YURIKAの囁き -5ページ目

「蘭の肉体」

 

■1974年、仏・伊・独合作映画、115分
■監督、脚本:パトリス・シェロー
■製作:ヴァンサン・マル
■原作:ジェイムズ・ハドリー・チェイス
■撮影:ピエール・ロム
■出演:シャーロット・ランプリング、ブルーノ・クレメル
     シモーヌ・シニョレ、アリダ・ヴァリ
【ストーリー】
母から類まれな美貌と巨万の富を、父からは殺人狂の血を受けついだキャロル・ブランディッシが、嵐の夜、精神病院から脱走した。財産目当てにこれを追うギャング、美貌を見こんで手を出そうとする狼。かくして血と銃声に彩られた美女の争奪戦が幕を切って落とされる。
巨額の遺産を相続するべき身寄りのない主人公は叔母の財産相続の陰謀により幼少時代から精神病院に軟禁されていた。その後、主人公は美しい女性に成長し精神病院を脱出しゆきずりの男と逃避行の旅にでるのだが、執拗な叔母は追っ手を差し向ける。
【評】
【現実感とフィルム・ノワール】
『蘭の肉体』という映画を追う視線が出会うのは一体何だろうか。草の緑が咽ぶような空間の中に在る精神病院の病棟。その中にたった一人でベッドに横たわるシャーロット・ランプリングの定まらぬ視線。彼女とベッドを共にしようとするお腹の突き出た老人の裸体。彼女が逃亡する先々で果てしなく流され続ける血。感傷とは無縁の人々の死。退廃を体現したような金持ちたちの姿。言葉遣い。車。廃墟と化した元サーカス小屋の内部。そこにいる老女。重く垂れ込めた雲。もちろん、『蘭の肉体』にも確かな物語が存在しており、フィルム・ノワール的と呼べば呼べそうな構成をその物語はとってはいるが、この映画の映像が伝えるものは、一切、フィルム・ノワールであることを示す記号が含まれてはいない。
例えば、犯罪を覆い尽くすあの夜の空気と、この映画は無縁であり、殺し屋として登場する元サーカスの花形スター、ベルキアン兄弟も、一般的な殺し屋のトレンチコートを羽織り、闇の中で拳銃を構えるあの姿勢とは正反対の老人であり、どこかオドオドしており、自らの行動に自信を持っている様子はない。そして、もとろんフィルム・ノワールのように車は走るけれど、高速道路とか夜の街路とは関係の無い、ぬかるんだ田舎道をやっと走るだけである。物語の進行さえギクシャクしていて、過不足なく進行する物語の経済学は姿を消している。
つまり、こういうことです。確かに『蘭の肉体』の物語そのものは、典型的なフィルム・ノワールなんだけど、その物語の隅々に、強烈極まりない現実が力を込めて侵入し、フィルム・ノワール仕立ての物語を解体しているように思える。とすれば、観客側は物語の進行ばかりに気を取られていてはならない。むしろそれよりも、我々がこの映像を観ればすぐに気がつく現実にこそ、目を向けるべきでしょう。フィルム・ノワール的物語は、その現実を観る人に示す距離にしかすぎないのだから。

