見つかっていればと思う。でも、獣医さんは、口の中だと気がつかない場合が多いといっていた。食欲が減ってきたな、という程度の変化は、この映画『さよなら、クロ』のクロとまったく同じで、それを人間は老いで片付けてしまう。
2週間ほどしてから、私たち家族は高知へとジョンの見舞いに行った。たった2週間の間に、ジョンはとても痩せていた。知人の家の玄関を入った広いスペースがジョンの縄張り。でも、ジョンは元気がなかった。顔を近づけると顔を舐めてくれるけど、昔のように顔中舐めない。ほんのひと舐めする程度だった。当分通院することを余儀なくされたけれど、ジョンの快復まではなんとかしてやりたいという父は、ここでも大金を置いていった。前回の手術では、なんと9万円もかかっていた。母は、私たちの食費を削ればいいからと冗談交じりで言っていた。家族は神奈川に戻り、またいつもの生活を取り戻し、しばらくは何事もなく過ぎた。私たち姉妹も、ようやく友達ができ始め、学校にも慣れてきた。ジョンの口の中のガンは、結局、完全には取れないけれど、進行さえ遅らせれば、まだ生きていける、ということだった。それと、獣医さんが言うには、口の中に違和感があるために、食欲に影響が出るから、口から食事をすることが困難になってくる可能性があるらしい。つまり、いよいよ口から食事が摂れなくなったら、首に穴を開けて、チューブで栄養剤を直接胃に流すということだ。こんなこと耐えられない。考えただけで悲しくなる。毎日のように知人の家に電話をして、ジョンの食欲を聞いたりした。
ジョンは、辛いながらも、少しではあるが口から食事をしていた。獣医さんは、少量でもいいから、口から摂れる内はそうしていきましょう、ということだった。
それから1年半、ジョンの食欲はあったりなかったりを繰り返し、いよいよ食欲はまったく無くなった。そして、ガリガリに痩せてしまった。立ち上がる事もできなくなった。遂に、家族がもっとも恐れていた、決断を下さなければならない瞬間を迎えた。知人は電話で泣きながら、危ないかも知れないと訴えた。
父は仕事を休暇を取り、私たちも学校を休んで、高知へと向った。こんなときは休んでよし、そこが父の良いところだ。知人宅についたら、もうジョンの容態は幾ばくも無かった。知人は、「もう病院には行きたくない、だって、病院行ったら注射とかさせられるでしょ。こんな状態のジョンに、また痛い思いさせるのかわいそうだよ」と言って泣いていた。そうなんだ、ジョンは家で、家族みんなのいる所で、みんなに見送られて逝かせてあげよう。普段は意見の合わない家族が、ここでは意見が合った。私たちが高知へと来たその夜9時25分、ジョンは旅立った。最後、ジョンはか細い声で「クーン」と泣き、四肢を、まるで背伸びするかの様に伸ばし息を引取った。
動物との別れを経験した人は、その後、二つに分類できる。ひとつは、それでも動物がいないと寂しく、しばらく時を経て再び飼う人。もうひとつは、別れる悲しみを2度と経験したくないから、2度と飼わない人。ウチの家族は後者です。妹にも、絶対に捨て猫を拾ってこない事、とキツク言い渡されている。
今、ジョンは、高知にある動物霊園で安らかに眠っています。

「コンタクト」

 

