「沈黙」 | YURIKAの囁き

「沈黙」

 

■1962年、スウェーデン映画、94分
■監督・脚本:イングマル・ベルイマン
■撮影:スヴェン・ニクヴェスト
■美術:P・A・ルンドグレン
■編集:ウーラ・リューゲ
■出演:イングリッド・チューリン、グンネル・リンドブロム
     ヨルゲン・リンドストロム、ホーカン・ヤーンベルイ
【ストーリー】
姉のエステル、妹のアナ、そして妹の息子ヨハンの3人は、ヨーロッパ外遊の帰路、姉の具合が悪くなったために、見知らぬ町に降り立った。その国では言葉が通じず、案内されたホテルで、しばし休養を取る。インテリで精神的に弱い姉エステルと違い、妹は社交的で肉感的なので、ホテルに閉じ篭っていることに我慢がならず、外へ飲みに出かけてしまう。立ち寄ったバーで知り合った男と同伴してホテルへ帰ってきたアナ。一方、内向的な姉エステルは、内向的な性格ゆえ、自室で自慰に耽るしかなかった。母親とバーの男との情事の現場を鍵穴から覗いてしまう息子ヨハン。翌日、姉の様態はますます酷くなったが、その姉を置いて、アナは息子と共に出ていってしまった。
【評】
ベルイマンのこの『沈黙』は、この前の2作品『鏡の中にある如く』『冬の光』とともに【神の沈黙三部作】と呼ばれています。3作ともまったく違った独立した作品ですが、テーマが共通しているらしい。このテーマは、人間がどんなに祈っても、神は沈黙していて何も答えてはくれない、ということです。なぜ神は沈黙しているのか、これは神が存在していないからである、とベルイマンはインタビュー記事で語っている。無神論者の徒に言わせれば、そんなことは最初から解っていることで、何も今更証明してもらうまでもないということになりますが、これはキリスト教徒である彼らにとっては重大な問題なのでしょう。特にベルイマンは、プロテスタントの牧師の子として生を受け、幼児期から教会を我が家としてきたようで、教会には殉教者が血の責苦を受ける絵や彫刻がつき物であるわけだけど、ベルイマンの映画が、いつも受難と苦悩のイメージに充ち充ちているのは、こうした彼の育ちと深い関係があるようだ。
この『沈黙』は、神の存在を信じられなくなった人間の孤独を描いている。孤独を癒すための一番手っ取り早い方法は、他人と肉体的に接触すること、神への信頼の喪失は、キリスト教徒にとっては同時に人間への信頼の手掛かりを失うことなのです。そこで精神を重んじるインテリの姉は、肉体だけを簡単に他人に交わらせることが出来なくて悶々と自慰に耽り、妹は簡単に見知らぬ男と寝るが、これは精神抜きのまったく動物的な肉体の喜びにすぎない。ベルイマンはそこに、現代の人間の苦悩を見出し、この苦悩をいやがうえにも磨きあげ、練り上げることによって、ここに現代の映画のひとつの里程標ともなるべき傑作を創り出したと言えます。
無神論者の徒にとっては、神の不在を告発すると言うテーマ自体は無意味なものに思えるけれど、にも関わらずこの映画に強い感銘を受けるのは、これが苦悩する人間と言うものの見事な造型となっているからです。神を信じることができなくても、人間は苦悩することができる。苦悩こそは人間が人間であることの証なのではないでしょうか。人間は苦悩するかぎり精神的な存在なのです。ベルイマンはそう言いたかったのではないだろうか。
牧師館育ちで、殉教者の血まみれの苦痛のイメージや、苦悩を知らぬ悪魔の憎憎しいイメージに囲まれて育ったであろうベルイマンは、神を信じなくなっても、人間の苦悩の精神的な輝きだけは信じているのだと思う。これを鮮やかにこの作品に刻み込むことによって人間讃歌を謳ったのだと思うのですが。