「暗殺の森」

■1970年、伊・仏・独合作映画、107分
■監督、脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
■撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
■製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ
■原作:アルベルト・モラヴィア
■音楽:ジョルジュ・ドルリュー
■出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ
     ステファニア・サンドレッリ、ピエール・クレマンティ
【ストーリー】
マルチェロにはひとつの信念があった。それは他人と同じ普通の人間になるということ。少年時代の、同性愛と殺人という異常な体験、精神病院に入院している父、薬物中毒で使用人と関係している母。これらの異常な環境から、マルチェロは他人に迎合することを普通であると信じ込む。時代の流れの中でファシズムにのめり込むマルチェロ。恩師や友人を平気で裏切り、遂には愛する女性さえも見殺しにする。そしてファシズムの崩壊とともに自らの価値観が崩れたとき、少年時代のトラウマの真実が明らかになる…。
【評】
【「暗殺の森」とファシズム観の問題】
画家であれ、小説家であれ、一流と見られるような人にはターニング・ポイントというべき作品が必ずある。ベルナルド・ベルトルッチの作品は、そんなに多く鑑賞してないけれど、多分この作品が、ターニング・ポイントであったと思う。ベルトルッチはこの作品によって、自らの思想的転換の道標を打ち立てただけでなく、ファシズムへの視角と分析の方法において、イタリア思想界に先駆的役割を果たしたと思える。
1960年代後半は、世界的動乱の時期であり、戦後新時代への始まりであり、西側でも東側でも、戦後体制への様々な反逆が試みられ、問い直しが始まった時代。イタリアでも、学生や労働者や市民の反乱は例外無く起こり、同時に、それに対抗するネオ・ファシスト(イタリア社会運動)の台頭もあった。そういった時代に、青年期を迎えたベルトルッチが、その運動の思想的観念に少なからず傾倒し、自らの創作意欲に転化しうることは容易だったと推測できる。当時の反乱や衝突は表面的なものではなく、内面的かつ思想的な内容も含んでいたわけで、自然と同思想の仲間たちと意見などを交わしつつ、群れていったのは想像がつく。イタリアの異端監督、ピエル・パオロ・パゾリーニの脚本を元に、処女作『殺し』を監督した、この当時が若干20歳だと言うから驚きです。
『暗殺の森』のストーリーは、1928年、ファシストが独裁政権を確立した頃から始まるわけだけど、ベルトルッチは歴史現象としてのファシズムの映画を創る気はなかったのではないか。これまでファシズムを声高に告発し、社会的、政治的な原点として取り上げようとした作品は山ほどあり、しかし、そうした手法はファシズムというものの表面を撫でまわしたに過ぎない、と見ていたと思う。
なによりベルトルッチは、イタリアにおいてファシズムが、なぜ20年以上にもわたって政権の座にあり続けることができたのか、そしてなぜ、またネオ・ファシズムが台頭してきたのかを問題にしている。そうした視点から、ファシズムを背後から支えてきたし、今も支えているイタリアのブルジョワジーに焦点を当てている。
彼等こそ、これまでファシズムへの社会的告発から見過ごされてきたし、彼等自身も、それをいいことに仮面を被り続けてきたと言える。
この映画の原作の原題は「順応主義者」です。状況に従い適応して生きていく者のこと。ベルトルッチは主人公のブルジョワ出身の哲学教師マルチェロを順応主義者として描き、それと重ね合わせながら、ファシズムに積極的に協力していったブルジョワジーの実態を暴き出している。更にその手法においても、従来のような歴史現象によるのではなく、心理現象として描くことで、より鋭く抉り出すことに成功しているといえます。
【詩的映画の官能性と話法】
この映画のドミニク・サンダは、顔に傷のある娼婦の役もやっていて、この作品の中で圧倒的な存在感があるけれど、トランティニャンの妻の役をやっている、ステファニア・サンドレッリとタンゴを踊るシーンは、この映画の白眉だと思う。ブロンドヘアーのドミニク・サンダと、ブルネットというより黒髪に近いステファニア・サンドレッリという映画的コントラストは非常にエロティックというか、感動というか、映画的官能性そのものといった迫力が感じられる。
暗闇の中でチラチラしているスクリーンの画像、暗闇の中から聞こえてくる音という映画を観るときの条件からして、まず映画の官能性というものがあると思う。映画を艶あらしめるのは、なんといっても官能性だと思うからで、ヨーロッパの優れた映画のほとんどは、それを備えた作品が多い。まあ、しかし、どこの世界の映画でも、それを備えていないと,凄く痩せた映画ににしかならないと思うけれど。
『暗殺の森』のあのタンゴのシーンはエロティシズムの何物でもない。この映画では、女性たちの衣装の選び方、その色の選択なんかもかなり意識してやっているけれど、あの二人でタンゴを踊るところなんかでも、あんまり派手な衣装にしないで、肌の色が目につくような選び方をしている。そういった視点から観ても、映画的な存在感というか、肉感的な意味においても、あのシーンはこの映画のハイライトといっていいと思う。
この映画の話法、クロノロジカルに話を語らないで、時間を裁断しながらそれを綴っていく方法というのは、飛躍もしやすいし、一見緻密に整合性をつけやすくもある。スタイルが決まるだれでに、映画の方法っていうのをあからさまに見せていくことで、観客と一緒に映画的時間を作り出し、そのことによってゾクゾクもさせる。ただ、こういう話法は、観客を自分の世界に連れこむ優れた機能を持つと同じに、逆に作家が話法に縛られちゃうという面もあると思う。その典型が、ミロス・フォアマンの『アマデウス』。モーツァルトとサリエリという、あれだけ面白い二人の人物がいながら、その奥行きの深い世界を、あの過去を物語るという話法によって縛られて平坦になってしまったという感じがする。『暗殺の森』も、あの話法によって緊張感とリアリティを与え、また人物造形の多少の弱さを補うという効果もあるんだけれど、効果的に見ると、ベルトルッチも話法に縛られているんじゃないかという気がする。というのは、車に乗って暗殺に向かう時間の流れの中で、断片的にフラッシュ・バックで主人公の生き方を見せるだけでは、最後の暗殺の場面が充分に活きてこない恨みが無きにしも在らずで、あの主人公が、結局拳銃を撃つこともできなかったというところが、単にできなかったということを充分納得させることはできないと思う。そこに、いまひとつ骨太に描けなかった造形的ひ弱さというものが出てきてしまっているのではないかという気がする。まあ、完璧な映画は存在しないわけだから、無いものねだりかもしれないけれど(笑)

「白い嵐」

 

 