■1997年、アメリカ映画、150分
■監督・製作:ロバート・ゼメキス
■製作:スティーヴ・スターキー
■原作:カール・セーガン
■脚本:マイケル・ゴールデンバーグ
■撮影:ドン・バージェス
■音楽:アラン・シルヴェストリ
■出演:ジョディ・フォスター、マシュー・マコノヒー
     ジョン・ハート、ジェームズ・ウッズ、トム・スケリット
     ウィリアム・フィクトナー、デヴィット・モース
【ストーリー】
父親と一緒に星空を眺め、遥か遠い国からの無線放送に心をときめかせていた少女エリーは天文学者になった。ある日、宇宙から降り注ぐ電波のブリザードの中からエリーが見出した微かなシグナルには、人類が初めて出会う「人為的な」操作が施されていた。そのサインを読み解いたとき、そこには驚くべきメッセージが…。
【評】
随分と昔の話ですが、ウチがまだ小学生ぐらいの頃、将来どんな仕事をしたいですか、という教師の問いかけに、「宇宙に旅行する仕事」と答えたことがある。そして、その仕事をしていると思って、絵を描きましょうということになって、ウチが描いたのは、沢山の星の間をカバンひとつ持って漂っている自分だった。その絵はいまだに家に取ってある。昔は星が好きで、地球と同じような星が宇宙のどこかにあり、そこでは銀色の服を来た宇宙人が、宙を浮かぶ車に乗っているはずだと真剣に信じていた。
まだ自由に映画やビデオが観られなかった一昔前、宇宙とはどんなところなんだろうと、空想の世界に浸っていた頃が妙に懐かしくなる。都会で夜空を見上げると、星が思ったより少なくガッカリし、ひとたび田舎で夜空を見上げたら、物凄い数の星々が、まるで空一面カビの胞子に覆われているかのようで、あれじゃ宇宙船はあちこちぶつけて飛ぶのが大変だな、なんて空想したものです。
雑談はさて置き、ゼメキスの『コンタクト』。150分という大作ではあるけれど、このSF映画、なかなか深いテーマで、やはりジョディ・フォスター選ぶ映画は半端じゃないなと思いました。深いテーマと同じに、ゼメキスはエンターテイメントとしても充分に観客を楽しませ、こういう映画を創り出すアメリカの力みたいなものを感じた。
人類は、エリーの発見で地球外知的生命の存在を確認し、彼らとコンタクトするプロジェクトを実行するが、その乗組員選考会でのやりとりがまず興味深い。地球外知的生命とコンタクトできたら何を聞いてみたいかという選考委員の質問に、エリーは「自分たちの文明の進歩をどのようにコントロールしたのか、自滅の道をどのように回避したのか聞いてみたい。」と答える。ここには、科学の最先端の場にいながら、科学の進歩を盲目的に100%認めるわけではないエリーのすぐれて科学的な姿を見ることができる。ただし、これはエリーの姿・形を借りた原作者故カール・セーガン博士の質問だろうと思う。博士は、地球外生命の存在を確信しながらも、環境破壊という科学文明の自滅の道が頭から離れなかったと思う。星間旅行が実現できる以前に文明は自滅してしまうのではという彼の説を読んだことがある。
最後に、選考委員でもあるパーマーにこう質問される、「神を信じますか?」この質問にエリーは、「実証できないものは、認めることはできない」と正直に答える。この場面で神を否定することは、 すなわち選考会での落選を意味することになるのだけれど、逆に彼女の気高いモラルを示す場面でもあった。因にこの問答は、2000年前、イエスを否定したパウロの時代からの永遠のテーマです。別の場所でのエリーとパーマーの以下のやりとりにこのテーマに対する一つの回答をみた想いがした。 【神】を信仰するパーマーにエリーは言う「私は証拠のある物しか信用できないの」、それに対しパーマーは「君は亡くなったお父さんを愛していた?」、エリーは困惑しながら言う「もちろん愛していたわ」、すかさずパーマーは問う「その証拠は?」キリスト教義の中での「信じる」ことと「愛」が同義であることがここで証明されているけれど、人間の心理の問題に対し証拠や証明は何ら意味を成さないということを表現していると思う。そもそも、エリーの宇宙への探求とは、亡くなった母親や父親を宇宙へ求める旅であり、映画はそういった回想シーンを入れつつ、最後のヴェガでの接近遭遇のシーンとなって全て実を結ぶことになる。
この映画の途中で、エリーが北海道の基地より旅立つ前に、パーマーがエリーの控え室にやってきて、前回の選考会でエリーを選ばなかった理由を明かすところがある。【神】を信じない者に行かせたくない、というのは建前で、パーマーは個人的な理由として、「君を失いたくなかった」と言う。この台詞に対して、賛否両論があるみたいだけど、これについてはまた機会があったら語りたいと思います。

「至福のとき」

 

■2002年、中国映画、97分
■監督:チャン・イーモウ
■製作総指揮:エドワード・R・プレスマン、テレンス・マリック
■原作:モー・イェン
■脚本:グイ・ズ
■撮影:ホウ・ヨン
■音楽:サン・バオ
■出演:チャオ・ベンシャン、ドン・ジェ、フー・ピアオ
     リー・シュエチェン、ニウ・ベン
【ストーリー】
中国の大連、旅館経営者を名乗っているが実は失業中のチャオは、見合いした女性に、彼女の義理の娘で盲目の少女ウー・インをチャオの旅館で按摩師として働かせてほしいと頼まれる。どうしても結婚したいチャオは頼みを受け入れるが実際には旅館などどこにも存在しない。継母に冷たくされているウーに同情したチャオは、廃工場に偽の按摩室を作り、仲間たちに旅館客のふりをしてもらい、ウーに仕事をさせようと考えつく・・・
【評】
このイーモウ作品には、これと言える有名な俳優は出ていません。名の知れた俳優が出ていない分、出演者たちが素朴で自然に見えてくるのかもしれない。主人公の盲目の少女ウーは可憐だけど決して美少女というほどではありません。チャオに至っては胡散臭い失業中の独身オヤジで、友達と公園の片隅の廃バスを利用してラブホテル屋のようないかがわしい仕事を始め、それをお見合いで気に入った女性に大きな旅館を経営していると大嘘をつくわけです。ウーの面倒を見始めるのも見合い相手に気に入られたい一心からで計算的で偽善的で動機が不純なんだけど、そんなチャオがいつしかウーのために一生懸命になっていく姿にはとても心温かいものを感じずにはいられなくなりました。
不況、不景気というとんでもないニュースが日毎に入ってくる、中国の現状がどうなのか?勉強不足でいまいち分かりかねますが、このお話は失業者たちが一人ぼっちの天涯孤独な盲人である少女を騙しながらも善意に満ちたお助けマンを映画の中で演じていく作劇は私たちというより日々、いかにコスト削減して会社に利益を齎すかで神経使って働く日本人のような「明日は我が身の」話にも見えてしまうのです。
なんとなく、寅さんにバカにされていたタコ社長を重ねてしまいました。そのおじさんが交通事故で瀕死の重傷を負ってしまう終り方は、おそらく現実にはこのような、お人よしの人間は存在しないことをあの事故で私たち見る側を冷静に現実に引き戻させようとした意図を感じる。全てを知っていて善意に甘えた盲目の美少女の残されたカセット録音からの告白は、最後に日本的に解釈すれば「ウソから出たマコト」なんでしょう。おじさんは、どうなったのか?病院で眠る主人公のことを知らぬままどこかに向かっていく彼女には見えないが想像は出来る、消えない「暖かい見知らぬ人たちの善意と愛」を心の土に植えられて、どんな苦難も乗り越えていくでしょう。「希望」という二文字が見えたラストでした。誰もが認めるように、わたしも盲目の美少女を演じたドン・ジエの笑顔は最高でした。
この作品が、イーモウにとっては、『HERO』『LOVERS』のちょうど間に位置しているけれど、なぜ、『HERO』の後にこのような映画を撮ったのか。この『至福のとき』も外国資本ではあるけれど、まったくイーモウの原点に立ち返ったかのような主題であるし、映像的にも非常にシンプルです。低予算でも、これだけのものが撮れる人だけに、外国資本に縛られて映画を撮ってしまうと、イーモウの本来の味は消えてしまうと思うのですが。