■1996年、アメリカ映画、129分
■監督、製作総指揮:リドリー・スコット
■脚本:トッド・ロビンソン
■出演:ジェフ・ブリッジス、キャロライン・グッドオール
     ジュン・サヴェージ、スコット・ウルフ
【ストーリー】
海洋学校の航海訓練生になったチャックは、帆船アルバトロス号に乗り込み南米沖へと旅立つ。仲間には、小心者のギル、裕福な家庭環境にも関わらず、それに反発しているフランクなど、十余名の少年たち。船長で教官のシェルダンは海の恐ろしさを説くが、少年たちは冒険心が先に立つだけだった。海の荒波に鍛えられながら、バラバラだった少年たちの心もいつしか纏められ、航海の素晴らしさを肌で感じ取っていく。しかし、航海も帰路にさしかかった頃、伝説の嵐「ホワイト・ストーム」が襲いかかり、彼らの運命を翻弄する。
この嵐によって帆船は転覆、シェルダンの妻と数名の命が失われた。そして、海難裁判で、シェルダンは責任を追及されるが・・・。
【評】
リドリー・スコットには珍しい青春群像劇かと思いきや、これはやはり、スコットお得意のスペクタクルだった。出演している少年たちは表情も演技も初々しいしくて、これら少年たちの生い立ちや、恋の鞘当てやら、少年たち主体に描かれていれば、かなり好感度のある映画に仕上がったんだろうと思うけれど、スコットの演出は、やはり大人を主体に置き、少年たちは大人(船長)を引きたてる役割でしかないように感じた。
それはやはり、少年たち一人一人を描くべきエピソードの不足、そして少年たち同士の絆などの伏線描写の薄さに、途中から裏切られつつ、少年たちが、この航海を経て何を学んだのか、そのあたりの曖昧さに歯痒い思いをした。子供たちの成長物語を描くならば、大人を脇に置かなければならない。それが、この作品では、子供たちが脇にいるような錯覚を感じる。
ただ、流石はスコット監督と言わしめるのが、アルバトロス号転覆の場面。帆船が「白い嵐」に巻き込まれ、瞬時に海底へと引きずり込まれるシーンは圧巻と言えます。このシーンは、まさに映画全体としての最大の見せ場で、観ているこちらも、そのまま体感しているかのような危機迫るものがある。その大自然の脅威の前では、いかに人間が無力なものかを実感させられる。いくらか物足りなさを感じながらも、この転覆シーンの迫力によって補われてしまう感じか。仲間を救うことのできないもどかしさや、船長が船室に閉じ込められた妻を救出できず、そのまま見送ってしまう切ないシーンなどは、なかなか見せるものがあるが、最後の裁判のエピソードは、無理やりこじつけた感じがしないでもない。

「ドイツ・青ざめた母」

 

■1980年、独映画、127分
■監督、脚本:ヘルマ・サンダース=ブラームス
■撮影:ユルゲン・ユルゲス
■出演:エヴァ・マッテス、エルンスト・ヤコビ
     アンゲリカ・トーマス、エリザベス・シュテバネウ
【ストーリー】
第2次大戦前夜のドイツ。ハンスとヘレイネは結婚した。しかし、ハンスは徴兵されポーランドの最前線に送り込まれる。戦火の中、新妻の面影を追うハンスだったが、休暇で帰郷して再会した妻とは心が通わず無理矢理に強姦するのだった。ハンスは前戦に戻りヘレイネは空襲下で女児を出産したが、焼け出され徒歩でベルリンへ叔父を頼って行く。再び帰って来たハンスとも気まずく、又もや焼け出されシレジアへ行く途中、連合軍兵士に輪姦される。終戦を迎えベルリンへ戻ったヘレイネは屑拾いで細々と生活を送るが戻ってきたハンスとの心の行き違いは加速していく…。
【評】
全編を通して、いかにも何かを象徴するかのような情景や、精神分析学的シンボルも表現されていない。でも、日常見慣れたものが、、あってはならない所に、サインやシンボルとして散りばめられている。そういうものをいくつか感じ取った。
映画を見終わった後の言葉では表現できない苛立ち、重苦しい重圧感。だからと言って暗く落ちこんでしまうまではいかないこの靄のようなもの。映画の全体像をより明確に把握しようと試みても上手くいかない。
例えば、焼け跡の瓦礫の山でヘレナは非活動的なハイヒールを履いている。このハイヒールは伝統的な女らしさの象徴として、性差別の有様を告発するサインとなっている。戦時中、子育てのため逞しく成長したかに見えるヘレナの精神は、ハイヒールを履いていた昔のままであり、「女は男によって初めて幸福になれる」という神話を捨て去ることができないでいる。一方へレナの肉体は、生きる上で、もはや男の力を必要としないことを知ってしまったのです。彼女の逞しさの原動力は、子への夫への愛であったにもかかわらず、戦争が終わり、平和な生活が始まっても望んでいた愛は得られないことに気づく。肉体と精神の分裂と、その相克が彼女を崩壊させ、顔面神経痛を呼び起こしたのでしょう。
生きるツテを断ち切られた母が、泣きじゃくる娘の呼びかけで自殺を思いとどまるラストシーンは、女が他の女を理解し支える、そんな優しさをはらんでいると思った。
この女流監督の他の作品がなかなか鑑賞困難で、他に「エミリーの未来」(1984年)、「林檎の木」(1992年)があるが、コンシューマ化してもらいたいものです。

成瀬巳喜男作品-「あにいもうと」 「稲妻」

■1953年、日本映画、86分
■監督:成瀬巳喜男
■脚本:水木洋子
■出演:京マチ子、森雅之、久我美子
     堀雄二、船越英二、浦辺粂子
【ストーリー】
東京にほど近い小さな村で暮らす兄と2人の妹の肉親であるがゆえの憎悪と愛を描く人間ドラマ。落ちぶれた川師の父の元で暮らす3人、石工の長男・伊之吉、東京から妊娠して帰ってきた姉娘のもん、看護学校に通う末娘のさん。姉娘もんを可愛がっていた兄の伊之吉は、彼女の妊娠に我慢ができず悪態を浴びせる毎日。居たたまれなくなったもんは、家を出て行ってしまう。その、翌年、今ではいかがわしい暮らしをするようになったもんが家に帰ってくるが…。
【評】
登場する人々は誰一人として、特殊な変わった人間ではなく、身近をちょっと見回せば、すぐに見つかりそうな人たちばかりです。ほとんど、非ドラマチックな人々、といってもいいと思う。そんな登場人物たちが、しかし画面の中では、なんともドラマチックに生きている。そんなところに、成瀬巳喜男の映画の素晴らしさがあるのだと思う。
また、例えば主人公の一家が住んでいる家の、なんと心地よさそうな雰囲気。決して高級な住宅や生活ではなく、ほとんどボロ家に近いけれど、主演京マチ子扮する、もんが浴衣姿でゴロリと横になっている奥の部屋、広くて風通しが良くて、簾がかかっていて、なんとも快適に見えて素敵です。そんなところにも平凡な庶民生活への深い想いが込められている。
この映画は、単純に兄妹の争いを描くものではなく、その底に優しい感情を感じさせます。兄と妹が反発しあって争えば争うほど、実はその姿から反発の形でしか表せない肉親愛の深さが、しみじみと浮かび上がってくる。
それにしても、この映画では、登場する男たちが皆、なんと情けなく、女たちがなんとも強く逞しい。川師の親方であった昔の事が忘れられずにいる父親といい、ヤクザな自分のことは棚に上げて妹にガミガミ言う石工の兄といい、その妹を妊娠させてひたすら謝るだけの学生といい、もう一人の妹と愛し合いつつ親のいいなりで結婚する隣の男といい、男たちは揃ってだらしなく描かれる。
これに対し、女たちは皆しっかり者で、姉妹は一見ふしだらに見えるけど、自分の気持ちを偽らずに貫き、決して泣き言を見せない。また、妹も恋人の心変わりに接したからといってメソメソもせず、ヤケにもならず、明るく誠実な生き方を貫く。そして、事勿れ主義に見える母親が、小さい事には動じない女のしたたかさを見せる。
明らかに、「あにいもうと」は、こんなふうに庶民生活を謳った映画であると共に女性讃歌の映画でもあります。
技法的に注目したいのは、歩くシーンに込められたコダワリです。多摩川上流の風景らしいけれど、とりわけ、登場人物が風景の中を歩くシーン、道を歩くシーン、これらのなんとも情感が豊かなことか。全ての登場人物がしょっちゅう道を行ったり来たりする。こんなに歩くシーンの多い映画も珍しい。しかし、道を歩くだけのことで、この映画はドラマと成り得ている。映画のラストも、姉妹が道を去っていくショットで終わる。
間違い無く、成瀬巳喜男は、道を歩くという平凡な描写に強くこだわり、力を込めているはずだと思った。考察してみると、歩くリズムが映画に豊さを齎し、そこに成瀬巳喜男の生活感と映画感があるのではないかと推測してみる。
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■1952年、日本映画、93分
■監督:成瀬巳喜男
■原作:林芙美子
■脚本:田中澄江
■出演:高峰秀子、三浦光子、村田知英子
     植村謙二郎、香川京子、根上淳
【ストーリー】
四人の姉妹の父が皆違うという母子家庭の姉妹それぞれの生きざまを、家族からの脱出を試みる末娘・清子の視点で描く。観光バスの案内嬢をする清子は、勝気で美しい娘。長姉・縫子は清子に縁談話を持ち込むが、清子は金儲けのうまい男を妹と結婚させようという姉の魂胆に腹を立てる。一方、次姉・光子の夫が急死し、光子は実家に戻るが、親族たちは光子の夫の遺産を狙う。そんな家族たちに嫌気がさした清子は、家を出てアパートを借りて隠れ住み、隣家の兄妹・周三とつぼみとの交流の中で心洗われていくのだが…。
【評】
この映画には、いかにもドラマ臭いドラマはまったく見られない。一種の群像劇で、下町を舞台に、無知な母親と、それぞれ父親の異なる四人の子供たちとの一家を中心に、色恋と金銭欲に絡んだエピソード群が淡々と繰り広げられていく。
主人公の末娘清子、彼女だけが環境に押し流されまいとする人物で、その眼を通して人々の姿が見つめられていく。けれど、本当は下町こそがこの映画の主人公だと言えるのかもしれません。
成瀬作品をそんなに鑑賞していないけれど、ほとんどの作品に共通する舞台設定として、下町があるとのこと。そこで生きる庶民のごく平凡な、どこにでもある暮らしの情景が映画の基盤にあるようです。前の話に帰ると、そうした下町の暮らしというものが、外国人に理解できるのか、果たして面白いと思うのか、そのあたり聞いてみたいものです。
「稲妻」は、徹底した下町描写の作品だと思う。描き出される東京の下町界隈の風景の、なんと心暖まる安らぎに満ちていることか。ひっきりなしに響く下町特有の音のざわめき。それらに接していると、下町そのものが主人公にほかならないと思えてくる。そして、その中で愚かしさも悲しさも丸出しに生きる登場人物たちに、深い親しみさえ沸き上がってきて、人生の機微に触れる思いに浸ってしまう気がする。