「沈黙」

 

■1962年、スウェーデン映画、94分
■監督・脚本:イングマル・ベルイマン
■撮影:スヴェン・ニクヴェスト
■美術:P・A・ルンドグレン
■編集:ウーラ・リューゲ
■出演:イングリッド・チューリン、グンネル・リンドブロム
     ヨルゲン・リンドストロム、ホーカン・ヤーンベルイ
【ストーリー】
姉のエステル、妹のアナ、そして妹の息子ヨハンの3人は、ヨーロッパ外遊の帰路、姉の具合が悪くなったために、見知らぬ町に降り立った。その国では言葉が通じず、案内されたホテルで、しばし休養を取る。インテリで精神的に弱い姉エステルと違い、妹は社交的で肉感的なので、ホテルに閉じ篭っていることに我慢がならず、外へ飲みに出かけてしまう。立ち寄ったバーで知り合った男と同伴してホテルへ帰ってきたアナ。一方、内向的な姉エステルは、内向的な性格ゆえ、自室で自慰に耽るしかなかった。母親とバーの男との情事の現場を鍵穴から覗いてしまう息子ヨハン。翌日、姉の様態はますます酷くなったが、その姉を置いて、アナは息子と共に出ていってしまった。
【評】
ベルイマンのこの『沈黙』は、この前の2作品『鏡の中にある如く』『冬の光』とともに【神の沈黙三部作】と呼ばれています。3作ともまったく違った独立した作品ですが、テーマが共通しているらしい。このテーマは、人間がどんなに祈っても、神は沈黙していて何も答えてはくれない、ということです。なぜ神は沈黙しているのか、これは神が存在していないからである、とベルイマンはインタビュー記事で語っている。無神論者の徒に言わせれば、そんなことは最初から解っていることで、何も今更証明してもらうまでもないということになりますが、これはキリスト教徒である彼らにとっては重大な問題なのでしょう。特にベルイマンは、プロテスタントの牧師の子として生を受け、幼児期から教会を我が家としてきたようで、教会には殉教者が血の責苦を受ける絵や彫刻がつき物であるわけだけど、ベルイマンの映画が、いつも受難と苦悩のイメージに充ち充ちているのは、こうした彼の育ちと深い関係があるようだ。
この『沈黙』は、神の存在を信じられなくなった人間の孤独を描いている。孤独を癒すための一番手っ取り早い方法は、他人と肉体的に接触すること、神への信頼の喪失は、キリスト教徒にとっては同時に人間への信頼の手掛かりを失うことなのです。そこで精神を重んじるインテリの姉は、肉体だけを簡単に他人に交わらせることが出来なくて悶々と自慰に耽り、妹は簡単に見知らぬ男と寝るが、これは精神抜きのまったく動物的な肉体の喜びにすぎない。ベルイマンはそこに、現代の人間の苦悩を見出し、この苦悩をいやがうえにも磨きあげ、練り上げることによって、ここに現代の映画のひとつの里程標ともなるべき傑作を創り出したと言えます。
無神論者の徒にとっては、神の不在を告発すると言うテーマ自体は無意味なものに思えるけれど、にも関わらずこの映画に強い感銘を受けるのは、これが苦悩する人間と言うものの見事な造型となっているからです。神を信じることができなくても、人間は苦悩することができる。苦悩こそは人間が人間であることの証なのではないでしょうか。人間は苦悩するかぎり精神的な存在なのです。ベルイマンはそう言いたかったのではないだろうか。
牧師館育ちで、殉教者の血まみれの苦痛のイメージや、苦悩を知らぬ悪魔の憎憎しいイメージに囲まれて育ったであろうベルイマンは、神を信じなくなっても、人間の苦悩の精神的な輝きだけは信じているのだと思う。これを鮮やかにこの作品に刻み込むことによって人間讃歌を謳ったのだと思うのですが。