「橋の上の娘」

■1999年、仏映画、90分
■監督:パトルス・ルコント
■脚本:セルジュ・フリードマン
■出演:ヴァネッサ・パラディ、ダニエル・オートゥイユ
     ニコラ・ドナト、イザベル・プティ=ジャック
【ストーリー
人生の敗北者の烙印を押された中年の男。彼は、街頭でナイフの曲芸などして 細々と生計をたてている。彼がいつものようにパリのある橋の上で通り過ぎようとしていると、ひとりの若く美しい娘が、橋の欄干から、今まさに身を投じようとしているところだった。世間に絶望したふたりの男と女が、このとき運命的に出逢った。ふたりはこの日を機に、コンビを組んで旅に出る。男の芸は、それまでのことが嘘のように行く先々で拍手喝采。総てが順調に進むかにみえた。しかし幸福な時は長く続かなかった。娘は行きずりの男と関係を重ねるばかりで、男のことなどさっぱり気に掛けていない様子。仕事は嘘 のように上手くいくのに、彼の心は満たされない。ふたりは不思議な距離感を保ちながら、パリ、モナコ、サンレモ、アテネ、そしてイスタンブールへ。 しかしふたりには唐突に別れが訪れる。
【解説】
自殺しようとしていた娘アデルが、その瞬間に正に出会ったのが、これまた人生に絶望したサーカスのナイフ投げをやっている男ガボール。絶望をした者同士が出会い、二人の物語が始まる。しかし、彼女が出会ったのは所詮ナイフ投げだ。いくら素敵に身をまとったところで、脚光を浴びるのはステージの上。そして男も決して人生の成功者ではない。しかし「-」と「-」が掛け合わされて「+」に転じるように、二人にツキはやってくる。それは当然、破滅の予感を漂わせながら…このあたりがルコントらしさというか、あるいはガボール自身の自制心なのか、ガホールは決してアデルを抱こうとはしない。あたかもそれをすることでツキがなくなるかのように。
おかしな縁によって二人の絆は確実に深まっていく。そしてたどりついた結論――田舎町の線路脇の廃屋で、ナイフの的になることが二人にとっての「交わり」だったのだろう。その表現は圧巻としか言いようが無い。確かに男と女の関係はと「ナイフ投げ」に似ているのかも知れない。その運命の全てをナイフ投げにゆだねる女、全てを受け入れ投げ込む男。投げ込まれる一つ一つのナイフが常に「生」と「死」のギリギリのところにあるからこそ、その緊張感と安堵感は「快楽」となり、あるいはより深い「結びつき」となる。そこに不安があればそれは両者に伝わり二人の関係に傷をつけるだろう。だからこそより深い信頼を求め合おうとする――それら一連の確認作業は「恋愛」のそれと同じだ。パトリス・ルコントはその二つを見事に重ね合わせ、映画史上に残る官能的なシーンに仕立て上げた。ヴァネッサ・パラディが見せるその表情は、どんなエロティックな映画よりも官能的であり美しい。
しかしスリリングな恋愛関係が長続きすることがないのと同様、この二人の関係もやがて終わりを迎えることになる。もう一度、互いを見つめなおすために…。
もちろん、ダニエル・オートゥイユの視線や音楽の使い方も絶妙。大道芸人たちがみせる異空間も雰囲気を盛りたてる。後半若干だれるところはあるけれど、それは前半のスピード感ゆえのこと。あるいは「幸福は疾走の如く過ぎ去る」ということなのかも知れない。

「若者のすべて」

 

■1960年、伊・仏合作映画、177分
■監督、脚本、原案:ルキノ・ヴィスコンティ
■音楽:ニーノ・ロータ
■撮影:ジャゼッペ・ロトゥンノ
■出演:アラン・ドロン、レナート・サルヴァトーリ
     アニー・ジラルド、クラウディア・カルディナーレ
【ストーリー】
イタリア南部の田舎から北部の大都市ミラノに希望を託して移住してきたバロンディ家。次男ののシモーネはボクサーとなり頭角をあらわすが、次第に娼婦のナディアにのめり込み落ちぶれていく。その後、ナディアは三男のロッコと愛し合うようになるが、嫉妬に狂ったシモーネにロッコの目の前で犯されてしまう。ロッコは兄のためにナディアを諦め、家族の犠牲となってボクサーとなり、名声を手に入れ成功していくが・・・。
【解説】
ヴィスコンティ映画というと、豪華絢爛な貴族社会を描いて、その退廃的な世界にどっぶりと漬かり、時に少年愛のような偏執的な情念に傾倒したが為に破滅していく男どもを描いた作品を作る監督、というイメージがあって、好きな人を選ぶ作家でもあると思う。しかし、本来のヴィスコンティの映画の原点は、下層階級の人々の生活に基盤した人間像を描いた傑作を作ってきたところにあると思う。そういう基盤があったからこそ、晩年の作品には、自分の理想郷としたところの映画を撮ることができたのだと思う。
この「若者のすべて」は、ヴィスコンティ作品の中でも傑作と言われているもの。アラン・ドロンやアニー・ジラルドといった当時売りだし中の俳優を起用している点も、ヴィスコンティには珍しいのではないでしょうか?
この「若者のすべて」でヴィスコンティは、崩壊の運命を辿る一つの世界、一つの生活、一つの夢が、現実との摩擦によって発するパセチックなエネルギーを、未来に受けつがるべき一つの遺産として描きたかったのか。
ロッコの夢と事故犠牲が、バカげたアナクロニズムにすぎないとすれば、、この作品全体が、一個のアナクロニズムではないだろうか。そして、ヴィスコンティの存在自体が、アナクロニズムだということになるのかもしれない。しかし、イタリア南部の農村からミラノに移住した一家の辿る分解過程を歴史的に分析しながら、シモーネとロッコのパトスを通して描いたこの作品のテーマ設定が、果たしてアナクロニズムと言えるかどうか。ヴィスコンティを批評するには、そのあたりに鍵があるように思える。