「クイズショウ」

■1994年、アメリカ映画、133分
■監督・製作:ロバート・レッドフォード
■製作:マイケル・ジェイコブス、ジュリアン・クレイニン、マイケル・ノジック
■脚本:ポール・アタナシオ
■撮影:ミヒャエル・バルハウス
■音楽:マーク・アイシャム
■出演:ジョン・タトゥーロ、ロブ・モロー、レイフ・ファインズ
     ポール・スコフィールド、ハンク・アザリア
     マーティン・スコセッシ、デヴィッド・メイヤー
【ストーリー】
1956年にアメリカ中が熱狂したテレビのクイズ番組「21」。生放送の緊迫感とハネあがる賞金額に視聴者は興奮し、知識を武器に賞金と名声を手にする解答者に自らの夢を重ねてみた。しかし、無敵を誇ったステンペン(ジョン・タトゥーロ)がヴァン・ドーレン(レイフ・ファインズ)にチャンピオンの座を奪われた時、その舞台の裏で起きている衝撃の事実を、そしてそれがテレビ史上最大の事件に発展しようとは、視聴者には知る術もなかった・・・。
【評】
簡単に言ってしまうと、この映画はテレビ局というメディアの汚い部分を、あからさまに表現したドラマです。こうした【やらせ】の局面で常に矢面に立たされるのは下請けプロダクションで、日本の某テレビ局でも、しばしばこの【やらせ】のような事件を起こしている。そしていつも責任を被せられるのは下請けの役回りなのか。こういったことは万国共通にあるらしい。この映画でも、判事の思惑とは別に、責任を問われるのはテレビ局やスポンサーではなく、何かある都度に下請け業者や秘書官のせいになる。こういう図式は日本人だけの特権なのかと思ったけど、下役のせいにして責任逃れに裏工作までやってのけるのは【日本的解決法】だと考えていた人がいたとしたなら、それはまったくの誤りで、この映画によって、そういう人間の醜さは世界共通の約束事だと気がつく。
圧倒的な博識で連続チャンピオンのステンペンは、彼もまた被害者であり加害者でもあり、ドーレンとはまったく対照的な人物像といっていい。このあたりの配役はなかなかいいと思う。そして、調査官のグッドウィンも、ストーリーが進むにつれて非常に人間臭い厚みの在る人物。ハーバードを首席で卒業している「ユダヤ系アメリカ人のコンプレックス」を、シェイクスピアの戯曲の台詞を用いてやりとりするヴァン・ドーレン親子を見て、疑惑の人物への印象が「憧れの対象」であることに気が着く。お上品な一家への単純な憧れ。WASPへの憧れ。憧れっていうか「ないものねだり」に近い感覚で、その感覚こそがこの映画の根底にあるテーマだったりする。視聴者を欺いて作り上げたスターは果たして「罪」なのか?視聴率操作は日本でも頻繁にあるであろう不祥事で、裁かれるのは下請けの番組プロダクション。組織への制裁はなく、個人の責任だけが暴かれるのが常だが、それは古今東西変わらない。
一分の隙もない緻密な脚本には舌を巻くが、演出が脚本の面白さを大きく殺しているのは残念。脚本(台詞とお話)ではきちんと描かれていた善と悪との葛藤や、人間の欲望と嫉妬のせめぎ合いなど、どちらかと言えばドロドロとした汚い面が、綺麗さっぱり漂白されている。全体につるつるした、臭いのない映画になってしまっている気がする。例えば、理想的な人物に見えるインテリの新チャンピオンの中にある、意外な俗物性、自己欺瞞といった要素は、この映画の中でもっと大きく捉えられるべき点だったのではないか。同じように、テレビの不正を暴くことで自分を売り出そうとする若い検事の中にある、チャンピオンに対する羨望と友情のような気持ち。番組の中に不正があることを知りつつ、それでもチャンピオンにだけは泥にまみれてほしくないという気持ちは、映画の中でうまく描けていたとは思えない。彼を躊躇わせたのは何なのだ。チャンピオンに対する友情か、あるいは、彼自身の中にあるチャンピオンの幻影を壊したくないという気持ちか。このあたりは、演出の段階できっちりと描いておくべきだったのではないかと思う。その点、汚辱にまみれる前チャンピオンの描写は秀逸。これは演じていたジョン・タトゥーロがうまかったせいもあるが、当然それだけではない。彼の持っている弱さやみっともなさってのが、演出家にはよくわかる人物像だったんだろうと思う。物語のラストで、記者に取材を求められた彼がそれを固辞するシーンは、彼のアンビバレンツな感情がうまく描かれていた名シーンだと思う。これは脚本の力だと言いたい。

「旅芸人の記録」

1975年カンヌ国際映画祭、FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞受賞
■1975年、ギリシャ映画、232分
■監督・脚本:テオ・アンゲロプロス
■製作:ヨルゴス・パパリオス
■撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス
■音楽:ルキアノス・キライドニス
■出演:エヴァ・コタマニドゥ、ペトロス・ザニカディス
     ストラトス・パヒス、キリアトス・カトリヴァノス
【ストーリー】
1952年晩秋。ギリシャ南部のペロポネ半島の北端の海辺の町エギオンに、12名前後の旅芸人一座が降り立つ。彼らは眠っていなかった。昔と同じ町、昔と同じ晩秋。昔と同じ人数。しかし、顔ぶれは違っていた。そして物語は過去へと飛ぶ。1939年の晩秋。11名の旅芸人一座が、エギオンの町へ降り立つ。時代は、ナチス台頭の真っ只中。一座は唯一の出し物『羊飼いの少女ゴルファ』を繰り返し公演している。彼ら一座の、険しく過酷な長い旅は、この町から始まった。
【鑑賞までの余談】
遂に念願のテオ・アンゲロプスの超傑作『旅芸人の記録』を収録したDVD-BOXを買ってしまった。実はこのDVD-BOXを買うのに、有に半年は悩んでしまった。ウチは、物を買うのにかなり時間がかかるんです。衝動買いは1度もなく、欲しいと思った物があったとき、まず冷静に考えてみる。その品物が本当に必要な物なのか、買っても損をしない物なのか。決断できない場合は、取り敢えず買わないでおく。もし、やっぱり必要で、どうしても欲しいと思ったならば買いに行く。でも、その時点で売れてしまっていたら迷わず諦める。こういう性格だから、いつまでも使い古した物ばかりだ。本とかも、何度でも繰り返し読んだり、服なんかも、友人から貰ったり、母親から貰ったり。貰える内は花なのかもしれない。昔から「おまえはお金のかからない子だ」と言われてきた。玩具屋の前で、どうしても欲しくて座りこんだりするのは、いつも妹だ。そして、妹のおかげで、自分もそれを楽しんだりする。
話しが横道に逸れたけど、そういう性格故に、このアンゲロプロスのDVD-BOXも、半年という年月を経て、ようやく手元に届き、この歴史的大傑作を遂に観られるという恩恵に預かることができた、という次第です。
【評】――『旅芸人の記録』のギリシャ的意味――
ここに登場する人々は、これが他の国の映画だとしたら、あまりに類型化された性格の持ち主と写ってしまうかもしれない。信条の為に決して節を枉げず、遂に独房で死ぬ英雄オレステス、この弟と心をひとつにして揺らぐことのない烈女エレクトラ、利己的な理由から仲間を売るアイギストス、彼に引きずられるクリュタイムネストラ、軽薄で可愛い現実的な女クリュソテミ。人間の発しうる最も基本的な呼びかけを発して銃殺されるアガメムノン。
まさに、他の国だったら、これほど強烈な性格を持つ人々はひどく観念的な存在と見え、映画は現実味を失って宙に浮いてしまうと思う。誰が日本人の女としてのエレクトラを想像できるか?しかし他ならぬギリシャでは本当にこのような性格の人々が歴史を作ってきたのである。
アンゲロプロス監督は、現代史を描くのに古典劇を転用して、見事なまでの成功作を作り上げた。血にまみれたアトレウス家の興亡の最後の段階がこのアガメムノンの殺害と子供たちによる復讐です。これは愛、憎悪、野心、背信、献身といった概念の絡み合いから人の運命が紡ぎ出される壮大な物語で、古代ギリシャ人がこれら抽象的な概念を、いかに具体的に生きたかという証として読むことも出来る。現代においても、民族の性格がこの点でまったく変わっていないことをアンゲロプロス監督は実に巧みに語っています。実際に旅をする一座が、他の国では観念的な空論としか思えないことが、実に活き活きと日常生活を照らしていることに驚くわけで、古代ギリシャに哲学者が発祥したのは偶然とは思われない。現代に近づいてきても、田舎を旅していて出会う老人の口から、知恵の宝石のような言葉を聞くことも稀ではない。それこそが、ギリシャ人の持つ特質なのではないでしょうか。
現代史を書くことは容易ではない。政治が横車を押し、弁解が混じり、ノスタルジーが水をさす。それらを制御して明日につながる意義を持った現代史を作ることは至難の技でしょう。私たちは昭和史すら持っていない。それを書物ではなく、映画で成し遂げたということにアンゲロプロス監督の精神の偉大さを垣間見る。彼の目は正確であり、表現は実に豊で、フィルムの一コマずつが映画的魅力に溢れている。しかも、彼は軍事政権の圧制の時代にこの映画の撮影をしている。その思想的な頑固さと実行力には舌を巻いてしまう。
この映画の最終的な意味は、映画手荒れ、詩であれ、およそ表現と言うことに関わる仕事に携わる者の究極的な夢の一つ、一個の民族の総体を描ききることに成功したという、その点にあるのではないでしょうか。
付け加えると、先ほどアガメムノンが人間の発しうるもっとも基本的な呼びかけを発して銃殺されると書いた。実際彼は、銃殺隊の前に立ってこう言う――「おれは海から、イオニアから来た。あんたたちはどこから来た?」人と人が荒野の真中で出会えば、まず己が出自を語り、相手の出自を問う。人同士の交渉は、このようにして開かれる。自分が何者であるかを語ろうとするところから全ては始まる。その意味で、彼はドイツ兵の銃殺隊をも人間として遇した。それに対して返ってきたのは銃弾でしかなかったのである。
【類稀な映像技法】
アンゲロプロス映画の一大特徴は「ワンショット・ワンシークエンス」を基本とするカメラの長回しにあるのだが (旅芸人の記録』を例にとると、4時間の間にカット数はわずか131しかないという)、なぜ彼がこの手法を編み出し、なおもこだわり続けるのかはしばしば論じられる所だ。『旅芸人の記録』の中で、町を歩く芸人達の横を、パパゴス元帥の街宣車が騒然と通り過ぎるシーンがある。ややあって次に黒いベンツがやってきて、ドイツ兵が検問を行う。たったワンショットで、1952年から1942年に時代を逆行させる有名なシークエンスです。こうしてアンゲロプロス監督はしばしば時間を自在に飛び越え、歴史を俯瞰しようとする。もちろん戦後の右翼勢力と戦時下のナチスをひとつのシーンの中に併置するのは政治的な意図である。ワンショット・ワンシークエンスは、まさに映画でしかなし得ない表現技法だといえます。
また、アンゲロプロス監督のカメラは180度の角度で時空を捉えるという、極めて特徴的な撮影を繰り返す。『旅芸人の記録』では、後に売国奴であることが判明するある人物が、芝居の稽古場からひっそりと逃げていくショットがある。あたかも偶然にレンズの隅が捉えたかのようなシーンだが、その暗示性の豊かさには驚くばかりである。さらにこの広角の画面の中に異なった時代を重層的に配置するのだから、構想の壮大さ、構成の緻密さは他に類をみない。もちろん、この180度パンショットも極めて映画的な表現だと言えます。