「ノスタルジア」

 

■1983年、伊・ソ連合作映画、126分
■監督、脚本:アンドレイ・タルコフスキー
■製作:レンツォ・ロッセリーニ
■出演:オレグ・ヤンコフスキー
     エルランド・ヨセフソン、デリア・ボッカリド
【ストーリー】
故郷のロシアを夢見る詩人、アンドレイはイタリアのトスカーナ地方に通訳の女性エウジェニアと一緒にやって来る。ロシアの音楽家、バヴェル・サスノフスキーの足跡を辿った旅だったが、その旅で出会った狂人ドメニコに心を魅かれたアンドレイは彼を訪ね、親しくなる。世界を終末を信じ、それを救おうとしているドメニコはアンドレイに「ロウソクの火を消さずに広場の水の上を渡って欲しい」と頼む。それをすれば世界の救済に繋がるというドメニコ。戸惑うアンドレイはとりあえず手渡されたロウソクを受け取るが、エウジェニアとの別れ、自分の躰を蝕む病気、帰りたくても帰れない故郷への想いに捕らわれ、その約束を忘れていた。エウジェニアからの電話でドメニコがローマの広場で終末の演説をしているという連絡を受け、約束を思い出したアンドレイは再び約束の地に戻り……。
【難解さの越えたもの】
タルコフスキーの映画は難解だという説がある中、あまりに詩的で映画の意味するところを感受できなかった「惑星ソラレス」に比べ、この「ノスタルジア」は、とても興味深く鑑賞できた。しかも、2度目の鑑賞では、その細部に至って胸がワクワクしていく感じを受けつつ観られた。1度目の鑑賞では、比喩やアレゴリー等に囚われがちになって全て分節化されて、映画の総体を見失ってしまう感じがする。2度目の時は、どちらかというと視覚的に観るというか聴くという感じで観た。そうすると、なんて明晰な映画なんだろうという気がしてきて、偏執的なまでの同一化への要求や、深刻な問題が沢山含まれているけれど、ただ観ているだけで充分な気がした。この映画の中に散りばめられているアレゴリーや比喩を理解しようと思って、そういうものに目を奪われてしまうと難解さしか残らない。全体として観ると、理解するというより、美しい音楽を聴いたみたいで、陶酔感すら感じた。
空間的な処理も時間的な処理も、「ノスタルジア」というタイトルそのものを裏切らない形で緻密に設計されている。しかも緻密なだけではなく、その緻密な設計を超えるように、映画的な躍動感の漲る瞬間があるから、ごと通俗的な意味でも感動してしまう。白黒の画面で、沼に向かって少女が大きな犬を連れて走っていくところ、あのシーンは、いわゆるハリウッド流の周到に伏線を利かした物語術とは違う、不意打ちの効果で全編を要約してしまう。話の筋は未だ漠としているけれど、あの画面は、辺りにいきなり懐かしさを漂わせ、あとは目を瞑っていても、ノスタルジアが何であるか肌で解らせてしまう。この直接性にホッとするけど、最近の映画には、ある種の難解さ、括弧つきの「難解さ」は消えて行きつつあると感じた。括弧つきの「難解」さというのは、本質的には60年代以後の映画の特質なのかも知れない。映画が映画として楽しく作られ、楽しく観られるということは、最早有り得ないことが明らかになってしまった時代、そうした不幸な状況下でどのように映画の困難を乗り越え、しかも映画の直接性に肉迫すべきかということに自覚的な作家は、世界でも数人しかいないのではないでしょうか。
【カラーとエフェクトを超えた感覚の設計】
カラーの面でも、「惑星ソラリス」よりも遥かにいい。視界がふいに鮮明になっていくような映像技術は、素晴らしい色彩を現出させる。タイトルが終り、俯瞰のロングショットの中に車がやってきて静かに画面を横切って、また左から入っていく・・・。この素晴らしい映像。映像も色彩も非常に感動したけれど、それと同時に、音楽ではなくて、所謂効果音といわれる音の使い方が大変緻密。例えば主人公が廃家を訪れた時、雨水がビニールの袋に溜まって下がっていたり、雨滴を受ける空き瓶が並べられ、その水滴の音がワンショットの中で移動して、微妙な息遣いというか、空間の襞みたいなものが音にも感じられる。これだけのサウンド・エフェクトを当時ですでに作り出していること事態に驚いた。
【宇宙論的な飛躍と刺激】
この映画で、タルコフスキーは、知性と感性といったものを分けて考えることが、いかにばかばかしいかを、映画の原点に帰って初めて到達したのではないかと思う。空間性と時間性に関して、戦略がやや弱く、知性を通して感性の同調を求めていたような感じだった「惑星ソラリス」から、この作品は、まさしく戦略だけで映画を造ってしまったと感じさせ、そういう意味において、非常に頼もしい作品です。
この映画は映画史的にもモニュメンタルなものに成り得る映画だと思う。「惑星ソラリス」では成功しない文学性みたいなのがあって、何かひ弱さを感じたけれど、この作品にはそれが払拭されている。文学的趣味みたいなものが、きれいに映画のほうに引きつけられている感じがする。宇宙論的なイメージを追及する映画は沢山あると思うけど、この作品はいかにして映画が宇宙に到達するかというひとつの答えを出したと言えなくはないでしょうか。宇宙を見せなくても宇宙的映画に成り得るし、サイエンスを見せなくてもSFに成り得るということ。ここに出ている絶望感、退廃、そして単に絶望の中に自足しているわけではない困難な未来の模索。「ノスタルジア」は決して過去への埋没ではないという映画の現在を宇宙論的にモニュメンタルであると同時に、人間の思考に直接的に働きかけて反省を強いるような映画でもあると思う。単なる映画好きだけでなく、思想家でも科学者でもいいから、あらゆる人が、これを観て率直に驚いてほしいという気がする。20世紀の知に自足している人たちが、この映画の前で、揺らいで欲しいと思う。タルコフスキーは亡命した映画作家だけど、彼が亡命したからロシアはダメだとか、そんなケチな発想ではなしに、多分今の文学では動かし得ないようなところまで人々の心を動かすところに映画が達し得たということに、あらゆる分野の人が率直に驚くべきだと思う。

「ルー・サロメ善悪の彼岸」

 

 

■1977年、伊・仏・ドイツ合作、116分
■監督、脚本:リリアーナ・カヴァーニ
■出演:ドミニク・サンダ、エルランド・ヨセフソン
     ロバート・パウエル
【ストーリー】
リルケに詩的な示唆を、ニーチェにはインスピレーションを与えた美しき女性であり、かつ芸術の真の理解者であった実在の人物ルー・サロメは、社交界では知らない人はいないほどの女性であった。19世紀末のローマで、パウル・レーとニーチェは、サロメと出会う。彼らは意気投合し、『聖三位一体』と称し共同生活をすることにした。しかし、嫉妬が原因であっけなく関係は破綻し、ニーチェは梅毒と狂気に苛まれ、パウル・レーは診療所で男色の餌食にされ後に死ぬ。精神を破壊したニーチェの元へ訪れたサロメは、微笑みを残し立ち去っていく。
【解説】
女流監督リリアーナ・カヴァーニの作品ですが、カヴァーニ作品をこの他に「愛の嵐」しか鑑賞していない。まず、作品がコンシューマ化されていないのが残念ですが、この「善悪の彼岸」のビデオも絶版になってるみたいです。
「神秘に満ちた生よ、私は貴方を愛します。友がその友を愛するように。笑いであれ涙であれ、幸福と幸せ、悲観と争いであれ、たとえ貴方が何を与えようとも、私は貴方をこよなく愛し、貴方の苦悩でさえ愛します」
 これはルー・サロメの残した詩です。この中にサロメの輪郭が伺えると思います。喜びも哀しみも悩みも笑いも幸せも不幸せも、この人生を丸ごと引き受けようという強烈な意思。しかも、その生が神秘に満ちているという表現、つまりこの二つは、激しいロマンチシズムを想起させる。ニーチェとかリルケとかフロイトとか、19世紀から20世紀へかけての巨大な才能たちと交渉を持ち、その仕事に少なからず刺激を与えた女性。これは並大抵の女性ではないと言えます。この頃のサロメは36歳。ミュンヘンではリルケと恋に落ち、ロマン・ロランをも魅了した。そして、もうひとつは、「捧げる」とか「与える」という言葉よりも、「奪い取る」といったほうが、彼女には相応しい。人生を丸ごと引受けて、それに立ち向かっていく果敢な精神には当然、「奪い取る」意欲もなければならず、ギヴ・アンド・テイクの相互作用がサロメを巡って起こったと考える。
 そういう桁外れの個性を描いて、リリアーナ・カヴァーニの演出はお見事の極み。主役のドミニク・サンダの魅力によるところも大きいけれど、映像から重圧な人間ドラマが確かに感じられる。ニーチェとパウル・レーの2人の男を相手取ってさしずめカルメンの如く、サロメは意の向くままに生きていく。俗に言う三角関係だけど、トリュフォーの「突然炎のごとく」のような牧歌的な味わいとは違って、「善悪の彼岸」にあるのは世紀末という時代を背景にした、ひたすら人生を突き進む女のドラマだと思う。ニーチェのような大哲も、あるいはパウルのような若き学徒も、こういう強烈な個性、言い換えれば、観念の世界をやすやすと飛び越えて、簡単に実践してしまう女の存在に出くわして、ひとたまりも無いという感じ。男二人が頼りないのに比例して、サロメの姿勢は威風堂々として立派です。ここには恐らく、カヴァーニが女性だということが作用しているはずで、この人がフェミニストとしてどういう立場にあるのかはともかく、男と女の関係が印象的です。女の監督だからこそ、男をよく描くと言う場合は、無論あるだろうけれど、この映画はそうはなっていない。
 作中もっとも美しいシーンの一つとして、幕切れの場が挙げられます。サロメがニーチェを見舞ったあと、リルケと同道して馬車に乗るのだけど、このときサロメの顔に現れた微笑は何にも増して美しく感じる。疾風怒涛、波瀾万丈の生涯において、サロメはニーチェとの若かれし時の思い出に耽る。「恐れを知らぬ人間」などと評されながらも、この優しい笑顔は、サロメがやはり「人間」であったことの証明でしょう。
 「ヴェルディが死んだ」という言葉から20世紀のドラマが始まったのは、ベルトルッチの「1900年」でした。同じ時代の境目を扱ってカヴァーニは、その境目でドラマを終え、あとは爽やかな余韻に託した。ここへ師匠筋のヴィスコンティをもってくれば、どうでしょう。ことに晩年の、ひたすら過去への回帰する切々たる思いの溢れた作品群を考えてみると、「善悪の彼岸」のテーマはむしろ逆方向と言える。演出のスタイルにおいて、共通点の伺える両者も、反対方向へ顔を向けているというのが、私の結論です。
ルー・アンドレアスーザロメ
ニーチェ、リルケ、フロイトの道連れ
by Werner Ross  立花 光訳
四六判,並製,180頁                
定価:本体1,500円+税
初版発行日:
2002.4.15
ISBN4-89798-624-9