「フィラデルフィア」

■1993年、アメリカ映画、125分
■監督・製作:ジョナサン・デミ
■製作:エドワード・サクソン
■脚本:ロン・ナイスワーナー
■撮影:タク・フジモト
■音楽:ハワード・ショア
■主題歌作詞作曲:ニール・ヤング
■歌:ブルース・スプリングスティーン
■出演:トム・ハンクス、デンゼル・ワシントン、ジェイソン・ロバーツ
     メアリー・スティーンバージェン、アントニオ・バンデラス
【ストーリー】
一流法律事務所で働く敏腕弁護士ベケットは、エイズウィルスに冒されていた事を知る。会社側は仕事上のミスをでっち上げ、彼を解雇。不当な差別と闘う為にベケットは訴訟に踏み切る。彼の毅然とした姿勢に心打たれた黒人弁護士ミラーの協力を得て、ついに自由と兄弟愛の街フィラデルフィアで注目の裁判が幕を開けた。
【評】
こういう映画を観るときは、まず、その社会問題がどれだけ深刻なものなのか、ある程度把握しておく必要があると思う。それによって、この映画のテーマの重みと、そこに込められた社会への警鐘を感じ取ることができる。同性愛やエイズという問題は、アメリカ国内では一般的な社会問題として理解を示すことが当然とされる中で、現実的な側面としては、嫌悪感や差別といった感情も今尚根強い。理解は示しつつも、それが他人事ならばいざ知らず、自分の周辺にしのび寄ってくると、絵空事では済まなくなる。
アメリカ最高裁は「エイズ患者たちは生命としての死より前に、社会的に死ぬ」ということを前提に、エイズ患者たちの社会人としての権利を尊重する動きが出てきているけれど、これは近年のことであって、エイズが騒がれ始めた当初は、エイズ=不道徳者という偏見として見られていた。あの最高裁の言及も、この映画の中で語られるが、この言葉の持つ意味は、あまりにも重い。映画の中では、主人公がエイズに感染し、それを知った者たちによる憶測が波及し、主人公が職場を解雇にまで追い詰められる。その後の彼の人生も、社会的偏見に晒されながら、置かれた立場を受け入れ、闘う姿勢を示しながら自己を主張していく。このあたりのデリケートな主人公ベケットの心の内側を、トム・ハンクスは淡々と、時には熱情的に演じ、彼の代表作になったのではないでしょうか。
この映画は、所謂裁判劇です。裁判劇というと、アメリカ映画のひとつのスタイルにもなっている。この映画での裁判シーンもなかなか迫力がある。デンゼル・ワシントンは、いかにも庶民派の弁護士という感じで、説得力のある弁護を展開しています。しかし、一番関心したのは、あの陪審員のおじさん。弁護士事務所側の「若手弁護士でしかないトム・ハンクスの能力を試すために訴訟の責任者にした」というでっちあげの主張に対して、あのおじさんの「ここ一番の大きな仕事のときに、青二才の能力を試すために、そいつにチャンスやったりするのか?」という発言がなかったら、他の陪審員の判断も変わったかもしれない。
何の偏見も持たない人間などいやしない。問題は、その偏見を取り除いていける頭と心の柔軟さがあるかどうかです。簡単なことではないけれど、しかし、自分たちの持っている偏見を認識し、それを取り除こうとする意志があるか否かは、人間生きていく上では重要なテーマなんだと思う。こんなふうに、自分自信を問い直す、いい時間を与えてくれるほど、この映画は素晴らしい作品だと思ったのでした。
トム・ハンクスの目の輝きが印象的。