世紀転換期の精神史に影のように1つの名前が現れる.その名は,ルー・アンドレアス-ザロメ.彼女を取り巻くめくるめく人間模様は,世紀末を深く彩りながら近代ヨーロッパ精神を開花させた.時代を創造する幾多の男たちに愛され,自らも愛し抜き,自らも数多くの作品を残した.天才たちに翻弄されることなく互角で渡り合い,いや時には彼ら以上に深い洞察力を示す強靱な精神力を所持し得た彼女の才知は、時代を先んじたものだった-
【この書籍に関する記事は「リーベル出版」 さんのHPから転載させていただきました】

「インテリア」

 

 

■1978年、アメリカ映画、93分
■監督、脚本:ウッディ・アレン
■出演:ダイアン・キートン、E・G・マーシャル
     ジェラルディン・ペイジ、クリスティン・グリフィス
【ストーリー】
インテリアデザイナーの厳粛な母親イヴと、物静かで控え目な父親アーサー。その3人の娘たち。娘たちはそれぞれの生活に追われながらも、時々集まって食事などをしていた。それは社交事例のようなものであったが、それを楽しみにしている両親でもあった。幼い頃は何の疑問も持たずに100%母親を信じて受け入れてきた娘たちと父親。そんなある日、父親は皆の前で母親と別れることを宣言する。その時から、次第に家族の歯車が合わなくなり、事は重大な局面へと動き出す。
【ネタバレあり】
このウッディ・アレンの作品を観たあと、かつて観たイングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」を思いだし、その演出の探り方が似通っていたので、ちょっと、この「インテリア」に関してググってみた。すると、ベルイマン的な、あるいはベルイマン映画の模倣、ベルイマン的な静かな陰影、とか評論家が語っていた。しかし、ベルイマンの何作か(鑑賞済みは数本なので)を観たうちで、その根底にあるのが常に神の存在であるのに対し、この「インテリア」からは神の影すらも感じ取れないほどにシンプルだと思った。
アレンの演出は極めて整ったスタイルで知的な冷たさを印象づけている。やがて私たちは、この映画がアメリカのあるアッパー・ミドル・クラスの家庭の崩壊を描くドラマだと知るのだけれど、そう理解したときに、この映画の一種の冷たさを感じるスタイルがドラマそのももの内容を表現していることを悟る。
イヴはインテリアの仕事をしている。アイス・ブルーの衣装も室内装飾も、彼女の美意識の所産。その美意識は彼女の生き方そのもの。
イヴの夫のアーサーはイヴの支配する生活に耐えていたけど、ついに決心する時がきたと思う。しかし、イヴの支配に心理的圧迫を感じ続けていたのはアーサーだけではなかった。三姉妹も程度こそ違うけど同じ思いでいたのです。インテリアというタイトルは極めて象徴的です。このドラマで描かれるのはアッパー・ミドル・クラスの家庭の内部の葛藤だけではない。家庭という単位を構成している人間たちの内側を描いたものなのだ。
この家庭を支配し、統一していたものはイヴの美意識であり、彼女の存在そのものです。しかし、不幸なことに、イヴという支配的な存在は家庭内のひとりひとりを圧迫し続ける。イヴと離婚しアーサーが選んだ再婚相手のパールを見れば、イヴの支配から逃れて何を求めていたかがはっきりと浮彫りにされる。知的ではないけれど、生活感や温かみを感じる女性。そして何よりも人間的な女性です。無知であるが故に人間的な存在に成り得ている。と言うべきか。とすると、このドラマは近代的な自我というものが、温かくあるべき人間関係を必然的に崩壊させてしまう悲劇を描いたものと言える。
しかし、私たちは、いわゆる自我というやつを捨てて生きていくことは出来ない。具体的に言うなら、イヴの自我とアーサーの自我との葛藤が二人の自我をいっそう完全なものに近づけていく、という風に考えたがる。少なくてもイヴはそう考えていたに違いない。
だが、アーサーはそう考えてはいない。自我の葛藤は、結局勝者と敗者を生む。アーサーはイヴに対して、勝者になり得ないということを悟ったのでしょう。だから、彼は違う人間関係を求めた。
このドラマの全ての登場人物の中で、近代的な自我の持ち主という点に関してもっとも優越した存在だったのは、言うまでも無くイヴでしょう。だけど彼女は、もっとも優越した存在だったが故に、自殺しなければならなくなる。それはつまり、私たちが潜在的に持っているジレンマではないか。
あるいは、イヴのように優越した存在に成り得ない者は、このドラマの三姉妹やあるいは夫アーサーのように、優越者に対するコンプレックスと反撥とを抱きつづけることになる。そしてそこからまた、現代の悲劇が生まれてくるのだろう。
ベルイマンとの類似性を越えて、この映画は何よりも私たち自身の内部を照射している点において優れた現代のドラマだと思う。