「蜘蛛巣城」

■1957年、日本映画、110分
■監督・製作・脚本:黒澤明
■製作:本木荘二郎
■原作:ウィリアム・シェイクスピア
■脚本:小国英雄、橋本忍、菊島隆三
■撮影:中井朝一
■美術:村木与四郎
■音楽:佐藤勝
■出演:三船敏郎、山田五十鈴、志村喬、久保明
     太刀川洋一、千秋実、佐々木孝丸
【ストーリー】
時は戦国時代。蜘蛛巣城の城主・国春に仕える武将・鷲津武時と三木義明は、謎の老婆からある予言を聞く。それは「武時はやがて城主になれる」という驚くべきものだった。鷲津は妻・浅茅にそそのかされ、主君である国春を殺害してしまう。鷲津は予言通り城主となるが、更に浅茅は三木をも殺すよう鷲津に迫るのだった…。
【評】
この黒澤作品は、言わずと知れたシェイクスピアの『マクベス』を原作としている。しかし、黒澤が世界的文学作品を抽出する際、通常それが彼の個人的な興味に適うか又は彼の興味を如可にそそるかという観点から、その材料を考察しその他は捨て去っているとするならば、この『蜘蛛巣城』は『マクベス』であって『マクベス』ではないと思う。だけど、マクベス的人物(鷲津)とマクベス夫人的人物(浅茅)の陰謀の企てに関するこの物語の一部分は、悪魔がこの二人の人物に取って代わったと思われる、シェイクスピアの恐怖の旋律そのものと言っていい。
山田五十鈴の演技は特に、彼女の台詞の吐き出し方において冷酷さに徹している。それでいて他の人物たちの周りを滑るような彼女の動きは、獲物を襲わんとして空に舞う鷲を連想させる。三船敏郎の演技は、どことなくそれ程しなやかではなく、単調な傾向であり、怒鳴りつけるような話し方。この対照的な二人の演技が、観ていると、どこか能を観てるような錯覚になってしまうけど、このあたりを黒澤の製作秘話を読むと、なるほどと思った。
【能の形式】を演出にとり入れ、「全身の動作でもって感情を表す」能役者の凝縮された動きや、「能舞台が生む独特な構図を活かしてみたかった」という黒澤監督の言葉通り、能舞台をかたどった灰暗い大広間のセットを能面を思わせるメーキャップの山田五十鈴が、すり足で歩き、運命の激変を迎えて不安と期待で舞うように行ったり来たりする時には、伴奏音楽に能の囃子が奏でられるといった具合。
黒澤監督の時代劇が常にそうであるように、物語の緊張度は、クライマックス(及びカタルシス)に近づくにつれてゆっくりと高まっていく。鷲津とその妻が自分たちの計画が不首尾に終わったと気付くと共に、本当に森が動いて見えるように、木の枝でカモフラージュした乾の軍勢に意表を衝かれ、蜘蛛巣城の狼狽は頂点に達する。黒澤監督のこの素晴らしい撮影ショットは、特に限られたスペースの劇場のスクリーンにおいても、真の表現は困難だと思う。
鷲津が相手方武士の放った矢によって、まさに串刺しになっていく最後のシーンは、見事なまでの臨場感と、当時の撮影技術においても、大変な冒険的試みだったと思うが。さらに、三船敏郎扮する鷲津のゾッとする表情なども絶品の演技。まったく貶される部分を持たない傑作だと言えます。

「ロリータ」

■1997年、アメリカ映画、138分
■監督:エイドリアン・ライン
■製作:マリオ・カサール、ジョエル・B・マイケルズ
■原作:ウラジミール・ナボコフ
■脚本:スティーヴン・シフ
■撮影:ハワード・アサートン
■音楽:エンニオ・モリコーネ
■出演:ジェレミー・アイアンズ、メラニー・グリフィス
     フランク・ランジェラ、ドミニク・スウェイン
【ストーリー】
主人公ハンバート・ハンバートは13歳の時、ひとつ年下の少女と熱烈な恋に落ちる。だがその恋は、彼女の死で無惨に幕を閉じてしまう。彼は少年時代の初恋の思い出から、ずっと逃れられないでいた。ところが20年以上たってから少女ロリータと出会ったことで、彼の心は13歳の少年に逆戻りしてしまう。彼はロリータに近づくために、彼女の母親と偽装結婚。しかし自分の娘に対するハンバートの気持ちを知った母親は、道路に飛び出して事故死してしまう。ロリータにとって唯一の保護者となったハンバートは、彼女を車に乗せてアメリカ中を放浪する。だがそんな二人を、秘かに尾行するもうひとりの男がいた……。
【評】
ようやく見ることの出来た本作。というか、『ロリータ』はキューブリック版のほうが観たかったんだけど、ツタヤの半額レンタル中だったせいもあって、キューブリック版は貸し出し中でした。止む無くこちらを鑑賞。でも、好きなジェレミー・アイアイズ主演なので、まあ観ても損なしかなと思ったんですが・・・。
言わずと知れた、ウレジミール・ナボコフ原作の【ロリータ】の語源にもなった作品。もう、何というか、ジェレミー・アイアイズがハマリ過ぎというか、こういう役柄は彼しかできないでしょう(笑)世間的に肩身の狭い恋愛に身を焦がすインテリの男、という設定では、ジェレミーおいて右に出る者なしです。この作品でも、観ているこちらが情けなくなるぐらい、美少女にいいように翻弄されまくってます。
キューブリック版は観てないから余計なことは言えないけれど、多分、原作には忠実に、しかし、忠実過ぎておとなしい作品になっているんではないでしょうか。こちらの、エイドリアン・ライン版は、現代的に(もちろんカラーフィルムの効果もありかと)メリハリのある映像表現と、過激な性描写を押し出しただけのことはあって、より主人公の滑稽で愚かで、悲哀みたいなものまで感じて、なんか、男って幾つになってもそういうもの(ご想像にお任せします)を追いかけたい生き物なのかなって思ってしまった。
さっきも少し触れたけれど、カラーで撮るか白黒で撮るかによって、こうも作品の質感みたいなものが違ってくるのかと思ったんだけど、エロティシズムの面でも、キューブリック版のロリータ役の子は、なんか田舎臭い(人のことは言えないけど;;)女の子ってイメージがあって、短パン履かせれば少しはエロいかみたいな感じだったのかな。これはあくまで、以前スチールを見たときの感想ですが・・・。エロスをカラーで撮ることによって表現できた良い例として、ロリータの唇のケバケバしい真っ赤な口紅の色っていうのがある。これは正に、ロリータを自堕落な女というイメージとして表現したかったライン監督の勝利。それと、美しい映像表現が、堕落していくこの二人の生き様と妙にアンバランスな感じを与え、返って大きく効果したかと思う。
物語としては、ロリータの心の奥深い部分に入ってないために、何故こんな男との淫らな生活に戸惑うことなしに着いて行ったのか疑問が残るなぁ。
エンディング・タイトルの後にワンカットあるのでお見逃しなく。

「鏡の中の女」

 

■1975年、スウェーデン映画、119分
■監督・製作・脚本:イングマール・ベルイマン
■撮影:スヴェン・ニクヴィスト
■音楽:チェービー・ラレティ(モーツァルト「幻想曲」ハ短調K.475)
■出演:リヴ・ウルマン、エルランド・ヨセフソン、レナ・オリン
     グンナール・ビョルンストランド
【ストーリー】
ストックホルムの綜合病院で、精神療法医として働くエニーは、夫の出張と娘の林間学校へ行っているあいだ、祖父母の家で暮らすことにした。エニーの両親は、彼女が9歳の時に事故によって亡くなり、彼女は祖父母によって育てられた。その夜、エニーはうなされて目覚めると、部屋に見知らぬ老婆の姿を見る。ある日、エニーは友人にパーティーへ招かれ、そこで知り合った産婦人科のトーマと知り合い意気投合する。翌日の朝、エニーは自宅に行くと、知らない男たちに乱暴されそうになるが、間一髪に助かった。そして、次第にエニーは幻覚や昏睡という症状に悩まされ、遂には自殺未遂までしてしまい・・・。
【評】
【生と死の循環】
『鏡の中の女』の中で、もっとも強烈に感じたのは、ヒロインのエニーが自らを棺に閉じ込め、火を放つシーン。より生きるために彼女はひとたび自己を抹消する。ひとつの死は、ひとつの生の始まりであり、この生と死の循環を、私たちはまず手近に周囲の樹木の四季の推移の上に見ることができる。それは同じように人間の上にも言える。人生をより豊に生きるために、生と死の循環を繰り返していかなければならない。燃え盛る炎の中で、エニーは白々と火の浄化を受けるけれど、この死を経て再生するとき、エニーの新たなる生はより豊により意義を持つに違いない。
【Face to Face】『鏡の中の女』は自己凝視の凄まじさを物語っているといえる。【私】はあくまで【私】であり、決して他人ではない個の存在であり、感情の発する源も、その表白も【私】を離れてはいない。あまりにも当たり前の事ではあるけれど、その【私】をまるごと、現在のあるがままの姿を過不足なく認識するためには【私】と付き合い、自己凝視をしていかなくてはならない。鏡とは、自己を問いただすための、【私】を隈なく見るための悲しい道具だと言える。
日常の平安の中で、私たちはいったい、自己をどれほど知り得ているのだろう。それはおそらくほんの一部分、あたかも磨硝子に向うように朧ろにしか見えていないのではないだろうか。【私】という存在に少しでも疑念を抱き、追求に向うとき、磨硝子はその曇りを払い、朧ろなえ映像は次第に明確になる。やがて【私】の全貌が明らかに見えてくるとき、誰しも真実の【私】に絶望し、自己逃避の願望に駆られるのではないでしょうか。
日常の奥に抱え持つこの衝動を、ベルイマン監督は鋭いメスを持って抉り出し、自己凝視の凄愴な闘いに対し人間が如何に耐え得るかを迫力あるシーンで展開していく。
エニーも自らの存在の模索へと向っていく。彼女の周りの風景は変貌し、彼女自信も荒れていくとき、黒衣の老女が見えてくる。片方の眼は生の瞳、もう一方の眼は漆黒に塗り潰された眼窩――それは死を象徴している――生と死を携え、そのいずれかへ彼女を誘うべく老女は度々現れる。
【自己の抹消の行き付くところ】
次第に見えてくる真実の【私】におぞましさを覚え、エニーは自殺を図る。この自己の抹消の行為は、たまたま失敗に終わるけれど、生と死の間を彷徨する眠りの中で彼女は過去へと遡る。この映画では、潜在意識から浮かび上がった幼児体験のシーンも、夢とか幻覚というような軽いものではなく、現実の場と同じにリアルに表現される。明確なだけに異様なシーンです。心の奥処を垣間見る不安感に重ねて、ナイーブな幼児の魂の震えを再体験してゆく場面は、【私】を隈なく知ることへの衝撃を一層強めている。夢の中で想起した【私】の暗い人格形成が、現在の日常生活の上における孤立の要因を成していることをエニーは認識していく。この過去の闇から開放され、自己を得るために、エニーは自らを葬っている。火の浄化を受けた彼女の、ひとつの解脱を終えた姿は、晴れやかに、再び日常へと歩み出していく。
この自己凝視の、自己内部との葛藤の中で、エニーが見出したもの、それは愛ではないだろうかと思う。死に近い祖父を看取る祖母の労り、優しい愛の姿がそれを示している。老い衰えていく老残を、労りという愛が仄かな微光をもって包んでいく。突き詰めていく厳しさの中で、この光景は美しい。かつて、エニーは夫にも娘にも、また精神科医として臨床する患者たちに対しても、心からの優しい労りの眼差しを向けていただろうか。今後を生きていく希望として、エニーは労りを忘れることはないと思う。
ベルイマンは、より生きるために死ぬ、という神話的構造を受けとめ、これを現代的に発展させ、ベルイマンの深い思想性の表出される映画として、とても感動した。